2013年12月30日月曜日
「ローカル線の風景」
夕方外出することはほとんどないのですが、先日5時頃田舎の私鉄に乗りました。電車を降りて小さな駅舎に入ると、帰りの電車を待つ学生でいっぱいでした。赤々と燃える丸い石油ストーブは室温を上げてくれはしませんが、ほっこり和やかな雰囲気を醸し出しています。膝の上で本を開いている学生もいれば、友達とのおしゃべりに興じる学生もいます。座る場所がないくらい人数はいるのに騒々しくはなく、帰宅途中の解放感であふれていました。
これはまさに『白線流し』の風景。頭の中ではテーマソング『空も飛べるはず』が流れ始めます。15年以上前に放送された青春ドラマで、都会の若者ではなく信州松本の高校生たちの群像を描いた点が新鮮でした。スキー教室だったか、就寝時間の見回りに行ったら全室でこれを見ており、10時に消灯するのは無理だったことを覚えています。何気ないけれど懐かしい情景 ・・・ああ、いいもの見ちゃったなという感じでした。
2013年12月27日金曜日
「青色申告」
恐れていた青色申告の書類作成の時期となりました。現金出納帳はつけてきましたが、他に仕訳帳と総勘定元帳というのを提出しなければならないのです。簿記をやったことのある方なら何でもないことなのでしょうが、「借方」「貸方」という言葉さえしっくりこない私には至難の業です。なぜ「借方」が費用の発生を意味し、「貸方」が収益の発生を意味するのか、そこですでにつまずいてしまうのですが、のんびりしている暇はありません。とりあえず見よう見まねで作りましたが、これでいいものかどうか・・・。
市販の会計ソフトは大げさすぎるので簡易無料ソフトを探したところ、頭韻の軽やかさにひかれて「加藤かんたん会計ソフト」というのを使ってみることにしました。仕訳帳の入力さえすれば、総勘定元帳は自動作成され、また申告書に書き込む損益計算書と貸借対照表も自動作成してくれる、私にとっての税理士さんのようなものです。仕訳帳は仕入や売上が時系列に並んだものなのでなんとなくわかるのですが、総勘定元帳というものは何のためにあるのか最初わかりませんでした。どうも、お金を軸にして「何かがお金に形を変えた」か「お金が何かに形を変えた」かを総括的に把握するためのもののようです。(違うかもしれません。)
国税庁から青色申告説明会の案内が届いたので、自分なりに書類を書き上げて行ってみたのですが、それでも話はちんぷんかんぷんでした。でも行った意義があったのは、全く念頭になかった「棚卸」及び「減価償却」の計算をしなければならないとわかったことでした。パソコンの減価償却計算などはやらないならやらなくてもいいのですが、最近は何でも社会勉強と思ってやってみることにしているのです。
これでだいたいできたかなあと思っていたところ、ふと目に入ったのは記入例の「売上」に関する相手勘定科目です。「現金」と「普通預金」の両方があったのを見つけ、「がーん、作り直しだ・・・。」とわかりました。今まで「現金」とは漠然と「お金」と考えて、「普通預金」のものもいっしょくたにしていたのです。全額控除になる金額ですからこのまま出しても税務署は何も言わないだろうとは思いましたが、金額の不正はなくても、インターネット通販をしているのに預金口座がないのはいかにもおかしい。初年の今年やらなければもっと面倒なことになる・・・。
というわけで、書き方がわからないので図書館で調べ、それから丸二日かけて自分なりには書き方を把握しました。「加藤かんたん会計ソフト」といえども、入力してない事項には対応できないのでこれで合っているのか確信は持てません。結果は実際に提出してみないとわからないのです。あとは今年中に仕入れや入金があったら書き加え、12月31日にやることになっている棚卸し・・・か。
青色申告という名前は、元来提出用紙の色が青かったことから付いた呼び名だと聞いたことがありますが、その色自体、作成までの青息吐息状態から使われたのではないかと思ってしまいます。私の申告書は最も簡単な型のはずなのにこれですから、世の中の事業主さんは本当にエライな~と感心します。一つ言えるのは、個人事業は自分のためだと思ったら割に合わなくてとてもできないことだなということです。会堂建築のためだと思うからできるのです。ま、半分は道楽かな。
2013年12月25日水曜日
「紅春 41」
りくは普段茶の間の座布団の上でおっとり、のんびりしていますが、時折同じ犬かと思うほど豹変することがあります。何かの拍子にスイッチが入ると、茶の間や土手下の小さな区画を所狭しと駆け回り、急にブレーキをかけて止まったり方向転換をしたりするのです。また、おもちゃを取り出して振り回したり放り投げてはまたくわえたり、どこにこんな敏捷性が隠れていたのかと思う動きをします。
何がスイッチになるのかよくわかりませんが、確実なのはお風呂の後。それからたまに、家族が帰宅した時や夕飯の直前に行うこともあります。たぶん気持ちが高まる時なのでしょう。この状態になると止めることはできませんし、手が付けられません。わずかに残る野生の趣を感じ、近寄るのもためらわれるので、気が済むまでやらせておきます。
何がスイッチになるのかよくわかりませんが、確実なのはお風呂の後。それからたまに、家族が帰宅した時や夕飯の直前に行うこともあります。たぶん気持ちが高まる時なのでしょう。この状態になると止めることはできませんし、手が付けられません。わずかに残る野生の趣を感じ、近寄るのもためらわれるので、気が済むまでやらせておきます。
2013年12月23日月曜日
「気候と性格」
自分がいかに動物かを最も実感するのは気候や天気に関してです。秋晴れが約束された青空の朝はそれだけでうれしさでいっぱいになりますが、なんとなく気鬱になるのは次第に日が短くなり冬に向かっているからにちがいありません。デュルケムがいう南欧と北欧で自殺率が違うのは当たり前、人間が受けている太陽の影響は自分で気づいている以上なのでしょう。人間は何よりもまず生物の一つの種なのです。
東京と福島を往復して気づくのは何より気候の落差です。特に冬の東京はほぼいつも晴れていますが、福島では吾妻山がくっきり見える晴天はなかなかありません。文明の利器により生活水準の差は埋められても、気候そのものを変えられるわけではありませんから、何日分も見越して計画的に事を運ばなければなりません。用心深くなるわけです。同時に巡ってきた好機をすばやくとらえて利用する術が自然と身に付きます。先日久々に晴れた朝、真っ青な空を背景に吾妻連峰を写真に収めていたら、カメラを持ったおじさんが来て、「考えることはみんな同じだな。」と言いました。そうです、この写真が撮れるのは今しかないのです。この空も1時間後には曇ってしまうのですから。
2013年12月20日金曜日
「ドイツの食事情」
ドイツの料理は一般に考えられているよりずっとおいしいものです。提供される食事の量を考えてよくスープを食しましたが、かなり美味でした。ただ、衣食住でいうと、衣にも食にも関心が薄く、ドイツ人の関心はもっぱら住、それも建物というより住環境、生活環境に向けられているというのは確かでしょう。 そこへいくと日本人が食に寄せる関心とエネルギーには計りしれないものがあります。外国人がたまたま子供の住む日本を訪れて料理番組の多さに驚き、
「この国の人はそんなに食べるのが好きなのかい。」
と聞いたという話もあります。
大学時代ドイツに短期留学した友人が、「ある時ホストファミリーがランチを作って持たせてくれたが、パンとゆで卵だけで悲しかった」と話していました。逆に彼女が一度だけ夕飯を作ることになり、天ぷらを揚げてあげたら、
「日本の主婦は本当に毎日こんなことをしているのか。」
と驚かれたと言います。そうなのです。ドイツでは一般に夕食に火を使った料理はしないようなのです。パンにチーズやハム(それはそれはたくさん種類はあるのですが)、よくてサラダというのが普通のようです。これでは日本人にはわびしくてたまらないでしょう。
ヘルベルトは料理をしない人でしたから、ドイツでは毎晩外食、私はこの上なく楽ちんで、温かくおいしい食事を堪能していました。ですからドイツの家庭料理についてほとんど知しませんが、ドイツ人の食への無関心はお金があるなしに関わらないようです。お金持ちでも夕食は家で質素にとっているので、毎晩外食などどいうのは、ドイツではもう途方もないことなのです。
今思うと、普通に夕飯を作ってもドイツ人の感覚からすると、とても手のかかったおもてなしと映ったのではないでしょうか。今でこそ和食なブームですが、味噌汁を「初めて食べたときから美味しいと思った。」と言った時は「へえー」と思いました。すき焼きなどは「昨夜のスープまだある?」と言って食べてくれるほど好きでした。朝はたいていパン食で、オムレツが好きだったのでトマト入りのをよく焼きましたが、何の変哲もないオムレツを「こんなおいしいオムレツは食べたことがない。」と大げさにほめてくれました。あれにはドイツの食文化がおおいに関わっていたわけです。また焼いてあげたいのですがそれはもうかなわないことです。
2013年12月18日水曜日
「心に残る話 3」
私たちのほとんどが、もし言葉にすれば他人を喜ばせる楽しい事実を言わずにおくのはなぜでしょうか。
一人の感じの良い老紳士が、商品を売りに、或る古美術店によく立ち寄ったものでした。ある日、彼が去った後で、その古美術商の妻が言いました。
「私たちがあの方の訪問をどんなにうれしく思っているか、あの方に話したいと思うの。」
夫は答えました。
「今度話そう。」
翌夏、一人の若い女性がやってきて、例の老紳士の娘だと自己紹介しました。彼女は父は亡くなったと言いました。それで、古美術商の妻は、彼女の父が最後に訪ねてきた後に自分と夫が交わした話のことを彼女に告げました。その訪問者の目は涙でいっぱいになりました。
「もしそのことを父に話してくださっていたら、父はとても喜んだでしょうに。父は元気づけの言葉を必要とする人でした。」
「あの日以来、或る人についてすてきなことを思うたびに、その人に話すようにしています。そんな機会は二度とないかもしれませんから。」
と、店主は言いました。何かよいことは誰に関しても言うことができます。それを口に出しさえすればいいのです。
Why do most of us leave unsaid some pleasant truths that would make others happy if we said them?
A charming gentleman used to drop in at an antique shop to sell goods. One day after he left, the antique dealer’s wife said, “I’d like to tell him how much we enjoy his visits.” The husband replied, “Next time let’s tell him.”
The following summer a young woman came in and introduced herself as the daughter of the salesman. She said her father had died. Then the wife told her of the conversation she and her husband had had after her father’s last visit. The visitor’s eyes filled with tears. “My father would have been pleased very much if you had told it to him He was a man who needed reassurance.”
“Since that day,” says the shop owner, “whenever I think something nice about a person, I tell him. I might never have another chance.”
Something good can be said about everyone. We have only to say it.”
2013年12月16日月曜日
「グローバリゼーションの行く末」
私がアメリカの凋落をはっきり意識したのは、2005年にハリケーン・カトリーナがルイジアナを襲った時のことです。凋落と言っても経済や政治的、軍事的なものではなく、アメリカの至宝とでも言うべき博愛や善意に対する信頼に関してです。
壊滅的な被害を受けたニューオーリンズから人々が着の身着のまま車で避難する姿は、確かに新たな第三世界の出現を思わせるものでしたが、それだけならこのような大災害に襲われた地域ではどこでもあることです。車のない最貧困層が残された街では、払底した商品の略奪や他の犯罪が横行し、また商店側は物の価格が吊り上げ便乗値上げをしました。もっと気持ちが萎えたのは、この街を再開発したいと考えていたディベロッパーが、その障害となっていたスラム地区の一掃をこの災害に乗じて行い、この自然災害をまるで神の恩寵であるかのように見なしたことでした。
現在世界中を席巻しているグローバリゼーションは、この時点ですでにアメリカの人々の中に骨肉化しており、自己利益を増大させることが惻隠の情を軽く越えてしまったのでした。この時、「この国も終わりだな。」と私は感じました。その後に起きたのは、サブプライムローンという犯罪的な商法に端を発したリーマンショックでした。東日本大震災では、カトリーナの時に発生したような現象は起きませんでしたが、グローバリゼーションの害毒におかされ続ければ、日本の行く末もアメリカと同じものにならざるを得ないでしょう。
2013年12月13日金曜日
「冬のヨーロッパ」
「一般的にヨーロッパの冬はそんなに寒くないよ。」
ヘルベルトの言葉を真に受けて、一度だけ冬のヨーロッパを訪れた時がありました。キリスト教圏では、十二夜(twelfth night)の1月6日までクリスマスの装いですから、本場の(?)クリスマスの雰囲気を堪能できてよかったのですが、問題は寒さでした。ドイツからスイスへ行くことになっていたので、東京ではとても着られないダウンの裾の長いコートを着て行きました。それでも外は骨の髄まで寒いと感じました。もちろん家の中はとても暖かく豊かな気持ちになれますが、外は日中でもマイナスの気温が普通です。しかし、ドイツの人もスイスの人も、ご老人でも動じることなく、かくしゃくとして闊歩しています。要するに、寒さに対する体の耐性が全く違うのです。北海道出身の方なら順応できたかもしれません。
その時は確かロンドンで乗り継ぎ便に乗って帰国したのですが、乗り込んでくるのはスウェーデンやデンマークからの日本人が多かったのを覚えています。日本に近づき、東京の気温や風速が機内アナウンスされました。東京の日中の気温が6度というのはかなり寒い日なのですが、機内では一斉に「おーっ、夢のようだ。」と歓声が上がりました。それはそうでしょう、皆、日中でも氷点下の世界から戻ってきたのですから。ヨーロッパの冬がそんなに寒くないというのは、ロシアに比べてのことでしょうか・・・。いずれにしてもその後、冬にヨーロッパを訪れたことはありません。
2013年12月11日水曜日
「お薬の不思議」
待合室で診察を待つ間、中の声が聞こえてしまうことがあります。ある時、おじいさんが大きな声で言うのが聞こえました。
「毎回きちんと飲んでるのに、薬が余っちゃうんだよね。」
これほど生活実感に合致した表現がありましょうか。
以前、お店で1から7まで番号をふった7角形の容器を見つけ、何だろうと思ったらピルケースと書いてあり、一週間分の薬を小分けにしておく箱だとわかりました。
「こんなの使わなきゃいけないようになったらおしまいだな。」
と、その時心の中で思った覚えがあるのですが、もう笑えない事態になっています。
薬というのはだいたい2個パックで折り取るようにできていますが、朝晩1錠ずつ飲めばよい場合、朝1つ目を飲んだら毎日朝使い始めることになるはずです。ところが、不思議なことに使いかけのパックが朝見つかるのです。昨夜飲み忘れたかと記憶をたどると、
「いや、昨日は間違いなく飲んだ。」
と思い出します。それから考え巡らせ、
「朝2回飲んじゃったのかな。いや、昼食のあと無意識に飲んだのかも。」
とわからなくなってしまうのです。
しかたなくそのまま飲み続けていると、そのうちいつの間にか元の朝から飲み始めるパターンに戻っていたりするのです。ここまでボケたらおしまいだなと思っていた状況に、今まさになっていることに愕然とします。他に1日1回1錠の薬もあり、これもだいぶ余っているような・・・。これはもう、あの7角形のピルケースを使う時かもしれません。
2013年12月8日日曜日
「紅春 40」
りくはよく茶の間の出入り口に陣取っています。以前はうっかり開けて入ろうとして踏みそうになり、
「こんなところにいたら危ないでしょ。」
と言っていたのですが、今ではもう定位置の一つになりました。そこはりくが家族の出入りをチェックする関所なのです。
夜、茶の間で寝ているりくを残し、洗面所で歯を磨き眠ろうとしてふと見ると、廊下の先に黒々と切り立った山のような三角お耳のシルエット・・・。寝ていたはずのりくがじっとこちらを見ているのです。兄の話では、夜中に階下に下りてきて、ふと振り返るとすぐ後ろに音もなくりくがいて、「ぎょっ」とすることもたびたびとか。
りくはいつでも家族の動きを把握しています。私が帰省していると、把握しなければならない対象が増えて大変そうです。だから疲れちゃうんだよ、りく。
2013年12月6日金曜日
「いい人と憎まれっ子」
「いい人ほど早死にする」と、その裏返しの「憎まれっ子世にはばかる」は、ある程度論理的に説明がつくのではないでしょうか。いい人は自分のなすべきことを知り、他人を自分のように考える人ですから、津波が迫っていても防災センターから最後まで避難を呼びかけるアナウンスを続けたり、線路で倒れているお年寄りを見過ごすことができなかったりするのです。
憎まれっ子というのは、そばにいると実害が及びますが、その可愛げのある呼び名からして悪い人ではなく、言ってみれば愛すべき人です。ただ、なぜ憎まれるかといえば、世の中自分が中心という態度で世渡りするからです。他人を思いやる前に「まず自分」なのでストレスは無し、長生きするはずです。大方の人はこの中間に位置しています。自分のことと他人のことをどのくらいのバランスで考えているかが一つの指標になるかもしれません。
以前、一日20分隣の席の同僚の愚痴を聞いていたことがありました。反対隣の同僚はその様子を見て、私に「よく黙って聞いているな」と言っていました。話してしまうと気が済むのか、その方はいたって元気に過ごしておられました。私はただ聞き流していただけのはずなのですが、ご想像の通り、軽く自律神経失調の症状を呈し、その時は気がつかなかったのですが、ずいぶん経って「そう言えば・・・」と思い当たったのでした。いい人ぶるのではありませんが、愚痴を言って発散できるのも性分なら、黙って聞いてしまうのも性分なのですから、こういうのは直せるものではないですねえ。
2013年12月4日水曜日
「ブログの1年を振り返って」
ふと気がつくと、ブログを書いて1年たちました。書き始めた時は、せいぜい40~50も書けば書き尽くすだろうと思っていましたが、いつのまにか200を越えました。だいたい書きたいことは書いて気が済みつつあります。現在の効能はほとんどボケ防止ですね。
小学校の頃、班で1冊「心の窓」というノートがあり、順番に作文を書いて先生に提出するという課題がありました。一班は5~6人で、たとえ毎日書けない場合があったとしても、月に2回は順番が回ってきたのではないでしょうか。班で回覧するからには他の班員のも読まなくてはなりませんし、普段から「今度は何書こうかな。」と考えておかなくてはなりません。毎回7、8冊のノートにコメントを書く先生も大変だったでしょう。思えば年に一人20回くらいは作文を書いたことになり、4年生から6年生まで担任が代わらなかったので、これが3年間続きました。自分が書いたもので覚えているのは、「春」、「新しい筆箱」、「祖父の叙勲」だけです。
そうか、ブログというのは現代の生活綴り方教室だったのか。どんなことを書いたのかまとめてみたところ、タイトルから中身が思い出せるのは半分くらい・・・ とほほですね。
2012
11月
フェルメール・カフェの紹介、1枚目の絵「牛乳を注ぐ召使い」、2枚目の絵「真珠の耳飾りの少女」、3枚目の絵「地理学者」、4枚目の絵「絵画芸術」、5枚目の絵「窓辺で手紙を読む女」、6枚目の絵「天文学者 」、「ウィーンの或る教会」
12月
「紅春」、「故郷の山はありがたきかな」、「プラハあるいはフランツ・カフカ 」、「ウィーンでの靴直し」、「紅春 2」、「高校断章」、「ヘクセンアインマルアインス」、「ベスト・フレンド 」、「紅春 3」、「ライプツィヒ ニコライ教会」、「最近の若い人」、「午後2時の食堂」、「紅春 4」、「言語ゲーム シェークスピアとプリンツェン」、「母の背中」、「ドイツ、おかしな名所巡り」、「紅春 5」、「転機」、「旅の風景」、「疾風怒濤の日々 」、「家族 不在と存在」、「幻の本」、「無名性の恩寵」、「プリンツェンのドイツ」、「紅春 6」、「都バス讃歌」、「たわいない話」、「昔の高校」、「イグノーベル賞落選作」
2013
1月
「紅春 7」、「会津の人」、「カフェの人々」、「初笑い」、「紅春 8」、「初めての日本」、「正しい人、正しいこと」、「食事と睡眠の効用」、「紅春 9」、「フェミニズムってなあに?」、「ガーデニング好き」、「実録 2001年8月4日 フランクフルト国際空港」、「雪かき」、「紅春 10」、「聴書」、「記憶のツボ」、「田舎者」、「福島教会のこと」、「路傍のチェス対決」、「紅春 11」、「食品についての不思議」、「タイムカプセル」、「毎日の過ごし方」
2月
「日本とドイツ 日本人の働き方」、「紅春 12」、「同窓会」、「少年少女推理小説」、「何かになるということ」、「祈りの場」、「前向きに後退」、「紅春13」、「インターネットとの付き合い方」、「被災地ドライバーの民度」、「図書館批評家」、「カフェでの会話」、「紅春 14」、「日本とドイツ きれい好き」、「幸福な生活」、「『追憶』を追憶する」、「文学の好み 鷗外と漱石」、「栄養ドリンク」、「紅春 15」「人を見る目 ハンガリーにて」、「尊厳の芸術展」、「レントの季節」
3月
「卒業の朝」、「確定申告」、「紅春 16」、「プラス・マイナス5℃」、「象の墓参り」、「日本とドイツ 発想の違い」、「実話の魅力 『謎の十字架』」、「若い人の幸福感」、「紅春17」、「憧れの修道院」、「趣味」、「PM2.5」、「養生食」、「山歩きの教訓」、「紅春 18」、「必需調理器具 No. 1」、「ドイツの税関」、「使命感を持つ人」、「未来について」、「流行の顔?」、「紅春 19」、「病院のカフェ」、「ロボット文明」、「タニタ食堂 vs. 学生食堂」、「超自然的な力を感じる時」、「運の悪い日」
4月
「紅春 20」、「Home 心の拠り所」、「桃源郷」、「なぜ書くのか」、「哄笑」、「所有欲」、「紅春 21」、「日本とドイツ 親の権限」、「通販生活の功罪」、「うまい話」、「ラジオ体操」、「コミュニケーション新世代」、「紅春 22」、「ヨーロッパ温泉事情」、「文化祭今昔」、「低温スチーム」、「刺繍生活 その後」、「都内一周都バスの旅」、「紅春 23」、「日本とドイツ 法意識」、「合唱県」、「ロボットの微笑み」、「今ふたたびのジパング」、「不安の消失」、「紅春 24」、「ドイツ旅行 母とともに」
5月
「歴史は白昼夢」、「エッセイの醍醐味」、「都バスショック」、「成果主義の弊害」、「紅春 25」、「自然の中の子供」、「手作り食品」、「助手席にて」、「『おれは猫』ふうに」、「スパルタ教育」、「紅春 26」、「国際競争力」、「腕時計」、「フライトシミュレーター」、「ホームベーカリー」、「『とりあえず』を越えて」、「紅春 27」
6月
「夢うつつ 『引き裂かれた神の代理人』」、「起こらなかった事件」、「接着剤いろいろ」、「学校の終焉」、「フーズム」、「紅春 28」、「ベジブロス」、「歴史を知ることの難しさ」、「刺繍生活 続く」、「日本とドイツ 混雑と行列」、「都会の快適生活」、「紅春 29」、「改憲論議」
7月
「マンション点検日」、「ボルツナーさんの猫」、「国産農産物」、「自画像」、「大型家電」、「紅春 30」、「心に残る話」、「悪人だけど」、「働く人を応援します」、「グラーツの城山ホテル」、「思いやり過剰?」、「富士登山」
8月
「紅春 31」、「にわか発明家」、「にわか事業家」、「日本とドイツ 言葉による安全保障」、「マクベス夫人の憂愁 1」、「マクベス夫人の憂愁 2」、「マクベス夫人の憂愁 3」、「マクベス夫人の憂愁 4」、「紅春 32」、「時空の制約の中で」、「那須高原サービスエリア」、「若冲展」、「DBとの戦い」、「日本人から学ぶ10のこと」、「紅春 33」
9月
「子供と本」、「刺繍の終わり、編み物の始まり」、「オラクル」、「心の速度」、「シエナのかけっこ」、「東京オリンピック招致」、「紅春 34」、「心に残る話 2」、「盗難考」、「早朝エクササイズ」、「食堂車」、「企業人の資質」、「紅春 35」
10月
「呪われた本」、「起床と就寝」、「総合診療医」、「ブラティスラバの思い出」、「バーコード」、「紅春 36」、「購買意欲」、「アンデルセンの二つの話」、「ヘイト・スピーチ」、「匂いの記憶」、「コンパートメント」、「紅春 37」、「大人の実年齢」
11月
「在宅と外出」、「驚かない時代」、「危機センサー」、「ヨーロッパの駅舎にて」、「紅春 38」、「国家安全文化度の測定法」、「桜とインターネット」、「アゴタ・クリストフのこと」、「小学生の早朝活動」、「1991年夏フィンランド」、「紅春 39」、「ドイツに住む柴犬」、「非アメリカ的なるもの」
2013年12月2日月曜日
「クリスマスとサンタクロース」
20世紀最高の知性と言われるレヴィ=ストロースの著作に、『火あぶりにされたサンタ―クロース』という小論があります。1951年にフランスのディジョンで、サンタクロースの高まる人気に業を煮やした教会が広場でサンタクロースの人形を燃やした事件を扱ったものです。このことによって、人間の中にあるサンタクロースなるもの(その本質は贈与)の永遠性が人類の記憶に刻まれたと言ってよいでしょう。
以前長崎を訪れた時、案内してくれた人がカトリック教徒で、今度長崎くんちの担ぎ手となるというので、それがよいかどうか神父さんに聞いたという話をしてくれました。神父さんの答えは「差支えない」ということで安心したと言っていました。土地柄、この祭りに加われないということは市民としての資格を問われかねないものであり、この長崎のクリスチャンにとっては切実な問題なのだろうと推察されました。
普通に考えれば、キリスト教の信仰と神社の神輿担ぎとは両立しないでしょうし、その時私も「それはどうなのかなあ。」と思ったのですが、信仰と異教の祭りに携わることの良し悪しに引き裂かれていることそれ自体、そして「差支えない」と答えた神父の答えにこそ、深い人類学的知見があるのだという気がします。もちろん、「神輿を担いではならない」と言ってもよかったのですが、それはサンタクロースを火刑にするのと同じことになったでしょう。
キリスト教はヨーロッパ文明に深く根をおろしていますが、ヨーロッパ人皆が日本のキリスト者ほど突き詰めて信仰しているとは言えないでしょう。ドイツでは所属する教会籍により自動的に10分の1税を象徴する献金が徴収されており、ずいぶん前にシュティフィー・グラフが教会籍を離脱したのはそのためです。今ではもはや教会堂を維持しきれず、会議場や展示施設として利用されている建物もあります。ヨーロッパでは教会は社会制度の一部です。古い制度が信仰の深さと一致するわけではありません。社会の中でそれぞれのシステムや風土に浸かりながら、それでも、ヨーロッパであれ、日本であれ、キリストへの信仰がしぶといのは聖書にある通りです。
「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。 (口語訳 ヨハネ12-19)
2013年11月28日木曜日
「非アメリカ的なるもの」
私はアメリカに行こうと思ったことがありません。中2の春休みに一度行ったことはあるのですが、それとて自分の意志で行ったわけではないのです。ただ外国を見たいという気持ちはありました。大学では英米文学科を出たのに、一度もアメリカへ行ってはいないのです。私の関心は常にヨーロッパに向いており、初めて英国を訪れたときそれは決定的になったのでした。
私は「なぜアメリカに惹かれないのか」について深く考えたことがありませんでした。唯一口にした理由は「歴史が浅い国だから」であり、それは確かに大きな理由ではあるのですが、それだけだったのだろうかという思いが年を重ねるにつれて高じてきたのです。
誤解のないようにしておきたいのは、私はアメリカを高く評価していたということです。私が育ったのは東西冷戦の時代とぴったり一致しており、アメリカは親和性のある超大国として存在していました。特にそのあけっぴろげな明るさや開放性、高らかに謳われたヒューマニズムや人権意識、一般庶民のgoodness(善良さ)を高く評価していました。たぶん実際にそこで生活し国を知ってなじんでいけばさらに魅力的な側面を発見できたのかもしれません。
問題は、それにもかかわらず、そのようなことが私の身におきなかったのは何故かということです。私は英国文学が単純に好きでした。19世紀の古くさい小説、「高慢と偏見」も「エゴイスト」も「虚栄の市」も面白く読みました。おそらく、重要なことは何も起きない、あのだらだら感がよかったのです。些細な日常が続いていく、どうでもいいことやちょっとおかしな出来事が現実を形成しているというあの感覚です。たまには「緋文字」とか「風とともに去りぬ」とか「グレート・ギャツビー」等のアメリカ文学でガツンといくのもいいのですが、この連続では身が持たない気がしたのです。
卒論をヘンリー・ジェイムズで書いたことに私の根無し草的心性が表れています。メインストリームを歩いたことがなく、中心的な場所では落ち着けずそわそわしてしまうのです。ヘンリー・ジェイムズは、ヨーロッパに憧れ生涯の大半をイギリスに暮らしながらついぞイギリス文学を書けなかった作家、おそらくは本人の意志に反し、アメリカ的なるものとしかいいようのないものを書き続けた作家です。
クローズアップ現代で、占領下の日本でのGHQによる検閲の実態が報道されました。日本人4000人を動員して始めは闇市に関する情報集めを中心に行われ、生活のためにその作業に従事した人々(業務の性質上、知的レベルの高い人が多い)は罪悪感に苦しんでいるという話でした。当時を知る人なら、封書に検閲印が堂々と押してあるのだから検閲がなされていたこと自体に驚いた人はいないでしょう。全部アメリカ人が検閲していたというのなら別な意味で驚きもしますが、日本人なら驚かない。同じ諜報活動でも、東西冷戦下の東ドイツで行われた知人や家族に対するスパイ活動とは比べものになりません。
私がどうも苦手だなと感じるのは、検閲自体ではなく誰にもわかるように検閲印を押すというアメリカのその屈託のなさです。例えば日本を「精神年齢は12歳」の「四等国に転落した」国と断言してはばからない天真爛漫さです。陰影がないとでもいうべきでしょうか。その言いそのものが、自ら12歳の少年のようであるということには思い至らない、その平明さがたぶん私は苦手なのです。
2013年11月26日火曜日
「ドイツに住む柴犬」
柴犬好きな人は多いようで、私が朝行く大きな公園でも犬の三頭に一頭くらいは柴犬です。皆とても穏やかに飼い主と散歩しています。ネット上でも柴犬のブログは非常に多いようですが、私がつい見てしまうのは、二頭の柴犬セナとアスカと共にオランダ人の夫とドイツで暮らす女性のサイトです。(タイトルは「柴犬とオランダ人と」。 この両者が併記されているのがまずすごいです。)
ほとんど画像で構成されていて犬はともかく旦那がこんな全開で出てて大丈夫なのかなと思うのですが、臨場感満載で面白いことは確かです。ウィットに富んだ方らしく、キャプションが絶妙。二匹が、「狐です。」「狼です。」と言って登場したりします。ドイツで柴犬を見たことはありませんでしたから、間違われるのでしょう。
また、背景に書き込んである犬の気持ちがわかりすぎて、「あ~、こういうことある。」と爆笑してしまいます。犬の殺処分に反対するデモの場面の街並みを見た時、「あ~、フランクフルトだ~。」と、カタリーナ教会 Katharinenkircheやツァイル(Zeil 大通り)の風景がとても懐かしかったです。
新しいソファを買った翌日のブログ
セナがつぶらな瞳で、「セナ、わんこだからソファに乗っちゃいけないって言われるの。」
(背後には日本昔話のテーマソング「いいな、いいな、人間っていいな。」の文字が躍っている。)
ソファに寝そべったオランダ人の夫が、腿のあたりをパンパン叩いている画像に、
「パパのお膝があいてるよ。」というキャプション。
セナとアスカは遠巻きに見て、「からんできたわ。」「面倒ね。」と話している。
そのうちパパがセナを捕まえて、
「せっかくみんなで座れるように大きなソファとカバーも買ったんだから、犬が乗れないのはおかしい。」
と言って、ソファ解禁。
セナは「パパ、ありがとう。」と言って、ソファに跳び乗ってパパの額ををぺろぺろ舐めている。
アスカも無理やり抱き上げられてしまいますが、ちょっと苦手なのか「ほんと、もう勘弁なの。」というキャプション。
これが笑わずにいられましょうか。ドイツにおける犬のしつけとは真逆でしょうが、こんな育て方にどっぷりつかって楽しんでいるヨーロッパ人もいるとわかってホッとし、ついヘルベルトがいたら楽しかっただろうなと思ってしまいます。
2013年11月25日月曜日
「紅春 39」
人間に利き手があるように犬にも利き前足があります。りくは前足を交差して寝そべっている時、必ず左手を上にしています。人が指を組むときどちらの親指が上にくるか決まっているのと同じです。これに気づいたのは父で、りくの姿を声に出して描写していたら、いつも「左手、前」だったのです。
東京に帰る日、兄に駅まで送ってもらう前に車の窓を開けてりくに別れの挨拶をするのですが、このとき父にだっこされたりくが出すのは決まって右前足です。犬も時と場合によって使う足が決まっているようです。私はそんなことを考えてもみなかったのですが、いつも一緒にいるだけあってさすがに父の観察は鋭い。
2013年11月22日金曜日
「1991年夏フィンランド」
まだ若かった頃、ヨーロッパへの直行便は私には贅沢品でした。体力もあり、乗り継ぎでも平気でしたのでいろいろな航空会社を試してみました。一度くらいはと思い、アエロフロートで北欧に旅した時のことです。
デンマークからスウェーデン、ノルウェーと周り、最後にフィンランドから帰国する旅程でした。フィンランドのある街に降りたって地図を見ていたら、
"Can I help you?"
と声をかけてくれた若い女性がいました。当時は他の3カ国ではよく通じた英語がフィンランドに入った途端あまり通じなくなったので、心強く思いました。なんときれいな英語かと思っていたら、それもそのはず、彼女はカナダ人で、フィンランド人と結婚してフィンランドに住み、ビジネスマンに英語を教えていたのでした。
私の泊まるサマーハウスが彼女の家のそばだったこともあり、お茶によばれました。彼女の名前はセーラさん、「おっ、小公女だな。古風な感じ。」と思いました。いろいろ話すうち、
「数日地方を回ってアエロフロートで日本に帰ります。」
と言ったところ、彼女はサッと青ざめました。
「モスクワで何が起きたか知らないの?」
「何かあったんですか。」
そしてその朝起きたクーデターとゴルバチョフ幽閉事件を知ったのでした。
その後夕飯にもよばれることになり、いったんサマーハウスにチェックインして街に出ました。この時は観光のことよりどうやって帰国するかで頭がいっぱいでした。モスクワ空港は閉鎖される可能性が高く、そうでなくてもビザがなければ命の保障はありません。レストランのコーヒーで気を落ち着けながら、新聞を持っている人を見つけたので、
「それ、今日の新聞ですか。モスクワのこと書いてありますか。」
と聞くと、
「モスクワで何かあったんですか?」
とさっきの私と同じ返事。私がもごもご説明するともう大騒ぎだったのでそのままその場を後にしました。
夕飯ではセーラさんとその夫、教え子のスイス人レグラさんとご一緒でしたが、4人で頭をしぼった結果、直行便のフィンエアーで帰るしかなかろうという結論でした。セーラさんたちに厚く礼を言って別れ、翌日から3日間地方を巡りましたが、観光どころではありませんでした。インターネットが普及していた時代ではなかったので情報もなかなか集められませんでした。結局、早めに切り上げてヘルシンキの日本大使館に行くことにしました。
大使館があるはずの場所に行ったのですが見あたらず、近くのおじさんに聞くと知らないとのことでしたが、私の困った様子を見て場所を調べてくれました。車に設置された移動式電話(今まで日本でもそんなの見たことがありませんでしたので、「おっ、車にこんなギャジットが。007のようではないか。」と思った記憶があります。)で問い合わせてくれたのです。電話を切ると、
「移転したそうです。乗りなさい。」
これは平時なら絶対してはいけないことでした。が、今は非常時です。想定される危険と同等以上の危険が迫っていました。私はこのおじさんがいい人であることに賭けて、神のご加護を祈りながら乗せてもらうことにしました。十数分ほどで、おじさんは、
「この辺のはずなんだが・・・。あ、あった、あった。」
と言って、日本大使館に横付けしてくれました。
結局、クーデターは3日でおさまり、モスクワ空港は問題なしとの情報を得ました。それでもモスクワでのトランジットの間はらはらどきどきしましたが、無事予定通り戻ることができました。帰国して、一部始終を書いた礼状をしたため、フィンランド大使館に送ったことは言うまでもありません。
2013年11月21日木曜日
「小学生の早朝活動」
私の早朝エクササイズはなんとか続いていますが、その帰り道で小さな公園のそばを通る時、子供たちが公園の大きな円形の花壇の周りを走っている光景を見ました。十名近くいたでしょうか、ちょうど走り終わったようで、
「オレ、もう足がくがくだよ。」
などと言いながら荷物をまとめています。先生と思われる大人も一人いて、マラソン大会の練習かなとも思いましたが、それなら校庭でやるはずです。
疑問が解けたのは次の日で、今度はキャッチボールをしていたのでした。おそらく少年野球チームの朝練なのでしょう。その後も、私の知る限り毎朝このトレーニングは行われていました。よくあることとは言わぬまでも、日本全国で珍しくはないことなのかもしれません。毎朝のことなので子供にとっては大変でしょうが、こういう、ちょっと面倒だけどそこはかとなく楽しい体験を、子供は決して忘れないものです。海外の子供のスポーツ事情は知りませんが、英才教育でもないのに普通の子供がこんなことをしているものでしょうか。
そういえば、小学校の頃私の学校でも早めに登校して校庭を走り、毎日走った距離をグラフにしていたことがあったなあと思い出しました。おそらくあの頃の先生の頭の中には勤務時間などという言葉はなく、子供にとっていいことだと思った人がやり始めて、相乗りする人が出て互いに子供を見あいながら、次第に学校中に広がっていった行事だったように思います。日本の昔の学校はそんなふうでした。たぶん今だと、時間外勤務のハードルを越えるのにひと悶着あり、その後当番制論議でひと揉めあり、何より事故が起きた時の責任問題などで紛糾し、立ち消えになる活動が山ほどあるだろうと思ったことでした。
2013年11月18日月曜日
「アゴタ・クリストフのこと」
「今日は何をしたっけ。」
一日の終わりに思い返してみて、「何もせずに一日終わった。」とがっかりすることがあります。別に何もしなくても生きている意味はあるのですが、逆に
「これを残すために、この人はこの世に生を受けたのだな。」
と思う人がまれにいます。
アゴタ・クリストフの『悪童日記』は1986年に出版され、一部でセンセーションを巻き起こした作品です。ハンガリー動乱の時に西側に亡命した彼女の体験をもとに書かれたとも言われ、1988年の『ふたりの証拠』、1991年の『第三の嘘』とともに三部作として完結しました。
戦争末期の国境付近で狂気を生き抜く双子の兄弟。その賢くも悪魔的な日常が簡潔な文体で書かれており、読むと胸が痛くなります。この二人は同一人物ではないか、との直感が的中したのが続編での山場でした。三冊目ではさらに錯綜した現実が明らかにされ、もはや何が真実で何が嘘かも判然としません。すべてが幾重にも交錯する夢うつつの中にあるような風景です。
彼女が2011年に亡くなっていたのをつい最近知りました。彼女の作品を読んだ後は、「何もせずに一日終わった。」などと寝言を言っていられることを、心底ありがたく思ってしまうのです。恐るべし、アゴタ・クリストフ!
2013年11月15日金曜日
「桜とインターネット」
インターネット時代の到来というものがなかったら、今ある問題のほとんどは起こらなかっただろうなと思います。ビジネスにはもっと人手が必要ですし、24時間対応ではないので労働条件も改善するでしょう。人間の労働の価値を果てしなく切り下げているグローバリゼーションに起因する過労も自殺も減る可能性が高い。
学校や塾でiPad の導入が始まったというニュースがありました。塾ではタブレットに向かって試験問題を解き、その場で正解・不正解が分かり、終了後すぐに順位が発表されるということでした。関係者(塾の先生)の話によれば「その場で解答や結果が分かるので生徒の学習意欲があがった。」とのこと。私が今の子供だったらとても耐えられなかっただろうと思います。
現在の国民的鬱状態は、情報の氾濫が人々の認識や判断を狂わせていることに由来する部分が大きく、いたずらに飢餓感をあおられて、未来への悲観的な見通ししかもてない状況を作り出しています。ネットがなければ退屈すぎて、ひょっとしたら引きこもる人も結構減るのではないでしょうか。あ、これは不謹慎な冗談でした。SNS等の発達で人との距離間がはかれないという現実もあります。ストーカー問題もこれと無縁ではないでしょう。
インターネットの利便性に私も与っている以上、今起きていることの加担者であるという多少の有責感はあります。まことに、「世の中に絶えてネットのなかりせば日々の心はのどけからまし」なのですが、これは仮定法過去(現実に反する仮定)であり、もう後戻りはできないのです。
2013年11月14日木曜日
「国家安全文化度の測定法」
文化が高いとはどういうことかという問題は難しすぎるので、「国が落ち着いていて文化的に見える」指標として思いついたことがあります。通常、図書館、美術館、博物館等の数というのは文化度を測るのによく使われる指標ですが、箱モノの数だけならあまりあてになりません。催される美術展の数や来館者の数というのはそれより正確な指標になるでしょう。しかし、もっと精度が高いと思うのは、「他国から貸し出される美術品の数」ではないでしょうか。
美術館は自ら所蔵する美術品の扱いに不安があれば絶対に貸し出しはしません。政情不安で何が起こるかわからない国に大切な絵画を貸し出す美術館はないでしょう。それだけでなく、運搬や展示に技術的な不安があっても、鑑賞する人々に美術品への関心や敬意があるか自信がもてなくても、それにもちろん興業的な成功を期待できるかが疑問でも計画は頓挫するでしょう。
他国からの絵画の貸出件数といった統計があるのかどうか知りませんが、おそらくこの点では日本は随一ではないかと思います。展覧会の絵画は近づいてじっくり見ることができないので、私はこのところよほどのことがないと行かなくなってしまいましたが、気が付くと、
「あ、この絵が来ていたのか。」
「あ、この絵も来日していたのか、いつまでだろう。」
ということがよくあります。
フェルメールの絵画などはここ数年毎年のように来日しているようですし、何点かまとめて「フェルメール展」を開くなどというのは、他国では(おそらくヨーロッパでさえ)考えられない企画です。海外の美術館を訪れて、改装中ならいざ知らず、名画が貸し出し中のため見られないのはいまいましく落胆する出来事ですが、そのリスクを省みずフェルメールの絵画が集められ展示されたのですから、日本にとっては大変名誉なことと言えるでしょう。
2013年11月10日日曜日
「紅春 38」
私が帰省している時といない時とで、対応が変わるりくのしつけとしては「外から帰ってきた時の足の洗い方」があります。普段はぬれ雑巾で足を拭くだけで家に入れているようなのですが、私がいる時は必ず水道で足を洗うようにしています。これも子供の時からきちんと慣れさせておけばよかったと思うことです。いや、軽々抱き上げられる子犬の頃は足を洗っていたのですが、だんだん重くなるにつれて足拭きに移行していったというのが真相です。
りくにはいつも
「姉ちゃんが来たからには足を洗わないと家に入れないんだよ。」
と言っています。すでに10キロはあるりくを抱っこしたまま、まず後ろ足を水道で洗い、それから流しのふちに後ろ足で立たせて、体はしっかり支えながら前足を洗います。とても不安定な姿勢なのでりくは足を洗うのがきらいなのです。
他の家人と散歩に行って戻って来た時、勝手口に私がいないようだと思うと、りくはそのまま入ろうとしますが、たいていは待ち構えていて
「そうはいかないんだよ。悪い生活から足を洗ってください。」
と言って抱っこします。りくは
「あー、見つかっちゃった。」
というふうに仕方なく足を洗います。
2013年11月8日金曜日
「ヨーロッパの駅舎にて」
「列車はどっちから来るのかな。」
イタリアを旅していた時、ホームでヘルベルトが言いました。駅名は忘れましたが、そこは両側に線路があるタイプのプラットホームでした。
「案内板がないから左から来るのか右から来るのかわからないね。」
と私が言うと、彼は
「いや、左から来るのはわかってるけど、どっちの方角からかな。」と。
おかしなことを言うなあ・・・。
「左から来るとは限らないでしょ。ほら・・・」
その時たまたま右手からホームに入ってくる列車を私が指さした時のヘルベルトの驚愕した顔を忘れません。
その後話してわかったのは、ヘルベルトによれば、ドイツでは列車は必ず左から入って来るということでした。気をつけて観察したことがなかったので、「そうかなあ、いつもそうとは限らないのでは。」と私は思いましたが、原則としてそう決まっているのでしょう。
イタリアでは日本と同じく、列車はどちらからでも入ってくるようでした。その方がずっと融通が利くと思います。ただ原則が決まっているのはわかりやすい点もあります。ロンドンだったかフランクフルトだったか、
「何処何処行きの列車は何番線から出ますか。」
と尋ねて、駅員が
「まだ決まっていません。」
と答えた時は唖然としました。大枠は決まっているのですが、長距離などで遅れが出たりすると、空いているホームにその都度引き込むようになっていて、ホーム自体に行先を示す固定した表示板はないようです。ちょっとしたことですが、身近なことで固定観念を突き崩されるのはやはり動揺するものです。
2013年11月5日火曜日
「危機センサー」
バブル崩壊後に知り合いから聞いた話があります。バブル期に某証券会社で金融商品を購入し、言われるままに何度か買い換えをして利益を上げていたのですが、ある日、「今はこちらの商品の方がいいですよ。」と言われた時、不意に目が覚めたそうです。
「私、こんなことしてちゃいけないんだ。」と思い即座に、
「全部解約してください。」
と言って解約しました。対応していた人は訳がわからず困惑していましたが、本人が解約すると言っているのでどうすることもできません。その証券会社が経営破綻したのはその直後のことでした。
「社員は悪くありません。わたしらが悪いんです。」
と涙ながらに頭を下げた社長の姿は何度も放映されたので印象深い事件でした。
以前、高速バスで大事故が起きました。私はずっとJRバスを利用していますが、当時、東京ー名古屋間が東京ー福島間よりはるかに安い料金設定に「これはありえない」と感じました。人間の労働というものを限りなくゼロにしようとしていると。そういうことはもうやめた方がいいと思います。もちろんやめるべきは、限りなく安さを追求する消費行動の方です。
先日某大手スーパーにおにぎりを納めていた業者が、国産と偽り外国産の米をつかっていたことが判明しました。某スーパーは訴訟も考えているとのことでしたが何を言っているのでしょう。販売価格を見れば、誰が考えても国産米でないことは明らか、「知らなかった」のなら商売人失格す。ものの値段を限りなくゼロに近づけようとして、それによって何をめざしているのでしょう。消費者は物には適正価格があるということを冷静に考えれば、危険に近寄らずにすみます。と思っていたら、有名なホテルのレストランで食材や調理法の偽装が明らかになりました。こうなると、もう自分の舌や身体感覚を鍛える以外処置なしですね。
2013年11月4日月曜日
「驚かない時代」
現代は何でもありの時代です。電線をネズミがかじって停電になっても当たりまえ、水平でないタンクに水を入れて中身が漏れても当たりまえ、たとえそれが原子力発電所であろうと。
「ちゃんとしてくれなきゃ困るよね。」
と言いながら、原発推進の姿勢は堅持、国土全部が滅亡するまでは「安全」です。奇怪なことが起こっていても、もう驚きません。
カフカの『変身』ですごいと思うのは、主人公が異形のものになっても本人があまり驚いていないことです。戸惑ってはいるのですが、普段の生活のこまごまとした事柄を煩い、「面倒なことになっちゃったなあ。」という雰囲気を漂わせている姿にこそまさに現代人であることが喝破されています。周囲は最初驚いておたおたするのですが、人間はどのようなことにも慣れてしまいます。彼に対する関心は失われ、主人公が死んだあと何事もなかったかのように日々の生活は続いていくのです。
2013年11月1日金曜日
「在宅と外出」
特に用事がない雨の日が子供の頃から好きでした。外に行く選択肢が消えて、家で雨音を聴いて過ごすのはいいものでした。あえて言えば、自分が安全な場所にいるという大前提で、台風の猛威を目の当たりにするのも大好きで、飽かず窓に張り付いていたものでした。今でも「今日はどこへも行かなくていい日」には思わずにんまりしてしまいます。以前、夏休暇の間中家でインターネットをしていたという友人が、「ひきこもりって楽なのよ~。」と言っていましたが本当にそうです。でもそれはいつでも出ていける場所があるからです。
家から出ずに過ごすのはせいぜい2~3日が限度でしょう。ひきこもりの問題の多くが、実は生活リズムの崩れと運動不足によって悪化していくのではないでしょうか。外出して喧騒に触れ、人々の活気からエネルギーをもらわないと活力が低下しますし、体を動かさないと不調をはっきり感じます。外に出て移動するだけでも元気が出てきます。この秋最初のキンモクセイの香りに気づいたり、多頭連れの犬(柴とビーグルとトイプードルが一緒にいるのを見た日などは得した気分です。)の散歩とすれちがったり、首輪とリードをつけて歩いている猫を目撃したりするだけで、「今日はいい日だな。」と思います。人間は面倒でむずかしい存在です。
2013年10月30日水曜日
「大人の実年齢」
アルバイトの店員が食材を用いて悪ふざけをした映像をネットにアップし、大きな問題になる事件が立て続けに起きました。実年齢から10歳~20歳程度割り引けば、まあ理解できる現象です。
先日、年商何十億だかのIT会社社長についての話を耳にしました。若くしてその地位に立つほどの才覚に恵まれた人なのですが、信頼していた部下が次々と離れていくという事態に直面し、悶々とした局面を変えたのはそれまで全く縁のなかったマラソンでした。大会に出場して初めて、全然見知らぬ人が本気で自分を応援していてくれること、大会を開催するためにどれだけ多くの人が無償で働いているか知り、心底驚いたとのことでした。
部下が離れていった原因は、「おまえ使えねえな」という社長の態度にあったようで、現在はそれらの部下たちと一緒に仕事をしているということは、自分の態度を反省し呼び戻したということでしょうから、やはりひとかどの人物だったのでしょう。この人が何歳なのかわかりませんが、多くの見知らぬ人の尽力の上に世の中がかろうじて成立していることを知るのは、あと10年は若くてもよかったのではないでしょうか。
逆に言うとその歳まで我がことのみの考えで人生が完結していたという生活状況だったということです。おそらく現代はそれほどまでに狭い社会の中での競争的環境にさらされているということなのでしょう。大人があきれるほど幼児化している原因の一つはそこにあるのだと思います。昨今の様々な事件を考えると社会としてもたなくなる時が迫っているのではないかと心配です。
2013年10月28日月曜日
「紅春 37」
「あら~、美しい犬だこと。」
「きれいだね~、かわいい。」
散歩中、りくはいろいろな人からいろいろな声を掛けられます。大きな声で思ったことをそのまま発声するご婦人がいるかと思うと、ひそひそ話をしながら通るご夫婦もいます。
「あの犬、かっこいいね。」
「うん、かっこいい。」
思わず耳がダンボです。
土手を大型犬が登ってくるので、りくがお座りして通り過ぎるのを待っていたら、
「まあー、立派。なんて立派な。」
と飼い主さん。
「何か見てるんですね。」
「ええ、川を見ています。」
りくは土手の決まった場所で向こう岸に向かってきちんと座り、じっと川をながめるのが好きです。放っておくといつまでも見ているので、「そろそろ行くよ。」と言って散歩の続きを促します。
「りくちゃんですね。」
「はい、りくです。」
りくの名は知っているのですが、何かしら声を掛けたいのです。
「りくちゃんでしょう、八重丸君のお友達の。」
交友関係まで知られている・・・。
「りくちゃん、りくちゃん。」
とひたすら名前を連呼する方もいます。
りくの態度はいつも同じ、まったくどこ吹く風なのです。もうちょっと愛想よくしてちょうだい。
「きれいだね~、かわいい。」
散歩中、りくはいろいろな人からいろいろな声を掛けられます。大きな声で思ったことをそのまま発声するご婦人がいるかと思うと、ひそひそ話をしながら通るご夫婦もいます。
「あの犬、かっこいいね。」
「うん、かっこいい。」
思わず耳がダンボです。
土手を大型犬が登ってくるので、りくがお座りして通り過ぎるのを待っていたら、
「まあー、立派。なんて立派な。」
と飼い主さん。
「何か見てるんですね。」
「ええ、川を見ています。」
りくは土手の決まった場所で向こう岸に向かってきちんと座り、じっと川をながめるのが好きです。放っておくといつまでも見ているので、「そろそろ行くよ。」と言って散歩の続きを促します。
「りくちゃんですね。」
「はい、りくです。」
りくの名は知っているのですが、何かしら声を掛けたいのです。
「りくちゃんでしょう、八重丸君のお友達の。」
交友関係まで知られている・・・。
「りくちゃん、りくちゃん。」
とひたすら名前を連呼する方もいます。
りくの態度はいつも同じ、まったくどこ吹く風なのです。もうちょっと愛想よくしてちょうだい。
2013年10月25日金曜日
「コンパートメント」
ヨーロッパの鉄道に初めて乗ったときコンパートメント車両の存在を知りました。知らない人と狭い一つの空間を共有するという車両の作り方は意外な驚きです。鉄道にしても飛行機にしても元々が船の発展型であることを考えるとうなずけ、クリスティをはじめ推理もので殺人の舞台になるのもわかる気がします。普通に「こんにちは」の挨拶をすればあとはいつもの過ごし方で構わないので、特に一等の場合はそれぞれ好きなことをしており、同室の人と会話がはずむなどということはまずありません。
ある時、とても空いた列車のこれまたがらがらの一等車両に座っていたときのことです。一人の大男が入ってきました。肌の色と骨格からして中南米の方ではないかと思いました。人種的偏見があるわけではありませんが、「これはヤバい。」と思いました。他にいくらも空のコンパートメントがあったからです。いくらなんでもおかしい、困ったなと思いました。社交的な人が、せっかく来たのだから旅先で出会った人と親交を深めたいと思うならそれもよいでしょうが、私はそんな日本でもしていないことを外国でしようとは思いません。危険だからです。
挨拶をし会釈した後は、なるべく目を合わさないようにして別のことをしながら、「さて、どうしたものか。」と考えていました。慌てて移動するのは変だから、しばらく乗って降りるふりをして車両を替わるのが一番いいかなと。やっと網棚に乗せた重いスーツケースの移動を思い、ちょっと憂鬱になっていると、助けがやってきました。検札です。車掌は一等の切符を持っていなかったその人をにべもなく追い出してくれました。ヨーロッパの人はこういうことのためにお金を出すのだと実感しました。
2013年10月23日水曜日
「匂いの記憶」
犬の嗅覚は大変すぐれたものですが、嗅覚は動物にとって五感の中で最も原初的なものではないでしょうか。見間違い、聞き違いということはありますが、嗅ぎ違いというものはありません。りくに何か新しい食べ物を与えると、ちょっと匂いを嗅いでどうするか判断します。食べるか、食べないかは一瞬で決します。嗅覚は味覚に先だって絶対的なものです。人間の五感の中で嗅覚は軽んじられている感がありますが、風邪で鼻が利かないと味も感じません。やはり嗅覚が先に働いて味覚が生きるのです。
匂いは出来事の想起においてもその鮮烈性がきわだっています。春先の陽光の匂いを嗅げば、一瞬にして、日向ぼっこしていた子供の頃のゆっくりした幸福な時間に引き戻されますし、むんむんするような草いきれは夏の午後のじりじりする暑さを、たき火の匂いは凛と張りつめた空気となんとなくわくわくする楽しみを瞬時に思い出させてくれます。「昔こんなことがあった。」とタイムスリップする匂いが最近はめったにないのが少し残念です。それにしても、あのひたすらゆったりと流れていた時間はいったいどこへ行ってしまったのでしょう。
2013年10月21日月曜日
「ヘイト・スピーチ」
以前、「はあ?」という語尾を用いて相手の言うことを全くばかげた主張として封殺する話し方が流行ったことがありました。これを聞いたとき、「一般人がやくざもんになる時代なのだ。」と思い気が重くなりました。
それと本質的に同根だと思うのですが、先日ニュースで「ヘイト・スピーチ」というネーミングを聞き、その正体が瞬時に把握できました。これはどうみてもインターネットの隆盛と無関係ではないでしょう。ある人種、民族、宗教、性別等をそれぞれ十把一絡げにして憎悪を掻き立てるということができるのは、個々の成員の多様性を知らないからです。歩み寄りとかすり合わせといった手の掛かる努力は切り捨て、一撃で相手を倒そうとする論調はネットでよく見かけるものです。
最近つくづく考えるのは、人間は自尊感情がなければ生きられない動物だということです。ヘイト・スピーチは自尊感情の裏返しであり、それを行う人は相手を貶めることによって浮力を得ようとしています。土下座の強要はその端的な視覚版です。大変不幸なことだと思います。
「アンデルセンの二つの話」
アンデルセンと聞くとなんだか落ち着かない気持ちになります。彼が書いた話の好みはそれぞれでしょうが、私が印象的な話を2つあげるとしたら、『火うち箱』と『ある母親の話』です。 『火うち箱』は子供の頃家にあった「少年少女世界の文学」のアンデルセン童話集に出てくる最初の話だったからであり、『ある母親の話』は同じくそこに出てきた最も悲しい話だったからです。
『火うち箱』は、魔女から火うち箱を取って来るように言われた兵隊さんが、特に悪いことをしたわけでもないのに話の冒頭であっさり魔女の首をはねてしまうという書き出しだったので、
「えー、この人が主人公でいいの?」
とびっくりしました。しかもそのまま、魔法の犬を使いながら大金持ちになり、お姫様を娶って幸せに暮らしましたという、二度びっくりの終わり方でしたが、一番目の犬、二番目の犬、三番目の犬と、目の大きさがだんだん大きくなっていくのが愉快だったのですべて帳消しになりました。
『ある母親の話』では、病気で死にそうな子供をさらって行った死神を、母親が我と我が身をなげうって目や黒髪を失くしながら必死に跡を追って行く場面はいかにもアンデルセンの筆致で、読んでいて切なさが募っていきます。人間の命が植わっている温室でついに死神と対面した母親が、
「子供を返してくれなければ辺りの花を引き抜く。」
と言って死神を脅すと、
「お前は他の母親を同じ不幸にあわせるつもりか。」
と答え、母親をどん底に突き落とします。
それから死神は、「幸福と祝福にあふれた花」と「不幸と苦しみの連続の花」を見せ、
「そのうち一つがお前の子供のものだ。」
と告げます。母親が絶望し、神に
「どうぞみ心のままになさってください。私がそれに背くようなことを言っても聞き入れないでください。」
と祈ると、死神はその子をあの世へと連れ去ってしまうのです。
こんな救いのない話があるでしょうか。それでも、子供心に「ここに書かれたことは人生の一面の真実なのだ。」ということはわかったのです。
2013年10月16日水曜日
「購買意欲」
新製品の発売に何日も前から泊まり込んで店先に並んでいる若者、売れ残ったお中元のセールに群がるご婦人方、北欧生まれの雑貨屋さんの東京出店に1000人殺到などの報道を聞くにつけ、すごいなあと思います。単純に「そんなに欲しいものがあるんだ・・・」と、感動に近いものを覚えてしまいます。
「欲しいものがない」のです。現代は購入するものがそのまま「自分は何者か」を示す指標となるような時代です。以前はそれなりに欲しいものがあったように思うのですが、あれは若さゆえでしょうか。世の中が私みたいな人ばかりなら、企業はバタバタ倒産でしょうから、購買意欲の旺盛な方々がいてくれないと確かに困ってしまうでしょう。それは生きる活力という側面もありますから、ちょっとでも「欲しいな」と思うものがあったら私も買いたいと思うのですが、これが本当にないのです。物欲がなくなっただけならいいのですが、生命力が低下しているのなら考えものです。
2013年10月13日日曜日
「紅春 36」
りくは父と過ごす時間が長いので対応の仕方を一番よく心得ています。説教が始まると場所を移動し、馬耳東風と聞き流します。「(散歩に)行くぞ。」と声が掛かると勇んで勝手口に馳せ参じます。父が台所に立つときは時々行って監督します。(食が細い割には、自分に関係のある物が調理されているかどうか気になるようです。)
時には「今忙しいから、自分で工夫して遊んでなさい。」という高度な課題が課せられることもありますが、それなりに理解しおもちゃ箱からその時々の気分でおもちゃを選んで遊んでいます。私が父と言葉でやり取りするとつい言いすぎて、お互い気まずい思いをすることがありますが、りくは本当に賢いなと感心します。見習わなければと思うことがしょっちゅうです。
2013年10月11日金曜日
「バーコード」
人生もゆるやかなカウントダウンの年齢になると、様々なことがいとおしく感じられ、今やれることは今やっておこうという気になります。最近はどんなことでも「せっかくだからやってみようかな。」という心持ちで試してみることが結構あります。ここまでくると、きっと「ま、やらなくてもいいか。」まであと一歩なのでしょうが、物事には手順があります。 先日は個人事業主としてバーコードの取得をしてみました。使うあてはないけれど、こんなことでもなければ産業センター(商工会議所)なんて一生行くことはないですもの。
今はバーコードがなければ商品として市場に流通しない時代です。私はあの白黒の様々な太さの線が文字を表していて、それを自分で作れるのかと思っていたのですが、全然違っていました。どういう仕組かというと、まず商工会議所で「手引き」を購入しその最後に付いている申込書に記入して「流通システム開発センター」へ送ると、事業者コード(9桁の番号)が取得できる。これに自社の商品番号を追加して12桁の番号にし一つ一つの商品を分別するというもの。おそらくここは経済産業省のxxxxx先になるのではないかと思われます。違っていたらごめんなさい。
申請者の印と社印(法人の場合)が必要でした。個人事業者は同じのでいいのでしょうが、勿体をつけて、使ったのはいつ以来かしらという実印を押してみました。書いた申請書は郵送でもいいのですが、青山一丁目近くの流通システム開発センターまで出しに行きました。直接出すことの利点はちょっとした間違いがあった時その場で直せることです。そしてちょっとした間違いは私の場合必ずあるのです。この書類では一か所の訂正で済み、おかげで取得まで通常2週間~1ヶ月みたほうがよいといわれるところ1週間で書類が届きました。
あとはこの数字をバーコードに変換し印刷すればよいのですが、当然それを行う業者がいます。しかし、世の中にはどんなことでも自分で行いそれをネット上で対価なく嬉々として他人に供与している方がいます。たぶん楽しいのでしょう。マニアが作ったらしきサイトで一応作成できたものの、本当に通用するかどうかはためしてみなければわかりません。妙に大きく縦幅が短いのも心配です。これをバーコードリーダーで読みとれる大きさに縮小コピーし・・・さてどうやって試してみるか。バーコードリーダーがあるところというと、思いついたのは最近導入している店もあるセルフレジ。申し訳ないけれど一度だけやらせてもらいました。どきどきしながら読み取り口に当てると、「ピッ、未確認商品です。」と。成功、読み取ったのです。「未確認商品」という音声に店員が驚いて駆けつけてきましたが、「大丈夫です。」と言って事なきを得ました。このバーコードは販売するお店の人がレジに登録設定をすればもう通用するのです。「やったー。」という達成感がありました。うーむ、世の流通システムはこうなっていたのか。
2013年10月9日水曜日
「ブラティスラバの思い出」
今から10年ほど前のことですが、ハンガリーに行く途中でスロヴァキアの首都ブラティスラバに寄ったことがありました。オーストリアに接しているといってもいいくらいのところにあるドナウに面した街です。小さな街で、「ひっくり返したテーブル」と呼ばれるブラティスラバ城と国立ギャラリー、近郊の今は廃墟となっているデヴィ―ン城を見てしまうと結構時間が余ったので、ホテルのテラス席でお茶をしながらだらだら過ごすという、贅沢な時間が持てました。気づいたのは、警官だか警備員だかが始終見えるところにいることで、ずいぶん警備が厳重だなと思っていたら、まもなく理由がわかりました。大統領官邸が目と鼻の先にあったのです。安全なのか危険なのかわかりませんでした。
次に気づいたのは、このホテルのウェイターは笑わないということでした。これは城の警備員も同じで愛想というものがないのです。当時、社会主義体制でなくなって10年ほどたっていたはずですがまだそのような状態で、十年やそこらで人は変わらないのだと、なにがしかの傷跡を見たような気がしました。とても気持ちのいいホテルで、食事もおいしく西洋諸国では提供できないような値段でしたので、大満足でした。朝、昼、晩の食事とお茶をいただいているうち、ウェイターも慣れていろいろ話すようになりました。もともと饒舌な人だったようで町の名所やお国自慢の話を聞きました。そのうち、
「スロヴァキアは他国の支配下に入ったことは一度もない。」
と言ったので、私とヘルベルトは顔を見合わせて黙ってしまいました。あまり自信たっぷりに言うので、「そうだったっけ?」と思ったほどです。
それから部屋に帰り念のため調べてみましたが、この街の旧称が、ドイツ語、ハンガリー語、チェコ語でそれぞれ別の名前であることだけをとっても、どれほど困難な歴史だったかと思いやられました。位置的にも、オーストリアとハンガリーという大国に接しているのですからひとたまりもありません。民族的にも文化的にも全く違うハンガリー王国の支配下にあり、ナポレオンの侵攻も受け、第一次世界大戦の終戦により解体されるまでオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、第二次世界大戦ではナチスの侵攻を受け、その後はソビエト赤軍の支配下に・・・という支配され続けた歴史なのです。
ですから、ウェイターが言ったことは客観的には明らかに嘘なのです。でも、たぶん彼は嘘をついたという意識はなかっただろうと思います。あまりにつらい、自尊心を傷つけられるような歴史であり、こうであったらいいのに、こうであるべきだという願望が高じてあのような発言になったのではないか。これほど自国の歴史を直視することは難しいのです。私はトランジットで香港に寄ったことがある以外はアジアの国に行ったことがありません。頼まれても行きたくないのです。それはやはり自国の歴史に直面することに耐えられないからだと思います。だから、ウェイターの発言は間違っているけれども、私は寛容な気持ちで大目に見ることができます。
2013年10月7日月曜日
「総合診療医」
人間の体というのは不思議そのものです。原因不明の奇妙な病はごまんとあるし、どこを調べても悪いところはないのに本人にはまぎれもない痛みというものもあります。そもそも一人一人に起こっている症状が科学的に解明されている病気であっても、それは個々人の遺伝的要因、生活習慣、心因性のストレスなどが幾重にも絡まって起こるのでしょうから、原因も蓋然的にしかわからなくて当然、一言で言うと、生物のことがそんなにわかるわけがないと私はもう割り切っています。
ただ、本当はなんとなくわかっているのです。まだ若い人ならいざしらず、半世紀を生きて体にがたが来たのなら、病の原因に思い当たることがあってしかるべきでしょう。友人が、
「一万人に一人しかならない病気のはずなのに、私のまわりには数名もいる。」
と言っていましたが、年齢を重ねれば交友関係もある種の傾向があるでしょうから、そういうことも起こるのです。50年も生きれば、人は自分にとって最良の総合診療医になっているはずです。
私が医者に期待するのは、蓋然的な原因を述べたうえで、とりあえず症状を治めてくれることです。たいていの一時的な病は、たぶん時間さえかければ自然と治っていくものなのですが、症状を抑えてその時間を短縮してくれること、それだけで十分ありがたいと思います。
健康は現代人の最大の関心事の一つで医学番組も多いですが、以前「ドクターG」という教化的な番組がありました。出演する医者は皆人格者で、人間は間違うものだという前提を踏まえ、医者として悩みながら使命を果たそうとしていました。彼らが信頼できると思えるのは人間の心身の脆弱性を理解し体感していることです。そして生活者としての視点をもち、人は仕事だけでなく家族や地域の中で生きているということを経験知としてもっていることです。カンファレンスに参加する研修医はそろいもそろって好青年、とにかく痛々しいほどにさわやかで、思わず「がんばってください。」と応援したくなってしまいました。人的資源に関して言えば、日本の医療の未来に希望が持てました。
2013年10月4日金曜日
「起床と就寝」
年をとると早起きになるのは、眠る体力もなくなるからだと以前聞いた覚えがあります。だいぶ前の話なので、今では違う医学的見解になっているかもしれません。私は眠れなくて困るということがほとんどないのですが、起床は早くなっています。東京にいる時はどんなに早く起きても誰にも迷惑にならないので、目が覚めた時間に適当に起きています。4~5時間でも十分なこともあり、先日「無理に眠ろうとしなくてよい」らしいと聞き安心しました。
問題は父の就寝時間です。2、3年前までは8時でした。それが7時半になり、7時になり、ついに6時半に迫ろうとしています。(ちなみに夕飯は5時半頃) 本人は「横になっているだけで寝ているわけではない。」と言っていますが、これは起きている体力がなくなってきているということではないでしょうか。
起きるのは6時頃ですから、ほぼ半日寝ていることになります。大丈夫でしょうか。起きたら起きたでまあ元気なのですが、この就寝時間、起床時間だけをみた場合、ちょっと心配になります。私がいない時、りくの寝起きは父の時計に合わせて行われます。私がいるとりくは私にくっついているので、父は時々りくにこう言っています。
「姉ちゃんが来てから、あんた少し夜型の生活になってるからね。姉ちゃんにつきあって起きてることないんだよ。ちゃんと早く寝ないとだめだよ。」
私だって10時前には寝ているのに、夜型って言われてもねえ。
2013年10月2日水曜日
「呪われた本」
ネットというところは思いもかけないことが起こる可能性があるので、本書の題名を書くことができません。この本はおよそ25年くらい前に、イスラム文化を背景に持ちながらヨーロッパ化した作家が書いた書物で、マホメットを冒涜しているという理由で、故アヤトラが本書の出版にかかわった人々に処刑宣告を出したことで有名な本です。現に翻訳した大学教授は殺されましたし(現場に日本では売られていない靴の足跡があったというニュースにぞっとした人も多かったはず。)、試した人の話によると、当時日本橋の大書店も災難が降りかかるのを恐れて原書の取り寄せを断ったそうです。その後の私の調査でも、本が持ち出せない図書館以外は組織的に処分されているのではないかと思えるほどお目にかかれなかった記憶があります。(神保町では時々見かけることがありましたから、手に入らないというわけでもなかったですが。)
ますます厳しさを増す現代社会はどこまで行くのだろうと思います。グローバルスタンダードとは即ちアメリカの価値観のことであり、これを受け入れることなしに近代化した国がない以上、イスラム世界も例外ではありません。西洋的価値観に席巻された後のイスラム世界は、大きな矛盾と葛藤を抱えたのであり、一言で言えばイスラムは傷ついているのです。この本は、あまりにも現実の本質を、従ってあまりにも痛いところをついてしまったのでした。著者には今でもボディガードがついているというし、だいたいヨーロッパ人の感覚では「あんな本書いて、いまだに生きているのが不思議だ。」ということらしいのです。後戻りしてこの世的に成功する可能性はないのですが、この世を捨てる気があれば、行き着く先はイスラム原理主義ということになります。もうどこへも行き場がないのです。
先日海外からのアクセスが増えたなと思ったら多くが中国からで、その日のブログは「日本とドイツ 言葉による安全保障」というタイトルでした。或る種の単語に反応するプログラムが組まれ情報を収集する組織があるのでしょう。ブログのお気楽な内容に拍子抜けしたことと思います。そういうわけで本のタイトルは書きませんでしたから、この本のことを書いたからと言って何もないと思いますが、もし私が非業の死をとげたらその線を当たってみてください。(冗談です。) ただ、ウィキペディアでこの本についてあたっていた時、突然画面が暗くなり、「お使いのコンピューターを保護するため Internet Explorer はこの Web ページを閉じました。」「正しく機能しないアドオンまたは悪意のあるアドオンが存在するため、Internet Explorer はこの Web ページを閉じました。」という表示が出たのです。やっぱりなんかあるんだぁ。
ますます厳しさを増す現代社会はどこまで行くのだろうと思います。グローバルスタンダードとは即ちアメリカの価値観のことであり、これを受け入れることなしに近代化した国がない以上、イスラム世界も例外ではありません。西洋的価値観に席巻された後のイスラム世界は、大きな矛盾と葛藤を抱えたのであり、一言で言えばイスラムは傷ついているのです。この本は、あまりにも現実の本質を、従ってあまりにも痛いところをついてしまったのでした。著者には今でもボディガードがついているというし、だいたいヨーロッパ人の感覚では「あんな本書いて、いまだに生きているのが不思議だ。」ということらしいのです。後戻りしてこの世的に成功する可能性はないのですが、この世を捨てる気があれば、行き着く先はイスラム原理主義ということになります。もうどこへも行き場がないのです。
先日海外からのアクセスが増えたなと思ったら多くが中国からで、その日のブログは「日本とドイツ 言葉による安全保障」というタイトルでした。或る種の単語に反応するプログラムが組まれ情報を収集する組織があるのでしょう。ブログのお気楽な内容に拍子抜けしたことと思います。そういうわけで本のタイトルは書きませんでしたから、この本のことを書いたからと言って何もないと思いますが、もし私が非業の死をとげたらその線を当たってみてください。(冗談です。) ただ、ウィキペディアでこの本についてあたっていた時、突然画面が暗くなり、「お使いのコンピューターを保護するため Internet Explorer はこの Web ページを閉じました。」「正しく機能しないアドオンまたは悪意のあるアドオンが存在するため、Internet Explorer はこの Web ページを閉じました。」という表示が出たのです。やっぱりなんかあるんだぁ。
2013年9月28日土曜日
「紅春 35」
帰省したら父がいなかったので、変だなとは思ったのです。りくが大喜びで迎えてくれましたが、こちらもいつもとちょっと違う感じ。なんだかびっくりして戸惑っているようでした。
理由がわかったのは一週間ほどして、来月の予定を壁に掛かったカレンダーに書き込もうとした時でした。いつも父にわかるように、到着日と出発日を赤ペンで書いておいたのですが、今月のカレンダーは真っ白でした。書き忘れたのです。何日か前に電話でも知らせておいたのですが、父は耳が遠くて伝わっていなかったようです。
「カレンダーに書き込むの忘れてた。」
と言うと、父が
「そうだよ。だから、りくには、『今月は姉ちゃん来れないんだよ。』と言い聞かせておいた。」と。
それでか・・・。だから玄関を開けた時、りくはふいを突かれていつもと対応がちがったのです。いつもは私が帰る日の3日前から、父はりくに
「いい子にしてたら、姉ちゃん帰ってくるかもしれないよ。」
と話し、当日は玄関にスリッパを出しておくので、りくは私の帰宅を確信し、期待でいっぱいになって待っているのです。うっかりしてたな、りくも調子が狂ったろうね。
「企業人の資質」
一般人には不可解な事件が2つありました。JR北海道の相次ぐ列車事故とカネボウの白斑問題です。利用者が列車に求めるものは何より安全であり、化粧品は美しさという夢を売る商売です。一般の顧客からみたら、「他のことはともかく、そこは御宅の本丸でしょう。」という部分が大きく毀損されたのです。
内部の事情は知りませんが、JR北海道の方は、あれだけの広大で人がまばらな土地に鉄道を走らせて収益をあげるのは困難であろうと容易に想像できます。赤字会社に人員整理はつきもの、路線の保守・点検も慢性的な人手不足だったのでしょう。さらなる人口減少、過疎化が予想される中で収益をあげるという、誰がやっても至難の業である事業を背負うのは並大抵のことではありません。社長が「戦線(業務改善命令に対する対応のこと)を離脱することをお詫びします。」との言葉を残して自殺したのはお気の毒でやりきれませんが、他に方法がなかったのでしょうか。トップが消えてしまったのではどうすることもできません。
カネボウの方は、2年も前から白斑問題が報告されていたというのに放置されており、これを「事なかれ主義」と呼ぶのは言葉の使い方が違うでしょう。「病気だと思っていた。」と言うのが本当なら、企業のトップとしてあまりに鈍く不適格であり、本当は問題があるのではないかと思っていたのなら、良心のかけらもなかったと言わざるを得ません。専門機関に調査を頼むとか、同じ症状が出た社員に事情を聴くとかいくらでもやりようはあったはずです。役員報酬を一部返上という解決で済ます感覚にも唖然とさせられます。ここには、結果があまりにも致命的であるために問題をなかったことにしたい、起きてはならないことは起きるはずのないことにしたいという、いわば東電と同じ心性が見られます。
この二つの企業は正反対に見えるトップのありようですが、実は同じ人間性の限界を示しているのだろうと思います。前者は負いきれぬ責任の重さに自らの命を絶ったのであり、後者はここまで良心を麻痺させないと精神が責任の重さに耐えられなかったのでしょう。もうタフな企業人はいないのかもしれません。
2013年9月25日水曜日
「食堂車」
人は閉じた移動空間の中でどんなことをして過ごすでしょうか。音楽を聴く、本を読む、パソコンや携帯があればどこにいても同じ過ごし方ができるかもしれません。車窓を眺めるというのも楽しみの一つでしょう。移動中に食事時を迎えるなら、何か食べることも楽しみになります。
私は子供の頃、東京の祖父母の家に母に連れられてよく行きましたが、当時急行で3時間半かかったと記憶しています。特急で2時間半の時代でした。この3時間半というのは移動するのに実に絶妙な時間だったと今さらながら思います。乗ってわいわいしているとあっと言う間に1時間やそこらはたち、それからおもむろに駅で買ったお弁当を食べ、ゆっくりしていると、もう降りた後のことを考え準備をする時間になります。気持ちが切り替わるのです。
東海道新幹線を使う地域ならいざ知らず、私は写真でしか食堂車を見たことがありませんでした。20年ほど前のある暑い夏、ザルツブルクからウィーンまで列車で移動した時のことです。ちょうど3時間半くらいかかったでしょうか。乗ってしばらくしてヘルベルトが「食堂車に行こう。」と言いました。おなかは空いていなかったのですが、私の目は輝きました。ああ、憧れの食堂車!
行ってみるときれいな真っ白のテーブルクロスがかかったテーブルが何席かあり、とてもいい感じというか、普通のレストランと比べても遜色がありません。スープを頼みましたが美味。それから、流れゆく車窓の美しい景色を楽しみながらコーヒーとケーキでお茶にし、すっかりくつろげました。ヘルベルトが「食堂車に行こう」と言った理由もわかりました。この頃、ヨーロッパの列車にはほとんどエアコンがついていなかったのですが、ここだけ冷房が入っていて快適なのです。ここなら一等も二等もないし、それほど混んでもおらず、時間も有効に使えて大満足でした。
リニア新幹線は東京ー名古屋間を40分で結ぶという報道があり、いよいよ超高速鉄道が現実化してきました。時間の観念が変われば生活全般が想像もできないほど変わるでしょう。一度くらい乗って驚異的な速さを体感してみたいものですが、一度でいいなと思います。気持ちの切り替えができないし、・・・駅弁が食べられませんものね。
2013年9月23日月曜日
「早朝エクササイズ」
今まで念頭になかったのですが、住んでいる区内にかなり大きな公園があります。都心に向かう方向とは真逆の位置にあるので、これまで私の中の検索にかからなかったのです。
この公園に関心を持ったのは自分でもわかるくらい「体がなまってきた」からです。ウォーキングは健康の基本ですが、それより少しジョギングしたいほどになってきたのです。こんなことは初めてかもしれません。ジョギングとなるとどこでもいいというわけには行きません。それで近辺を見渡してみたらこの公園が目についたのです。家からとても遠いというイメージがあったのですが、たまにいく図書館のちょっと先、自転車で15分くらいのところとわかりました。別な方向にならそのくらいいくらでも行っていたのに、灯台下暗しでした。
気候もよくなってきたので、ある朝6時半頃家を出て行ってみました。道はほとんど車の通りもなく、朝の空気が心地よく快適でした。着いてみると広い、広い。歩いている人、集団で体操している人たち、池に釣り糸をたれている太公望もたくさんいました。
公園はそれぞれ使用ルールがあるので様子をうかがうと、犬はつないであればOK、自転車もOKで思い思いの場所にとめています。あまり広いのではじめに自転車で回ってみましたが、私の好きな広葉樹、椎の木・楢・、楠・桜・欅などが多く、それも樹齢何百年かと思われる深々とした緑の公園でとても気に入りました。なにしろ代々木公園より広大なのですから、ちゃんと歩いて回れば半日がかりでしょう。
この時間にここに来られるのは地元民の特権、日陰をちょこちょこっと走ってみると久しぶりで気持ちよく、とにかく人口密度が低いので誰にも心おきなく走れます。池にはカモもいて、ああ、この情景はどこかで見たような・・・と思ったら、ロンドンのセント・ジェームズ・パーク・・・? そう思えば思えないこともありません。
行き帰りで30分、ウォーキングとジョギングとラジオ体操で30分、帰ってきてもまだ7時半、なんと爽快なことでしょう。いい季節、いい天候の時にはやみつきになりそうです。
2013年9月20日金曜日
「盗難考」
刑事ドラマといえばほぼ殺人事件の犯人捜しですが、最近は窃盗に関するドラマもあるようです。この盗難というものは、殺人とはまた違った深い絶望を感じさせられるものです。個人が所有する物にはそれぞれ歴史があり、それに付随する感情が詰まっているからです。以前、ヨーロッパでカメラを盗まれたバックパッカーの若者が、
「カメラはあげるから中のフィルムだけ返してほしい。」
と、誰とも知れぬ窃盗犯に対して一人叫んでいたのを見たことがあります。旅行中に写したものが全部ないというのは大きな喪失感でしょう。盗難の一番の問題はまさにこの点、すなわち、被害者の深い失望感、そしてそこから来る犯人への恨みが、犯人の耳に届くことがほとんどないことにあると思います。
これについて思い出すことがあります。勤めていた学校で一度使っていたカセットデッキがなくなったことがありました。英語科準備室の外にデッキを出しておくと英語係が教室まで運んでくれることになっていたのですが、或る時それが紛失しました。「探しています」の張り紙を出したところ、「返してほしくば3万円・・・」といたずら書きがされていました。ここに至って盗難とわかり、
「盗んだだけでは飽き足らず、無くなって困っている人を愚弄するとは。」
と私は完全に切れました。
「いやしくも学校という場でこんな蛮行を許してはならない。」
と心に誓い、犯人探しではなく盗難品を取り戻すことに目標を定めました。
少し調査をすると時間割の関係からほぼクラスが特定されましたが、困ったのはそれが持ちクラスではない、それどころか全く接点のない学年だったことです。逆に言うと、そうでなければおそらく盗難自体起きなかったとも考えられるのですが。
そこで、そのクラスの授業を持っている先生に、
「わけは聞かずに授業時間のうち10分ください。それから申し訳ありませんが、廊下にいて話は聞かないでください。」
と頼みました。
教室に入りここに至る事情を話し盗難の件を告げると、反発の声が上がりました。無理もありません、その場にいるほとんどの生徒は無関係なのですから。しかし、私はその声を一喝し、無くなった物がどんなに大切なものかを話し、物を盗られた人間の怒りをぶつけました。怒っていたのは事実ですが、それよりなにより、人間の生の怒りをわからせるためおおげさな演技をしました。最後は、
「こんなことをしていたら将来決していいことはない。人の恨みはなんらかの形で必ずその身に降りかかる。今回のことは返してくれればそれでよし、それ以上は問わない。でも返さなかったら、一生絶対許さないからな~。」
と絶叫して教室を出ました。
2日後のことです。同僚がカセットデッキを持って現れました。
「これ、川辺野さんのじゃありませんか。」
「ど、どこにあったんです?」
「職員室前の廊下にありましたよ。」
戻ってきたのです。犯人が反省したのかどうかはわかりませんが、少なくとも私が本気で怒っていたことはわかった証です。日本では落し物がかなりの確率で交番に届けられ落とし主に戻って来るというのは、おそらく「誰も見ていないからといって不当な利得を得れば、いつかきっと天罰が下る」という言い習わしが心のどこかにあるためだろうと思います。私の行動は教員としての指導ではありませんでしたが、人間としての対応の仕方としてはこれでよかったと思います。キリスト者としては・・・最後の一言が失格ですね。
2013年9月18日水曜日
「心に残る話 2」
私はいつも弟のロビィが自慢だった。彼は容姿端麗で、私たちの高校の陸上チームの花形だった。母がロビィは白血病だと私に告げた時は、彼も私も高校生だった。それは長くつらい闘いになるだろうから私たちは力を合わせなければならないと母は言った。母は、私と、家を離れて大学に行っている兄のエドに、できるだけ普通通りの生活を送ることを望み、同時に起こりつつあるすべてのことを私たちに知っていてほしいと望んだのだった。
私の家庭に起こりつつある恐ろしい事態にもかかわらず、母は私の生活を不安定にならないようにしていた。学校の課外活動は続けるべきだと母は私に言った。春のダンスに招かれた時、私は後ろめたさを感じた。 ロビィが苦しんで死んでいくというのに、私は行くべきなのだろうか。
「そうよ」と母は言い、そんなこんなの最中にも、服を買いに街に私を連れていった。
ロビィは私が高校を卒業するほんの少し前に亡くなった。私は卒業したら芝居の勉強をしにニューヨークへ行こうとずっと計画していた。今となっては行けないと私は思った。ロビィは死んでしまい、エドは遠くの大学へ行っているのだから、母は私にいっしょに家にいてもらいたいと思うだろう。家庭で子供が死んだときには、残っている子供はなおさら大事なのだということを私は知っていた。 母はこう言うこともできたのだ。
「そばにいてちょうだい。母さんは1人子供を亡くしてしまったし、もう一人の子供の姿も見られないなんていやだわ。」
しかし母は女優としてやっていきたいという私の夢を常に知っていたのだ。
「お前はニューヨークへ行くのよ。」とある朝母は私に言った。「人生は生きるためのものなのだから。」
母はまだロビィのことで悲しんでいて、私がいないのはひどくつらいことだったろうに、私を行かせた。母は、私が世の中にでてゆき、充実した意義深い人生の機会を得ることを望んだのだ。母は死をいかに受け入れるかを私に示したばかりではない。いかに生を受け入れるかをも示したのだった。
I'd always adored my brother, Robby. He was handsome and the star of the track team in our high school. We were both in high school when my mother told me Robby had blood cancer. It was going to be a long, hard battle, she said, and we had to stick together. 1) She wanted me and my older brother, Ed, who lived away from home at college, to lead as normal a life as we could, yet she wanted us to know everything that was going on.
In spite of the horrible thing that was happening to my family, my mother kept my life stable. She insisted that I keep up with the activities in school. When I was invited to the spring dance I felt guilty. Should I go, with Robby in pain and dying? Yes, said my mother, and in the midst of everything, she took me to town to buy me a dress.
Robby had been dead only a short while when I graduated from high school. I'd always planned to go to New York after graduation to study acting. I can't go now, I thought. Robby's gone, Ed is away at college and mother will want me to be at home with her. How could I leave her now? I knew that when there is a death of a child in a family, the remaining child at home is all the more precious. My mother could have said, "Stay by my side. I lost one child and I don't want to lose sight of another." But she'd always known of my dream to pursue a stage career. "You're going to New York," she told me one morning. "Life is meant to be lived." She let me go even though she was still grieving over Robby and would miss me terribly. She wanted me to go out into the world and have a chance at a full, meaningful life. My mother not only showed me how to accept death. She showed me how to accept life.
2013年9月16日月曜日
「紅春 34」
そのかわり、兄が帰ってきた時の喜びようは大変なものです。車が帰ってきたことを他の家人に知らせる時、吠えるだけでなく声を絞り出すようにして明らかに何か話しているのです。感極まった訴えがあまりに真剣なので、「ああ、一日中待ってたんだな。」と思います。これが毎日の出来事なのです。
兄が姿を現すまで、また洗面や着替えをしてりくを相手にできるまで結構時間がかかるので、その間、りくはうれしくてどうしていいかわからないようです。父にかかっていったり、大好きな「弟くん」という名のぬいぐるみを振り回したりしています。やっと兄と遊べるようになると、頭をつけてピョンピョン跳ねたり、お腹を出してあおむけになったり(この時前足は完全に脱力し、まるで「うらめしやー」というような格好になっています。) まったく甘えきっているのです。
りくはまもなく七つになります。犬の年齢は七掛けといいますから、人間でいえばもう「天命を知る」歳に近いのです。こんな甘えっ子でいいのでしょうか。
2013年9月13日金曜日
「東京オリンピック招致」
オリンピック招致合戦の報道があまりに過熱して辟易したので、しばらく見ないでいたらある朝東京に決まったことを知りました。「へえー。」と思いましたが、別に悪い気はしませんでした。思うに今世界中でそこはかとない日本ブームが起きているのが勝因ではないでしょうか。世界の通常の観光地が人を引き寄せる要因が名所・旧跡であるとするなら、日本は全く別なもので人々を引きつけているのです。
「食文化」(しかも高級な料理だけでなく、ラーメン、たこ焼き、餃子といったB級グルメも含む)や様々な「かわいい」もの(キティちゃん、アニメのキャラクター、そしてゆるきゃら)、それに大震災で明らかになった「自然発生的な秩序」「思いやり」「おもてなし」の文化というものに、IOCの委員をはじめ世界中の人が惹かれ、「なんだかよくわからないけどちょっと行ってみたい国」に大手を振って行けるチャンスを作ったのだろうと思います。
ところが実際の計画というか、競技や選手村の予定地を見た時、「こんな臨海部で大丈夫かな。」とまず思いました。何もないとは言い切れないので何かあれば被害が大きいのではないかと思ったのです。次に招致決定までのプレゼンを見ているうち安倍首相の言葉にびっくり仰天しました。
「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている。」
「(福島第一原発の)状況はコントロールされている。」
こんな国民の誰一人信じていないことを全世界に向けて言ってしまうとは。小さな嘘はすぐ見破られるけれども大きな嘘は通ってしまうというのはこういうことでしょうか。これはアメリカと密約しながら「非核三原則」を声高に唱えてノーベル賞までもらった政治家と同じレベルの大嘘です。あれは祖父の岸信介ではなく、大叔父の佐藤栄作でしたね。
またそれより前の記者会見だったか、招致委員会の竹田理事長が汚染水問題を問い詰められて、「東京は福島から250キロも離れているから安全」と発言しているのを聞き、
「あー、それを言うか。福島は危険だけど東京は安全だと・・・。」
と気持ちが沈み悲しくなりました。もちろん、一義的には福島を思って気が沈んだのですが、もっと大きくはこの国を思って気が沈んだのです。経験的に言うと、自らの弱い部分を切り捨てた組織は生き残れないからです。その時はよくても、長い間に取り返しのつかない大きなダメージとなって返ってくるのです。
安倍首相がついたような嘘は諸外国であればよくあることです。19世紀にイギリスの外相から「文明世界最悪の嘘つき」呼ばわりされたメッテルニヒも、「言葉は嘘をつくためにある」と言って恬として恥じない古狸タレイランにはまんまと乗せられました。残念ながら外交は、ある国にその気がなくても相手国にとってはだまし以外の何ものでもないという場合が往々にしてあり、そういう面を抜きには語れません。日本の外交下手の理由の一つは、生真面目で正攻法過ぎる点にあると思います。(もちろん、他に200くらい理由があるでしょうが。) 血筋ということでもないでしょうが、日本でも堂々と嘘がつける世界基準の総理が出てくるようになったのです。ですが、私はやはり日本は目先の国益にかなわなくても本当のことを言ってくれる世にもまれな国であってほしいと思うのです。
2013年9月11日水曜日
「シエナのかけっこ」
イタリア旅行をした時のことです。イタリアに行く目的のほとんどは美術館での絵画鑑賞です。フィレンツェ Firenzeといえばなんといってもまずウフィツィ Galleria degli Uffizi。記憶が定かでないのですが、確か当時(20年くらい前)は入館券があれば一度退館しても当日ならまた入れるようになっていました。スケジュール的にあまり余裕がなかったのですが、シモーネ・マルティネ Simone Martiniの『受胎告知』 Annunciazione tra i santi Ansano e Margheritaを見た途端、私はどうしてもシエナ Sienaに行きたくなってしまったのでした。
フィレンツェからシエナにはバスがでており、午後4時半頃帰って来れれば閉館までまだ2時間ほどウフィツィで鑑賞できる計算です。ヘルベルトはさほど絵画に関心はないのですが、こういうとき私の希望をいつも全力でかなえてくれるのです。
シエナに行き、壮麗な市庁舎の「世界地図の間」にあるフレスコ画、『グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ騎馬像』 Guidoriccio da Fogliano all'assedio di Montemassiを堪能し、やはり来てよかったと満足しました。2時間ほど滞在し帰りのバスの時刻チェックも怠らなかったのですが、問題はバスの乗り場でした。てっきり降車したところと同じだと思っていたのですがそうではなかったのです。
出発時間は近づいており、バス乗り場は『地球の歩き方』を見ると(こういう時本当に役立ちます。)、ゆうに400~500メートルは離れています。ヘルベルトは、
「次のバスにしよう。」
と言いました。次のバスは2時間後、お茶をするのにいい時間。普段なら一も二もなく賛成するのですが、この日はウフィツィの絵画の残りを見たい一心でした。
「それはだめ~っ。」
と言って、私は駆け出しました。ヘルベルトはついてくるしかありません。走りに走り、途中私も「やっぱり無理かな、間に合わないかな。」と思いましたが、ぜいぜい息を切らして駆けて行くとまだバスは出発していませんでした。
席に座り噴き出す汗をぬぐっていると、ヘルベルトが
「君は決してあきらめないんだね。君と僕が駆けているところを傍から見たら、どうみても東洋人の女の子を追いかけてる大男の図にしか見えなかっただろうな。」
と言うので苦笑いしました。
この時のことをヘルベルトは時々思い出していたようで、似たようなことがあると、
「君があきらめないのは知っているよ。」
と、なかばあきらめ顔で言うのでした。
2013年9月9日月曜日
「心の速度」
いつの頃からか、「生きづらい」とか「心が折れる」という言葉を聞くようになりました。少なくとも20年前は使わなかった言葉ではないかと思います。これは別に20年前と比べて現代人の心が弱くなっているということではありますまい。そういう言葉を使わねばならないほどの猛烈な社会環境になってきたということでしょう。
夏目漱石は「とかくに人の世は住みにくい」とは言いましたが、この言葉にはある種温かみのある諦観があります。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」(『草枕』)
「生きづらい」というのはまさにこの「人でなしの国」に行ったかのような心持ちではないでしょうか。その一番の原因は、普段「なんでも速いことはいいこと」という社会常識が一般化しているため指摘されることが少ないですが、通信の高速化にあると思います。手紙しかなかった時代はやり取りに最低数日かかったのですから、その間心の中に温めるということができました。また、毎日会う人が相手でも一度帰宅し家族との日常に返ると、今日あったことも吹っ飛んで、翌日言葉を自制したり、寛大な気持ちで仕切り直したりする心の余裕ができたのです。しかし今は、多くの人が自分への情報や通信にとらわれています。或る母親が、学校から帰ってきた娘がメールで友達とけんかの続きをしているのを見てぞっとしたと言っていましたが、これでは生きにくいのも当然です。就職活動などでも通信手段はメールが必須ということも多く、いくつもエントリーしては不採用の通知が来るのでは心も折れてしまうでしょう。大変な時代になったものです。
漱石の答えは単純明快です。
「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」
世界の文学や絵画に囲まれた生活はやはり必要なのです。あとは音楽が抜けていますね。
2013年9月5日木曜日
「オラクル」
子供の頃からちょっと疑問に思っていたのは、特に旧約聖書で神と人が対話する場面です。やりとりの展開はお話としてはおもしろいのですが、どうしてそれが自分の思い込みや妄想ではなく、「神様からの言葉だとわかるのか」が不思議だったのです。「これはいわば神話だから。」「神様の言葉を預かる特別な人だから。」と解釈していました。
今回、福島教会の会堂建築にあたりひょんなことから「ベジがま」という野菜調理器具を思いつき、建築献金をしようと思ったのですが、これはとても不思議な過程でした。自分がやったことに違いはないのに、自分でやった感じがしない、自分からは遊離したものをどこかで眺めているような感覚でした。自分にできるはずのないことが自分にできるはずのないスピードでできて進んでいく、我ならぬ我になっていたのです。
志はよくても納税の義務等世間のルールをはずれて志を汚すようなことになってはいけない、これを続けるには事業化するしかない、というところまでわかった時、そこまですべきかどうかちょっと迷いました。しばらくあれこれ考えていると、その答えはある日の礼拝後に出ました。神がよしとするものであるなら祝福があるだろうし、事業化してうまくいかなければそれはやらなくていいことという答えでした。その答えを聞いて「なるほど明快だ。」とすっきりしました。その時、神様の声というのはただはっきりわかるものだと知りました。それはただ端的にわかるのです。
中学・高校時代一緒に教会に通いその後長らく年賀状だけのやりとりになっていた友が、所属教会でベジがまを扱ってくれることになり、それどころか注文された100個の袋詰めや送金等のこまごまとした面倒を引き受けてくれることになりました。これはもう関西に営業所ができたのと同じで本当に願ってもないことです。他のところからも2個、3個、5個、10個、20個、50個と注文が舞い込み、私の工場(こうばと読んでください。)はフル稼動です。時折、材料の発注で「メーカー欠品」が出てぎょっとすることもありますが、「神様が何とかしてくださる」と大船に乗った気持ちです。
この事業は思いもしない仕方で始まったように、いつか予測もしない形でその使命を終える気がします。今からその日が楽しみでもあります。その日まで、御心ならばこの事業は続くのです。
2013年9月4日水曜日
「刺繍の終わり、編み物の始まり」
テーブルセンターのレース編みは無事終わり、最後に別糸でレースに模様を入れるという画竜点睛の部分は先生にお願いいたしました。これはこれで満足で達成感がありましたが、レース編みのかぎ針を探しているうち、段ボール箱に入った編み物用品一式が出てきました。しかも編み物の本数冊とともに20数年前に編もうと思って購入したらしい毛糸玉十数玉も一緒です。これはもったいない。毛糸の色から何を編もうとしていたのかも思い出し、20数年ぶりに編み始めました。編み方は手が覚えていましたが、編み図の記号は忘れています。引き返し編みや身頃の剥ぎ方などはおぼろげな記憶しかありませんが、表から見て変でなければよしとしました。
取り組んだ課題は首の部分にボタンの付いたセーターですが、4段ごとに引き上げ編みのある模様でした。これは間違わなければ難しくありませんが、間違えに気づいた時、メリヤス編みのように部分的にほどいてかぎ針でチョコチョコっと直すことが私にはできません。また、袖ぐりの部分で減らし目をしているうち、模様の合わせ方がなんだかわからなくなってメチャクチャになってしまいました。何度も編み直しし苦労しましたが、まあ許せる状態に編み上がり、20数年ぶりで眠っていた毛糸が息を吹き返しました。
難しい課題にあえて挑戦しようとは思わないのですが、編んでみたいと思うのはすべからく素敵な編み込み模様や絵柄なので、やはり一筋縄ではいかないようです。まもなくバザーの季節がやってきます。子供用のセーター一着くらい編みたいのですが間に合うでしょうか。
2013年9月2日月曜日
「子供と本」
『はだしのゲン』が過激な描写を理由に、子供への閲覧制限措置が取られたという問題が明るみに出ました。私はあの劇画のタッチにどうしてもなじめずその漫画を読んだことがないのですが、書物の閲覧制限は全く意味がないと思います。その措置を考えた人は、子供の心を傷つけたくない配慮からなのでしょうし、それはわからないでもないのですが、どこまで子供の成長に責任を持てるつもりでいるのか考えると、独りよがりのある種傲慢な考えだと思います。
確かに本というものは、出会う時期、年齢やその時々の個人的な状況が決定的に重要な場合が多々あります。しかしそれは、前もってうまく慮ることなど到底できないものです。人生にはどうしたって残虐な面があり、その全てを避けて通れる人などいないはずです。描写どころか、子供でも暴力的な現実と接しながら過ごしているのが日々の生活なのです。過激な描写が子供に悪影響を与えることはあるでしょうが、それは人間存在を考える手がかりとして心にとどまり、子供は長い時間をかけて人間の暴虐性について自分なりの結論をだすでしょう。
私が子供の頃読んで、衝撃を受けた本は、メリメの『マテオ・ファルコネ』でした。これは確か、学研の「科学と学習」の付録で読んだものです。まさに子供に読ませるものとして取り扱われていたのです。父親が乾草の中にかくまったお尋ね者の居場所を、銀時計に目がくらんだまだ子供と言ってよい息子が官憲に売り渡してしまう話で、赦しを求める子供に対し、お祈りをさせた後、父親が「神様に赦してもらえ。」と言って打ち殺す結末は、息もできないくらい衝撃的でした。信義を守ることの峻厳さを思い知らされた作品でしたが、 あまり驚いたのでこの話を母にした覚えがあります。母は納得できないようで顔を曇らせました。
「それはどうかなあ。子供が心から『ごめんなさい』と赦しを求めるなら、神様は必ずお赦しになるでしょう。」
と言ったので少し安心しました。一方でそれではやはり甘い気もして落ち着かない気持ちでした。この話は何かの折に心の奥底から浮かび上がってくることがあり、長いこと小さなとげのように心の片隅にぶら下がっていたのだなと思います。
今回またこの話を思い出し考えたのですが、メリメの意図も学研の編集者の意図もわかりませんが、やはりこれは「人への裏切りは死に価する。」というような教訓を与えるというものではない気がします。神がお赦しになるものを、独善的な正義感で息子を裁いた父親の罪の問題が一番大きいテーマだと思えました。こんなふうに子供は暴力性をも時間をかけて熟成させ、なんらかの考えを沈潜させているものです。だから、リスクはあっても一方的に閲覧を妨げてはいけないし、それは結局無意味なことなのです。
2013年8月29日木曜日
「紅春 33」
食に関してりくは全くガツガツしたところのない犬で、時々もうちょっと食欲があればいいのになと思うことがあります。りくに食事させるのは結構大変です。ドッグフードだけを食器に入れても食べるのはよほどお腹が空いている時で、たいていはふうっと匂いを嗅いでそのまま行ってしまいます。
「そんなわがまま言う子は食べなくていいんだ。」
と私は言うのですが、また戻ってきてこちらの顔をうかがっているので、ついトッピングをしてしまいます。
りくの戦略はただ一つ、「食事は急がない」です。夏の暑い時、食欲が落ちあまりに食べないので、「このままでは夏バテしてしまう。」と、お肉やら卵やらチーズやらを混ぜて食べさせていたことから、「食べずにいるとだんだんおいしいものが出てくる」と学んだようです。 なるべくドッグフードを食べさせ、あとはご飯のおかずを少し分けてあげますが、やはり人間の食べ物の方がおいしいので、ドッグフードをえり分けて食器の外に出しながら食べています。
先日、愛犬を亡くされた方から「りくちゃんに。」と、缶詰を3缶いただきました。「ひな鶏レバーの水煮」という、りくがついぞ食べたことのない高級品です。さっそくその晩いつものドッグフードを混ぜてあげてみると、ひどく勢い込んで食べています。普段は残すドッグフードもきれいに完食! しかも、いつもは食べ終わるとスーッといなくなるのに、この日はいつまでも私のそばをうろうろしています。よほどおいしかったのでしょう。
「さくらちゃんに『おいしいものありがとう』って言わねばね。次は・・・2か月後のお誕生日!」
これは意地悪からではありません。
2013年8月28日水曜日
「日本人から学ぶ10のこと 10 things to learn from Japanese」
震災から数か月後に、ハリウッドの映画業界で働くアメリカ人が友人に書き送ったメールを見つけましたので紹介します。このメールは瞬く間に映画業界はもちろんIMFや国連、世界銀行のスタッフの間を駆け巡ったと言われています。
1.THE CALM 冷静さ
Not a single visual of chest-beating or wild grief. Sorrow itself has been elevated.
大げさに騒ぐ人はなく、嘆きにくれて泣き叫ぶ人の姿もない。ただ、悲しみ自体だけがこみあげている。
2. THE DIGNITY 尊厳
Disciplined queues for water and groceries. Not a rough word or a crude gesture.
整列して水と食料の配給を待つ姿。過剰な言葉を吐いたり、下品な行動をとる人は誰一人いない。
3. THE ABILITY 能力
The incredible architects, for instance. Buildings swayed but didn’t fall.
信じられないほど技術力豊かな建築家たち。建物は揺れたが倒壊しなかった。
4.THE GRACE 気品
People bought only what they needed for the present, so everybody could get something.
誰もが何かを入手できるように、人々は当面必要なものだけを買った。
5.THE ORDER 秩序
No looting in shops. No honking and no overtaking on the roads. Just understanding.
店を略奪する暴徒、車のホーンを鳴らす者、無謀な追い越しをする人がいない。あるのは相互理解のみ。
6.THE SACRIFICE 犠牲
Fifty workers stayed back to pump sea water in the N-reactors. How will they ever be repaid?
原子炉に海水を注入するために50人の作業員が原発に居残った。彼らにこの恩をどう返せばよいのか。
7.THE TENDERNESS 優しさ
Restaurants cut prices. An unguarded ATM is left alone. The strong cared for the weak.
レストランは値下げし、警備されていないATMが破壊されることもない。強いものが弱いものを労わった。
8.THE TRAINING 訓練
The old and the children, everyone knew exactly what to do. And they did just that.
老人や子供も、皆何をしたらいいかをちゃんと知っており、それを淡々と実践した。
9.THE MEDIA メディア
They showed magnificent restraint in the bulletins. No sensationalizing. Only calm reportage.
メディアはニュース速報に関して最善の配慮をした。センセーショナルな報道を控え、冷静なルポに徹した。
10.THE CONSCIENCE 良心
When the power went off in a store, people put things back on the shelves and left quietly.
店が停電になった時、買い物客は品物を棚に戻し、静かに店を立ち去った。
世界基準からは全体として日本と日本人がどう見られているか、考える手がかりになると思います。日本があの悲惨な大災害の中で、どれだけ世界に希望を与えたか日本人はもう少し自覚してもいいのではないでしょうか。
1.THE CALM 冷静さ
Not a single visual of chest-beating or wild grief. Sorrow itself has been elevated.
大げさに騒ぐ人はなく、嘆きにくれて泣き叫ぶ人の姿もない。ただ、悲しみ自体だけがこみあげている。
2. THE DIGNITY 尊厳
Disciplined queues for water and groceries. Not a rough word or a crude gesture.
整列して水と食料の配給を待つ姿。過剰な言葉を吐いたり、下品な行動をとる人は誰一人いない。
3. THE ABILITY 能力
The incredible architects, for instance. Buildings swayed but didn’t fall.
信じられないほど技術力豊かな建築家たち。建物は揺れたが倒壊しなかった。
4.THE GRACE 気品
People bought only what they needed for the present, so everybody could get something.
誰もが何かを入手できるように、人々は当面必要なものだけを買った。
5.THE ORDER 秩序
No looting in shops. No honking and no overtaking on the roads. Just understanding.
店を略奪する暴徒、車のホーンを鳴らす者、無謀な追い越しをする人がいない。あるのは相互理解のみ。
6.THE SACRIFICE 犠牲
Fifty workers stayed back to pump sea water in the N-reactors. How will they ever be repaid?
原子炉に海水を注入するために50人の作業員が原発に居残った。彼らにこの恩をどう返せばよいのか。
7.THE TENDERNESS 優しさ
Restaurants cut prices. An unguarded ATM is left alone. The strong cared for the weak.
レストランは値下げし、警備されていないATMが破壊されることもない。強いものが弱いものを労わった。
8.THE TRAINING 訓練
The old and the children, everyone knew exactly what to do. And they did just that.
老人や子供も、皆何をしたらいいかをちゃんと知っており、それを淡々と実践した。
9.THE MEDIA メディア
They showed magnificent restraint in the bulletins. No sensationalizing. Only calm reportage.
メディアはニュース速報に関して最善の配慮をした。センセーショナルな報道を控え、冷静なルポに徹した。
10.THE CONSCIENCE 良心
When the power went off in a store, people put things back on the shelves and left quietly.
店が停電になった時、買い物客は品物を棚に戻し、静かに店を立ち去った。
世界基準からは全体として日本と日本人がどう見られているか、考える手がかりになると思います。日本があの悲惨な大災害の中で、どれだけ世界に希望を与えたか日本人はもう少し自覚してもいいのではないでしょうか。
2013年8月26日月曜日
「DBとの戦い」
初めてドイツを訪れた時、移動方法は全面的に鉄道でした。駅や列車が好きなのと、時刻表さえあれば間違いなく移動できるからですが、切符を並んで買うのが面倒で(相当列をなしていて時間がかかることも多いのです。)、ユーレイルパスを使っていました。英国旅行ではブリットレイルパスが便利でしたが、ジャーマンレイルパスは使い方に制約があり不便そうだったのでユーレイルパスにしたのです。ヨーロッパ中移動できるパスなので割高でしたが、時間がなくても滑り込めるし、いつでも一等に乗れるので便利でした。
パスと言っても飛行機の搭乗券くらいの大きさでしたが、検札が来てもそのパスを見せるだけで何の問題もなく旅行していました。ところが、或る時やって来た検札の人が、
「これはダメだ。」
と言いました。理由を聞くと、その切符は本物ではない、控えだと言うのです。最初何のことかわからず、これは間違いなくユーレイルパスでこれまで問題なく列車に乗れていたことを話しましたが、やはり「これではダメ、もう一枚の方。」と言われ、あやうくどこかに連れて行かれそうになりました。その時思い出したのが、「もう一枚の紙」です。そう言えばユーレイルパスを買った時、「控え」として大きさは同じくらいでしたがペラペラの薄い紙をもらったことを思い出しました。高額なので紛失した時のためのものなのだろう、必要になることはまずないだろうとスーツケースにしまってありました。
「ありますっ。」
と言って、スーツケースをガバッと開け探したところ見つかりました。いろんなものがごちゃごちゃ詰まったスーツケースの中身を見られるのは恥ずかしかったですが、そんなことを気にしている場合ではありません。犯罪者扱いされようとしているのです。その紙を車掌に向かって燦然とかざすと、
「あっ、これでいいんだ。」
と言って行ってしまいました。「えっ、謝罪の一言もないの?」とのけぞり拍子抜けし、それから怒りがこみ上げてきました。しかしよくよく考えてみれば、これは本体と控えを取り違えた私の勘違いが生んだ事態なのです。今まで切符と思っていたものが実は控えで、それでもそれまでの検札が大目に見てくれていたのです。独り相撲と言えばそうなのですが、DBとの戦いにどっと疲れました。
2013年8月23日金曜日
「若冲展」
7月下旬の日曜日、自転車で福島教会に行く道すがら、県立美術館のわきを通った時のことでした。思わず「えっ。」と思ったのは駐車場に車がいっぱいで、なおどんどん入ってくる車列を見た時でした。私の知る限り、ここが満車になったのは初めてです。ふと止まって看板を見ると、「若冲が来てくれました」と書いてあります。恥ずかしながら、私にはそれが人名であることさえわかりませんでした。しばらく後に、この絵画展は「東日本大震災で被災された人々、とりわけこれからを担う子供たちにぜひ見てほしい」とのプライス夫妻の強い願いから実現した若冲展であることを知りました。
私もぜひ見たいと思い、先日それが実現しました。開館直後に行ったのですが、すでにチケットを求める人が並んでいました。仙台、盛岡を巡って最後の会場となったためか相当混んではいましたが、そこは東京の美術館とは程度が違い、譲り合ってガラス越しにじっくり見られる時間もありました。思ったより近づいて見ることができたので、私の視力でもそれなりに鑑賞することができました。
展示作品は伊藤若冲だけでなく、長沢芦雪や酒井抱一など江戸時代を代表する画家の作品も数多くありました。江戸絵画どころか、私は日本画というものをちゃんと見たことがほとんどないのですが、気づいたこととして特徴的なのは、花なら花、動物なら動物が単独で描かれることが非常に少ないということです。それぞれの絵には、子供にも親しみやすいように子ども向けのタイトルがつけられており、例えば「ハチを見上げるサル」「白い象と黒い牛」「ヤナにかかったアユとカニ」「雪の積もったアシとオシドリ」などとなっています。何か一つにスポットライトを当て、それ以外は背景として描く洋画とは違うのがよくわかります。さらに、例えば「白い象と黒い牛」では、寝そべった象の体の上にはカラスと思われる二羽の鳥が、同じく寝そべった牛の足元には犬らしき白い動物が描かれているといった具合です。
プライス夫人が「これだけでも被災地の方々に届けたい」と願った、一番有名な「鳥獣花木図屏風」の子ども向け作品名は、「花も木も動物もみんな生きている」となっています。屏風の左手には40数種類の鳥が、右手には29種類の哺乳動物が描かれて大変楽しい絵です。この絵を見ているうちに、子ども向け作品名にもう一字加えた方がよいと思えてきました。おそらくより正確には、「花も木も動物もみんなで生きている」なのでしょう。
2013年8月21日水曜日
「那須高原サービスエリア」
東北自動車道の那須高原サービスエリアは最近きれいに改装され、休憩をとるのによい場所となっていますが、ここにはペット用の散歩スペースがあります。木立が茂るいかにも涼しそうなところに木製の歩道が続いており、ベンチやちょっとした遊具がいくつか配置されていました。もし、りくを連れてここに来たとしたら絶対寄ってみたい風情のところでした。実際、犬を連れた人が数人いました。
あれっと思ったのは、その入り口に掲示があり、正確な文面ではないかもしれませんが、「ペットをお連れでない方はご遠慮ください。」と書いてあったことです。見間違いではないかとよく見ましたが、そう書いてあります。ペット連れでない人に迷惑にならないようにということなのでしょうが、これは行き過ぎでしょう。ペットなしでもつい行ってみたくなる雰囲気の場所なのですから。せめて「ペット連れでも利用できます。」
くらいの表示でよかったのではないかと思います。
同様の意見の人が多かったのか、次に行ったときは掲示は何一つなくなっており、同時に人影のない場所となっていました。あの掲示を見たのは幻ではないと思うのですが、最近この手のことに自信がありません。
2013年8月19日月曜日
「時空の制約の中で」
最近つくづく思うのは、人がいかに時代や環境の制約の中でしか生きられないかということです。私が生まれた時からさかのぼると百年もしないうちに明治維新になりますが、その頃日本は内戦状態であり、日本国民という意識があったかどうかは別として、日本人同士が殺し合いをしていたのです。百年といえば、言って見れば「ついこの間」のことです。また、世界では三十幾つもの紛争地域があり人々は端的に殺し合いをしています。
朝起きて、今日のスケジュールを確認して「あー、やることがたくさんある。」と思ったり、夜になり「あー、一日何もせずに終わってしまった。」と思ったりできるのは、人類史的に見れば恵まれた人であり、贅沢な悩みと言わざるを得ません。まして、食事を三度三度とれ欲しいものはお店に行けば手に入るなどというのは、もう目もくらむような僥倖です。
にもかかわらず、周囲の人も同じ時代、同じ社会環境で生きているためそのありがたみを意識することはありません。それどころか、他人とのわずかな違いに目が行きそこから優越感や劣等感を感じるのです。他人との比較は自分を客観視するには必要ですが、人に積極的な効果をもたらさなかったり心をむしばんでしまうこともあるので、ほどほどにすべきでしょう。人類史的な視点から現代の日本に生きる生活を見れば、自分を大切にし日々を丁寧に生きるすべを考えるしかないなと思います。
2013年8月15日木曜日
「紅春 32」
私が子供の頃は福島は、夏とても暑い土地として有名でした。
「今日も全国で一番暑かったよ。」
という日がよくあったのです。しかし今、東京から福島に来ると、明らかに涼しいと感じます。思い出してみればあの頃は暑いといっても34℃、最高に暑くても35℃くらいだったと思います。一般家庭にエアコンが入ったのは私が高校生の頃で、それまではぬれタオルと扇風機だけでなんとかやっていたのです。今、日本で一番暑い地域はそれより5℃以上も気温が上昇しており、熱中症による命の危険を心配しなければならなくなりました。
福島は相対的に涼しくなったといっても、毛皮を着た身にはやはり暑いようです。朝早くの散歩はいいのですが、その後はもう暑くなり夕方まで外に出せないこともしばしばです。外に行きたいと言うこともありますが、実際出してみると「やっぱり無理でした」と自分でわかり、「家に帰る」と言います。家の中では風の通り道など比較的涼しいところにいますが、茶の間にいる時は父がエアコンをかけてあげています。父はエアコンも扇風機の風も苦手で、普段何も使わずに暑い茶の間にいることが多いのです。私がエアコンをかけると、「暑くない。」と言って切ってしまうほどです。それなのにりくがいると、
「あの子は暑さに弱いから。」
と言って自分でエアコンをかけるのです。これっていったい・・・。もはやりくはお犬様の域に達しているのです。
2013年8月14日水曜日
「マクベス夫人の憂愁 4」
今からみればゆるぎない一時代に見えるエリザベス女王の治世も、危ない綱渡りの連続でした。とりわけ、亡命してきたスコットランドのメアリー・スチュアートの処遇をめぐってエリザベスは注意を怠りませんでした。自分はいわば庶子ですがメアリーは直系であり、イングランド王位継承権において優位な立場にいたからです。エリザベスは天才的な政治手腕を発揮し、メアリーに肩入れしてスコットランドに派兵することも、逆に彼女をスコットランドのプロテスタントの手に渡して危険にさらすこともせず、19年間イングランドに抱え込みました。その間メアリーが一度ならずエリザベス廃位の陰謀に関わったにもかかわらず、処刑執行令状への署名を延期し続け、イングランドにとって最もよい時期に彼女を処刑したのです。しかし、そっけない歴史的事実として、エリザベスはそのメアリーの息子のジェイムズに王位を継承することになるのです。ここに現在の我々には想像しがたい王位継承の過酷さがあります。
マクベス夫人の死の知らせを聞いてマクベスは言います。
She should have died hereafter; There would have been a time for such a word.
この言葉は従来様々に解釈されてきました。「いつかは死ぬはずであった。そういう知らせを聞くことがあるだろうと思っていた。」と解釈するものと、「もっと後に死んでくれればよかったのに。そういう知らせにふさわしい時があったろうに。」と解するものとに大別されます。どちらかを選べと言われるなら、これは後者でしょう。前者は、マクベスが相棒と言ってよい妻について語る言葉として、あまりに距離感がありすぎます。そんな悠長に構えている場合ではないのです。後者は要するに、「なにも今死ななくてもよかったのに。」という意味ですから、この言葉をシェークスピアのエリザベス女王の死に対する率直な感慨だとすれば、これ以上の説明は不要でしょう。
最後の「動くバーナムの森」や「女から生まれたのではないマクダフ」の落ちは、いかにも芝居向きの趣向ですが、シェークスピアはあたかもホリンシェッドに則ってジェイムズ一世好みの芝居を書いたようにみせて、ひそかにエリザベス女王の追悼を行ったのであり、これは女王への挽歌なのです。いかに優れた王であろうと世継ぎがない以上、王位は王家の直系の子孫に受け継がれていくのです。エリザベス朝はすでに遠く、今を生きる者たちは何があろうと「明日、また明日、また明日と」一日一日を時の道化として歩んでいかざるを得ないのです。
マクベス夫人の死の知らせを聞いてマクベスは言います。
She should have died hereafter; There would have been a time for such a word.
この言葉は従来様々に解釈されてきました。「いつかは死ぬはずであった。そういう知らせを聞くことがあるだろうと思っていた。」と解釈するものと、「もっと後に死んでくれればよかったのに。そういう知らせにふさわしい時があったろうに。」と解するものとに大別されます。どちらかを選べと言われるなら、これは後者でしょう。前者は、マクベスが相棒と言ってよい妻について語る言葉として、あまりに距離感がありすぎます。そんな悠長に構えている場合ではないのです。後者は要するに、「なにも今死ななくてもよかったのに。」という意味ですから、この言葉をシェークスピアのエリザベス女王の死に対する率直な感慨だとすれば、これ以上の説明は不要でしょう。
最後の「動くバーナムの森」や「女から生まれたのではないマクダフ」の落ちは、いかにも芝居向きの趣向ですが、シェークスピアはあたかもホリンシェッドに則ってジェイムズ一世好みの芝居を書いたようにみせて、ひそかにエリザベス女王の追悼を行ったのであり、これは女王への挽歌なのです。いかに優れた王であろうと世継ぎがない以上、王位は王家の直系の子孫に受け継がれていくのです。エリザベス朝はすでに遠く、今を生きる者たちは何があろうと「明日、また明日、また明日と」一日一日を時の道化として歩んでいかざるを得ないのです。
2013年8月12日月曜日
「マクベス夫人の憂愁 3」
『マクベス』の中でマクベス夫人は血も涙もない非常な人物です。彼女自身が「私を女でなくしておくれ。」と言っているように、ことごとく女性らしさを奪われ、男以上のものになっていますが、ダンカン殺しが正統な王位奪回であるなら、彼女は完璧な働きをしたことになります。政治に情けは無用であり、冷静沈着な判断と時機を得た演技が必要なのです。マクベス夫人は男でも瞬く間に消耗する激務の連続である国政を、45年にわたって過たずつかさどってきたエリザベス女王を彷彿とさせます。王位という巨人の衣服を着せられたイメージで語られるマクベスとは違うのです。マクベスは「男にふさわしいことならなんでもやる」と言います。マクベス夫人とて同様ですが、ただ一つ、彼女にできないことがあるとしたら、それは女にしかできぬこと、すなわち後継ぎを残すことだったのです。
戴冠後の祝宴の場でマクベスとマクベス夫人は対照的な姿を見せます。王妃の座についたままで貫録十分のマクベス夫人に対し、マクベスは主人役であれこれ気を遣いながらも、宴を抜けてバンクォー暗殺の報告を聞いたあげく、その亡霊に席を取られて取り乱します。ところが、ここでマクベスを叱り飛ばし座を取り繕ったマクベス夫人を、次に我々が目にする時、彼女はすでに夢遊病者となっているのです。この部分はシェークスピアの全くの創作です。この変わりようについていけず、マクベス夫人における性格の一貫性や抑圧された罪の意識について論じ始めることはナンセンスでしょう。
この描写が表すのはもっと単純なことなのです。この芝居に限らず、シェークスピアにおいてそれまでと矛盾する変化やおかしな違和感を感じる時、そこには相当な年月の流れが示されているというのが、私が得た読み方の法則です。当時の観客なら、ここで17年という歳月の流れを苦も無く読み取ったことでしょう。マクベス自身も言っているではありませんか。「長いこと生きてきたものだ。俺の人生は黄ばんだ枯葉同然になってしまった。それなのに、老年につきものの名誉、敬愛、服従、良き友人など俺には期待できそうもない。」
月日が流れて二人は老年に達したが、世継ぎが得られなかったという結末なのです。しかし、世継ぎを得るということは王権にとって何にもまして重要なことです。王妃以外の何者でもないマクベス夫人が、王位を継承する子供がいないことで精神を病んだのはむしろ当然のことでしょう。いやそれどころか、彼女は予言の後半部分、「バンクォーの子孫が王位を継ぐ」ことになることさえ聞いていたことでしょう。個人名を持たない彼女は、王権と離れたところに存在し得ず、もう生きるべき未来がないのです。戸棚をあけて紙に何かを書き記し、読み直して封印するというのは、何か密書でも作成する行為なのでしょうが、さらに王権奪還の殺人を眠りながら繰り返すというのは、凄まじいまでの執着といわねばなりません。手からいまわしい血の臭いが消えないと彼女は叫びますが、それが王権につきものであることを誰より知っているのです。
2013年8月9日金曜日
「マクベス夫人の憂愁 2」
『マクベス』は大変テンポのはやい凝縮した芝居です。御前公演用に書かれた戯曲であるにしても『ハムレット』の半分あまりというのはいかにも短い。が、ここにはホリンシェッドの『年代記』において10年の善政と7年の悪政からなるマクベスの治世が凝縮されているのです。
この芝居はバンクォーの子孫と伝えられているジェームズ一世の前で演じられたのですから、その点では細心の注意が払われています。義弟のデンマーク王を迎えての余興用ということでは、ノルウェー王指揮下のデンマーク軍によるスコットランド侵攻をノルウェー王とその軍隊と書き換えており、また『年代記』においては、バンクォーもダンカン殺しの陰謀の相談に与っているのですが、『マクベス』ではもっぱらその役目はマクベス夫人にゆだねられることになります。しかも、史実としてはマクベスはダンカンを暗殺ではなく、戦場で堂々と打ち破って王となったのです。
それにしても、なぜマクベス夫人はこれほどまでに極悪非道の人物として描かれているのでしょうか。勇猛な武将としてのマクベスの描写はあっても、マクベス夫人の過去は闇の中に沈んでおり、彼女は初めから王妃になるべきものとしてふるまっています。
「あなたのお手紙を読んで、私は何も知らない現在を飛び越え、今この瞬間に未来を感じています。」
彼女のマクベスへの第一声です。歴史上のマクベス夫人の名はグロッホですが、『マクベス』では個人名は一度も明かされません。クローディアスの妻はガートルードであり、オセローの妻はデズデモーナですが、マクベス夫人は「マクベス王の妻」以外の名を持たないのです。これに関してシェークスピアの意図は明らかです。かつて大竹しのぶがマクベス夫人を演じた時、(私は見ていませんが聞くだにすごそう。)、平凡な一人の女としての破滅を演じきったそうですが、マクベス夫人はただの平凡な女ではありません。王妃でありマクベス王の妻なのです。
『マクベス』は確かに『年代記』を種本にして、王の不興を買わぬよう、むしろ歓心を買おうとするかのごとく書かれているように見えますが、この芝居は徹頭徹尾、王位継承の残酷劇です。王位継承は国家の最重要事項であり、つい3年前に王権の交代を経験したシェークスピアが考えもなしに選んだ題材であろうはずがありません。
シェークスピアがホリンシェッドの『年代記』を下敷きに『マクベス』を書いたことに間違いはありませんが、彼はそれ以上のことも知っていたのです。マクベス夫人がごくまれにもらす過去に関する言葉がそのことを物語っています。
「わたしは赤ん坊に乳をやったことがあります。自分の乳房を吸う赤ん坊がどんなにかわいいか知っています。」
このマクベス夫人の言葉はその後に続く「でも私は、微笑みかける赤ん坊のやわらかい歯茎から私の乳首をもぎはなし、その脳みそをたたきだしても見せましょう。さっきのあなたのようにいったんやると誓ったなら。」というすさまじい語気に押されてただのたとえのように感じられてしまいがちですが、シェークスピアはマクベス夫人には先夫との間に子供がいたという史実にさりげなく触れているのです。(ホリンシェッドにはマクベス夫人の子供への言及はありません。)
ダンカン殺害の場面での「寝顔が父に似ていなければ、私が自分でやったものを。」という台詞にしても、彼女の弱さや罪の意識のあらわれとみるのは的外れです。シェークスピアにおいて、誰かと誰かが似ているという場合、そこに血縁関係を読み取るべきだというのはほぼ確かなことでしょう。(このあたりは少女漫画と変わるところがありません。他人だったはずの登場人物が軒並み血縁関係だったという路線の、或る時期の一条ゆかりの作品などと同様です。) ダンカンの祖父(そして生まれる前に亡くなってはいるがマクベスの祖父でもある)マルコム二世は、ダンカンに王位を継がせるために他の男系相続者を殺したのですが、その中に父を殺された女がいました。彼女こそが後のマクベス夫人なのです。
おそらく、シェークスピアはもう少し知っていたはずです。それまでスコットランドでは直系の子孫への王位継承というものは行われず、王家の二つの家系の間で適齢以上の男子の中から力量のあるふさわしい人物が交代で王位につくシステムがとられていたのですが、このルールを破って王位についたのがダンカンだったということです。王位継承のシステムが暴力的に変えられたのです。『年代記』ではマクベスはダンカンの従兄弟であり、マクベス夫人が前王ケニス三世の孫娘であることを考えれば、従来のシステムではマクベスにはダンカンと同等かそれ以上の王位要求の根拠があったのです。
後に夢遊病者となったマクベス夫人が言う、「それにしても、老人にあれほどの血があろうとは。」という言葉に示されているように、夫人が無意識の中で殺しているのは、まだ青年にならぬ息子を持つダンカンというより、その祖父であり、父の敵である、マルコム二世なのです。歴史は権力者の手によって書き換えられるものであり、まさに「きれいはきたない、きたないはきれい」が日々の現実でした。シェークスピアは史実を知りながら、いや、知っているということをカムフラージュしながら、ジェームズ一世の前ではマクベス夫妻を徹底的にきたなく描いたのです。誰もが政治的人間にならなければ生き延びられない時代でした。
2013年8月7日水曜日
「マクベス夫人の憂愁 1」
王子の誕生に沸く英国のニュースを聞き、王権の交代についてぼんやり考えながら、私はなぜかエリザベス一世やマクベス夫人のことを思い浮かべていました。王が代わるということがどういうことか、現代の日本人である私には想像がつかないのですが、大きな不安を伴う事態であることは間違いありません。1603年3月24日、45年もの長きにわたって英国を治めたエリザベス一世が他界した時、シェークスピアはまもなく40歳という頃です。彼は52歳で亡くなっていますから、どちらかというと晩年に近いかもしれません。いずれにしても、国民の相当数がエリザベス以外の統治者を知らずに過ごしてきたのです。
さて、血縁の男子というエリザベスの遺志により、スコットランド王ジェイムズ六世がジェイムズ一世として迎えられましたが、案の定というか、国民の生活は変化を余儀なくされました。彼はピューリタンやカトリックに対する対応を誤り非国教徒を弾圧し、また王権神授説を信奉する彼は議会というものが理解できず、エリザベス一世が丹念に築き上げてきた王権と議会の関係を踏みにじる政策を行いました。軍事、外交においても、エリザベスの偉業を水泡に帰すほどの無能ぶりでしたが、ひとつだけ発揮された才能は、有名な欽定訳聖書(キング・ジェームズ・バージョン)に結実する神学ヘの造詣の深さであり、演劇の愛好にみられる文芸擁護の姿勢でした。
つまり、英国にとってはまことに暗澹たる時代の到来でしたが、シェークスピアをとりまく状況はそうとばかりはいえなかったのです。というのは、ジェームズがロンドン到着後二週間もたたぬうちに、シェークスピアとその同僚8名は「国王一座」としてとりたてられ、ペストが猖獗をきわめ劇場がほぼ1年以上も閉鎖されたというのに、10年前と違ってシェークスピアはもはや詩を貴族に捧げて庇護を請う必要はなかったのです。クリスマスシーズンのハンプトン・コートでの上演には103ポンドという多額の報酬が払われていますし、ペストで1年以上ものびのびになっていたジェームズ一世の入場式典に際しては、国王一座の座員はお仕着せ用の真紅の布を賜っています。統計によれば宮廷での上演回数は、国王一座になる前の10年間においては年平均3回でしたが、それ以後の10年間では年平均13回となっており、これはロンドンの他の劇団の上演回数の合計を上回っています。またこの劇団The King's Menは文字通り、「国王陛下の従僕」であり、スペイン大使の武官長の接待やデンマーク王歓迎の宮廷演劇など、微妙な外交行事にかかわることになります。
『マクベス』は1606年8月にデンマーク王クリスチャン四世を迎える御前公演のために書かれたというのが通説です。王室との関係が強まり経済的不安が薄らいだということばかりではなく、イニゴー・ジョーンズがもたらした種々の舞台装置が目新しいものとして人々の関心をひき、それと結びついたベン・ジョンソンの宮廷仮面劇が新分野をひらくなど、演劇を巡る状況も動いていました。このいいとも悪いともいえる時代の流れの中で、シェークスピアは『マクベス』を書いたのです。
2013年8月5日月曜日
「日本とドイツ 言葉による安全保障」
ドイツのどこの都市だったか覚えていないのですが、あまり大きくない、でも始発駅のことでした。発車時間までまだだいぶありましたが、列車に乗り込みがらがらの車内でのんびりしていた時のことです。お母さんが小さな女の子の手を引いて急いでやってきて、私の向かいの席に座らせて言いました。
「あなたはどっち?」
どっちというのは、ドイツ語話者か英語話者かという意味です。
「英語でお願いします。」
と言うと、
「この列車に乗るのだが、預けてある手荷物を取って来るまで子供を見ていてほしい。」
とのこと。こころよく引き受け、女の子に挨拶し、初級ドイツ語で年齢を尋ねると6歳と答えました。とても物静かなお嬢さんで私の会話力では間がもちませんでしたが、まもなくお母さんが大荷物とともに現れ、礼を言うと子供を連れて空いているボックスへと移って行かれました。
こんなとき日本ではどうするだろうなと考えてみました。地元のおじさん・おばさんが乗っているようなローカル線なら同じようにするかもしれませんが、スーツケースを持ったどうみても旅行中の外国人に、「子供を見ていてほしい」とは頼まないのではないでしょうか。おそらく周囲に聞こえるように、
「お母さん、すぐに荷物を取って来るからね。じっとしててね。」
と言って子供を残していくのではないでしょうか。
しかし、ドイツではそうはいかないのです。子供を一人で残すこと自体やってはならないことでしょうが、それ以上に、誰であれ言葉を交わして話をすることが不可欠なのです。っとえ相手の得体が知れなくても、黙って言葉を交わさずにいるよりはまだしも安全なのです。
このことは最近は日本でも認識されるようになってきたようです。住人同士がよく挨拶するマンションでは空き巣が入りにくいと聞きますし、花壇を増設し水やりなどを通して挨拶や会話が生まれることで犯罪発生率を大幅に減らした足立区の取り組みなどはよく知られています。DJポリスの話術が話題になっていますが、言葉ほど効力を発揮する武器はなく、相手に対する話し方次第で関係が良くも悪くもなるのは誰しも体験済みでしょう。長年の習慣で、日本では言葉を飲み込んでしまうことも多いですが、もう言葉による最低限の意思疎通は、安全保障の面から必要だなと痛感するこの頃です。
2013年8月2日金曜日
「にわか事業家」
いろいろな品物の考案に凝りだしたのは、考えること自体が楽しいからですが、もう一つ無意識的な理由があったように思います。それはいよいよ福島教会の会堂建築が始まるので、そのための献金をしたいということです。齢85の父が老体にむち打って山形まで山菜を採りに行き、教会で細々と売って(「額は問題じゃない」と常々言っています。)会堂建築献金にしているのに、私が何もしないわけにはいきません。
さて、ブロッコリーに対応できる野菜調理器具の考案です。葉物野菜(ほうれん草や小松菜など)とブロッコリーの調理方法の違いを考えるにあたって注意すべきは主に2点です。一つ目は茎の長さの違い、二つ目は水切り方法の違い(葉物野菜はしぼる、ブロッコリーは振る)です。この点に注意しながら、なべ用の調理器具を考えていましたがうまくいかず、そのうち誰もが気づくように、「ブロッコリーなら電子レンジで十分うまく調理できる」ということに思い至りました。私自身は電子レンジでの調理法に疎かったので思いつかなかったのです。しかし、この路線ならすでにシリコンスチーマーがあるので、「なあんだ」と終わりかけました。
でも、市販のものを市場調査に行ったところ、大きさや値段、形状の点で工夫の余地があることがわかり、再び考え始めました。まず気になったのはふたです。本体自体もフニャフニャなのに、さらに別にあるふたは、私のような人はすぐどこかへやってしまいそうだなと思ったのです。ふたが一体型になっているものもありますが、重たそう、洗いにくそう、高価という印象でした。そこで開発品ができました。ふたなしのシリコンスチーマーです。もう一回り大きいのができればよかったのですが、手に入る材料はこれだけですし、デザインが生きるのはこのサイズだなとも思いました。使い勝手もとてもよいと自分では思います。
こちらは今あるシリコンスチーマーの形状を変えただけなので、とても特許性はありません。でも今までなかった形状なので実用新案をとってみようと思いました。書類の書き方は特許申請とほぼ同じ、図面描きに手間取りましたがなんとかできて、再び特許庁へ行って出願しました。実用新案は特許と違い審査がないので比較的早く認められるようです。
この製品を福島教会の方々や友達、知り合いに使っていただきましたが、評判は上々でした。しかしどうやって商品化すればいいのかわからなかったので、まず教会のバザーに出品。東京で出席している教会では、会堂建築献金ということもあってずいぶん買っていただきました。このように、各地の教会のバザーで扱ってもらえるかの検討をお願いし、バザーで販売する方向が一つありますが、もう一つ思ったのが「これはネット通販にうってつけではないか」ということです。しかし、教会は収益をあげてはいけないのでこれは別に事業化することにしました。不特定多数の方々を相手にするのは多少不安もありますが、ほぼ福島教会のホームページからしか入れないようにしておけばあまり問題も起きないでしょう。
というわけで、にわか発明家転じてにわか事業者となり、事業所を立ち上げ(といっても、名前を付けて名刺を作るだけなので、これはとっても簡単でした。「光あれ」と同じで命名するだけでよいのです。)、ホームページを作ったり、郵便局に口座を新設したり、税務署に開業届を出したりと、今度はにわか個人事業者として多忙な日々となりました。商売などやったことがないので、経費の計算や確定申告などできるかどうか心配ですが、きっとなんとかなるでしょう。ささやかですが、楽しみながら(と言うのも変ですが、)会堂建築献金をささげられたらいいなと思っています。製品について興味のある方は次のサイトをご覧ください。
2013年8月1日木曜日
「にわか発明家」
今まできちんとやったことのなかった家事を、勤めをやめてから真面目に取り組んでみることにしました。その結果、かなり改善点があるなとわかりました。ちょっとした不便を安価な工夫で改善できるかを考えるのはとても楽しい作業です。百円ショップに入り浸り、無限にある商品を眺めながら、「これ使えるかも。」「もうちょっとこんな形状の物ないかなあ。」などと考えるのは、まさしく小学校時代の発明工夫展出品以来。あれは結構好きだったことを思い出しました。
野菜をたくさんとる生活で不便を感じたのは「おひたし作り」。料理慣れしている人にはなんでもないことなのでしょうが、私は一連の作業を考えただけで、「ま、今度でいいや。」と思ってしまうような面倒くさがりです。
おまけにちゃんとした料理本には、「野菜を立ててまず根の部分をゆで・・・」と書いてあります。
「野菜を立てる?どうやって?」
この時点で私はつまづいてしまいます。キッチン用品を調査したところ野菜を立てる器具は見あたりませんでした。確かに私がいつもやっていたやり方では、根の部分のゆで加減に合わせると葉の部分は溶けそうになり、葉の部分のゆで加減に合わせると根の部分はちょっと堅いという不都合は感じていました。要は野菜がきちんと立たなくても、根の部分と葉の部分に分けてゆでられればいいのです。
そこでこの目的にあった調理器具を作ってみることにしました。詳細は省きますが、この作業を進めていくうち、どんどんいろいろなアイディアが出て、「すごい大発明だ!」と思うようなものができました。
「一生に一度のことだ、特許申請をしてみよう。」
と、ここからにわかに忙しくなりました。まず、特許庁のホームページから先行発明を調べるのですが、これが本当に面白い。いずれ私の発明もそう分類されるでしょうが、爆笑ものの発明も多く、「人間って本当に突飛なことを考えるもんだなあ。」とうれしくなりました。(私見では納豆の撹拌に関するアイディアは特に圧巻ですが、これについての決定打はまだ出ていないようです。)野菜を立てる調理器具も見つかりましたが、私の目から見るといろいろ不備な点が見つかり、自分の発明の方が断然優れていると思いました。
次に出願書類「特許願」の作成に取りかかりましたが、なんというかあれは一見日本語で書かれていますが、日本語ではありませんね。国語の先生ならいくら添削してもしきれないでしょう、本当にひどい日本語です。見よう見まねで一応書きましたが、なにしろ初めてなのでちゃんと書式に則って書けているのかどうかもわかりません。しかも、一度出してしまうと不備があってボツになっても1年半後には自動的に公開されてしまうのでもう特許性はなくなります。また、そもそもまだ誰も考えていないことの独創性を認めるのが特許なのですから、「これは便利ですよ。」などとブログなどで紹介してしまったアイディアは特許とはならないそうです。
出願書類の中の明細書などは、元々弁理士にしか書けないような書類なのですから、このまま出すのは危険と判断し、弁理士のチェックを受けることにしました。返ってきたコメントを見て愕然、修正点などが書かれた文書を読んでも何のことかわかりません。私の原稿を読んだ弁理士さんもあまりのひどさに困ったことでしょう。コメントを何度も熟読して書き直しましたが、それでもわからないところは、「どんな文書でも社会通念で理解できなければ意味がないはず。」と、自分で自分を納得させ、完成させました。本当はもう一度チェックしてもらうべきなのでしょうがそんな余裕はありません。チェックだけでもかなりの高額なのです。
また出願書類の中に「図面」というのがあるのですが、これも自分で描きました。描き方のルールも詳しく決まっているようですがもう適当です。ただ何を表したものかわからないと困るので兄に見てもらい、「このことは絶対口外しないで。」と頼んだら、「そんなに暇じゃないよ。」と言われました。
申請書類ができたのでいざ霞ヶ関の特許庁へ。入るとき形の上だけのこととはいえ荷物検査があるのにびっくり。産業スパイでもいるのでしょうか、いえ、私の発明はそんなたいそうなものではございませんって。収入印紙ではなく特許印紙なるものがあるのを初めて知りました。指定された金額を貼って窓口へ。
「初めてなのですが・・・」
「構いませんよ。」
という不思議な会話の後、丁寧に話をしてくれ提出にこぎつけました。一見してわかる書き違いを指摘してくれ、その場で訂正や加筆。
「あ、この部分手書きだけどこんなんでいいんだ。」
と思いました。
「これでよいでしょう。」
とのことで、表紙をコピーしに行き、出願日の証明を押してもらい終了。うそみたい。これで私のアイディアは晴れて「特許出願中」となったのでした。まあ楽しいと言えば楽しかったな。
この後、3年以内に審査請求(これがまた高額)をすれば特許性があるかどうか長い時間をかけて審査されるそうですが、かなりの割合で特許性は認められず、1年後くらいに「拒絶理由通知書」というのが届くとのこと。しかし、それに対して異議申し立てをすると結構認められることもあるらしいのです。
このたびの発明は葉物野菜に特化したものだったのですが、ブロッコリーには対応しきれないことに気づき、そこから大きな局面が開けるアイディアへとつながるのですが、その話は次回。葉物野菜調理器具は斬新すぎる(イノベイティブではあるが一般には受け入れられにくい、ただ私個人としてはとても便利に毎回使用しています。)のと、材料が手に入らなくなったので実用化に至っていません。いくつか作った見本(自分としては完成品ですが)は、今のところ超レアものとして物好きな人に引き取ってもらうしかないなと思っています。
「紅春 31」
お腹が空けば何でも食べるのでしょうけれど、確かに毎日同じものだと、犬とはいえ飽きるのだろうなあと思います。このへんは新商品の発売をつい楽しみに試してしまう人間と同じす。それにしても、人間が5キロ3千円の米を食べているのに、りくは3キロ3千円のドッグフードを食べていることに多少疑問を感じないわけでもありません。
2013年7月29日月曜日
「富士登山」
世界遺産となってから富士山人気が沸騰しています。富士登山をする人も多く、映像で見る限り、海ではなく山でもあんな芋洗い的な状況が起こるのかと驚かされます。
「昔登っておいてよかった・・・。」
あれはもう25年以上前のことです。私が週末ごとに奥多摩の山歩きをしていた頃ですが、やはり一度くらいは日本最高峰の富士山に登っておかなければと思ったのです。夏休みに職場の同僚と3人で行くことになりましたが、一人は奥多摩山岳会のリーダーなので安心でした。前日はその方の家に泊り、奥様の手料理をいただいたりして翌朝早く出かけました。
五合目まで車で行き、山頂まで登って一泊。お米は持って行ったように思いますが、おおかたは忘却の彼方です。ただ寒かったこと、風が強くほとんど砂嵐のような状況で、帽子で隠れなかったところは髪がジャリジャリになったことは覚えています。登山そのものはそう大変なことはなく、翌朝御来光も見ることができましたが、私は一晩中頭痛でそれどころではありませんでした。下山するにつれて消えていったところを見ると、あれが高山病だったのだと思いました。慣れもあるのかもしれませんが、三千メートル級の山でもこうなのですから、もっと高い山はとても無理だなと観念しました。結論としては、「富士山は登る山ではなく、見る山である」ということに全面的に賛成です。
2013年7月24日水曜日
「思いやり過剰?」
用事を済ませた帰りに、めったに行かないスーパーに自転車で寄った時のことです。途中から霧雨のような天候だったので、駐輪する時サドルにビニールをかけるかどうか少し迷いましたが、10分ほどで済みそうだったのでそのまま店に入りました。他のスーパーの駐輪場は屋根のあるところもあるのですが、ここは全くの平置きで屋根はありませんでした。
買い物が終わって自転車に戻ると、サドルにビニール袋がかけてありました。生鮮食料品などを入れる透明のビニールです。しかも、そのあたりに置かれた自転車(30台ほどもあったでしょうか)のサドル全てに同じようにビニールがかけられていたのです。
「え~、ここまでやるのか・・・」
客へのサービスであることは確かでしょう。お尻をぬらさずに自転車に乗れるのはありがたいことです。とはいえ、ちょっと複雑な気分になり、どういう事情でこのようなサービスが行われるようになったのか考えてしまいました。「自転車置き場に屋根がない。」という客からの苦情があったのか、まったく思いやりの気持ちからなのか・・・。いずれにしても行き過ぎという気もします。このくらいは個人が自分の考えで対応しないとしかたないでしょう。それにしても驚いた。最近一番びっくりした社会現象です。
2013年7月22日月曜日
「グラーツの城山ホテル Schlossberghotel in Graz」
ハンガリーからドイツに抜ける道筋にグラーツというオーストリア第2の都市があります。一度車で通ったときにここにある立派なホテルで一休みすることにしました。正確なホテル名はわかりませんが、城山ホテルとしかいいようのない場所に建っていました。グラーツには城山があるのですが、ホテルはその斜面に城山と一体化するように建っているのです。
「あとでウィナー・メランジェいただきますよ。」
フロントでいきなりコーヒーを頼むのも変だとは思ったのですが、
「始めに少し市街散策をする予定です。」
とヘルベルトがフロントの人に話しました。
「よろしかったらそこの傘をお使いください。」
ちょっと空模様が怪しかったからでしょう、フロントの人がそう言ったので、傘を1本借り、とりあえず市街を少し歩いてからホテルに戻って、城山に登って展望することにしました。
どこから登るのかと思っていたら、ホテルのエレベーターで上れるのです。何階だったでしょうか、一番上で降りて外へ出ると、丘の中腹で、すでに美しい市街が眼前に広がっていました。あとは数段ずつの階段がところどころにつながっていて、テラス席がいくつかある本当に気持ちのよい場所でした。テラス席に座って景色を堪能していると、上ってくる人がいてヘルベルトが手を挙げて合図しました。ウェイターがコーヒーを運んできたのです。なんというタイミングでしょう。「あとでコーヒーを」とはこのことだったのです。こんなところでお茶できるとは。心地よいことこの上ない、本当に素敵な一日でした。
2013年7月19日金曜日
「働く人を応援します」
高速バスに乗るためにバス停にいた時のことです。私の前に一人女性がおり、後ろにも数名乗客が並んでいました。バスが来て、前の女性が身分証らしきものを見せながら、運転手さんに言いました。
「切符はないんですが・・・」
インターネットで切符を購入すると、自分で切符をプリントアウトしなければならないので、私も以前うっかり忘れそうになったことがあり、その事情はわかると思いました。驚いたのは次の言葉でした。
「席は9Aで・・・」
私はとっさに自分の切符を見返し言いました。
「9Aは私です。」
運転手さんの座席表にも私の名が書かれています。なにか手違いがあったようで、違う日か違う時間のバスを予約してしまった可能性が高いでしょう。
他の人が全部乗ったあとも、運転手さんと彼女はバスの外でやり取りしており、すでに15分以上遅れています。それが20分になったところで、別の乗客が「スケジュールを組んでいるので、予定通りに進めてほしい。」と話しに行きました。件の女性は予約の確認ができなかったのでしょう、結局、その場で料金を払って乗るしかありませんでした。
運転手さんは、出発が遅れたことを乗客全員に何度も詫び、とくに出発を促した乗客のところへ来て、ひざまずかんばかりに平謝りして出発となりました。それぞれの立場でもっともな主張でもあり、仕事するのは大変だなあと思いました。道路が空いていたこともあり、バスは快適に飛ばしていきました。
私はサービスエリアでの休憩のときに、
「お仕事大変ですが、頑張ってください。安全に着きさえしたら、もうすべてオッケーですから。」
と声を掛けました。遅れは少しずつ解消されていきました。終点の福島駅東口で降りる時、運転手さんから「先ほどは心強かったです。」と言われました。
働いているといろいろな問題が起きます。大抵の場合、声なき民衆が何を考えているかわからないので、声をあげた人の主張が優先されますが、民衆の大方が同じ意見とは限りません。この場合だと、皆「遅れて困るなあ。」という気持ちはあるものの、「あのお客さん、はやく納得してくれるといいなあ。運転手さん、気の毒だな。」と思っている人も多かったでしょう。でもそれは思っているだけでは伝わらず、運転手さんからすれば、全員が「早く出発しろ。」と言っているように感じられるものです。しかし、一人でも自分の立場をわかってくれている人がいれば孤立感を味わうことはありません。ですからそれはできれば伝えた方がいいと思うのです。それだけで、仕事のモチベーションが全然違うということを私は誰よりも知っているつもりです。
2013年7月17日水曜日
「悪人だけど」
フランス革命にはまっていた頃、「フーシェってすごいよね。」と口をすべらせたのが原因で、友達からしばらく口をきいてもらえなかったことがあります。なにしろフーシェです、天下堂々の悪人です。常に多数派につく男、職業的な変節漢、サン・クルーの風見・・・普通なら絶対誉めちゃいけない奴です。しかしこのタフさ加減をすごいと言わずして何と言いましょう。
王制から革命を経て共和制へ、そしてジャコバンの恐怖政治、さらに総裁政府からナポレオンの時代へと続くこの嵐のような時代を最後まで生き抜いた人間は他にいません。なぜかいつも歴史の決定権を握る場所にいて、ルイ十六世の処刑を事実上決定し、政敵ロベスピエールを土壇場に土俵ぎわで断頭台送りにしたのみならず、旧敵タレイランとも微笑みをもって手を握り警察長官に迎えられ、遠征中のナポレオンを顔色なからしめました。(ナポレオンじゃなくても、この組合せだけは避けたいよね。)その手法はなんといっても、自分に一朝事あらば国家のあらゆる機能がダウンするようにシステムを作り上げたことでしょう。
ナポレオンとルイ十八世の間で二人を手玉に取ったフーシェですが、彼の泣き所はキャリアの初期にあったのです。ルイ十六世への処刑宣告とリヨンの大虐殺、あれは(特に後者は)まずかった。一度でも人道的にやってはならないことをやってしまうと、もう平穏に暮らすことが不可能であることの好例です。どのみち、平穏に暮らすことなど無理な時代ではあったのだけれど。彼はいつもこの事実に脅かされていたし、結局リヨンの亡霊たちに殺されたも同然でした。若い人がこんな奴に惹かれることはないでしょうが、正真正銘のリアリストの人生を知っておくのも悪くないです。
2013年7月12日金曜日
「心に残る話」
ちょっといい話を見つけました。福島あたりのことではないかと思うので、原文とともに収録します。
戦前のある日のことだが、私は東京から仙台へ帰る汽車に乗っていた。その汽車では私は唯一のアメリカ人だった。汽車はひどく混んでおり、各駅停車で非常に小さな駅にも止まった。当時のすべての汽車と同様、その汽車ものろく、煙をたくさん吐いた。
ある駅で(名前を忘れてしまったのだが)、私はポット一杯の熱いお茶を買いに汽車を降りた。当時、ポット一杯のお茶の値段はわずか5銭だった。私はポケットに5銭硬貨を持っていなかったので、売り子に10銭渡した。ちょうどその時、汽車が出発するベルが鳴り出した。お茶売りはおつりの5銭を私に返そうとしていた。私は、急がねばならなかったので、その手からつり銭を取る時にそれを落としてしまった。硬貨はプラットフォームに落ち、その端までころがり汽車の下に落ちた。それを拾う時間はなかった。私は売り子に気にしないように言った。私は汽車に乗り込み、確かに金持ちではなかったが、それきりなくした5銭のことは考えなかった。
私は座ってお茶を味わった。窓の外を見ている間、私は家族のことを考えていた。また家族が私のことを待っていることも知っていた。十分ぐらい過ぎて汽車がつぎの駅に止まった時、鉄道の制服を着た人が私の車両に入ってきて、まっすぐ私に近づくと私に5銭よこした。私はとても驚いてしまい、その人が去る前に「ありがとう」と言うことさえできなかった。この小さな出来事は私の心に非常に深く印象づけられたので、私はそのことを決して忘れなかった。どんなに昔のことかおわかりでしょう。最初、私は別の駅でどうして5銭返せたのかわからなかった。それについて少し考えたあとで、私はすぐに、誰かが最初の駅から次の駅へ電話をかけ、5銭をその汽車に乗っているアメリカ人に返すように頼んだのだとわかった。私は次の駅の職員に「ありがとう」を言うことさえ思いつきもしなかったのが悔やまれてならなかった。私は幾度も再び彼に会えるようにと願ってきたがついに会えていない。
私は「なぜ鉄道の人達はわざわざ私に5銭を返してくれたのだろう」と自問した。5銭は当時としても高額の金ではない。おそらく私にお金を返してくれるのには5銭よりはるかに多くの手間暇がかかったであろう。私は、旅行者がどこか他の国でそれほど少額のお金をなくしたあとで、私が体験したのと同じくらい気持ちの良い驚くべき体験をもてる者かしらと思った。私の国でなら、公共の場で5セントなくした外国の旅行者が、なくした硬貨をあとで返してもらえないだろうことはまず確かだと思う。あれから何年もたってしまったが、私は時がたってもこの国の国民が変わっていないことを願う。
One day before the war, I was on a train returning to Sendai from Tokyo. I was the only American on the train. It was very crowded and stopped at every station, even the smallest. Like all trains in those days, it was slow, and it made lots of smoke.
At one station (I have forgotten its name) I stepped out of the train to buy a pot of hot tea. The price of a pot of tea was only five sen at that time. I didn't have a five sen piece in my pocket, and I gave the tea seller ten sen. Just then the bell began to ring for the train to start. The tea seller was just giving me a five sen piece in change; I had to hurry and so, in taking the coin from his hand, I happened to drop it. It fell to the station platform, rolled to the edge of the platform, and dropped under the train. There was no time to get it. I told the tea seller not to bother about it. I stepped in to the train and thought no more of the lost five sen, though I was certainly not rich.
I sat down and enjoyed my tea. While looking out of the window, I thought about my family, and I knew they were waiting for me. When the train stopped at the next station about ten minutes or so later, a man in a railroad uniform entered my car, walked straight up to me, and gave me five sen. I was too surprised even to say “Thank you" to him before he left me.
This little incident impressed me so deeply that I've never forgotten it. You know how long ago that was. At first I couldn't understand how it was possible to return the five sen to me at another station. After thinking about it a little, I soon saw that someone called by telephone from the first station to the second and asked that a five sen piece should be returned to the American on the train. I felt very sorry that I didn't even think of saying“Thank you" to the man at the second station. I have wished many times that I could meet him again, but I never have.
I asked myself, "Why did the railroad people go to the trouble of returning the five sen to me?" Five sen wasn't a lot of money, even in those days. It probably took much more than five sen in time and trouble to get the money back to me. I wondered if a traveler in some other country could have an experience as pleasant as mine after losing so small sum of money. I felt pretty sure that the foreign traveler in my own country who lost five cents in a public place would not get the lost coin back to him later. Many years have passed, but I hope that time has not changed the people of this country.
2013年7月10日水曜日
「紅春 30」
近所に外で飼われている犬がいるのですが(昔はあたりまえのことでした。)、そちらの方はあまり通らないようにしています。なんだか可哀想なのです。1年中北側のあまり陽の当たらない場所につながれていて(もちろん散歩はしています。)、その前をこれ見よがしにりくが通ったりすると、険しい顔で歯をむいたりすることがあります。無理もないよなあと思います。この上、りくが内犬で家じゅう自由に歩き回れて寒い冬にはストーブの前でぬくぬくしているなどと知ったらどうなってしまうのでしょうか。
普段通るルートはだいたい決まっていますが、時々りくが「今日はこっちに行きたい。」と主張することがあります。行けるときはつきあいます。また猛吹雪でとても土手は歩けない時でもりくは行こうとするので、「今日は無理」と言って民家の方のルートに変えます。
犬なら本性で散歩は自然とできるのかと思っていたのですが、そうではありません。最初は外に連れていっても散歩になりませんでした。どっちに行っていいかわからず、右往左往、ちょっと進んだかと思うとまた逆方向に行こうとし・・・ああ、そんな時期もありました。今は毎日寄る場所もあってなにかりくなりにチェックすることがあるらしく、自信をもって自分のペースで散歩しています。立派な犬になりました。
「大型家電」
あれは去年の10月頃だったでしょうか、その日はお仕事会に行く日だったのですが、朝どういうわけか、冷蔵庫の裏を掃除しなければならないような気がして、奥まった場所から引き出したところ火花が散りました。なぜかコードの一部がむき出しになっていたためで、仰天してすぐ電源を抜きました。気づいてよかった、知らずにいたら火事になっていたかも。呆然としながらも神のご加護に感謝し、中の食材で冷蔵が必要なものだけ発泡スチロールの箱に保冷剤とともに詰め込み、とにかく出かけました。
帰ってきてまずしたのは、食材全部を使っての料理。無駄にしたらもったいない。この時点ですでに夜8時。それからおもむろに家電量販店でもらってきたパンフレットに目を通しました。それまで使っていた冷蔵庫は18年前のもので(中東の或る国で「家電は日本製に限る。20年は壊れない。」と言われていたのは本当だったのです。この冷蔵庫にしたって本体には問題がないのですから。)、当時の省エネ大賞受賞の製品でしたが今のレベルとは違うだろうと、買い替えることにしました。
「今から買って20年もつとすると、冷蔵庫を買うのもひょっとしたらこれが最後かも。」
と妙な感慨にふけりながら、パンフレットを見ると、めったに買わないものだけに進化の度合いがすごい。思わず「おおっ」という感じで、大型の白もの家電を選ぶことくらいわくわくするものはありません。「ナノイー搭載」で、「まんなか野菜室」で、「きれちゃう瞬冷凍」があり、「どっちもドア」の冷蔵庫があれば一人勝ちなのでしょうが、各社各様に独自色を出してがんばっているなと感心しました。パンフレットを熟読するのにかなり時間がかかりましたが、台所に入る幅が決まっているので候補を選ぶのは意外に簡単でした。それでも各社から1つずつ購入候補を選び終わった時には、もう真夜中を過ぎていました。こんな時間まで物事に集中したのはいつ以来でしょう。翌日いざ家電量販店へ。
「きれちゃう瞬冷凍」は新しい機能で魅力を感じましたが、問題は在庫でした。取り寄せになるので10日「かかるとのこと。10日間冷蔵庫なしで過ごせるかと自問し、過ごせないと結論し、別の選択肢へ。そもそも冷蔵庫などは突然壊れるものなのであって、10日も余裕がある場合など少ないのではないでしょうか。台所とリビングの部屋の作りからいって、「どっちもドア」は便利そう、これは翌日配送可。他の機能を見てみると、「プラズマクラスターで除菌と脱臭」「冷蔵室内のミスト冷却」「シャキッと野菜室」などよくできた製品で、節電機能も他社と遜色がありません。これがこの時点での最適な答えだろうと判断し購入しました。
結果としてすべてに大満足でした。驚いたのは冷蔵庫自体の大きさは前とあまり変わらないのに、今まであった中身を収納していくと前のよりかなり大容量だったことです。昔のはいろんな出っ張りとかじゃまな部分があり収まりが悪かったのですが、現在のはすっきりとたくさん入り、特に扉部分の飲み物・調味料部分の収納勝手がすばらしくよいので、うれしくなりました。要するに18年間に冷蔵庫の基本的水準が大幅に上がったということで、メーカーの努力には敬意を表したいと思います。
2013年7月8日月曜日
「自画像」
中高生の頃、私は「ど」が付くくらい真面目な生徒でした。中学では特におとなしくて目立たなかったけれども、なんとか華やかな女子のグループの末席に連なり、楽しく過ごすことができました。先日、中学卒業の時に作った分厚い文集をパラパラめくっていたら、クラスメートの1人が一人一人の得意分野や目立った特徴、その頃夢中になっていたものなどをうまくとらえて、全員の未来予想を書いているのが見つかりました。K君―数学教師「関数・放物線」専攻、T君―警視庁「麻薬取締り係」、Kさん―2代目キャンディーズ、Kさん―とんぼ鉛筆K.K.社長、Sさん―M.ポルナレフファンクラブ会長、Nさん―笑い袋製作隊長などなど、「ああ、そんなことに夢中になってたなあ」と微笑ましく思い出しました。
ところが私の将来は的外れなのです。「漫画家(本人も希望)」とあり、「まさかね、なんだろうこれ、意外性の受け狙い?」と思いました。もう一人のクラスメートのページには「3年3組いろはがるた」が載っていて、一人一人の特徴をとらえて詠み込んでありました。その中で私は「た」で始まるところに、「たちよみ得意はかわべのさん」と詠まれ、ご丁寧に注までついていました。「かわべのさんは西沢と岩瀬(市内の二大書店)をあらしている。『ドカベン』の一巻から十数巻までたちよみで読んだ。」 いや、これはあり得ない。確かに『ドカベン』は読んだが、そんなに入れ込んだ記憶はないし、十数巻も立ち読みをするはずがない。
しかし、次第に私の心に不穏な影が差してきました。不安に駆られ自分のページをめくってみると、驚くなかれその半分が漫画の模写で埋め尽くされていました。天を仰いで嘆息するほかありません。イラストならともかく、自分はこういう文集に漫画を描く人間ではないと固く信じていましたし、こういうものに漫画を描くような人を軽蔑してきたのです。あの頃、少しはおバカなことしてたよなあと思ってはいたものの、これほどの大馬鹿だったとは。もう取り返しがつかない。恥ずかしくてのた打ち回り、全員の文集を回収して燃やしたくなりました。どんなに普段真面目でも、後世に残るのは文字になったもの、あるいは書かれたものだけなのです。
この日、最も驚いたのは奥付というか編集後記を見た時でした。自分が編集委員に名を連ねていたのです。しかも編集後記の名前の配置からすると、どうも私は学級委員副委員長を務めていたようなのです。文集作成という実務(この文集は全くの手作りです。)をした記憶も、その当時学級委員をしていた記憶もありません。身を入れてやった仕事なら必ず覚えているはずです。ですから、みんなでわいわい印刷なんかをしているところに一緒にいただけという可能性が高いのです。「書かれたものとして残っている私」と「当時の記憶の中の私」は別人です。それはもう書かれたものが絶対です。人はこれほどまでにセルフイメージを美化してしまうものなのでしょうか。恐ろしいことです。
2013年7月5日金曜日
「国産農産物」
口に入れる物の安全性にはつい気を遣います。福島の農産物は放射線量の基準をクリアしないと市場に出ないのでこれはこれで安心です。近所の直売所でも、参加している全農家の全販売品目を定期的に調べているので、私は安心して買っています。
むしろ県外の農産物の安全性に確信がもてないことがあります。近県の農産物はどうなのか、いや、それ以前に産地表示が信頼できるのかという問題です。例えば四国産・九州産の農産物でも、そこで作られているとは限りません。調べたわけではありませんが、たとえば中国から輸入される大量の農産物は、高松港なり高知港に入ったあと、ちょっとした「加工」(茄子のへたを一部とるとか)が施されればその土地の作物として流通するはずです。食品に関しての見解は幻想の部分も大きいと自覚していますが、だからこそ困ったことに食欲というのは理屈ではない、大気と水に不安がある場所で作られた食品を食べることができないのです。
また、料理用のワインを購入しようとしてわかったのは、日本には他の国にあるようなワインを定義する法がなく、任意団体ワイナリー協会の自主基準があるのみということでした。ですから、日本で国産ワインというのは「原料が日本産、外国産に関わらず、日本で製造・販売される一部または全部がぶどうで作られた果汁」らしいのです。つまり、輸入濃縮果汁に砂糖を加え発酵させても国産ワインとして流通するのです。これなら、きちんとしたワイン法のある国で作られた輸入ワインの方が安心です。
ましてや食肉となれば、一般人にははかり知ることのできない深い闇がありそうです。これに手をつけたらおそらく食べるものがなくなるという予感がするのでやめておきましょう。毎日の生活を続けていくにはほどほども大事です。
2013年7月3日水曜日
「ボルツナーさんの猫」
ヘルベルトが住んでいた家はフランクフルトの住宅街の3階にありました。1・2階は大家のボルツナーさん Frau Bolznerが住んでおり、当時もう90歳というご高齢でした。ドイツに行くたびご挨拶すると、いつも手を握って歓迎してくれました。3階の窓からは広くて美しく手入れされた緑のお庭が見え、結婚して近くに住んでいる娘さん(といっても当時60歳を過ぎておられました)が庭仕事をしたり、お庭を通って母親の自宅へやってくる姿が見えると手を振ったりしました。彼女は毎日母親のところにみえましたし、昼間はポーランド人の若い娘がボルツナーさんの介護に雇われて、身の回りのお世話をしていました。
ボルツナーさんはこれまた高齢の猫を飼っていました。名前はあるのでしょうが、みなモッペル Moppel (太っちょさん)と呼んでいました。加齢と運動不足でかなり大きく重たそうな猫で、家具の上やお庭でうずくまっている姿がよく見られました。もう少しでお腹が床につくくらいの様子でした。なにしろ十歳をゆうに超える年齢で、みな案じてもいました。ヘルベルトはモッペルを外で見かけると、「やあ、モッペル、また脚が縮んだんじゃないかい。」などと声を掛けていました。「『また太ったんじゃないかい。』って言うよりいいかと思って。」と言っていましたが、どうなんでしょう。
あまり愛想のある猫ではありませんでしたが、時おり言葉の端にのぼるほどかわいがられており、なんとなく心にかかる猫でした。何年かして、ボルツナーさんが亡くなったという知らせを受け、私はお悔みをお送りしました。モッペルが亡くなったという知らせが来たのはそれからしばらく後でした。
2013年7月1日月曜日
「マンション点検日」
よそのお宅にお邪魔すると、皆さんきれいに住まわれていてすごいなと思います。年に一度の配水管清掃と火災報知器点検の日は私にとって憂鬱な日です。業者とはいえ人様が来るのですからそのままというわけにはいきません。何日か前から掃除・片づけをしていくのですが、その時点ですでに気分が沈んでいきます。普段が普段なので一挙にとはいかず、場所を限定して毎日ちょっとずつ掃除・片付けをし、当日に備えます。
当日は、ベランダの非常ベルの点検があることを思い出し、窓のシェード(室内にある鉢植えの日よけです。)をはずしたり、絨毯部屋の家具の脚の下まで掃除機をかけたり(フィルターの取り替えが必要なほど埃を吸い込みました。)、流しの周りのものを作業の邪魔にならぬように離れた場所に移したり、半端な時間では済みません。年末の大掃除より大変な日なのです。
客人の場合は一室だけきれいにすればいいのでまだ楽なのですが、点検日の場合、火災報知器は各部屋にあるので、片づかないものを一室に押し込むという通常の安易な解決法を採れないのがつらいところです。しかし、この日がなければ年に一度も掃除されない場所があることも確か。ものは考えよう、この日を我が家の大掃除の日として、きれいになったことをよしとしよう。
2013年6月28日金曜日
「改憲論議」
改憲についての議論がかまびすしくなってきました。焦点の一つはもちろん9条で、時代にそぐわなくなっているという理由で、自衛権について何らかの改定をしようというものです。その前に改憲の発議要件を変えようとするのは問題外ですが、この改定に私が全く乗れないのは、中身に入る以前に日本と欧米では法に対する意識が違うためです。日本では法に依らない方法で実効性を高めるという手段が一般的にとられており、国民の合意のない案件を無理やり法制化した場合は、その法を盾にほとんど異常なほど苛烈で行き過ぎた実施がなされてきたことをいやというほど見てきたからです。
年に二回、日の丸・君が代問題に直面させられずに済むようになって、今さらながらそれがどんなにストレスだったかわかります。誤解のないように申し添えますと、私は、もし外国に住んでいるなら、機会あるごとに日本の良さを吹聴し、事あるごとに日の丸を振ってしまうような祖国愛に満ちた人間です。でも、敬意を払わねば処分するぞと言われているその対象に、敬意を持てる人がいたらお目にかかりたいと思います。
憲法9条と自衛隊は確かに矛盾をはらんでいますが、だからこそ何はともあれ、まもなく70年にもなろうとする平和が保たれてきたのです。日本はそういう仕方がうまく機能する国なのです。ですから、変な言い方ですが、決して欧米並みに法整備をしようとしてはならない、そんなことをしたら大変なことになると断言してよいでしょう。国防軍を認め、やむを得ない場合は使ってもよいことになれば、必ず過度に使用する方向へ振れるというのが、これまでの来し方から予想される事態です。国の思考様式や行動のスタイルというものはそうそう変わるものではありません。それを思うと私は改憲論議にはまったく乗れずげっそりしてしまうのです。
2013年6月26日水曜日
「紅春 29」
いい季節の散歩は本当に楽しいものですが、冬は大変です。特に雪道はただ歩くのも芸がないので時々買い物と組み合わせて遠出します。1キロくらい離れたコンビニによく行くのですが、りくにとって遠出の時は目新しい物が満載なのでうれしそうです。絶対必要なのはトイレ用品、道のりが長いので必ずします。
コンビニの駐車場の端の危なくないところにりくをつなぎ、
「すぐ戻るからね。いい子にして待っててね。」
と言い聞かせ、店に入ります。りくはおとなしく私を見送ります。買う物は決めてあるので時間はかかりません。店内から出てくる私の姿を見つけると、途端にりくは吠え始めます。私が駆け寄ると、全身で喜びを表現しまとわりついてきます。たぶん3分くらいしかたっていないのに、1ヶ月ぶりの再会かと錯覚するほどです。知らない人が見たら、動物虐待と思われないか心配になります。
2013年6月24日月曜日
「都会の快適生活」
移動の手段がバスにシフトしてから本当に楽になったと感じています。たまたま家の真ん前にバス停があり、しかも数分おきに走っているので、いつでも乗れる感覚です。帰省するため高速バスに乗るときも、これまたその乗り場の真ん前に止まるバスに直通で行けるのです。ほとんどタクシーを使っているのと同じ利便性を得ることができ、殊に持ち帰る荷物の運搬を考えた時、これを電車でやろうとするともうめまいを感じるほどです。
高速バスの乗り場のすぐそばにはファミレスがあるので、いつも1時間ほど早めに着き朝食をいただいています。7時から開いており結構人がいます。出勤前の仕事人が1日のスケジュールを立てていたり、退職後と思われる初老の人が新聞や本を読んでいたり、時には高校生が朝食をとっていることもあります。デフレもここまで来たかという値段設定のモーニングメニューをいただきながらバスの時間になるまでゆったりした時間を過ごせるのはありがたいことです。冬は特にここがなければ難しいでしょう。
原発事故後郡山に仮役場を移し2012年4月に帰村宣言をして役場を戻した川内村が、故郷の今後を考える機会を持った時、故郷に戻れない理由として放射能や雇用の問題もさることながら、都会の便利な暮らしを知ってしまったことがあげられていました。「都会の」と言っても郡山のことで東京ではなく、「便利な」と言っても「買い物が近くでできる」(帰村すれば隣接する市まで車で30分かけて行かなければ食料品も日用品も手に入らない)、「病院や高校が近くにある」(村には診療所が一か所しかなく、高校はない)といったごく当然のささやかな希望であり、故郷に帰らないという選択は確かに悲しいことではありますがそのことをいったい誰が責められるでしょうか。お年寄りに限らず、若い方や子育てが待ったなしの状況にある方にとっても無理もないことだと思ってしまうのでした。
2013年6月21日金曜日
「日本とドイツ 混雑と行列」
行列は日本人の本性なのでしょうか。人気のお店やイベントなどよくよく行列が好きなようです。村社会では流行を無視できないのか、他人の欲望するものこそが自分の欲望の対象なのでしょう。
初来日したときに、一度ヘルベルトを東京ディズニーランドへ連れていったことがありました。比較的空いている日で、10くらいのアトラクションを楽しめてよかったなと思っていたら、あとで「あんなに長い列に並んだのは人生で初めての経験だった。」と言われ、つくづく違う文化の人なのだと思いました。
ドイツでは、州ごとに数日ずつずらした夏休みのスケジュールが数年先まで組まれています。最初の州と最後の州では夏休みの始まりが一ヶ月以上もずれますが、それは一斉に夏休みになるとアウトバーンが車で渋滞するからだと知った時は、その思考の柔軟さに目が覚める思いでした。日本の高速道路と一つ大きく違うのは、土日はパーキングエリアに駐車中のトラックが目立つことで、それは特殊な許可を受けていない大型車両のアウトバーン走行が週末は禁じられているからです。週末のアウトバーンは旅行や行楽等の自家用車のためのものであり、それほどまでに混雑を嫌い避けようとするのです。そして、日曜の夜10時を期して待ちかねたように、また大型車両のエレファントレースが始まります。
夏休みの取り方にしても、高速道路の利用規則にしても、「おっ、これは合理的。日本でもやってみよう。」とはならないでしょう。とにかくみんなで一緒にやるのが好きな国ですから。渋滞も行列もこれはもう日本の風物詩。賑やかで活気があっていいではありませんか。私は苦手なので家でじっとしてますけど。
2013年6月19日水曜日
「刺繍生活 続く」
長らく取り組んできた刺繍がようやく峠を越し、最後に模様全体を囲む外枠を刺せばおしまいです。本当はレース編みを周囲に施すのですが、それは先生がやってくださるとのことでいよいよあと少し。
先が見えたことと単純な作業だったことですっかり気が緩んでいましたが、半分以上進んだところで左と右の端からの目数が合わないことに気づきました。間違えたなと思い見直しましたが刺し方に間違いはなく、目数を計算してみると理論上2目足りません。つまり編み図自体に誤りがあり、外枠全体を1目右にずらさないと模様を中央に入れることができないとわかりました。
先生に相談すると、相当進んでしまっていたためでしょう、
「そのままでいいわよ。」
というお答えでした。先生のお言葉とはいえそれはありえない、模様が中央に来ないなんて!
「いえ、これだけはやり直しさせてください。」
とお願いし、外枠の刺し直しをしました。色合いが微妙に違っていた糸をなんとか同じ色に統一できたこともあり、許せる範囲におさまってほっとしました。
出来上がったものを眺めるとなかなかよい、始めた時は「とても無理、できない。」と思っだけにうれしくなりました。やはり工夫と慣れで困難な問題もかなり解決できるのだなあと再認識しました。最初は災難以外の何ものでもないと思っていたのに、勉強にもなり自信にもなりました。
先生に提出し
「終わった~。」
と思ったら、
先生は点検されておっしゃいました。
「レース編みもやってみる?」
ぎょえーと思いつつ口を出た答えは、
「はい、せっかくだからやってみます。」
刺繍生活はまだまだ続きます。
2013年6月17日月曜日
「歴史を知ることの難しさ」
「八重の桜」をほぼ毎週視聴していますが、はっきり言って見ていて面白いものではありません。会津ゆかりの者の義務として見ないわけにはいかないのです。中立的な立場で見られるなら、有事の際の身の処し方などを学べるドラマなのかもしれませんが、そうでない場合、見ていると薩長はもちろん、ご都合主義の権化とも言うべき将軍慶喜、様々な画策をする公家の腹黒い方々に対する悪感情が湧いてくるのは避けられません。(もちろん、薩長はじめ皆様方にそれぞれの言い分がありましょう。) 松平容保は名君なのでしょうが、時代の流れに翻弄され自らの決断を踏みにじられておよよと涙する場面が多く、見ているとやりきれなさにぐったりします。日本が国民国家となって百数十年経った今でさえ、身近に歴史を知ればこうなのです。柴五郎の手記など読めばなおさらです。
歴史を知るとはこういうことかと思います。シンガポールに建てられた、第二次世界大戦中の日本軍による虐殺の鎮魂碑に、 Forgive, but Never Forget. (許そう、しかし忘れまい。) と刻まれていると言います。分別に富んだ言葉ですが、実際に実践するのはとても難しいのではないかと感じます。一度あったことは、何倍にも増幅し表現されて当たり前ですし、同胞に起こったことだという意識が強ければ強いほど、人間的心情として「許すまじ」という気持ちが募ってくるのが自然です。それを政治的に利用しようとする意図を持った人がいれば、もうお手上げではないかと思います。
2013年6月14日金曜日
「ベジブロス」
「船頭多くして船山に登る」の英語版、Too many cooks spoil the broth. (だったかしら)を知った時、ブロスってどんなスープなんだろうと思いましたが、要するにだし汁のことですね。最近とみに話題になるので一応試しています。今まで捨てていたものの再活用ですし、健康にいいと言うのでやらない手はありません。うろ覚えですが、これを取り入れた給食を出すようになってから、園児の欠席日数の平均が5日から1日に減ったという保育園があると言います。
作り方はいたって簡単。野菜の下ごしらえで出る野菜屑、人参の皮やヘタ、ブロッコリーの芯とか何でもよい(玉ねぎの茶色い皮やかぼちゃの種など「こんなものまで?」と思うようなものも全部)、普段から集めて冷蔵庫に保存し、両手いっぱいほど貯まったら1リットルの水に小さじ1の酒を入れて煮出すだけ。沸騰させたら弱火で20~30分煮る、私の場合はシャトルシェフに入れておく、これでおしまい。
紅茶色のいかにも強そうな液体が出来上がります。味噌汁やシチューに入れたり、煮物のだしにしたり何にでも使えるようです。野菜の匂いが強いだしなので少しずつ使うのがポイントかも。続けてみると、プラシーボ効果かもしれないけどなんだか元気がでてきたような・・・
2013年6月12日水曜日
「紅春 28」
この時期は、表面の剛毛から綿毛が飛び出ているなと思い、つまんでみるとごそっと驚くほど抜けます。首のあたりなどは下毛がだぶついたようになっているのでブラシを当ててやると、気持ちよさそうにしています。どんどん取れるのでちょっと心配になるほどで、いつまでやってもきりがありません。
「りく、ずいぶんやせたね。」
と言って、適当に終わりにします。父は風の強い日に土手の上でブラッシングをするそうです。
抜け毛の季節に特に大変なのはお風呂はです。風呂場の排水口は抜け毛の山、また風呂からあがった後にりくが歩いたところには毛が落ちています。
「りく、毛を落とすな。」
と父が言うのですが、それは無理というもの。りくが悪いわけではないのです。家中掃除機をかけてやっとお風呂が一段落、ふぅー。
秋にも毛の抜け替えがありますが春ほどではありません。抜け毛と言うとドキッとしますが、自然の摂理なので「りくの抜け毛は心配なし」っと。
2013年6月10日月曜日
「フーズム Husum 」
初めてドイツを訪れた時、思い立ってハンブルクからさらに北に列車で片道2時間かかるフーズムまで、日帰り旅行をしました。8月でしたが、北海に臨む北の町は、「灰色」とは言わぬまでも、真夏でもどこか寂しい雰囲気が漂っているのでした。港にはなぜか、「5月が来た Der Mai ist gekommen」のメロディが流れていました。往復の時間を考えると、滞在時間はわずかです。
フーズムを訪れたのはそこがシュトルム Theodor Storm の生地だからです(かつてはデンマーク領)。法律家として職に就きながら、かなわなかった未来への諦念や過去の幸福な記憶の中に静かに生きる人々を描いたこの作家が、どのようなところで生まれ育ったのかを見たかったのです。
おそらく『みずうみ(Immensee)』のモデルとなった原風景はどこかにあったのでしょうが、それにたどりつくことはできませんでした。彼が住んだ家はシュトルム記念館になっており、書斎の様子などを見ることができました。近くには彼の名をとった、その名もシュトルム・カフェ STORM・CAFE と彼の生家がありました。
「あなたのおうちにもよろしく言って。世界中であんな懐かしい家は二度と見つからないわ。」
『人形使いのポーレ (Pole Poppenspäler)』の中で、旅芸人の子リーザイがひとときを過ごした菩提樹とその下のベンチは・・・ ありました。もう二十年以上も前のことです。
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