犬の嗅覚は大変すぐれたものですが、嗅覚は動物にとって五感の中で最も原初的なものではないでしょうか。見間違い、聞き違いということはありますが、嗅ぎ違いというものはありません。りくに何か新しい食べ物を与えると、ちょっと匂いを嗅いでどうするか判断します。食べるか、食べないかは一瞬で決します。嗅覚は味覚に先だって絶対的なものです。人間の五感の中で嗅覚は軽んじられている感がありますが、風邪で鼻が利かないと味も感じません。やはり嗅覚が先に働いて味覚が生きるのです。
匂いは出来事の想起においてもその鮮烈性がきわだっています。春先の陽光の匂いを嗅げば、一瞬にして、日向ぼっこしていた子供の頃のゆっくりした幸福な時間に引き戻されますし、むんむんするような草いきれは夏の午後のじりじりする暑さを、たき火の匂いは凛と張りつめた空気となんとなくわくわくする楽しみを瞬時に思い出させてくれます。「昔こんなことがあった。」とタイムスリップする匂いが最近はめったにないのが少し残念です。それにしても、あのひたすらゆったりと流れていた時間はいったいどこへ行ってしまったのでしょう。