2013年12月2日月曜日
「クリスマスとサンタクロース」
20世紀最高の知性と言われるレヴィ=ストロースの著作に、『火あぶりにされたサンタ―クロース』という小論があります。1951年にフランスのディジョンで、サンタクロースの高まる人気に業を煮やした教会が広場でサンタクロースの人形を燃やした事件を扱ったものです。このことによって、人間の中にあるサンタクロースなるもの(その本質は贈与)の永遠性が人類の記憶に刻まれたと言ってよいでしょう。
以前長崎を訪れた時、案内してくれた人がカトリック教徒で、今度長崎くんちの担ぎ手となるというので、それがよいかどうか神父さんに聞いたという話をしてくれました。神父さんの答えは「差支えない」ということで安心したと言っていました。土地柄、この祭りに加われないということは市民としての資格を問われかねないものであり、この長崎のクリスチャンにとっては切実な問題なのだろうと推察されました。
普通に考えれば、キリスト教の信仰と神社の神輿担ぎとは両立しないでしょうし、その時私も「それはどうなのかなあ。」と思ったのですが、信仰と異教の祭りに携わることの良し悪しに引き裂かれていることそれ自体、そして「差支えない」と答えた神父の答えにこそ、深い人類学的知見があるのだという気がします。もちろん、「神輿を担いではならない」と言ってもよかったのですが、それはサンタクロースを火刑にするのと同じことになったでしょう。
キリスト教はヨーロッパ文明に深く根をおろしていますが、ヨーロッパ人皆が日本のキリスト者ほど突き詰めて信仰しているとは言えないでしょう。ドイツでは所属する教会籍により自動的に10分の1税を象徴する献金が徴収されており、ずいぶん前にシュティフィー・グラフが教会籍を離脱したのはそのためです。今ではもはや教会堂を維持しきれず、会議場や展示施設として利用されている建物もあります。ヨーロッパでは教会は社会制度の一部です。古い制度が信仰の深さと一致するわけではありません。社会の中でそれぞれのシステムや風土に浸かりながら、それでも、ヨーロッパであれ、日本であれ、キリストへの信仰がしぶといのは聖書にある通りです。
「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。 (口語訳 ヨハネ12-19)