2013年8月12日月曜日

「マクベス夫人の憂愁 3」


 『マクベス』の中でマクベス夫人は血も涙もない非常な人物です。彼女自身が「私を女でなくしておくれ。」と言っているように、ことごとく女性らしさを奪われ、男以上のものになっていますが、ダンカン殺しが正統な王位奪回であるなら、彼女は完璧な働きをしたことになります。政治に情けは無用であり、冷静沈着な判断と時機を得た演技が必要なのです。マクベス夫人は男でも瞬く間に消耗する激務の連続である国政を、45年にわたって過たずつかさどってきたエリザベス女王を彷彿とさせます。王位という巨人の衣服を着せられたイメージで語られるマクベスとは違うのです。マクベスは「男にふさわしいことならなんでもやる」と言います。マクベス夫人とて同様ですが、ただ一つ、彼女にできないことがあるとしたら、それは女にしかできぬこと、すなわち後継ぎを残すことだったのです。

 戴冠後の祝宴の場でマクベスとマクベス夫人は対照的な姿を見せます。王妃の座についたままで貫録十分のマクベス夫人に対し、マクベスは主人役であれこれ気を遣いながらも、宴を抜けてバンクォー暗殺の報告を聞いたあげく、その亡霊に席を取られて取り乱します。ところが、ここでマクベスを叱り飛ばし座を取り繕ったマクベス夫人を、次に我々が目にする時、彼女はすでに夢遊病者となっているのです。この部分はシェークスピアの全くの創作です。この変わりようについていけず、マクベス夫人における性格の一貫性や抑圧された罪の意識について論じ始めることはナンセンスでしょう。

 この描写が表すのはもっと単純なことなのです。この芝居に限らず、シェークスピアにおいてそれまでと矛盾する変化やおかしな違和感を感じる時、そこには相当な年月の流れが示されているというのが、私が得た読み方の法則です。当時の観客なら、ここで17年という歳月の流れを苦も無く読み取ったことでしょう。マクベス自身も言っているではありませんか。「長いこと生きてきたものだ。俺の人生は黄ばんだ枯葉同然になってしまった。それなのに、老年につきものの名誉、敬愛、服従、良き友人など俺には期待できそうもない。」
月日が流れて二人は老年に達したが、世継ぎが得られなかったという結末なのです。しかし、世継ぎを得るということは王権にとって何にもまして重要なことです。王妃以外の何者でもないマクベス夫人が、王位を継承する子供がいないことで精神を病んだのはむしろ当然のことでしょう。いやそれどころか、彼女は予言の後半部分、「バンクォーの子孫が王位を継ぐ」ことになることさえ聞いていたことでしょう。個人名を持たない彼女は、王権と離れたところに存在し得ず、もう生きるべき未来がないのです。戸棚をあけて紙に何かを書き記し、読み直して封印するというのは、何か密書でも作成する行為なのでしょうが、さらに王権奪還の殺人を眠りながら繰り返すというのは、凄まじいまでの執着といわねばなりません。手からいまわしい血の臭いが消えないと彼女は叫びますが、それが王権につきものであることを誰より知っているのです。