2013年8月7日水曜日

「マクベス夫人の憂愁 1」


 王子の誕生に沸く英国のニュースを聞き、王権の交代についてぼんやり考えながら、私はなぜかエリザベス一世やマクベス夫人のことを思い浮かべていました。王が代わるということがどういうことか、現代の日本人である私には想像がつかないのですが、大きな不安を伴う事態であることは間違いありません。1603年3月24日、45年もの長きにわたって英国を治めたエリザベス一世が他界した時、シェークスピアはまもなく40歳という頃です。彼は52歳で亡くなっていますから、どちらかというと晩年に近いかもしれません。いずれにしても、国民の相当数がエリザベス以外の統治者を知らずに過ごしてきたのです。

 さて、血縁の男子というエリザベスの遺志により、スコットランド王ジェイムズ六世がジェイムズ一世として迎えられましたが、案の定というか、国民の生活は変化を余儀なくされました。彼はピューリタンやカトリックに対する対応を誤り非国教徒を弾圧し、また王権神授説を信奉する彼は議会というものが理解できず、エリザベス一世が丹念に築き上げてきた王権と議会の関係を踏みにじる政策を行いました。軍事、外交においても、エリザベスの偉業を水泡に帰すほどの無能ぶりでしたが、ひとつだけ発揮された才能は、有名な欽定訳聖書(キング・ジェームズ・バージョン)に結実する神学ヘの造詣の深さであり、演劇の愛好にみられる文芸擁護の姿勢でした。

 つまり、英国にとってはまことに暗澹たる時代の到来でしたが、シェークスピアをとりまく状況はそうとばかりはいえなかったのです。というのは、ジェームズがロンドン到着後二週間もたたぬうちに、シェークスピアとその同僚8名は「国王一座」としてとりたてられ、ペストが猖獗をきわめ劇場がほぼ1年以上も閉鎖されたというのに、10年前と違ってシェークスピアはもはや詩を貴族に捧げて庇護を請う必要はなかったのです。クリスマスシーズンのハンプトン・コートでの上演には103ポンドという多額の報酬が払われていますし、ペストで1年以上ものびのびになっていたジェームズ一世の入場式典に際しては、国王一座の座員はお仕着せ用の真紅の布を賜っています。統計によれば宮廷での上演回数は、国王一座になる前の10年間においては年平均3回でしたが、それ以後の10年間では年平均13回となっており、これはロンドンの他の劇団の上演回数の合計を上回っています。またこの劇団The King's Menは文字通り、「国王陛下の従僕」であり、スペイン大使の武官長の接待やデンマーク王歓迎の宮廷演劇など、微妙な外交行事にかかわることになります。

 『マクベス』は1606年8月にデンマーク王クリスチャン四世を迎える御前公演のために書かれたというのが通説です。王室との関係が強まり経済的不安が薄らいだということばかりではなく、イニゴー・ジョーンズがもたらした種々の舞台装置が目新しいものとして人々の関心をひき、それと結びついたベン・ジョンソンの宮廷仮面劇が新分野をひらくなど、演劇を巡る状況も動いていました。このいいとも悪いともいえる時代の流れの中で、シェークスピアは『マクベス』を書いたのです。