2013年8月9日金曜日

「マクベス夫人の憂愁 2」


  『マクベス』は大変テンポのはやい凝縮した芝居です。御前公演用に書かれた戯曲であるにしても『ハムレット』の半分あまりというのはいかにも短い。が、ここにはホリンシェッドの『年代記』において10年の善政と7年の悪政からなるマクベスの治世が凝縮されているのです。

 この芝居はバンクォーの子孫と伝えられているジェームズ一世の前で演じられたのですから、その点では細心の注意が払われています。義弟のデンマーク王を迎えての余興用ということでは、ノルウェー王指揮下のデンマーク軍によるスコットランド侵攻をノルウェー王とその軍隊と書き換えており、また『年代記』においては、バンクォーもダンカン殺しの陰謀の相談に与っているのですが、『マクベス』ではもっぱらその役目はマクベス夫人にゆだねられることになります。しかも、史実としてはマクベスはダンカンを暗殺ではなく、戦場で堂々と打ち破って王となったのです。

 それにしても、なぜマクベス夫人はこれほどまでに極悪非道の人物として描かれているのでしょうか。勇猛な武将としてのマクベスの描写はあっても、マクベス夫人の過去は闇の中に沈んでおり、彼女は初めから王妃になるべきものとしてふるまっています。
「あなたのお手紙を読んで、私は何も知らない現在を飛び越え、今この瞬間に未来を感じています。」
彼女のマクベスへの第一声です。歴史上のマクベス夫人の名はグロッホですが、『マクベス』では個人名は一度も明かされません。クローディアスの妻はガートルードであり、オセローの妻はデズデモーナですが、マクベス夫人は「マクベス王の妻」以外の名を持たないのです。これに関してシェークスピアの意図は明らかです。かつて大竹しのぶがマクベス夫人を演じた時、(私は見ていませんが聞くだにすごそう。)、平凡な一人の女としての破滅を演じきったそうですが、マクベス夫人はただの平凡な女ではありません。王妃でありマクベス王の妻なのです。

 『マクベス』は確かに『年代記』を種本にして、王の不興を買わぬよう、むしろ歓心を買おうとするかのごとく書かれているように見えますが、この芝居は徹頭徹尾、王位継承の残酷劇です。王位継承は国家の最重要事項であり、つい3年前に王権の交代を経験したシェークスピアが考えもなしに選んだ題材であろうはずがありません。

 シェークスピアがホリンシェッドの『年代記』を下敷きに『マクベス』を書いたことに間違いはありませんが、彼はそれ以上のことも知っていたのです。マクベス夫人がごくまれにもらす過去に関する言葉がそのことを物語っています。
「わたしは赤ん坊に乳をやったことがあります。自分の乳房を吸う赤ん坊がどんなにかわいいか知っています。」 
このマクベス夫人の言葉はその後に続く「でも私は、微笑みかける赤ん坊のやわらかい歯茎から私の乳首をもぎはなし、その脳みそをたたきだしても見せましょう。さっきのあなたのようにいったんやると誓ったなら。」というすさまじい語気に押されてただのたとえのように感じられてしまいがちですが、シェークスピアはマクベス夫人には先夫との間に子供がいたという史実にさりげなく触れているのです。(ホリンシェッドにはマクベス夫人の子供への言及はありません。) 

 ダンカン殺害の場面での「寝顔が父に似ていなければ、私が自分でやったものを。」という台詞にしても、彼女の弱さや罪の意識のあらわれとみるのは的外れです。シェークスピアにおいて、誰かと誰かが似ているという場合、そこに血縁関係を読み取るべきだというのはほぼ確かなことでしょう。(このあたりは少女漫画と変わるところがありません。他人だったはずの登場人物が軒並み血縁関係だったという路線の、或る時期の一条ゆかりの作品などと同様です。) ダンカンの祖父(そして生まれる前に亡くなってはいるがマクベスの祖父でもある)マルコム二世は、ダンカンに王位を継がせるために他の男系相続者を殺したのですが、その中に父を殺された女がいました。彼女こそが後のマクベス夫人なのです。

 おそらく、シェークスピアはもう少し知っていたはずです。それまでスコットランドでは直系の子孫への王位継承というものは行われず、王家の二つの家系の間で適齢以上の男子の中から力量のあるふさわしい人物が交代で王位につくシステムがとられていたのですが、このルールを破って王位についたのがダンカンだったということです。王位継承のシステムが暴力的に変えられたのです。『年代記』ではマクベスはダンカンの従兄弟であり、マクベス夫人が前王ケニス三世の孫娘であることを考えれば、従来のシステムではマクベスにはダンカンと同等かそれ以上の王位要求の根拠があったのです。

 後に夢遊病者となったマクベス夫人が言う、「それにしても、老人にあれほどの血があろうとは。」という言葉に示されているように、夫人が無意識の中で殺しているのは、まだ青年にならぬ息子を持つダンカンというより、その祖父であり、父の敵である、マルコム二世なのです。歴史は権力者の手によって書き換えられるものであり、まさに「きれいはきたない、きたないはきれい」が日々の現実でした。シェークスピアは史実を知りながら、いや、知っているということをカムフラージュしながら、ジェームズ一世の前ではマクベス夫妻を徹底的にきたなく描いたのです。誰もが政治的人間にならなければ生き延びられない時代でした。