2013年9月2日月曜日

「子供と本」


 『はだしのゲン』が過激な描写を理由に、子供への閲覧制限措置が取られたという問題が明るみに出ました。私はあの劇画のタッチにどうしてもなじめずその漫画を読んだことがないのですが、書物の閲覧制限は全く意味がないと思います。その措置を考えた人は、子供の心を傷つけたくない配慮からなのでしょうし、それはわからないでもないのですが、どこまで子供の成長に責任を持てるつもりでいるのか考えると、独りよがりのある種傲慢な考えだと思います。

 確かに本というものは、出会う時期、年齢やその時々の個人的な状況が決定的に重要な場合が多々あります。しかしそれは、前もってうまく慮ることなど到底できないものです。人生にはどうしたって残虐な面があり、その全てを避けて通れる人などいないはずです。描写どころか、子供でも暴力的な現実と接しながら過ごしているのが日々の生活なのです。過激な描写が子供に悪影響を与えることはあるでしょうが、それは人間存在を考える手がかりとして心にとどまり、子供は長い時間をかけて人間の暴虐性について自分なりの結論をだすでしょう。

 私が子供の頃読んで、衝撃を受けた本は、メリメの『マテオ・ファルコネ』でした。これは確か、学研の「科学と学習」の付録で読んだものです。まさに子供に読ませるものとして取り扱われていたのです。父親が乾草の中にかくまったお尋ね者の居場所を、銀時計に目がくらんだまだ子供と言ってよい息子が官憲に売り渡してしまう話で、赦しを求める子供に対し、お祈りをさせた後、父親が「神様に赦してもらえ。」と言って打ち殺す結末は、息もできないくらい衝撃的でした。信義を守ることの峻厳さを思い知らされた作品でしたが、 あまり驚いたのでこの話を母にした覚えがあります。母は納得できないようで顔を曇らせました。
「それはどうかなあ。子供が心から『ごめんなさい』と赦しを求めるなら、神様は必ずお赦しになるでしょう。」
と言ったので少し安心しました。一方でそれではやはり甘い気もして落ち着かない気持ちでした。この話は何かの折に心の奥底から浮かび上がってくることがあり、長いこと小さなとげのように心の片隅にぶら下がっていたのだなと思います。

 今回またこの話を思い出し考えたのですが、メリメの意図も学研の編集者の意図もわかりませんが、やはりこれは「人への裏切りは死に価する。」というような教訓を与えるというものではない気がします。神がお赦しになるものを、独善的な正義感で息子を裁いた父親の罪の問題が一番大きいテーマだと思えました。こんなふうに子供は暴力性をも時間をかけて熟成させ、なんらかの考えを沈潜させているものです。だから、リスクはあっても一方的に閲覧を妨げてはいけないし、それは結局無意味なことなのです。