2013年9月5日木曜日
「オラクル」
子供の頃からちょっと疑問に思っていたのは、特に旧約聖書で神と人が対話する場面です。やりとりの展開はお話としてはおもしろいのですが、どうしてそれが自分の思い込みや妄想ではなく、「神様からの言葉だとわかるのか」が不思議だったのです。「これはいわば神話だから。」「神様の言葉を預かる特別な人だから。」と解釈していました。
今回、福島教会の会堂建築にあたりひょんなことから「ベジがま」という野菜調理器具を思いつき、建築献金をしようと思ったのですが、これはとても不思議な過程でした。自分がやったことに違いはないのに、自分でやった感じがしない、自分からは遊離したものをどこかで眺めているような感覚でした。自分にできるはずのないことが自分にできるはずのないスピードでできて進んでいく、我ならぬ我になっていたのです。
志はよくても納税の義務等世間のルールをはずれて志を汚すようなことになってはいけない、これを続けるには事業化するしかない、というところまでわかった時、そこまですべきかどうかちょっと迷いました。しばらくあれこれ考えていると、その答えはある日の礼拝後に出ました。神がよしとするものであるなら祝福があるだろうし、事業化してうまくいかなければそれはやらなくていいことという答えでした。その答えを聞いて「なるほど明快だ。」とすっきりしました。その時、神様の声というのはただはっきりわかるものだと知りました。それはただ端的にわかるのです。
中学・高校時代一緒に教会に通いその後長らく年賀状だけのやりとりになっていた友が、所属教会でベジがまを扱ってくれることになり、それどころか注文された100個の袋詰めや送金等のこまごまとした面倒を引き受けてくれることになりました。これはもう関西に営業所ができたのと同じで本当に願ってもないことです。他のところからも2個、3個、5個、10個、20個、50個と注文が舞い込み、私の工場(こうばと読んでください。)はフル稼動です。時折、材料の発注で「メーカー欠品」が出てぎょっとすることもありますが、「神様が何とかしてくださる」と大船に乗った気持ちです。
この事業は思いもしない仕方で始まったように、いつか予測もしない形でその使命を終える気がします。今からその日が楽しみでもあります。その日まで、御心ならばこの事業は続くのです。