2013年11月22日金曜日

「1991年夏フィンランド」


 まだ若かった頃、ヨーロッパへの直行便は私には贅沢品でした。体力もあり、乗り継ぎでも平気でしたのでいろいろな航空会社を試してみました。一度くらいはと思い、アエロフロートで北欧に旅した時のことです。

 デンマークからスウェーデン、ノルウェーと周り、最後にフィンランドから帰国する旅程でした。フィンランドのある街に降りたって地図を見ていたら、
"Can I help you?"
と声をかけてくれた若い女性がいました。当時は他の3カ国ではよく通じた英語がフィンランドに入った途端あまり通じなくなったので、心強く思いました。なんときれいな英語かと思っていたら、それもそのはず、彼女はカナダ人で、フィンランド人と結婚してフィンランドに住み、ビジネスマンに英語を教えていたのでした。

 私の泊まるサマーハウスが彼女の家のそばだったこともあり、お茶によばれました。彼女の名前はセーラさん、「おっ、小公女だな。古風な感じ。」と思いました。いろいろ話すうち、
「数日地方を回ってアエロフロートで日本に帰ります。」
と言ったところ、彼女はサッと青ざめました。
「モスクワで何が起きたか知らないの?」
「何かあったんですか。」
そしてその朝起きたクーデターとゴルバチョフ幽閉事件を知ったのでした。

 その後夕飯にもよばれることになり、いったんサマーハウスにチェックインして街に出ました。この時は観光のことよりどうやって帰国するかで頭がいっぱいでした。モスクワ空港は閉鎖される可能性が高く、そうでなくてもビザがなければ命の保障はありません。レストランのコーヒーで気を落ち着けながら、新聞を持っている人を見つけたので、
「それ、今日の新聞ですか。モスクワのこと書いてありますか。」
と聞くと、
「モスクワで何かあったんですか?」
とさっきの私と同じ返事。私がもごもご説明するともう大騒ぎだったのでそのままその場を後にしました。

 夕飯ではセーラさんとその夫、教え子のスイス人レグラさんとご一緒でしたが、4人で頭をしぼった結果、直行便のフィンエアーで帰るしかなかろうという結論でした。セーラさんたちに厚く礼を言って別れ、翌日から3日間地方を巡りましたが、観光どころではありませんでした。インターネットが普及していた時代ではなかったので情報もなかなか集められませんでした。結局、早めに切り上げてヘルシンキの日本大使館に行くことにしました。

 大使館があるはずの場所に行ったのですが見あたらず、近くのおじさんに聞くと知らないとのことでしたが、私の困った様子を見て場所を調べてくれました。車に設置された移動式電話(今まで日本でもそんなの見たことがありませんでしたので、「おっ、車にこんなギャジットが。007のようではないか。」と思った記憶があります。)で問い合わせてくれたのです。電話を切ると、
「移転したそうです。乗りなさい。」
これは平時なら絶対してはいけないことでした。が、今は非常時です。想定される危険と同等以上の危険が迫っていました。私はこのおじさんがいい人であることに賭けて、神のご加護を祈りながら乗せてもらうことにしました。十数分ほどで、おじさんは、
「この辺のはずなんだが・・・。あ、あった、あった。」
と言って、日本大使館に横付けしてくれました。

 結局、クーデターは3日でおさまり、モスクワ空港は問題なしとの情報を得ました。それでもモスクワでのトランジットの間はらはらどきどきしましたが、無事予定通り戻ることができました。帰国して、一部始終を書いた礼状をしたため、フィンランド大使館に送ったことは言うまでもありません。