2017年12月30日土曜日

「あとがきに代えて」

 宗教改革500年の記念の年であることに促され、今年、旧約聖書にまつわる物語『ザ・ブックの誕生』を書いたのは、一つにはキリスト教と無縁な友人や知人に少しでも興味を持ってほしかったからです。聖書というと身構えてしまう方もいるでしょうし、特に旧約聖書は一般の方にはとっかかりがなく親近感がもてない書物でしょう。返信をくれた友人の言葉の中に「旧約は日本人にとって究極の異文化」とありましたが、その通りだと思います。また別の方から、「背景を知らないのですがお話として楽しみました」という返信をいただき、フィクションの枠組みにして、ミステリーの入ったビルドゥングスロマーンに仕上げてよかったなと思いました。皆様にただただ、「読んでくれてありがとう」です。

 「なにゆえこのような本を書かれたのか、あとがきを書いてほしかった」という言葉もいただいたのですが、これはその時はどうにも書けませんでした。何を書いてもちょっとちがうという感じになってしまうからです。これまでちゃんと読んだことのなかった旧約聖書を集中的に読んでみたら、お話が浮かんだのは事実、二回目に読み込んだら様々なことが一挙に繋がってきたのも事実、口語訳と新共同訳を比べてみたら驚くような違いに気づき、そこから或る重大な推論に至ったのも事実です。その間ずっと面白かったし、苦しくも楽しく、子供時代からのことを思い返すこともでき感謝に満ちた時間でした。

 つい最近福島教会でバザーがあった時、特に出すものがなかった私は一応本を出品させていただきました。バザーとは無関係にすでに献金して買ってくださった方もいたのですが、その日は自分で営業(押し売り?)もして本の紹介をしてみました。福島教会には、四人のお子さんがいる、教会にとって至宝のようなご家庭があります。いつも一家六人で礼拝に出席なさるので会堂がどれほど明るくなることか。今回そのご一家のお父さんがこころよく本を買ってくださってありがたかったのですが、もっとうれしかったのはその小・中学生の息子さん二人が興味を持ってくれたことです。このお子さんたちは活発で利発かつガッツのある兄弟です。私もつい、「君たちのような少年二人が出てくるよ。あと、ミステリー入ってるから」と宣伝してしまいました。子供にはこんな本は面白くないだろうと漠然と思っていた自分の考えを改めたのです。その瞬間、「ああ、私は自分が子供の頃こんな本があれば読みたかったと思う本をかいたのだ」ということがはっきりわかりました。イエス様の言動に度肝を抜かれてぐいぐい読めた新約聖書と違って、旧約聖書はハードルが高すぎて歯が立たなかったし、かといって子供向きに書かれた旧約聖書物語のようなものでは、なんだか物足りなかったのです。

 そういう意味では、旧約聖書の異質さは大人も子供もあまり差がありません。大人であっても日本人がサラサラ読んで「なるほどそうか」とわかるようなものでないことは確かです。今回ひょんなことから、私は旧約聖書を日本人にわかるように現代誤訳したかったのだなと、自分の動機が理解できました。日本は明治以来あらゆる事柄や思想を猛然と翻訳してきた独特な国です。日本にはない概念にぶち当たっては新しい言葉を創造してまで貪欲に日本語に移し換えてきたのです。自然科学だけでなく、世界中のあらゆる人文科学、思想・宗教・哲学をも母国語で多少なりとも知ることができるという途方もないアドヴァンテージを、私もずっと享受してきました。特にまだ母国語以外それらにアクセスする手段を持たない子供にとってそれは死活的に重要なことです。そうして幼い者にも裾野が広がれば、興味を持って探求する者が現れ、研究者の層も厚くなって、中にはとんでもない達成をする者が出てきます。そういうことを私は深く切望しています。もちろん今の時点であの話を笑い飛ばし、旧約聖書の成立の真実を教えていただけるのならすぐにも聴きたいのですが、一方で未来において、「子供の頃、なんかヘンテコな旧約聖書の物語本を読んだけど、あれ間違ってるよね。本当は旧約聖書はこんなふうにして書かれたんだよ」と教えてくれる読者がいたら最高です。その意味で、あの本は否定されるために書いたのだということがすとんと胸に落ちた瞬間でした。

 先日久しぶりに読み返してみて、ほんとに自分が書いたのかな」という変な感じがしました。そしてそう思うのも半分は無理もないことなのです。話の中に自分が疑問に思ってきたことを書きこんだり、あちこち読んで点と点がつながったところは意識して書きましたが、話の骨格自体は頭の中に既にきれいに出来上がった状態で湧き出てくるものをただ書き写したにすぎないからです。そういう意味では自分が書いたものとは到底言えず、これは2017年に与えられた大きな恵みとしか言いようのないものでした。

2017年12月26日火曜日

「大相撲の将来」

 大相撲に関わる大騒動は発生から2カ月たっても解決の見通しはつかず、次の場所以降も尾を引くのは必至です。専門家の判断はわかりませんが、世間の方々はこの事件を学校での暴力行為とのアナロジーで見ているような気がします。高校に在籍した人なら誰でも在学中に暴力事件の1件や2件はあったでしょうし、その場合暴力行為の場に同席した人には場合によって暴力行為を行った人に準じるくらい重い罰が下ることがあるのも知っているのでしょう。その観点から見ると、この事件は子供を暴行された親が学校の指導を拒否して警察に駆け込み、一方で暴力を振るった生徒は自主退学(学校側の判断としても退学勧告)、暴力行為に同席した生徒への学校側の指導案は校長訓告程度といった具合に見えるようです。そのためかどうかわかりませんが、同席者への処分が軽すぎると一般の人は感じているようです。

 しかし、学校に例えて言えば、今回のケースは加害生徒も被害生徒も指導案を決める職員会議の構成員の子供だという点が通常ではあり得ない事態なのです。言うまでもなく日本相撲協会は学校ではありません。理事はその運営に責任を持つ人々ですが、親方としては力士にとって疑似的な家族の長となり、相撲部屋は或る種の訓練・教育機関でもあるという込み入った構造になっています。そして何より力士は社会人としてお金を稼ぐ存在です。ただ、出し物の中身は武道に似てはいるが格闘技のようでもあり、親方でさえ「殴られて相撲を覚えてきたから全く手を出さないとなると、どう指導していいかわからない」といった側面も否定できないほど、訓練の場においても或る種の接触を伴う力の行使と切っても切れない世界のようだということがなんとなくわかってきました。加えて、相撲の発祥において神事があるのは確実で、国技として認められているとなると、事はさらに複雑になります。とはいえ、日本相撲協会ができてまだ百年もたっておらず、まして巨額の興行収入が動くようになったのは神代からのものであるはずがなく、ごく最近と言ってよいでしょう。

 太古からの相撲という儀式とは別に、興行としての大相撲は百年たたずして制度疲労が顕在化してしまいましたが、この際、大相撲を抜本的に見直す機会としてはどうでしょうか。日本相撲協会は、これまで起きた稽古中の力士暴行致死事件や大麻服用問題及び賭博問題に比べたら小さい問題と高を括っていたのかもしれませんが、もう整理して考えた方がいいようです。決まり手や勝利までの闘い方が美しくない、勝つことだけに執着して横綱としての品格がないと言う、暴行事件とは直接関係のない意見も噴出しましたが、スポーツとしてはルール違反でなければ問題はないはずで、外国人力士がそこまで協会側の願望を忖度するわけもありません。大まかに言って、Judoのように世界的スポーツになる道を選択し、世界Sumo協会のような組織が決めるルールに則り、力と技を競うスポーツを目指すか、日本独自の美しい相撲道を極める道を選択し、外国人力士も日本の電灯を理解しその風儀に合う限りにおいて大金を手にするチャンスがあるといった国技としての大相撲を目指すかという、二者択一になるのではないかと思います。この場合、もちろん暴力はいけませんが、残念ながら、指導が行き過ぎてつい手が出てしまうといった事態を完全になくすのは難しいように思います。疑似家族制度の中で培われる伝統芸能ならそうなるでしょう。国民が「一つくらい青少年を丸ごと抱え込んで心身を成長させる格闘的武道があってもいい」と思えば相撲はその形で生き残り、日本はますます不思議の国としての希少価値を増すかもしれません。



2017年12月22日金曜日

「カナン的生き方と罪意識」

 教会に初めて来た人の話でたまに聞くのが、「キリスト教で人を罪人扱いするのはいかがなものか」という話です。これは結構根が深い問題だと思います。「罪」という言葉は日本語なので理解できているような気になっていますが、キリスト教でいうこの言葉の概念は日本語のそれとは相当ずれています。本当は初めて渡来した時に別の単語を創出したほうがよかったのではないかと思うほどで、このずれがいろいろな場面で妨げになっている気がしてなりません。「罪」にあたる日本語を探せば、「悪しき思い」「汚れた思い」「ずるい思い」「卑しい思い」等、あるいはそういう思いから行ってしまう行為と言えば近いかもしれません。こう考えると、日本人の罪意識が千差万別である理由がわかるでしょう。普段、神を意識することなく生きていれば「悪さ」「汚さ」「ずるさ」「卑しさ」等の基準は自分になるのは当然であり、他者の基準としてはせいぜい法律でしかないからです。よく刑事ドラマなどで登場人物が「私、何か罰を受けるんですか? 何か悪いことしました?」と開き直る言葉を聞きますが、世の中は法に触れなければ罪ではないという明確な基準で動いています。しかしこのような言葉を発すること自体、いわゆる犯罪とは違う「罪」があることを暗示しています。昔風の日本語で言えば「お天道様」や「内なる心の声」ということになるでしょうが、キリスト教では神の義という絶対的な掟があります。掟というと厳しい決り事のように思えますが、おそらく大方の想像に反してこういう基準があるととても楽で、神の義に従って歩むことができれば人間にとって平安でありまことの幸いです。

 先日大相撲の横綱が、「態度が悪い」後輩力士を指導しようとして暴力を振るうという事件がありました。暴行は犯罪ですから罰を受けねばなりません。被害者の方は自分の態度がよくなかったという意識はなく、認識は、すれ違ったままですが、本当のところは本人だけが知っているはずです。世の中で起きる全ての事件について言えることですが、どのように公表され決着がつこうと本当のところは本人しか知らないのです。この事件では、同席した他の横綱や理事にして被害力士の親方でもある人物の対応の仕方、さらには相撲道といった国技としての側面等が複雑に絡み合ってこじれにこじれ、皆が自分の正しさを主張し合ったまま不幸な結末に終わりそうです。めいめいが自分の正しさを主張し自らが神になる世界は結局神がいない世界であり、その結果は不幸なものにならざるをえないでしょう。

  「神の義に従って歩むことができれば幸い」だと言いましたが、もちろんこれはたやすいことではありません。「クリスチャンになるということは日本人をやめることだ」と言った牧師がいます。真実の或る一面を衝いたこの言葉の意味は、『沈黙』を引き合いに出すまでもなく、直感的にわかります。しかしそれは日本的なものがキリスト教的なものと相容れないという意味ではありません。その言葉と対をなすかのように、「アメリカでクリスチャンとして生きるということはエイリアンになるということだ」と言ったアメリカ人牧師もいるからです。キリスト教国だからクリスチャンはたくさんいると思ったら大間違いなのです。「キリストの平和」ひとつを考えただけでも、アメリカの軍事政策と相容れないのは明らかです。つまるところ世界中どこにあろうと、キリスト者として神の掟に従って生きるということは至難の業であり、その道を歩むには狭き門から入らなければならないという現実があります。その者とて、「キリスト者として「歩もうと日々努めている」というにすぎず、決して歩めているというものではない。ただ、それができればどれほど幸いなことかは知らされているのです。

 たとえば自分の楽しみだけを追求することに後ろめたさを感じるとか、物事を都合よく運ぶために相手を出し抜く形になって居心地の悪さを感じるとか、身を削ることなく他者を助けたいという虫のいい考えに対して自己嫌悪を感じるということがありますが、カナン的生き方すなわち一般世間では何の問題もないと思われる生き方をしていても、突き詰めれば神の前には正しくあり得ない自分を認めることになります。「ペシャー」、「ハッタート」、「アーウォーン」など罪を表すヘブライ語は幾つかあると聞いたことがありますが、どの言葉も人間が神と向か合うことをしない状態を示していると言います。正しさの基準が日本語とは違うのです。こういったこと全てを日本語の「罪」という言葉で表すのは到底無理なことです。何かいい方策はないのでしょうか。


2017年12月19日火曜日

「パスすること、パスされること」

 勤めていた頃、なかなか大変だったのは年度末の仕事の受け渡しでした。組織として正常に業務を保つためには、新たにその任に就く人が前任者から手順やコツを受け継いでいかなければ新年度にうまく事が運びません。しかし世の中には、特に誰の仕事というわけではないが受け継がれてきた大事な事柄や、表立って口にすべきではないものの自分が体得した暗黙の知恵というものがあります。これは伝える相手を或る程度慎重に選ばなければなりません。伝えたところで活用されるとは限りませんし、途切れてしまうことの方が多いような微妙な事柄です。受け渡す方は明確な意思があるのですが、受け渡される方はそれに気づくことも気づかないこともあります。気づくのは大抵相手が「あなたに話しておくね」という言葉とともに話すからですが、気づかない場合もしばらくして「そう言えば・・・」と思い出すなら、受け渡しは成功です。

 今年は宗教改革500年という特別な年でした。ちょうど準備が整って、ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉にに95か条の論題を打ち付けた頃、旧約聖書を俯瞰した物語を本の形にして友人や親族、知り合いに配ることができました。殊にキリスト教や聖書と縁がない方々を意識して書いたもので、宗教改革500年に免じて受け取っていただこうと思ったのです。自分が今書きたいのはこれだけであり、今書けるのはここまでだという作品が出来ましたが、本に関しては読む気がない本が送られてくることくらい面倒なことはありません。感想等のご心配等は無きようにと申し添えて恐る恐る送りました。年末年始の時間に余裕のある時にでもパラパラ見ていただけたらいいなというくらいのつもりでしたが、予想に反して、非常に多くの受け取り手がお忙しい日々の生活の中で丁寧に読んでくださり、返信までいただけたのは本当にうれしく有り難いことでした。

 東京でかよっている教会では、特にお世話になっている方や今でも福島のために様々な形でご支援をいただいている方にお礼の意味で手渡しています。行くときはいつも何冊か携帯し、渡すチャンスが巡ってきた時に渡せるようにしています。オンデマンド製本なので一冊からでも作成でき、在庫を抱えるということはないのですが、何冊か註文して手元に置いておくといつの間にか無くなっています。本というものは基本的に誰かに渡すしかないものです。ですからここで起こるのは、誰かにお渡ししたいのだが、それが誰なのかまだわからないというゲームのようなものなのです。先日、礼拝中にすばらしい美声で賛美の歌声を響かせていた隣の席の若い方に、礼拝後そのことを告げて少し言葉を交わした時、話の終わり頃その方に「あのう、○○さんから聞いたのですが・・・」と、本について切り出されました。こういう時は「あ、この方にお渡しすればよいのだ」とわかるので本当に楽です。ボールを求めてきた相手にすかさずパスを出せた時はとても気分の良いものです。「ともかくもパスがつながった」と安堵し、あとはお任せすればよいと感じるからです。パスを出す相手がわかったのに自分がボールを持っていなかったり、自分が不意にパスを出されてあたふたしないように日頃から準備を怠らぬことが大事だなと感じています。こうやって大昔から人間の生存にとって大切なことが受け渡されてきたことは確実だからです。


2017年12月15日金曜日

「紅春 116」

帰省してすぐの或る晩のこと、もう眠りに入っていたのですが、りくが小さく「ワン」と吠えるのを聞きました。 明らかに階段の下で兄を呼んでいるのです。しばらく音沙汰がないと、りくはやや大きめの声でもう一度一声吠えました。無駄吠えはいけないと思い、ピコピコハンマーを手にしてりくの頭を「ピコッ」と叩き静かにするように言いました。その後はちょっとふてくされた感じでしたが、朝までおとなしく寝ていました。

 翌朝、兄に話すと、「いつもいく夜中の散歩をしなかったからだろう」とのことでした。私がいない時は早朝起こされないように一度夜中に散歩しているようなのですが、りくにしてみれば昨夜吠えたのは「なんで今日は行かないの?」ということだったのです。普段は二階で寝ているとも言うし、私がいない時はいない時で、りくと兄の生活があるのです。しかし、りくには気の毒ですが、夜鳴きはいけません。用事があるなら二階に行って頼めばいいのに、階段の上り下りは不得意なので端折ったのでしょう。こういうちゃっかりしたところはやはりりくなのです。


2017年12月11日月曜日

「不思議なヨブ記」

 「義人がなぜ苦しむのか」を主題とするこの書はあまりに有名なのでわかったような気になっていましたが、読み返してみて、まずどうにも片付かない気持ちになりました。堂々巡りが続いていて何一つ解決していないようなのです。因果応報の理屈を繰り返す友人たちに対して、自分の義を信じるヨブは自分がなにゆえこれほどの苦しみに遭うのかの理由を知りたいのですが、神はヨブが最も知りたいことについては最後まで何も答えません。あまりにあっさりヨブを不幸のどん底に落とす神の行為は、真面目に読めば、心理学者ユングが『ヨブへの答え』で述べていたように、「腑に落ちないのは、ヤハウェの示すものが、熟慮でも、後悔でも、同情でもなく、ただ無慈悲と残酷さだけだという点である」ということになるでしょう。

 次々と災難に襲われたヨブが吐く呪いの言葉はまず「生まれてこなければよかった」ということ、そして「生きていたくない」ということであり。神に対して「構わないでください」と言うのです(7章16節)。友人とのやりとりが延々と続き、ヨブとの仲は険悪になり、やがて議論も止みます。そんなヨブが急転直下神の前にひれ伏すのは、神が創造主であることを示されたからです。まさにこの一点に尽きるのです。『ヨブ記』においては、この創造の業こそが人知では計り知れぬ神秘であると見なされています。人間の知恵など、「確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ(12章2節 新共同訳)」と言うほどのものでしかないのです。創造主に向かって「わたしの生れた日は滅びうせよ」だの「わたしは命をいとう。わたしは長く生きることを望まない(7章16節)」だのと口にするとは、最大の不義であるということです。ヨブ自身の主張にもかかわらず、ヨブが義人であるという前提の間違いがあぶり出されたのです。

 この物語で一番興味深い存在であるサタンは、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」というだけあってさすがによくこのことを知っています。神の子たちが来て神の前に立った時、サタンもその中にいた(1章6節、2章1節)というのは味わい深い言葉です。ルターの言う通り、やはり神のいるところにはサタンもいるのです。この物語の展開で鍵を握るのはサタンです。彼の提案でヨブは始め所有物と子供を失いますが、その時口にするのは、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1章21節)という有名な言葉であり、サタンの二度目の提案でヨブ自身の体が腫物におかされた時には、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言う妻に対し、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(2章10節)という完璧な答えをします。

 ここで終わっていたらヨブにとって或る意味さいわいなことだったかもしれませんが、それでは物語になりません。先ほど「真面目に読めば」と書きましたが、『ヨブ記』は実はあまり真面目に読んではいけないのではないかと思うのです。なぜなら、全体が寓話的であり、話を進めているのは、三度目はもはや舞台に登場しないサタンのように思えるからです。確かに1章でヨブの財産と子供たちを奪い、2章の冒頭でヨブの身体を撃ったサタンは、その後二度と姿を現しません。どこへ行ったのでしょう。地を行きめぐっている可能性もありますが、もう一つの仮説を立てることもできます。何度か読んで気づいたのですが、手掛かりは2章と3章のギャップにあります。すなわち、ヨブが神を呪うのは所有物を失ったからでも、自らの身体を傷つけられたからでもない。「すべてこの事においてそのくちびるをもって罪を犯さなかった」ヨブが、いきなり3章で自分の生まれた日を呪い始めるのは、なんと2章の終わりで友人たちが来た後なのです。ひょっとしていつのまにか論敵となってしまうこの友人たちはサタンの仮の姿かもしれません。こう考えると、深刻なテーマを扱っているように見える『ヨブ記』も案外単純な構成で書かれているような気がします。


2017年12月6日水曜日

「赦すということ」

 先日友人に、キリスト教でいう「赦す」とはどういう意味かと聞かれて、うまく答えられませんでした。「赦す」という言葉自体は自明なものと思っていたのです。「忘れる」でもない、「我慢する」でもない、事象としては「責めない、とがめない」ということなのでしょうが、相手に対する態度としてはそうできても、自分の心の中でそれができているとは限りません。常々人間にとって一番難しいことは、「謝る」ことと「赦す」ことだと思っていますが、考えてみればこれは罪をめぐる表裏一体のことです。つまり、人間にとって最も御しがたいのが罪の問題だということです。

 キリスト教では「赦す」ということは人の力ではできないことと考えていると言ってよいでしょう。日本基督教団の「主の祈り」の中のこの部分に関する文言は、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていますが、聖公会やカトリックでは、「「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を赦します」と唱えているようです。ちなみに新共同訳聖書では次のようになっています。

「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」  (マタイによる福音書6章12節)
「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」   (ルカによる福音書11章4節)

「神が人の罪をゆるすこと」と「自分が相手の罪をゆるすこと」の前後の連関は様々ですが、この2つを切り離せないものとして考えていることは明らかです。しかもこの祈りは、どう祈ればよいのか教えてほしいと願った弟子たちに向けて答えた一連の言葉の中にあるのですから、一般論として語っているわけではないのです。あなたがたは神によって赦されているのだから、人を赦しなさい」と言っているのだということです。

 「私たちは赦された者として、そして、赦していない者として祈ります」と言った人がいます。その通りなのです。人を赦せない苦しみは、自分が神に赦されていることを知っているがゆえに生まれる苦しみだとも言えます。キリストの死を通して自分の罪が赦されていることを知ることは嬉しく感謝なことですが、そのとたん、「敵を赦しなさい」という言葉に直面し苦しむことになるのです。これは人間の力では解決できない。だからこそ神に祈る、なぜなら、生きていくためには、しかも平安のうちに幸せに生きるには、どうしても赦し・赦されるということが必要だからです。

 変な話ですが、私はいつも犬の行動や自分との関係を考えます。楽しさを抑えきれず手を離れて遊びに行き、後で叱られた犬が私と目を合わさなかったこと、失意のうちに何時間化過ごし、その間先ほどの不従順をぼそぼそと犬に向かって蒸し返したこと・・・。「責めてもしかたない」と思ってはいたものの、赦してはいなかったのです。そのうち犬が「ごめんなさい」と言うように、天真爛漫な顔でやって来たので赦しました。やっぱり可愛かったからです。その後とても晴れやかな気持ちになり、犬との関係がいつも通りになりました。すなわち、この「赦す」というのは、言ってみれば「元の状態に戻る」ということに近いのではないかと思います。神と人間の関係を、自分と犬の関係のアナロジーとして考えるのは、真面目な方々の逆鱗に触れること必定ですが、私にとってはこれが一番しっくりくる理解です。神様は人間の罪や悪行に怒ったり落胆したりしながらも、人間が可愛いので見捨てることができないのではないでしょうか。

「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。」 (ホセア書11章 8節)

一つ確かなのは、そういうことが起こるのは、心から「ごめんなさい」という悔い改めがあってのことだということです。

2017年12月2日土曜日

「狂うメカニズム」

 犬は群れの中で生きる動物ですが、家の中で一緒に暮らしているとほぼ人間のようになっていくようです。うちの犬は普段は昼間は独りで過ごしており、兄の帰宅を大喜びで迎えてご飯や散歩の世話をしてもらい、特に心配をかけることもなくちゃんとやっています。ところが、私が帰省するとこの生活が一変します。赤ちゃん返りをしてすっかり甘えた態度をとり、一言で言うとまるでダメな犬になるのです。兄の車が帰ってきても全く反応しないこともあり、お迎えにあがらないこともしばしばです。あまりの変貌ぶりに兄もあきれています。

 先日、犬の発作が久しぶりに起きる事態に遭遇しました。以前、一番最初に発作が起きた時は多分長く歩いて足が痛かったことが原因だったのですが、この前は事情が違っていました。兄の休みに合わせてちょっと寝坊しようと思い、いつもより30分ほど長く寝ていたのです。犬が起こしにやってきても「もう少しいいか」と布団の中にいました。念のため付け加えますが、まだ6時前の出来事です。あとで知ったことですが、犬は二階の兄のところへも行って、顔の周りを二回まわるという普段しないような動きをしたとのこと。そのあとでした。一階に降りて来て「キャン」と鳴きました。発作の悲鳴をあげたのです。私がすっ飛んで行って対応しても止まらず、すぐ兄が散歩に連れ出し、だいぶ時間がたってから無事帰ってきてほっとしました。散歩中は何事もなかったとのことで、その後も注意して見ていましたが、一日何事もなく過ごしそれからも無事過ごしています。

 この日は犬が瞬間的にであれ発狂する過程を目の当たりにし、心か頭かわかりませんが「狂う」という仕組みがだいぶ飲み込めました。つまりこうです。犬は犬で毎日自分のペースを守って暮らしていますが、私が帰省したために、この生活が大幅に乱れ、様々な日課を行う時間や内容が変わったのです。それでも、起床・朝の散歩・朝食・昼寝・夕方の散歩・夕食・就寝準備といった基本的な部分は守られていました。ところがそこに変化の第2波が来たのです。おそらくもう若くはなく、高齢犬の域に入ってきたことも影響しているでしょう。いつもの時間に散歩に行けず、家族を起こして回ったのですがうまくいかず、たぶんトイレにも行きたくなってどうしていいかわからなくなったのだと思います。犬の頭の中の小さなコンピュータはこの解けない問題に何度もトライし、堂々巡りを繰り返したことでしょう。そしてついに問題の解決方法が見つからず回線がショートしたのです。可哀想なことをしました。その後、普通の行動をたどったらすんなり回復し平常の状態に戻りました。

 犬とはいえ、群れで生きる動物として相当程度人間化している生態を考えると、これは人間が狂う過程と同じだと思うのです。この犬は成犬になってからは家の中でトイレをすることはありませんが、こういった生真面目さが裏目に出るのも人間と同じです。屋内で排泄しても平気な性格の犬なら発狂することはなかったでしょう。また、我が強くてガンガン家族を起こしにくるような犬なら、これまたこんなことにはならなかったはずです。どうしたらいいかわからないという事態は生物にとって危険な状態です。そしてそれは遠慮がちで気の弱い易しい生物であればあるほど発狂という方向に収束してしまうのです。外につながれているときは縄張りを守るという仕事で緊張することはあるでしょうが、大部分は家の中で過ごし外敵はいないという環境にあってさえうちの犬はこの状態なのです。七人の敵がいるような世間で生きている人間、殊にますます競争が熾烈になっている現代社会に生きている人間にとって、精神が狂うのはあまりにたやすいことでしょう。どうしたものでしょうか。とりあえず、ある程度きちんと自己主張できる訓練をすることは大事でしょうが、これとて限界があります。生来おとなしくて穏やかな性格である場合、自己主張することさえなんだか苦痛で、よほど自分に喝を入れないとできないのですから。今回、犬の場合は狂った原因が取り除かれてすぐ復元しましたが、人間はそうはいかない。取り巻く状況が複雑すぎて根本的な解決は到底望めません。精神を病む人が増えるのは無理からぬことです。



2017年11月28日火曜日

「礼拝について」

 「人はなぜ礼拝に行くのか」ということを一般の方は不思議に思うかもしれませんが、クリスチャンが礼拝について思うところを問われるとしたら、それは信徒なら誰でも自分の言葉で語れることです。毎日時間に追われて多忙な生活を送っておられる方、仕事中心の生活で頭の中がいつも仕事でいっぱいの方、社会奉仕的な活動をしておられる方、自分の役目を意識しつつ与えられた時間を有意義に過ごされている方等、それぞれが礼拝について特別な思いをお持ちかもしれません。

 私の場合は単純です。普段の生活においては、自分の時間を比較的自由に使える環境にあるため、健康の保持に留意しながら自分なりに計画的に過ごしたいと願っています。毎日本当に小さな目標(なるべく達成できるようなごく小さな課題にしています)を3つくらい立てて過ごしていますが、それとて3つともできたという日が多くはなく、「ああ、今日は1つしかできなかった」とか「今日は何もできなかった」という日もまれではありません。がっかりして失意のうちに一日を終える日も多いのです。しかし、日曜は違います。朝起きてまず思うことは、「今日は安息日だから、とにかく教会に行って神様を礼拝できたらそれでよい」ということです。実際、礼拝に出席し、賛美をして無事帰って来るととても満たされた気持ちで、一日の終わりに、「ああ、今日は百点満点の日だった」と思うのです。

 もう一つ強く思うのは、礼拝はその日限り、一回限りの特別な日だということです。今はインターネットの発達した大変便利な時代で、全国の牧師先生方の説教や聖書講解、また学者による聖書研究棟を自由に聴いたり読んだりすることができます。非常に真面目な労作も多く、大変励まされ日々支えられることがあるのも事実です。しかし、礼拝はそれとは次元が違う全く別のことなのです。同じ神を信じる信徒たちが同じ会堂に相集い、共々に神を賛美し礼拝する恵みは格別です。特にご高齢の方々が万難を排して礼拝に集われているお姿には、慰めや励ましを通り越して、自らの背筋をまっすぐにされる気がします。まさに、詩編133編1節の【都に上る歌。ダビデの詩。】
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」
です。神の国においてしか実現しない現実がそこにあるのです。


2017年11月24日金曜日

「全寮制高校のあり方」

 先日、都立秋川高校の開校から閉校までを描いた『玉成寮のサムライたち』という本をいただき、例によってプリンターの文字認識ソフトを使って読み終えたところです。この本は、昭和40年(1965年)に将来の日本を担う若者を育てる目的で東京西多摩の秋留台地に開校し、平成13年(2001年)に閉校する(ただし、噴火による三宅島からの全島避難生徒の受け入れ先として、校舎は2007年まで使用された。)までの過程を、閉校までの最後の三年間を舎監長として勤務した教員の目から描いたドキュメンタリーとも言うべき作品です。

 表題の 「玉成寮のサムライたち」というのは、全寮制秋川高校から巣立っていた生徒たちのことなのですが、最初その言葉を聞いた時、私はてっきり学校側の教員たちを指す言葉だと思っていました。私が西多摩に勤務していた頃の秋川高校は、既に相当な困難校として知られており、同じく困難校で早朝から夜まで想像を絶する勤務をこなしていた者にとって、全寮制高校など悪夢でしかなく、それを担う教員はサムライと呼ばれるにふさわしいと思ったからです。同じ地区にある学校だったのにこれまでこの本を読むまで秋川高校について何一つ知らなかったことを思い知らされました。秋川高校は経済成長真っ只中の時代に教育の不在を憂えた教育長の主導で動き出した計画だったというのも驚きですが、1959年のイギリス視察によって、イートン校の人格陶冶の教育に強い感銘を受け、それをモデルとして設立されたというのもびっくりでした。イートンと聞いて私が唯一思いつくのは、ナポレオンを破ったンウェリントン公の言葉とされる次の言い回しです。
   The battle of Waterloo was won on the playing field of Eton.
 (ワーテルローの戦いにおける勝利はイートンの校庭で培われた。)

 結局、秋川高校は34期生を最後にその歴史を閉じることになったのですが、これを短いと見るかはともかく、その時間を懸命に過ごした生徒と教員がいたのは事実です。『夜のピクニック』で初めて存在を知った40キロ行の夜行軍(本では80キロだったかしら)は秋川でも行われていたことを知り、それぞれの年ごとにドラマがあり、それは決して忘れられない記憶として一人一人の胸に刻まれたことだろうと思いました。多くの優秀な人材を世に送りながら、この高校の壮大なヴィジョンがなぜ現実にうまくいかなかったのかについての私の考えを一言で言えば、イギリスが紛れもない階級社会なのに対し日本はこの上ない平等主義を標榜する国であったこと、また、この時期を通して概ね国が平和だったからという以外ないように思います。教育は誰のものかという問いの答えが紛う方なく個人に帰せられ、どんな教育を選ぶかという問題がひとえに個人的な事柄として定着していく時代こそ、まさしくちょうど秋川高校が世にあった期間です。それなりに人生で成功する道筋があるのに、個人の自由な生活を犠牲にして好き好んで集団生活をする高校時代というものが、あまり魅力的でない選択肢の一つになってしまったのです。

 この点に関して私がいつも思うのは、江戸末期以降の日本がなぜ西洋の植民地化を免れたのかということです。その一因が江戸時代の幕藩体制にあるのは明らかで、まさにそれぞれの「くに」である藩が知力を尽くして生き残ろうとする不断の戦いがあってのことだと言ってよいでしょう。完全な中央集権の政体であれば西洋文明の襲来に際し身動きがとれず、間違いなく植民地化されるというおぞましい結果になっていたにちがいありません。様々なことがありながらも、明治新政府へが誕生し(その過程で個別の戦いにおける勝ち負けがあり、会津藩等の悲惨な結末を生んだのはやりきれないことではありますが)、とても手放しで喜べない多くの出来事の末に、ともかくも植民地化を跳ね返すことができたのは言祝ぐべきことでしょう。

 この本の第3部で公立全寮制中高一貫校の創設が提案されていますが、もし全寮制高校(あるいは中高一貫校)が成果をあげる時があるとしたら、国にとっては不幸な時代、即ちこれほど教育が行き詰った現在こそその時なのかもしれません。私塾を除けば日本で最も成果をあげた教養教育は旧制一高と言われていますが、それは学ばなければ死ぬ(国が滅ぶ)という状況でこそ可能になったものなのです。経済格差が広がり教育が完全に個人のものになった今になって、英国のパブリック・スクール並みの全人教育を目指せる土壌が醸成されたというのは皮肉なことです。もちろん一番大事で一番難しいのは、そのような自覚と気概がある生徒を選抜できるかということであり、送り出す家庭の姿勢も大事です。なにしろ平和な時代の恩恵として、もうだいぶ前から日本の若者は30歳成人論が出るほど子供化しているのです。もう一つ見過ごせないのは家庭教育との兼ね合いで、全寮制を選んだ場合、子供として家庭で過ごすかけがえのない時期を放棄する選択にならざるを得ないという事実を各人がどうとらえるかという問題です。ヨーロッパの全寮制というと消すトナーの『飛ぶ教室』に描かれるギムナジウムが頭に浮かびますが、幼い時から個としての確立を強いられて育つヨーロッパにおいてさえ、早くに親元を離れることは子供の人生を左右する大問題です。うまくいかなかったときの責任を取れる者はいないのです。まして乳幼児期を母親とともに生活するのが一般的な日本にあっては事はそう簡単ではないでしょう。親子ともどもその覚悟ができるかどうかです。全寮制学校での生徒の成長の成否は、生徒それぞれの性格に大きく依存するのは間違いなく、もともと外向的な個性であればあまり苦も無く集団生活を送れるかもしれませんが、生来内向的で人とのコニュニケーションが苦手な生徒はその壁を打ち破るまでが大変です。うまくいくかどうかは本人次第もしくは運次第といってよいかもしれません。

 他人事のように軽々には言えませんが、個人が自分のための教育環境を求めて海外に脱出する事態が続いている今、公立全寮制中高一貫校の創設は本当にもう最後の切り札なのかもしれません。それも東京だけでなく全国各地にそのような学校があり、それぞれの確固たる方針に基づいてなされる教育をゆるす道が開かれる必要があるように思います。明治期以降の個人主義的リアリズムが教育の底流から消えることはないとはいえ、歴史を大局的に見れば教育が個人のものであった時代はこれまでなかったのであり、今後そうなるとしたら国の消滅がすぐそこまで迫っていると言わざるを得ないでしょう。日本に限ったことではないとはいえ、社会がここまで追いつめられてしまった時代の厳しさを感じます。


2017年11月20日月曜日

「黄金色の季節 りんごの季節」

 全然知らなかったのですが、十一月の半ば新宿御苑で二本松の菊人形の特別展示があったとのことで、その際、小規模な物産展も開かれたようです。たまたま職場に近かった友人が果物やお菓子を買い求め、家で食べた大きなりんごは蜜が入って本当においしかったとのこと。うれしかったのはその話の続きで、「あまりにおいしかったので翌日もう一度行ったら、りんごはあと3つだけになっていてそれを全部買って帰った」と聞いたことです。私はかねがね福島のりんごはどこよりもおいしいと思っているのですが、それが裏付けられた気がしました。

 東京では青森のりんごをよく見ますが、私が福島の直売所で買うりんごには到底かないません。秋が来て最初に出るりんごで昔からある紅玉やジョナゴールド、比較的新しい品種の陽光、新世界、ほおずり、シナノスウィート(これは長野産か?)等もりんごらしいりんごですが、やはりなんと言ってもりんごはサンふじで決まり。非の打ちどころがありません。関西から来て初めて福島のりんごを知った方が、「おいしすぎて一日何個も食べてしまう」と言っていました。

 夏が終わり、秋が来たなと思うとすぐあたりがあっという間に秋色の世界に代わっていきます。あれほど手に負えなかった雑草も緑色から茶色に枯れていくのです。その時、年によっても違うのですが、十月から十一月にかけての或る時期に、辺り一面が黄金色に輝く日が訪れます。一週間あるかないかの本当に短い時間です。ちょうどサンふじが出始める頃で、この時が一年中で福島の最も美しい時だと思います。えも言われぬ美しさでとても写真などにおさめられそうもないのですが、あれは柴の色です。その中に柴犬を置くと全く同じ色で、日本の犬の原風景がそこにあります。




2017年11月16日木曜日

「紅春 115」

東京に帰る少し前から、りくにはそのことを伝えます。前日に「明日から姉ちゃんいないからね」と言うと、りくは目に見えてすっかりしょげかえってしまいます。可哀想ですがしかたありません。思い切り甘やかせてくれた家来はもういないのです。切り替えて、兄との堅実な生活に戻ってもらはなくては。


 先回の時は、りくは寂しくなってしまったらしく、一晩中二階の兄のところで寝ていました。夜起きた時、茶の間にいないことはそれまでもありましたが、そのうち戻ってきているのが普通でした。帰る朝、まだ暗いうちから起きてごそごそ準備していたら、耳ざとく聞きつけてりくがゆっくり降りてくる音がしました。りくは平気で二階に上がれるようになりましたが、相変わらず慎重なので、今でも階段をゆっくりしか降りられません。旅立ちの朝はとても忙しい。何よりまずりくの散歩、それからぎりぎりまで外につないで気分転換させる、一日長いお留守番が始まるからです。その間、水を換え、早すぎてまだ食べられないだろうけど一応りくの朝ごはんの準備をし、それから自分の朝ごはんとなります。りくはもう私がいなくなることをわかっています。最後に家に入れて少し遊んでから、「姉ちゃん行って来るよ。兄ちゃんの言うことよく聞いて」と言って家を出ます。りくは見送りに来ることも来ないこともあり、結構淡泊な別れです。


2017年11月13日月曜日

「考えを寝かせるということ」

 頭の中にあることを文字にする場合、3つのパターンがあるようです。第一はその時々で一番正確に思考なり感情なりを書きとめることができる言葉を探して文字にする仕方ですが、これが最も落ち着いて書ける方法です。漢字や意味、知らない現代用語や社会現象などを調べながらゆっくり書けるのであまり間違いは起こりません。85パーセントはこの書き方でよいのです。

 めったにないこと(5%くらい)も時々起きます。言葉がどんどん降ってくるという状態のことです。この場合はとにかく書き留める、調べたいことも脇に置いてとにかく書く。私の場合は音声パソコンを用いているので、同音異義語の間違いが起こるのはたいていこのような時です。あとで読むときも音声なのでこのような間違いは見落とされてしまうことが多く、大恥を書くこともしばしばです。これは夜中にふと目を覚ました時に来ることもあり、寝ていたいと思っても翌朝には全部忘れていることは確実なので、ごそごそ起き出して書き留めて寝るということになります。書いていることが自分でもわからないこともあるのですが、嵐が去った後に調べて補則します。

 何であれ書こうとすることがはっきりしている場合はこれでよいのですが、もう一つ、一割くらいの頻度で、書きたい気持ちはあるのにそれが雲をつかむような中身のこともあります。この場合は大変に困ります。書いては消し、また書いてみるがやはり全然違うと往生します。がっかりするのは、書きたいことがなんとなくとても大事なことのようなきがするからです。この場合はとにかくメモの形でよいので書きつけておき、寝かせるしかありません。寝かせるというのは風化させるということです。気にしてはいるので、時間がたつと書きたいことが浮き出てきます。時には「これ、なんだろうな」と自分のメモの意味がわからなくなっていることもありますが、それはもう忘れてよいということです。しばらく寝かせていたものをしっくりとくる文字にできた時が一番うれしい気がします。



2017年11月8日水曜日

「1987」

 普段音楽と無縁に生活しているので最近の歌など全く知らないのですが、友人がスピッツの「1987」を教えてくれ、聴いてすぐにドツボにはまりました。歌詞を紹介できないのが残念ですが、バンド活動を始めた頃の雰囲気がよく表れており、世代は少し下ですが当時の時代状況を髣髴とさせます。まだ何物でもない若き時代の明るくやるせない彷徨の日々を、あの澄んだ声で歌われると「ああ、あの頃ほんとにそんな時代だったな」としみじみ感じ、一度もメンバーの出入りがないこのバンドの追い求めているものがおぼろげながらわかった気がします。正直言うと、スピッツの樫の斬新さにはついていけないものもあるのですが、この歌はよくわかります。本人が不思議なものに惹かれている以上、その衝動は誰にも止められません。ここでの「美しすぎる君」というのは、いわゆるミューズというか芸術の女神なのでしょうが、それを追い求めることには終わりがないのです。青春の日に忠実なバンドマンのことをちょっとおちょくりながら、愛しいまなざしを向けているというこの歌が、このところ一日中頭を巡っています。


2017年11月6日月曜日

「初めての返品」

 私は通販で一度購入したものを何らかの理由で返品するということをしたことがありませんでした。自分で選んで失敗したならそれは自分の責任ですし、何よりクレーマーのように思われるのが嫌なのです。しかし、先日初めて商品の返送というものを経験しました。通販サイトから買ったばかりのICレコーダーです。今まで愛用していた物が壊れたものと思い、早急に新しいものが必要になったのですが、同じ製品はもう製造されていないとわかりました。しかたなく同じメーカーのほぼ同じ製品を注文したつもりだったのですが、調査が足りなかったのです。ミュージック機能が付いていないICレコーダーが存在するとは思いもせず、急いでいたこともあって選択を誤りました。

 購入品が届いた後も、「困ったな」とは思ったものの、今使っているICレコーダーのメモリの容量が最大のSDカードを使っても満量に近づいてきたし、何かに使えるだろうと考えていました。しかしその後いろいろ試してみましたが、ファイルの自動再生ができない、ファイルの階層化ができない、表示画面がバックライトではないのでほぼ見えないということがわかり万事休す、返品するしかないとの結論に達しました。この決断に至るまで3日でした。購入履歴から入って返品理由がどれに該当するかと迷いましたが、申し訳ないと思いながら「製品の品質が低い」にするほかありませんでした。上記3点を理由として具体的に書いたところ、全額返金と表示されました。半信半疑で返品手続きをし、到着した通りの状態に梱包し直して返送しました。実際の裁定がどうなるかを待っているところですが、こういう好意的な判断が通常なされるものなのなのかどうかわかりません。よく使う通販サイトのためお得意さん扱いなのか、あるいはこれまでトラブルめいたことがなかったのがよかったのかもしれません。いずれにしてもこういうことはもうしたくないので、注文する前に慎重に調査しなければと思いました。 ちなみに同じサイトで携帯用音楽プレーヤーを注文しましたが、そもそもこのジャンルで探すべきだったのです。これについてはもう少し使ってみないと使いやすさを判断できません。

2017年11月2日木曜日

「日常の風景 思い違いと思わぬ幸運」

 先日の夜、長年使っていたICレコーダーの音が出なくなってしまいました。昼間1メートルくらいの高さから落としたせいだと思いましたが、いろいろ調べて表示タイトルがそのままであることから、たぶん保存した音源は無事だと思いました。取り出して別のところに移せばよいだけです。しかし、新しいICレコーダーは早急に購入しなければなりません。この小さな電子機器は私にとって書庫なのですから、何も聴くものがないという事態にすっかり気落ちしてしまい、いくつか選択に迷った末、某通販サイトで注文してその日は寝ました。気落ちしたのは、翌日通院の予定があったので、少なくとも丸一日は読み物なしで我慢しなければならないからです。長時間のバスの乗車も病院の待ち時間も聴くものさえあれば私はご機嫌なのです。外出の際、人と待ち合わせがある時以外携帯電話を持って行くことはまずありませんが、ICレコーダーは必ず持って行きます。

 次の朝起きて出かける準備をしながら未練がましく壊れたICレコーダーをいじっていて、コントローラーを上下に動かすと音量が表示されました。思わずじっと見て「ん?」 数値がゼロになっていることに気づきました。すぐさま音量を上げてみると、ちゃんと音が出ているではありませんか。音量ゼロでは聞こえるはずがありません。壊れてなどいなかったのです。いつもの大失敗で、「阿呆か」という事態には違いありませんが、まあこれはうれしい失敗と言ってもいいでしょう。その日の通院はるんるん気分で、検査予約を取るための診察だったはずが予約なしで検査もその日のうちに済んでしまい、うれしくて立ち寄った昼食の定食屋さんもポイントが全部たまったために無料でした。前日の思い違いから落胆が一転幸運に恵まれたおかしな日でした。

2017年10月28日土曜日

「紅春 114」

りくと散歩するには風のない穏やかな日か、陽の陰ったちょっと肌寒いくらいの日がちょうどいい散歩日和です。今年は秋らしい秋の日が殆どありませんが、明日は東京へ帰るという日、薄曇りの絶好の天気だったので、りくと少しだけ遠出しました。コンビニへは土手をずっと歩いて行って、幹線道路に出会ったところで曲がればよいので安全です。いつも行く方角と逆方向なので、りくも普段と違う気分を味わえるようです。途中、ゲートボール場のある草地を通って行きますが、最近ゲートボール人口が減っているというのは本当のようです。

 コンビニに着いてりくを奥のフェンス(ちなみに向こう側はりんご畑というのどかな場所にあります)にりくをつないで、「姉ちゃんちょっと言って来るよ。すぐ戻るから待ってて」と言います。別に絶対買わなければならないものはないのですが、散歩に来たからにはその証を持ち帰らないとつまらないというわけで、無くなりかけてたコーヒー一袋に決めました。ここに来るのは三度目で、最初の時は心細げに吠えていましたが、この日は買い物を終える2分間の間おとなしくしていました。私がすぐ戻ってくることがもうわかったのでしょう。こちらが感心する位、りくは本当に何でもよく覚えているのです。帰りはあっという間に家に着き、結構な距離を歩いたので一緒に家に入れました。りくは乾燥鶏肉のおやつ、私はコーヒーで一休みです。



2017年10月26日木曜日

読書の秋 ~『神が遣わされたのです』を拝読して~

  福島教会『月報』の一頁と四頁に毎月保科隆牧師が書かれる文を私はいつも楽しみにしています。とても筆達者な方だと思っておりましたが、それもそのはず、先生は大変な読書家、勉強家で、またずっと書いてこられた方だったのです。そしてこのたびそれらをまとめて本になさいましたので、ご紹介いたします。

  『神が遣わされたのです』は、説教、エッセイ、論文、信仰問答の四部構成になっています。保科先生は、神学校卒業後、関西学院教会、富山の高岡教会、東京の高幡教会、静岡の藤枝教会、仙台東一番丁教会、そして福島教会へと遣わされてきましたが、どこに行ってもそこへ派遣されたことを自分の使命として、そこでできることに専心してこられました。大変な経験の中にもその意味を見出し、いつも前向きに進んできた不屈の人なのです。殊に東日本大震災の後は、東北教区放射能問題支援対策室「いずみ」の室長として、特に子供たちにとって必要な支援活動に力を注いでこられました。その関連で支援していただいた台湾の教会や関西学院大学にも招かれ、お忙しい日々にあって活力にあふれて活動されています。先生の説教やエッセイを読むと、これまで自分を導いてこられた神を畏れて拝し、その時々で出会った人々や事柄を神が与えられたものとして受け取っておられるのだということがとてもよくわかります。

  先生のもう一つの側面が顕れているのが「論文」ですが、これは現在礼拝後に不定期でもたれている教理を学ぶ会を髣髴とさせます。『ハイデルベルク信仰問答』を皆で読みながら保科先生がしてくださる解説の中に、神道や仏教との比較が出てくることがよくありますが、日本の文化や宗教に大変造詣が深い方なのです。そういったことに疎いボーン・クリスチャンが全く知らないようなことをいろいろ教えていただけるので、とても興味深く聞いています。「論文」ではそれにとどまらず、日本国の成り立ちや日本語について多くの分析を行っており、未知の分野を垣間見ることができました。とりわけ日本語と地域の共同体が日本人の精神風土に及ぼした現象について、牧師の立場から感じてきたことが語られており、非常に興味深く読みました。その先に生まれたのが「キリスト教信仰四〇問答」です。それまで教会員と共に読んだいくつかの「信仰問答」について触れた後、今回「キリスト教信仰四〇問答」を書かれた事情が記されています。 すなわち、『ハイデルベルク信仰問答』ほか、西洋の『教理問答』が優れたものであることを認めつつ、それらが日本の文化や歴史、日本人の宗教性を踏まえたものではないため、日本の福音伝道の課題についての問いを十分考えた信仰問答ではないということです。それに正面から向き合ったのが「キリスト教信仰四〇問答」で、つまり、これは日本の様々な地域でその土地の言葉や文化に身を置きながら真剣に伝道に取り組み、牧師として務めてこられた保科先生にしか書けない信仰問答なのです。その言葉には体験に裏打ちされた重みがあり、考えさせられることが多くあります。

  今年は宗教改革500年の記念の年ですが、保科先生が古希を迎えられた年でもあります。これまで考えて来たことや書かれてきたものを一冊の本にまとめられたのは我々にとっても本当によいことでした。神様が保科先生を選んで遣わし、これまでの七十年を通して導き守られてきたことを知ることができ、誠に感謝です。


2017年10月22日日曜日

「文集制作の延長上に」 

 若い方々はもちろん、ひょっとすると四十代の人もがり版というものを知らないのではないかと思います。今五十代の人たちがそれを知る最後の世代かも知れません。私の小学校時代の担任は大変熱心な先生でしたが、放課後よく汚れ除けの黒い布の腕サックをして、カリカリと鉄筆を動かしていた記憶があります。中学になるとボールペン原紙というものが出てずいぶん楽になったようでしたが、ガリ版ほどくっきりと文字が書けず、また間違えた時うまく修正できない点はガリ版と同じでした。

 中学、高校時代は1年単位で必修クラブというものがありましたが、今思い出すとそのうち何回かは文芸クラブに入っていました。活動内容はほとんど覚えていないのですが、銘々が好きな文を書く時間というぬるいクラブだったことは間違いないでしょう。高校の時は確か一度くらいは机をロの字型にして、それぞれの創作内容について話す時間があった気がしますが、なんとなく違和感を感じたので覚えているのです。何を書きたいのかを書く前に説明するのは困難ですし、そんなものはうまく言語化できないものだと感じていたのだと思います。いずれにしても、最終的には必ず文集という形にしていました。ボールペン原紙に書いて皆で印刷し、表紙の方も絵のうまい子が描いて色画用紙に印刷し、ホチキスで留めて完成。出来上がるとやはりうれしいもので、友達にもあげていたかも知れません。

 先日、この一年間集中的に読んでいた旧約聖書にまつわる物語が完成しました。せっかくですし、今年はなんといっても宗教改革500年の記念の年だから何か形にしておこうと調べてみたら、データさえ作成すれば本の形にしてくれるネット上のサービスがあることがわかりました。思えば、間違いが許されなかったボールペン原紙の時代から10年、ワープロの登場で可能になった文字の自由な修正、挿入、移動は夢のような機能でした。それからさらに30年、パソコンはインターネットで結ばれ、何でも可能にしてくれる便利なサービスが提供されているのです。製本にしても一冊から作ってくれるので自分用に一冊注文し、入稿したものが本の形になって戻ってきた時はうれしかったですが、その気持ちはまさしく文芸クラブで文集が出来上がった時のうれしさでした。お世話になっている方、笑って受け取ってくれそうな方に少しずつ配っていますが、感覚としては自費出版というものでは全くなく、文集を作って「はいっ」と友達に配っていたことの延長上にあることです。ご迷惑でしょうが、もし届いたら笑って受け取ってください。決して感想などは求めませんから。

2017年10月18日水曜日

「見張りと見守り」

 先日礼拝後の小さな集まりで、その日担当された方が旧約聖書の『エゼキエル書』から見張りの務めということについて話されました。最初私はピンとこなかったのですが、それは私が普段聞いている口語訳聖書ではエゼキエル書に見張りという言葉が出てこないからです。ではなんと訳しているかというと「見守り」という言葉です。「見張り」と「見守り」は日本語では明らかにニュアンスが違う言葉です。ちゃんと調べたわけではありませんが、英語だと watchman のようでそれこそ「見張り」なのでしょうが、原語はたとえば watcher 的な意味まで含むような言葉なのかどうか気になります。いずれにしても口語訳ではなぜ「見守り」と訳しているのか少し考えてみました。

 口語訳では「見張り」とか「見張る」いう言葉はむしろ『エレミヤ書』に多いのですが、これはよくわかります。エレミヤはエルサレム陥落を砂かぶりで見てきた人であり、それを食い止めるためにイスラエルの民全体に警告を発し続けた人です。その気の進まない仕事にほぼ一生を捧げたこの預言者はそのことで命を狙われさえしました。異教の神々に傾いていく人々に警告し続けたまさに「見張り」の人と言えるでしょう。しかし、エゼキエルの場合はもう神の答えは出ています。エルサレムは陥落し、ユダ王国は滅亡し、ブジの子祭司エゼキエルはバビロン捕囚の憂き目にあっているのです。エゼキエルはもうこれ以上悪くなりようがない状況で預言者として立てられた人です。異郷の地で異教の神々のど真ん中で暮らすイスラエルの民にとって「見張り」は必要ないのではないでしょうか。ケバル川のほとりで集会をもつイスラエルの民に今何か言うべきことがあるとしたら、「我々の神に立ち返ろう」しかないはずです。どん底から求めるものがあるとしたら、エルサレム帰還へのかすかな希望です。その意味では「見守る」という訳はしっくりくるような気がします。エゼキエル書33章6節にこんな言葉があります。

しかし見守る者が、つるぎの臨むのを見ても、ラッパを吹かず、そのため民が、みずから警戒しないでいるうちに、つるぎが臨み、彼らの中のひとりを失うならば、その人は、自分の罪のために殺されるが、わたしはその血の責任を、見守る者の手に求める。 (口語訳)

 透徹した頭と熱い心を持つエゼキエルが自らに課した務めの厳しさを物語る言葉であり、エゼキエルの面目躍如と言える語り口でしょう。


2017年10月14日土曜日

「紅春 113」

りくはこの10月で11歳になりました。相変わらずおっとりとして優しく、そしてヘタレです。先日は毎月恒例のお風呂に入れる時、以前の失敗の反省からちゃんと2階に行く階段の上り口の柵を閉めて準備したところ、そのあたりでうろうろしながらしっかり両手を柵にかけて兄の助けを求めていました。このままではネジの部分がまたとれてしきり板が落下する心配があるので、現在思案中です。柴犬のよいところは適度な大きさであること。小さすぎもせず大きすぎもしない。いざという時には、さっと抱っこできるのがつよみです。ゴールデンレトリバーだったりするとそうはいきません。

 誕生日の日は朝からあいにくの雨で、できるだけ好きな散歩につきあってあげようと思っていたのに、残念でした。まあ、りくは誕生日とは知らないと思うのでよかったのですが。雨が上がってからリクエストに応じて土手の道を散歩しました。行った道を戻るのですが、「そろそろ帰ろうか」と言って歩く速度を緩めると、ちゃんと理解してくるっと向きを変えます。たまにもっと先に行きたい時は心残りのようでちょっと残念そうな顔をしますが、大人になってほぼ大体聞き分けがよくなりました。たまに、いじましく少し行っては振り返りまた帰り道を数歩歩いて振り返りなんてこともあり、そういう時は時間があれば、「そんなに行きたいなら行っていいよ」とこちらが折れることもありますが。いずれにしても、歩くスピードはちょうどいいし、散歩の仕方がわからなかった子犬時代を思い出すと感無量です。その日のご飯は豚肉を蒸してトッピングしてあげましたが、もしかするとりくは、いつも食べてる鶏肉の方が好きなのかもなあ。


2017年10月10日火曜日

「変わりゆく大学図書館」

 通院する病院が変わってから大学の総合図書館に寄る機会が少なくなってしまいましたが、しばらくぶりで行って来ました。あまり行かなくなったもう一つの理由は、そこがずっと改修工事をしていたことです。(まだ続いており、この日も図書館は工事の音で相当うるさかったです。)三階の広かった読書室が半分に区切られた時から想像できていたことですが、残念な結果になりました。入り口が反対側になったのはいいとして、内装が新しすぎてきれいすぎ、アメニティがとりわけ重視される場所以外は前とは比べものにならない醜悪さを呈していました。図書館というところは、天井の高さや部屋の造り、本の配置のたたずまい全部を含めて図書館だと思うのですが、ほとんど劇画的に破壊されてしまいました。かろうじて4階に以前の天井と壁が少しだけ残っていましたが、全体として仮小屋のような安っぽい造りです。本はそのままあるのでよいとしなければなりませんが、あの長時間座っていても全く疲れない古めかしい机と椅子もほぼなくなって本当にがっかりです。パソコンが使える机もあるのでまだ耐えられますが、数は激減し、新しくできた地下自習室(入口は別)にそのための広大な空間があります。しかしそこは在学生以外は使えないので残念です。まあ当然なんでしょうけど、なんとなく排除された気分で面白くありません。そんなに頻繁に行くわけではないのだから、広い心で使わせてくれてもいいのになあ。

 それにしても、あの重厚な高い天井の図書館はどこへ行ってしまったのでしょう。ちょっとやりすぎかというほどの、三階まで続くだだっ広い赤いじゅうたんの階段も今となっては懐かしい。図書館の価値は本の数と同じくらい空間の広さにもあると思うのは私だけではないはずです。実際あそこにいくとインスピレーションが刺激され、いろいろな想像がわいたものでした。私にとっては『薔薇の名前』の図書館を唯一体験できる場所でしたが、こんな狭苦しいお粗末な図書館になってしまい、立案した人は何を考えているのかと失望のあまり嘆息しました。大学の敷地にはどんどん建物がたち、従来の建物は仕切られてどんどん小さくなっていく・・・。これじゃあ、人間もどんどん小粒になっていくのではないですか? この日、図書館とは別にびっくりしたのは中央食堂が3月いっぱいまで工事で閉鎖されていたこと。あそこがなくてどうやって昼時の大学の胃袋を満たすつもりなのかは謎です。この日は第二食堂に行きましたがやはり込んでましたねえ。私はゆったりした気分を味わいに大学の敷地に行くのですが、もはや前提が間違っているのでしょうね。せかせかした雰囲気に取り囲まれた感じでトホホなことが多い日でした。

2017年10月6日金曜日

「将棋会館訪問の楽しみ」

 最近はディスカバー・ジャパン的な現象があちこちで起きていますが、今年日本中の耳目を集めたのはなんといっても藤井四段の活躍で脚光を浴びた将棋の世界でしょう。流行には人並みに興味がありますので、先日友人と日本将棋会館のある話題の千駄ヶ谷に出かけてきました。都バスの北参道停留所で降りるともうお昼どき、となれば、やはりみろく庵に行かねばということで環状4号の高架に沿って東に歩いて5分で到着しました。ミーハーに徹し、藤井四段が注文したことで有名となった豚キムチうどんを食べました。料理を作るのはご主人、アルバイトはいるでしょうが、基本的におかみさんが接客というごく家族的な経営のようです。おかみさんは気さくな人で、今でこそ一字のフィーバーは去ったものの、夏の間どれだけ同じメニューがでたことかと話してくれました。これまでほぼ年中無休だったそうですが、今は休み(月曜が多い)を入れることにしたとのこと。行った日が休業日でなくてラッキー、とてもおいしいお店でした。

 すぐ南に建つ国立能楽堂は休演日でしたが、庭を一周して玄関から中を眺めるだけで満足し、いざ日本将棋会館へ。千駄ヶ谷は初めて来ましたが、適度に日常の風景が身になじむ、落ち着いた感じの良い町でした。鳩森神社の中を通っていくと近いようです。友人がお参りしている間、こういう時でもないと神社を通ることはないのであたりを散策。最近神道や仏教にも詳しい牧師先生に聞いた話を思いだし、静かにお願い事をしている友人に、「銅鑼を鳴らして神様を起こさないとだめだよ」と忠告してしまいましたが、よかったかしら。

 将棋会館は5階建てで2階までは見学でき、1階は将棋用品、お土産物屋、2階は道場で対戦をしている組がいくつかありました。将棋のたしなみのない我々はこれだけ見れば十分です。1階では将棋盤や駒を真剣な表情で静かに選んでいる人もいましたが、こちらは冷やかしで申し訳ない。「お饅頭ないの~、普通あるよね」などと能天気なことを言っていたのは我々だけでした。でも、碁盤の目になった箱に将棋の駒の形をした小さなお饅頭が入ったお土産があれば、大好評を博すること間違いありません。せっかく来たので藤井四段のクリアファイルや将棋の文字の入った文房具を買って将棋会館を後にしました。関西の将棋会館もそうだと思うのですが、この将棋会館を建てるのに尽力したのは、たしか大山康晴でしたっけ。勝負の世界で名を残すのはもちろんのこと、しっかりこういう施設を作るという大仕事をした大山康晴はやはり偉かったと思う一日でした。


2017年10月2日月曜日

「読むと聞くの違いとは」

 情報の収集や娯楽の中心が「読む」から「聞く」に段々と移行してきて、そろそろ10年ちかくになるでしょうか。ずっと活字が異常に好きだったのに、それをあきらめなくてはならなくなり、もう生きる楽しみがないなと思うようになった頃、音声ソフトに出会いました。「読む」と「聞く」の違いが身にしみてきた今、両者が思考に及ぼす影響が少しわかってきた気がします。両者の相違点を思いつくままに箇条書きにかいてみます。

1.情報を得る機会
「読む」ことはその気がないとできないが、「聞く」はその気がなくても聞こえる。(その気があって聞く時は「聴く」と書くべきか。) したがって、「聞く」方は長いコードのヘッドフォンを使えば家事をしながらでも、またICレコーダーに入れれば散歩しながらでも聞けるが、「読む」方は基本的に机に向かって落ち着いて読まなければ読めない。草原に寝そべって、電車の中で、ということはあるにせよ、他のことをしながら読むことはできない。

2.コンテンツの入手方法
「読む」方はただそこにある活字を読めばよい。これまで出されたもの全てが対象である。「聞く」方はデータとして存在するものであることが第一段階である。したがって著作物として読めるのは、50年以上前に書かれた著作権の切れた本である。それを入手して音声ソフトで読ませる、あるいは読ませたものを録音する、ここまではまあたいした手間ではない。問題は今そこにある活字を読む場合であるが、これはプリンターで読み取り、文字認識ソフトでデータ化するという段取りが入る。一頁一頁やらないといけないのでよほど読みたい本でないと、できればしたくない作業である。しかも、文字認識の精度がいまいち精妙さに欠け、なおかつ音声ソフトで読み上げる時に読み違いもあるので二順の意味でゆがんでしまう可能性が高い。書いてあることの概要がわかる程度だと割り切って使うならそれでよいし、慣れてくると推測も働くのでやはり重宝する。

3.聞き流しと精読
「聞く」と「読む」に関して、脳内で起きていることの違いを感じるのがこの両者である。「聞く」場合は基本的に聴いたものはその場で消え、どんどん音声が続いていく。わからないことがあっても飛ばすしかない、それは引っ掛かりとして頭に残る。その繰り返しである。一度聞いたものをもう一度聞いたり、結構長い一続きのものを通して聞いたりする場合、脳内で意外な気づきが生じることがある。「えっ、これってあれとつながっているの? おお、これってあれのこと?」という具合である。たぶん高速でテキストをスキャンするために起こることなのではないかと思う。それから精読に入る。キーワードで検索をかけ、あっちこっち調べまわして「う~ん、そうだったのか」ということになる。

 聞いている時と読んでいる時に脳内で起きていることがどれほど違うのか知りませんが、上記の点に関して言えば、おそらく尋常ならざる速読ができる人は同じことが読むことだけによって起こるのでしょう。私の場合は「聞く」生活になってから生じるようになった現象ですが、これも全く見えないのか、或る程度見えているか、生まれつき見えないのか、見えていた時期もあったのかによっても差が出るだろうと思います。古来、語り部というか詩人というか物語を朗唱してきた人々は、盲いた人ではなかったでしょうか。音声は基本的に一続きのものであり、始まったら終いまで聞かなければならないのです。しかし活字はそうではありません。本には厚さがあり、どこからでも読め、これが大事なことですが、どのへんを読んでいるのかがはっきりわかります。つまり、文字は或る種の時間意識と関係しているといってよいでしょう。意外に思われるかもしれませんが、一続きの朗唱を全部聞くことに長い時間がかかることとは裏腹に、それは無時間の感覚に支えられた者なのです。物語が文字通り口伝だった時には時間の観念はなかったのではないか、少なくとも現在の意味での時間はなかったのではないかと思います。


2017年9月28日木曜日

「紅春 112」

9月の或る平日、ふと兄の休みが入り、「りく連れてどこか行く?」ということになりました。急にあわただしくなりましたが、用意と言ってもりくのお水、トイレ用品くらいなものです。りくもお出かけがわかったらしく興奮気味。車に乗るのは病院のことが殆どなのですが、「今日はちがうぞ」と喜んでいます。少し開いた窓から顔を出し、興味津々といった様子で外を見ています。乗っているうちに少し落ち着きも出てきたような・・・。

 行先はあづま総合運動公園方面。何度も行ってはいるが、りくを連れて行くにはよいところです。2020年のオリンピックで野球・ソフトボールの試合会場ではなかったかしら。今回は反対の端にある民家園に行き、りくと兄が外で待っている間(りくは近くの池で鯉を見て楽しんでいたとのこと)、私が見学してきました。ちゃんと見れば半日やそこらはかかるので広瀬座と旧馬場邸だけさっと見ただけですが、これは外国人にも見ていただきたい見学場所です。「東京」オリンピックがなぜ福島で・・・と、率直に不思議な気もしていたのですが、のんびりこの施設を見に来て頂くのも悪くないかなあと今は思っています。日本家屋の興味深い造りを堪能していただきたいです。この日は往復3時間弱の行楽でしたが、いい気晴らしになりました。りくも本当にうれしそうで、こちらもとても幸せな気分です。


2017年9月25日月曜日

「スケジュールの調整」

 気が付けば一年ももう四分の三が終わってしまいました。早すぎて何をしてきたのか思い出せないくらいです。私はスケジュール管理がとても苦手で、計画を立てるのが下手、いや下手というより嫌いなのです。自宅と実家の往復生活の中でそれぞれの地ではずせない用事があり、それを調整しながらバスの予約を取るのも結構面倒なのです。

 思い出せば、三月までは物語を書いていて、ちょうど終わった頃に4月の会報、集合住宅の理事会の議事録校正(これは毎月ある)をすることになり、それがちょうど終わった頃5月は大規模修繕アフター点検問題が発生し、それが収まった頃6月に理事輪番制と駐輪場関係の書類作りとなり、7月は猛暑で体調がよくなく読書が精一杯、8月は集合住宅の居住者の緊急連絡先問題から用紙のひな型作り、それからしばらく寝かせてあった物語に旧約聖書の引照を付け縦書きの本の形にしようと思い立ち、それがちょうど一段落した頃会報9月号の編集が始まり、それがちょうど終わった頃作成した物語の印刷・製本データに着手・。またそれとは別に、通院や毎年の公的申請、教会ホームページの通常業務、また、その合間に人と会ったり、他にはNHKとの契約解除に関わるやり取りがあったっけ。

 私にとっては健康維持のため適度な運動をしたり、体に良い食事を作ったりということだけでも一仕事なのです。こうしてみると、そんなはずはないのにやることが多すぎる・・・。しかしここで一つ気づいたのは、次から次とやるべきことが現れるのに、その時期が重なることはなかったということ。自分で調整できるものもありますが、ほとんどは向こうからやってくるものばかりです。こんなにちょうど都合よくずれるはずがない・・・。そうなのです。何のことはない、スケジュール調整をしていたのは私ではなくて神様だったのです。そのことにやっと気づいた次第です。ということは、これからも健康状態に合わせてやってくる仕事をこなしていけばよいのだということです。ああ、これなら楽ですね。



2017年9月21日木曜日

「アスカちゃん 逝く」

 9月16日付のブログ「柴犬とオランダ人と」にアスカちゃんが亡くなった知らせがありました。それまで毎日のように更新されていた記事が三日ほど更新がなかったので、もしやと案じておりましたが「やはり」でした。支えてやらないと立てなくなったり、食事がうまく飲み込めなかたり、午前中昏々と眠って意識がないようだったりという様子を毎日読み、段々と病状が悪くなっていくのを知るのはそれなりに辛かったのですが、飼い主に比べれば何のことはありません。りくに毎日「アスカちゃん大変なんだよ」と伝えながら、りくが元気でありがたいと思ったものです。

 犬を二頭飼っている場合、先にいた犬が年を取って弱っていくと序列が交代するという話をよく聞きますが、セナちゃんの場合はそんなこともなくて本当によかったです。寝そべる場所にしてもおもちゃにしても、それまで何でもアスカに譲ってきた(譲らなかったのはママの隣の場所だけ)セナですが、それは最後まで変わらなかったばかりでなく、アスカに寄り添って過ごしたという話に慰められました。セナース(ナース代わりのセナ)が、「夜勤でしたの」と言って青い顔して登場したのはごく最近のことでした。一日中寝ていたアスカが夜11時過ぎにトイレに行こうとして庭に出たものの、そのまま意識を失ったので家に戻し、午前2時半頃再びトライしてトイレを済ますことができた、そして朝5時に大きな発作があり等、ご一家の暮らしの大変さは察するに余りありました。その後、血尿の記事があって「永眠」のタイトルで短いお知らせが出たのは間もなくのことでした。最後の何日間かは眠っていることが多く苦しんだ様子はなかったようですが、今は痛みも苦しみもなくなったことに、飼い主さんも悲しみよりほっとする気持ちが強かったようです。りくのときはどうなるのかなと思いつつ、老犬の介護は独りでは無理なので、とにかく『自分が元気でいなければとあらためて気が引き締まりもしました。

* その後、比較的眠った状態で苦しまなかったのは最期の三日間以前のことだと知りました。最期の三日間は飼い主さんも「もう一度選べるなら安楽死させる」というほどの苦しみがあったようで・・・。自分にとって子供のようなアスカを殺せないと思ってしたことですが、判断ミスだったと書いておられました。アドさんが布団にくるまったまま、床でアスカの脇に寝ながら見守っている様子がなんとも言えない悲しみをそそります。すべて終わりました。ゆっくり休んでください。


2017年9月18日月曜日

「会報の編集後記」

 なんとなく不調だった夏を過ぎ、会報の時期となって少ししゃんとしました。今回の担当ではなかったのですが、編集後記を頼まれていたのです。編集後記は編集した人が書くべきだと思うかもしれませんが、やったことがある人はわかるように、編集の実務担当者は、時間的にも精神的にもとてもそんな余裕はないのです。今年度は諸事情で三回の発行となった会報ですが、私に編集後記の順番が回ってきました。

 今回編集を担当された方は初めての編集作業で大変だったことと思いますが、慣れない人なら普通尻込みしてしまうような仕事をやってくださったのです。これも取り掛かればすぐわかりますが、ワードはそもそも英文すなわち横書きで書くための仕様ですから、縦書き、それも三段組みの書式の編集は無理があるのです。不思議な現象がいろいろ起こり、私はそういうことにも多少慣れましたが、初めての方は助けが必要です。というわけで、私も少しお手伝いすることになりました。最初に行間や文字のポイントを確認すればよかったのですが、自分がやっていた時のルールに則って様子をみたところ、まだ一段分以上スペースがあるように見えました。私にとってスペースというのは原稿の文字数がオーバーする以上に恐怖です。挿し絵や写真を使うにも限界があります。そこで、今年6月に出された先生の御本『聖書 神の言葉をどのように聴くのか』の紹介をしてはどうかと提案してみました。ちょうど読んだところだったので記憶に新しかったのでしょう。それがよいという話になり、他の方に原稿依頼する時間がなかったので、自分が書くことになりました。最初は字数を気にせず要旨をまとめてみると1200字ほどになり、これを三分の一に縮めるとなると相当大胆に刈り込むというか、有り体に言えば書き直しでしたが、本の紹介というのは或る程度の字数がないと大変難しい者だと実感しました。極限まで字数を減らしましたが、結局六百字程度でゆるしてもらいOKをいただきました。

 その後自分の早合点のため、行間や文字ポイントのルール変更を知り、当然スペースの量も変わり・・・という状況となり、自分なりに考えて(当然のごとく)迷走し、最終的に他の方のお考えにより収まるべき順当なところに落ち着きました。自分ではやるだけやってすっきりしましたが、つきあわされた方は大変だったかもなあと反省しました。最後のスペースに編集後記を入れて終了。事前に知らされていたので、ここはあっけないほどすんなり出来ました。この数日間は緊張に満ちたやり取りで、それまでのどよ~んとした眠りから覚醒した感じがします。とはいえ、ほぼ一週間他のことは何も手につかなかったので、一段落した今はやはり少し休みが必要です。


2017年9月13日水曜日

「紅春 111」

先日りくをお風呂に入れようとして準備をすっかり済ませ、りくを呼んだら返事がありません。部屋を方々捜して「しまった」と思いました。二階に上がるところの柵を閉めておかなかった・・・。まだ六時で兄は寝ていると思いましたが、一応階下から「りく居る?」と聞いてみると、どうやらやはり兄のところにいるらしい。しかたなく上がって、逃げ腰のりくを捕まえ、だっこして降ろし、風呂に入れました。上がってからまた二階へ行くといけないので今度はちゃんと柵を閉めて・・・と。

 また、買い物に行って三十分ほどで戻った或る時のこと、いつもは帰ると迎えに来るのに今日はひっそりしている・・・。台所でごそごそしているとそのうち、トン、トン、トンとりくが二階から降りて来ました。「こんなに早く帰って来るとは思わなかった」という顔をして。階上で寝ていたのかもしれません。

 二階はりくにとって嫌なことがある時の避難所であり、兄がいれば保護してくれる一番安心な場所のようです。郵便配達や猫などの気の抜けない事態から物理的にも離れているので、昼寝の場所としては最適なのでしょう。私がいない期間は嫌いなお風呂に入れられることもなく、りくは兄と二人で気楽に過ごしているのですから、いつもの調子が狂ってしまい、疲れも出るのでしょう。普段の生活の様子が垣間見られたのはよいのですが、りくをお風呂に入れられるのは私しかいないしねえ。
 

2017年9月9日土曜日

「世界の大人の崩壊」

 報道番組を聞いているつもりが、今はニュースとは言わず情報まとめ番組というそうです。とてもニュースとは名乗れない代物であることを放送局も自覚しているのでしょう。最近経験するのは、一事が万事この通り、確固たるものと思っていたものが溶解していく様子を砂被りで見ている感覚です。子供の頃は一目瞭然だった大人との一線はもはやなくなり、子供じみた言い訳や振る舞いをする、肩書だけは立派な大人がいるだけになってしまいました。日本だけではなく世界中どこでもそうであることに深い失望を禁じ得ません。めまぐるしい現代社会や通信手段の質的変化が目も当てられない大人の実態をあからさまにしている一因ではありましょう。世の為政者たちのなりふり構わない愚かな言動は言うに及ばず、身近な共同体でも大人の責任ある行動が崩壊しつつあるのは、金にならないことはしないという風潮が長い間かかって行きついた結果でしょう。これに対抗する有効な手立てはありません。良識ある個々人が社会にとって良いと思うことを、たとえわずかずつでもする以外ないのです。自分の責任でできることをできる範囲で地道に続けるくらいしか、崩れゆくこの世界を支える方法はありません。まして立て直すなどというのは、目も眩むような時間の果てに実現できるかできないか、といった類のことです。

 最近は動物をテーマにした番組が多いように思いますが、気持ちはよくわかります。動物の場合、普通なら弱肉強食の関係であるはずの異種間においてさえ、仲良く過ごす麗しい関係が成り立ち得ることを知らされているからです。有名なのは、確か麻薬組織のペットとして飼われ、虐待されていたライオンとトラと熊の話です。つらい体験を三頭で乗り越えてきただけあって、堅い絆で結ばれており、本当に仲良く肩寄せあって生きているのです。猛獣同士ではありますが、まさしくイザヤ書11章に描かれた世界。動物でさえこうなのに、どうして人間は無意味に憎み合うのかと失望感が深まります。あり得ないような動物の映像に希望を託しているのかもしれません。



2017年9月5日火曜日

「駐輪場問題」

 シェア自転車の話を聞いて、日本でうまくいくかどうかわからないものの、参考にできる点もあるなと思いました。マンションの理事会で取り組んだことの一つとして駐輪場の問題があります。通路にはみ出た自転車に足をとられて居住者が転倒する事例が発生したからです。ここの駐輪場は一列おきに上段ラックの付いた二段式となっており、下段は混み合っていますが、上段は空きがたくさんあります。下段から上段へ何台か移動してもらうことができればわずかながら改善するのではないかと始めは考えていました。しかし、よく調べてみるとそういう問題ではありませんでした。

 居住者が一日の活動を始める前の早朝、置かれた自転車の位置と形状を調査したところ、空いているように見える上段も、実は下段に後部かごやチャイルドシートのついた自転車があるためにラックを降ろせず、使用不能となっている場合が多いことがわかりました。毎日少しずつ現場検証をし、結局実際に使える空ラックを概ね確認できました。また、ラックの使用方法として、まず上段にもラックの付いた場所に駐輪してからその中間のラックに駐輪する時に限って、ラックから飛び出さずにきちんと駐輪できることがわかりました。しかし、居住者がその順番に帰宅するわけではありませんから、中間ラックに先に駐輪されてしまうと飛び出しが起こる構造になっていたのです。

 空ラックが多ければ、改善案の提案も可能だったのですが、今の現状でできるのは諸事情の説明と注意喚起だけでした。今回徹底調査してよかったのは、自転車がラックから飛び出すメカニズムを解明し、理事会が駐輪場対策として打つ手はないことを証明できたことでした。とりあえず今のところ増設という方向性の考えはないので、できることとできないことをはっきり区別するのはこのような場合大事なことです。しかしここで発想を変えて、個人が自転車を所有することにこだわらなければ、部分的にシェア自転車を取りえれるという選択肢もあるなと思いました。おそらくそれは実現するにしてもだいぶ先のことであり、様々な社会的環境の整備や駐輪場使用料が減ってしまうという実際的問題を解決した後のことになるでしょう。

2017年8月31日木曜日

「天候不順の夏」

 日本各地で異常気象が報告された夏でした。実家の辺りはさほど被害のなかった地域でしたが、買い物もりくの散歩も常に雨と雷の合間を縫って上手にしなければなりませんでした。この夏、一番重宝した家電は文句なしに除湿機です。もともと冬の衣類乾燥用に買ったものでしたが、この夏はフル稼働でした。ほぼ一日中つけていても、適度な湿度になると青に変わるランプはずっと赤のままで一度も青になることはありませんでした。それほど強烈な湿気が続いたのです。しかし、除湿機があれば半日で洗濯物が乾くのはありがたいことで、文明の利器に感謝です。除湿機をかけると室温が少し上がりますが、比較的涼しい日が続いたのも幸いしました。

 湿度が高い時はあまり喉の渇きを感じないので、むしろ熱中症対策のため気をつけて水分をとらなければならないとのこと、このあたりも普段の年とは違います。この雨では、農家の方や外でお仕事をされる方は本当に大変だろうと思わされましたが、一つ意外だっがのは思ったより桃がおいしかったこと。あまり期待していなかったのですが、雨の割には上出来でした。桃にはナイアシンが多いとのことで、糖質・脂質・タンパク質の代謝に役立ってくれるとは知らなかった、おいしいだけじゃなかったんですね。そう言えば、子供の頃は箱買いで、桃は足がはやいから一日何個も食べていたっけ。不思議なのは、東京ではなぜか食べたい気にならないことで、せめて福島でたくさん食べて帰ることにします。


2017年8月26日土曜日

「宗教改革記念の地を巡る思い出」

 宗教改革500年となる数年前から、折に触れてその記念の地を巡るツアーの企画を耳にしました。今年になって、私はそれよりずっと前に記念の地を巡る旅を終えていたことに気づきました。西暦2000年だったと思うのですが、その地の訪問に私は無自覚的だったのです。ヘルベルトに連れて行ってもらった夏の旅行で、ドレスデンやライプチヒやマイセンに気をとられて、その年も音楽や美術ばかり堪能していました。アイゼナハにしてもバッハの出生地か・・・とぼんやり考えただけでした。それは宗教改革にさほど関心がなかったせいですが、宗教改革に関して、カトリックのヘルベルトが私以上に関心があったはずはないのです。でも確かに、あの年、アイゼナハではザクセン選帝侯がルターを匿ったワルトブルク城を見、ヴィッテンベルクでルターが95か条の論題を打ち付けた教会の扉も見たのです。確かあの町にはセミナリオもあったなあ・・・。

 いつだったか、カトリックとプロテスタンットの教義の違いについてなんとなく話した時、ヘルベルトは「両者が教義上一致できることは決してない」と断言しており、ルターや宗教改革への興味は皆無で、したがってそのゆかりの場所を訪れることに関心があったはずがないことを考えると、あれは私のための旅程でした。その私がぼんやりしていてはっきりした反応がなく、きっとせっかく準備したのに張り合いがなかったことだろうと想像すると、本当に申し訳ないことをしたと今になって思うばかりです。


2017年8月22日火曜日

「紅春 110」

この夏は涼しいので、りくの食欲が落ちることもなく助かっています。ただやはり同じものを食べていると飽きるようで、チーズや蒸し肉などトッピングを工夫しています。いつもは獣医さん推奨のものの中でタンパク質含有量が最大のものを選んでいますが、これは一番少ない量でも3キロ入りなので、りくが食べきるには相当時間がかかるのです。他の柴犬は毎日どれだけ食べるのか?! 開封した後は少し小分けにし冷蔵庫で保存していますが、風味が落ちるのは避けられません。

 今回違ったものを試してみようと考えネットで検索、「これだ」と思ったのは「美味しさにこだわる犬用」。りくにピッタリではありませんか。成分を調べてまずまずだったのと、1.7キロという比較的少量パックがあったことが決め手となり、さっそく注文しました。届くのを待つ間、「りく、今度変わったご飯来るよ」と期待させておきました。結果はマル。新しいパックを見せながら封を切ってあげたら、少し口に含んで移動して味見してから戻ってきて完食。トッピングなしです。やっぱり犬でも飽きるんだな~、しばらくはこれでいこうっと。


2017年8月19日土曜日

「二種類の人間」

 八月十五日が何の日かわからない若者が国民の7%とも言われる今日、この時期の私の気持ちはずんと沈みます。この日に向けて戦争にまつわるドキュメンタリーや特集番組が組まれ、連夜放送されるからです。今年は本土大空襲、七三一部隊、サハリン(南樺太)での終戦後の戦闘、インパール作戦だったと記憶しています。先の大戦を身をもって知る最後の生き証人が人生の終わりを前にして、己が罪を含む戦争の真実を淡々と述べていましたが、国家的事業を遂行する時の全体的構図や考え方はどの国も何一つ変わっていないように思いました。「戦争に協力している以上日本に民間人はいない。したがって日本全土が攻撃対象であり、焦土にして構わない」というのがアメリカ軍の考え方であり、今は敵に協力していなくても、敵のいるところは他の住民に配慮することなく空爆しているのですから、むしろ悪くなっているかもしれません。

 優秀な研究者のみを選抜し大量殺人の研究をさせていたのは、軍部とパイプのある大学の最高幹部であり、それに従った研究者はそうしなければ渡世のたずきを失ったからだというのは今でもよく聞く話です。また、この件が大々的に裁かれなかったのは、いわば生体実験の結果をアメリカ側に渡すことで決着する司法取引でした。大学関係の上層部は処分されないどころか栄転したようで、こういうところも現在と何も変わっていないのです。裁判における証言者の肉声が見つかったとのことで、全体としてあまりに冷静に証言していることには驚きを禁じ得ませんでしたが、その中に自分のしたことを深く後悔し、涙ながらに懺悔している人もいました。この人は、「もし生まれ変わってもう一度生きることができましたら、世のため人のためになることをしたい」と言っていましたが、年老いた母や妻子に心を残しながらも、どうも大陸で服役後日本に帰国することなく自殺したようでした。この方がイエス・キリストを知ることなく亡くなったのは本当に残念ですが、イエス様は十字架上で隣にいた罪人におっしゃったように、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と声をかけたに違いありません。

 サハリンの件はよくわかりませんでしたが、ソ連への不信感と、終戦後にもかかわらず大本営への何らかの忖度が大きな悲劇につながったと言ってよいのだろうと思います。インパール作戦の白骨街道のことは高校の授業でも聞きましたし、その後も難度か聞きました。亡くなった方のご遺族には本当に辛いことですが、太平洋戦争全体を通してこれほど無意味な死もなかったと思わされます。兵站は地味で面白みがないのであまり誰もやりたがらない業務ですが、目的遂行のためには最も重要な仕事です。担当者が「補給は全く無理」と言っているのに戦功を望む上層部に押し切られ、無謀な行軍となりました。行程だけ見ると軍事作戦ではなく、わざわざ体力のない者、不運な者たちを選別して見殺しにするためにおこなった行為としか思えませんでした。作戦を指揮した牟田口中将はどこまでも自分は悪くないと主張する他罰的な人だったようで、これも現在に至るまで高い地位にある人々にはよく見られることです。ご遺族は本当に気の毒でしかたありませんが、自分の罪と向き合えなかったのですから、これはご本人の責任としか言いようがないのです。この人たちは今どこにいるのでしょう。おそらく先ほどの研究者とは違う場所なのでしょう。こういうわけで、この時期は本当に気が滅入ってしまうので、できれば歴史の真実など知りたくないのですが、取り返しのつかないことをしでかした国民国家の一員として、毎年耐えなくてはいけないことと言い聞かせてそうしているのです。




2017年8月14日月曜日

「渋谷なう」

 東名高速のどこぞで65キロの渋滞というニュースを聞くにつけ、帰省の時期をずらしてよかったと胸をなでおろしました。今年の大渋滞の原因は「山の日」にあると思います。「海の日」まではまだ勤めていたのではっきり覚えていますが、そもそも「山の日」はいつできたのか・・・と調べてみると、なんと昨年、2016年でした。たぶん他の方々も、なんだかわからないまま昨年を過ごし、今年が二回目の「山の日」だったはずです。8月11日と定められたこの日は、昨年は木曜でしたが今年は金曜です。大移動の出発が10日の夜に集中したのはもっともなことです。道路の渋滞もさることながら、サービスエリアの大混乱を思い浮かべてぞっとしました。

 というわけで、お盆の時期は東京で普段通りすごしました。日曜日、都心の道路は空いており、池袋、新宿を通って渋谷に向かう都バスはスイスイ進みました。朝はともかく礼拝後の昼時の渋谷や表参道は、普段はものすごい人出ですが、この日は心なしか人が少ないと感じました。最近明らかに増えたなと思うのは外国人、それも一目でそれとわかる欧米系の外国人です。前の週は37度の猛暑でしたから、「この人たち大丈夫かな」と思うほどでした。若い頃ヨーロッパを旅して印象に残っているのはユースホステルの制度で、ヨーロッパ各国の若者がバックパックを背負ってかなりの距離を歩くというスタイルで、相当な数の人々が見聞を広めている姿でした。最近日本でも見かけることがあり、あの頃は圧倒的に日本の片思いだったのに、旅行業界における日本の地位向上もここまできたかと隔世の感があります。

 私が唯一ひとりでも入れる渋谷の定食屋さんでは、ウェイトレスはほぼ全員東南アジアの方でおそらく留学生でしょう。流暢な日本語で問題なく仕事をこなしており、たまに知らずに来た客が日本語の質問に英語で「ノーマル」などと答えていると、笑いをかみ殺すのが大変です。東京は急速にコスモポリス化しているようです。

2017年8月10日木曜日

「動物は偉い! そしてせつない・・・」

 ブログでアスカちゃんの様子を注視しています。飼い主の方が初めて「ぎゃあああ」という、それまで聞いたことのない発作の悲鳴を聞いた時のことを書いていましたが、私もりくが発作を起こした時のことを思い出して、身につまされました。少し前にはあまり動かずじっとしていることが多くなったと書いていたので心配しましたが、このところ小康状態のようで走ったりできることもあるようです。動物の偉いところは、どんな状態になっても前向きなところです。決して人間のように、「もう死にたい」とか「生きていても意味がないんじゃないか」といった、後ろ向きの姿勢の動物など見たことがありません。最期の瞬間まで一生懸命生きているのです。

 アスカちゃんは食欲もあり、食事の時間になると「アーたんも」とやって来て、台所の壁に寄りかかって待ち、ご飯が出ると今までと変わらずがっついています。最近は飼い主さんも悔いが残らないようにと、肉三昧の食事をふんだんに与えているようです。これはアスカちゃんが死ぬまでにやっておきたいことの一つで、他に「街カフェでお茶する」とか「一緒に写真をとる」とか「ロッちゃんと散歩する」とか目標があるようです。ロッちゃんは、アスカちゃんが好きな黒柴の男の子です。また、写真を撮っている本人は被写体と一緒の写真がないというのは盲点でした。

 逆に驚いたのは、妹分のセナちゃんの調子がおかしくなっていることです。腹ペコシスターズだったのに、ご飯を残すようになったと書いてありました。これは、アスカのただならぬ様子を見ていて心配し過ぎたのでしょう。アスカが最初に発作を起こした時、セナがまとわりついて離れず、離そうとしてだっこした夫のアドさんに牙をむいたとの話もありました。セナはセナでアスカを守ろうとしているのです。心配のあまりご飯が喉を通らないということが、犬でもあるというのは驚きです。こちらも普通の状態に戻ってくれるといいなと思うばかりです。いずれにしても、家族がお互い労わりあって、病に苦しむ家族を中心に日々の生活を形成しているのはつらい出来事の中にも慰められることです。

 寝る前にもう一度チェックしたら、、今朝はアスカちゃんが立てなくなってしまったこと、夕方は立てない状態でもなんとか一生懸命にご飯を食べたこと、セナちゃんはついに朝ご飯に全く手をつけなくなってしまったが、アスカちゃんが食べている様子を見て夕飯は完食したことが、なんともつらい画像とともに載っていました。それを見ながら、動物のさがに涙しました。


2017年8月7日月曜日

「マウスとキーボード」

 暑い夏は少し離れたところにある図書館に通っています。持ち込みのパソコンを使ってもよい席があり、落ち着いて過ごせるからです。しかし、さすがに電源はないので、バッテリーの関係でパソコンを2台持って行きます。一台は相棒ともいえる使い慣れた薄型ノートパソコン(これなしにはもはや何一つできない)、もう一台は予備のタブレットです。二つ持ってもそうかさばらず重くもない、現代のテクノロジーの成果をありがたく味わっていますが、周辺機器は必要です。ノートの方は本体にキーボードがあるのでマウスだけ持って行けばよいのですが、タブレットに関しては思案のしどころです。

 パソコンの周辺機器は一見微妙だがそれなりに大きな進化を遂げているようで、工夫された製品が出ているのがわかるとつい試したくなります。マウスはとても小型化し、しかも線が巻き取り式になった製品があり、なかなか便利です。リールを引っ張りすぎると戻らなくなって苦労しますが、手荒に扱わなければ、持ち運びやすく十分役立ってくれます。

 音声パソコンを扱う身にとってマウス以上に重要なのはキーボードです。どうしたわけか、いつごろからか最初のログインに必要な画面上のキーボードが現れなくなり、それがないとそもそも使い始めることができません。だからキーボードは必需品ですが、そうでなくてもとてもタッチキーボードで入力する気にはならないので、これはとても大事な機器です。大きさ以外にキーの配列やキータッチ、接続方法等、様々なバリエーションがあり、調べるといくつも試したいものが出てきます。まず、小型でキーの深い押し心地のものを試し、「ああ、昔のデスクトップのキーボードはみんなこうだったな」と懐かしく思いましたが、カシャカシャ音がすごくて図書館ではとても使えない。次にそれよりやや小型の浅くて静かなキーボードが目につき、名のあるメーカーだったので試してみたらとても良い製品でした。

 一度に使えるキーボードは一つだけですから、もうこれに決めて使えばよかったのです。ところが、キーボードを巡る探求はこれで終わりませんでした。調べるうち初めて知ったのはUSBではなくBluetoothで接続するキーボードです。これまでケーブルで接続されていないマウスを見て、てっきり家の中の無線ランを利用しているのかと思っていたのですが、そうではなかったのです。つまり、パソコン側とマウスやキーボード側の双方にその機能が搭載されているなら、外に持ち出してケーブルなしで使える仕組みがあったのです。こういうことを知らずにいたので自分の場合も使えるだろうかと半信半疑で試してみました。A5版くらいの大きさのおもちゃのような超薄型キーボードで、ちゃんと機能したのでとても愉快な気分でした。タブレットのUSB端子は1つしかないので、これまでは別に4つ口の端子をつけて使っていたのです。それは見た目も煩雑で重そうな感じでしたが、今度はマウスとUSBメモリだけでよい、本当にすっきりしました。そして気づいたのです。キーボードにタッチパッドがついていればマウスもなしで最低限のことはできるということに。するとありました! B5版を少し小さくしたくらいの大きさで超薄型のキーボードが! 先ほどのおもちゃのようなキーボードは、小さいスペースにキーを押し込めたせいか、はたまた日本語仕様の製品でないせいか、日本語文章入力で頻繁に使う記号がすぐ出ないという不都合がありましたが、今回のものはほぼ支障なく使えます。図書館で間に合わせに使うには十分です。新しい製品を試してみるのはとてもわくわくする作業でした。というわけで、家にはパソコンの周辺機器が増えてしまいましたが、場所や状況に合わせてその時その時一番使いやすいものを使えばいいので、便利の選択肢が増えました。こんなに快適になっていいのだろうかという、一抹の後ろめたさはありますが、もう戻れないだろうという気がします。


2017年8月3日木曜日

「紅春 109」

夏になり、りくが起こしに来る時間はかなり早めです。「まだ早いよ」と言って帰すのですが、またすぐ「朝だよ。起きて」とやってきます。その顔たるや、真ん丸めんめで、うれしくてたまらないという表情なのです。「何がそんなにうれしいの?」と相手をしながら、だんだん起きる気分になってきます。そのうち手っこを出してくるので、「りくには勝てない」と散歩に行く準備をします。

 このところいつも散歩は長靴履きです。陸が必ず川に入りたいと言うからです。大雨の後の数日間は水かさが増しているので入らずに済むのですが、しばらくするともう待ちきれないようです。最近はりくとヨルダン渡河ごっこをします。「ヨルダンを渡ろう」と声をかけてカナンに見立てた向こう岸目指して川を渡るだけですが、私たちが水に足を踏み入れても当然松川の流れは止まりません。(レビ人はすごい!) 流されないように注意してジャブジャブ渡ります。私は大丈夫でもりくは軽いからな~。時々川の水を飲みたがりますが、、「家に帰ってからね」とやめさせています。

 りくも秋には11歳になります。結構な年で人間なら高齢者ですが、散歩する様子は溌剌としていてまだ壮年のようです。ちょうどよいペースでぐいぐい引いていきますし、河原に降りたければ階段を降り、好きな道を自分で決めて歩いて行きます。生前父が、「りくにはりくの考えがあるんだから」と言っていましたが、本当にそうです。道は日によって違うこともあり、犬なりに自分の考えがあるのはすごいことだと妙に感心します。家の近くの階段で、段差の大きく人間でも「よっこいしょ」と登らなければならないところも、りくはぴょんぴょん跳びながら上っていくので「おっ、元気だな」とうれしくなります。いつまでも元気で一緒に散歩したいです。


2017年7月30日日曜日

「宗教改革500年記念出版物によせて」

 日本キリスト教団出版局から宗教改革500年記念のシリーズ5部作が出版されます。東京神学大学の学長で中渋谷教会の代務をしてくださっている大住雄一先生はその監修者の一人であり、また第二巻『聖書 神の言葉をどのように聴くのか』の執筆者でもあります。私はもう紙ベースで本を購入することはないと思っていたのですが、先生が礼拝後に教会員に向けて「助けてください」とお茶目なアナウンスをされていたので、「おお、それでは私も貢献せねば」と思って手にした次第です。実際読むには一ページごとにプリンターにかけて文字を読み取らなければなりませんでしたが、あまり厚くない本だったので助かりました。

 私なりに要約すると、儀式やその他の宗教様式によらず、ただ「聖書のみ」から神の御言葉を聴くのは、宗教改革によって生まれたプロテスタントに極めて特徴的なことだということ、宗教改革によって個々人が聖書を所有して読むという成果がもたらされたが、それは或る程度聖書の多様な解釈を認めることにならざるを得ないということ、とはいえ歴史の示すところでは様々なことがありながらも勝手な解釈が生き残ることはなく、むしろそのことによって教会が確かな神の共同体として成長し手来たということです(間違っていたらごめんなさい)。

 第一章は明治初期のプロテスタント指導者が一堂に会した写真を紹介し、まず真っ先に彼らが行ったのは聖書の翻訳であり、その普及であったと告げています。ここで聖書の翻訳は原典に劣るものではなく、むしろ状況に応じて原典が表しえなかったものを補い、時代の新しい可能性を開くものであるとの記述になるほどと思いました。まさしく聖霊降臨の出来事に示されているように、私たちはみな自国の言葉で神の福音を聴くことができるのだということです。

 第二章は、律法の第三用法という言葉に注目して律法と福音の問題を扱っています。教派によって違いもあるようですが、そもそも律法はそれを守る者には祝福を、破る者には呪いを約束するものです。しかし、その完全な遵守は人間にはなしえないことがわかってき他時、価なしの契約へ道を拓くのはイエス・キリストです。それはアブラハムに対する祝福の廃棄ではなくキリストの義による律法の完成なのです。すなわち、イエス・キリストによって罪赦された者として律法を行うこと、これがいわゆる律法の第三用法です。二十世紀に大きな成果を残した旧約聖書神学においては、旧約の律法による救いはイエス・キリストによる救いに至る救済史の中で新たにとらえ直されました。神の現臨する場が天幕からイエス・キリストに取って代わられたのです。それは倫理的な律法のみならず祭儀的な律法をも引き継ぐものでした。

 第三章は、十戒を例に挙げて、聖書が多様な解釈をゆるすものであることを示しています。律法の要である十戒においてさえ、聖書そのものに由来すると考えられる違いが教派によって生じているのです。ここでは、出エジプト記20章と申命記5章の二つの十戒について二十世紀旧約聖書神学における諸説をを示しながら分析を加えています。この二つの十戒はもともと別個に存在したものが教会の中で一つとなったと見ることもでき、それ自体、宗教改革の聖書原理なくしてはあり得ないことが示されています。
 第四章は、プロテスタント牧師の最も重要な務めである説教について解説されています。キリスト教は徹頭徹尾言葉の宗教です。プロテスタント教会は、イエス・キリストの救いの出来事を語ることを最大の使命としながら、一方で見えない言葉である洗礼と聖餐というサクラメントを持っています。この章では再洗礼派や無教会主義との対比をしつつ、説教によって聖書を神の言葉として聴くとはどういうことかを述べています。

 第五章は、聖書と合理主義の関連について歴史的分析を行っています。植村正久の著作が示すところでは、エリートから社会活動家までを包含した明治期のキリスト教界の現状がわかると同時に、聖書を一字一句文字通りに信じる宣教師と聖書を歴史的合理性の観点から読む新神学との間の葛藤も伝わってきます。教理に注意を払いながらも教会の権威からは自由に、理性に従って真理に忠実に聖書を研究することこそ、宗教改革を経て可能となった聖書の読み方です。ここでは海老名弾正、新渡戸稲造の聖書受容に触れながら、自身の深い罪意識に基づいて歴史上の一点として現れたイエス・キリストによってのみ救いがもたらされたとの信仰に立つ植村正久を紹介しています。宗教改革によってもたらされた聖書の合理的解釈の多様性は、時に混乱を引き起こすこともありましたが、私たちは聖書の示す目的(キリストを証言すること)の核心を離れることなく聖書を読み続けたいものです。


2017年7月25日火曜日

「アスカちゃん!」

 久しぶりに、「柴犬とオランダ人と」のブログを開けてみたら6月末に再開されていたことを知り、「また毎日の楽しみができた」とお思ったのも束の間、アスカちゃんの現在の状態に絶句しました。脳腫瘍の末期で余命宣告をされたとのこと、とても言葉がありません。天真爛漫、お茶目で活発なアスカちゃんの姿が強く頭にあるので、体を傾けて歩いたり散歩中に倒れてしまったりするようになったということがにわかには信じられない気持ちです。会ったことはないけれど、もうりくの友達のような気がしていました。十万頭中十数匹しか現れない病で、十歳にも満たないまだ若い犬がかかるのは珍しいとのこと、なんでアスカちゃんが・・・というやるせない気持ちです。この一か月の記事を全部読み、とりあえずパソコンを閉じました。

 最初は3月頃に階段から落ちるようになったことが病に気づいたきっかけとなったようですが、医者からは関節炎の診断しかでず、何軒か通ってMRIを取ってもらってようやく病名がわかったそうです。まだ痛みを感じている様子はないとのことで少し安堵しましたが、医者からは安楽死という選択肢も考えておくように言われているようです。これまでのブログからどんなにアスカちゃん、セナちゃんをかわいがっていたかわかっているので、本当にお辛いだろうと推察するばかりです。私もしばらく何も手につかなくなってしまい、考えた末、初めてお便りコメントを書きました。りくのこともあるし(りくにも「アスカちゃん、大変なんだよ」と伝えました)、またフランクフルトの風景や情報もブログに書いていただいていたお礼も兼ねてお便りしました。慰めまたは励ましになったかどうかわかりませんが、遠くからながらアスカちゃん・またご家族皆様の平安をお祈りしております。


2017年7月23日日曜日

「幻のがまくん」

 朝の散歩から帰ってりくをつなぎ、草むしりをしていた時のことです。裏の小屋の前の雑草を取ろうとして、思わず「ヒッ」と飛びのきました。何か茶色の生き物がぬっと出てきてぴょんと跳んだからです。蛇かと思ってぎょっとしたのですが、それはどう見てもがまでした。すぐに草むらに隠れてしまいましたが、体調30センチ近くもある巨大で重そうながまでした。

 私が家の敷地内でがまを見たのはこれが初めてです。第一このへんには水がない。朝は草に露が降りていますがそれで生きられるわけではないでしょう。川までは直線距離で70メートルくらいでしょうが、そのあたりの河原に住んでいるとは思えない。ずっと離れた、りくの散歩道から見えるところにはがまの生息地があります。ごく小さな池のような水場なのですが、湧水がでているので生物が集まってくるようです。そこへ降りる階段はないので上から眺めるだけですが、「グァ、グァ」とがまの鳴き声がしています。しかし、兄の話ではそこのがまはさほど大きくはなく、10センチほどとのこと。また家までは300メートルも離れているので、そこから来たとも思えないのです。二日ほど前に大雨が降りましたが、道路が川になるほどの雨ではありません。何より心配なことに、近所に猫の多頭飼いをしている家があるのでうちの庭も我が物顔に荒らしていて、いつもりくの怒りを誘っているのです。りくはがまくんと仲良くやれると思いますが、猫に見つかったらひとたまりもないでしょう。とりあえず、がまくんの隠れ家を保持すべくその日の草取りは中止になりました。

 その晩、表通りの方で猫の鳴き声がひどく、りくが家の中で「ウーウー」唸っており、私はがまくん大丈夫かなと案じておりました。翌朝、昨日がまくんがいたあたりを捜してみましたが、当然のことながらもう見当たらず、きっと安全な場所に引っ越したのでしょう。こうなってみると、今更ながら私が見たのは本当にがまだったのかちょっと自信がなくなってきます。何かの前兆ではないだろうかと思ったりもします。がまくんよ、君はどこから来たのか、何者だったのか、そしてどこへ行ったのか・・・夏の朝に幻でも見たのではないかという、不思議な気分です。


2017年7月19日水曜日

「Paper Lanterns を見て」

 7月8日にニューヨーク国連本部で、核兵器の開発や保有、使用などを全面禁止する「核兵器禁止条約」が採択されたという報道がありました。唯一の被爆国である日本が参加しないのは、いつものことではありますが、私などには到底理解できないことです。おそらく、アメリカが参加しないから以外の理由はないのでしょが、公式的には「日本は核保有国と非保有国が協力する中で核兵器のない世界を目指しており、核保有国、非保有国の対立を深めるこのような条約交渉には署名しない」のだそうです。何とでも言えるものだと開いた口がふさがりません。。

 さて、偶然ですがその翌日の日曜日、礼拝後にごく少人数でPaper Lanternsという映画を見ました。太平洋戦争中に広島で捕虜となり、他の日本人同様、原爆投下により亡くなった米兵について、40年の歳月をかけて遺族を突き止め平和祈念館に被爆者登録した森重昭(もりしげあき)さんのドキュメンタリーです。この方は、 2016年5月27日に史上初めて米国大統領として広島を訪れたオバマ大統領が抱擁した方として注目を浴びました。映画自体は日本でもアメリカでも配給されていないもので、教会員でこの活動に携わっている方がいたおかげで大変貴重なものを鑑賞することができました。

 森さんは、8歳で被爆、その後40年ほどかけて、広島への原爆投下時に米飛行士捕虜12人(1945年7月28日、呉湾での戦いで、米軍大型機2機、小型機5機が撃墜されたことによる)が犠牲になったことを調査し、米国全土に国際電話をかけて全員の遺族と連絡をとるという地道な作業を丹念に行いました。原爆投下の犠牲者の中に米兵がいたことは伏せられており、米政府や軍から遺族へ知らされることもありませんでしたが、長年にわたる森さんの調査により、米政府および軍は初めてその事実を認めることとなりました。

 オバマ大統領の広島訪問には様々な難しい障害があったことと推察されますが、「謝罪はいらない、来て欲しい」という被爆者の訴えに応えたものであったのは間違いありません。森さんの活動も、敵味方を越えた人間として、その最期を遺族に知らせたものでした。大変な執念です。人は人間としてきちんと葬られない限り死なない。森さんはその葬りを自分の使命として行った人でした。

2017年7月15日土曜日

「紅春 108」

りくが無駄吠えをするようになりました。前から気づいていたのですが、なんとはなしに放っておいたらだんだんひどくなりました。父がいた頃はこまめに指導されていたのでしょうが、その後はすっかり緩んでいたのです。ここは再びしっかりしつけなければと思い、計画を立てました。りくが一番恐いのは、子供の頃からピコピコハンマーです。決して痛くはないのに、ピコっと叩かれそうになると首をすくめて嫌がります。おもちゃ箱をさがしましたが見当たらず、兄に訊くと壊れたから捨てたとのこと。あれなしにはりくのしつけはできないと、新しいのを買いに行きました。

 以前は百円ショップにあったはずですがもう売られていないようで、ホームセンターにもなく、初めてトイザラスに行きました。「ピコピコハンマーありますか」と尋ねるのは恥ずかしいなあと思いながら探していると、都合よく一つだけあるのを見つけ早速購入。後日、兄が捨てたはずのものも壊れたのは柄の部分だけで、まだ家にあったのを発見、とても良い音なので修理して使うことにしました。一つは茶の間に、一つは台所におき、りくが無駄吠えしたら「ピコッ」、また忘れて吠えたら「ピコッ」を繰り返すうち、だいぶ改善されてきました。最近は吠えたり、吠えそうになったらちらつかせるだけで、あきらかに我慢して吠えないようにしているのがわかります。「思い切り吠えたい! でも吠えるとあのハンマーが・・・」という感じで、ボソッ、ボソッとつぶやくようにしています。今のところ大成功です。

2017年7月11日火曜日

「怖すぎます」

 ここ何日か、聞こうとしなくてもラジオから漏れてくる呪いの叫びがあります。二人とも女性で、一人は運転経路を間違えた秘書を罵倒する国会議員、もう一人はネット上に夫への罵詈雑言を流している俳優の妻です。どうしてこうなってしまうのでしょうか。

 誰もが不思議に思うのは、社会における自分の地位や立場を考えると、自分に対してなされた他者の行為に比して、なぜここまでと思うほど過剰な反応をしていることです。一般の人の目には常軌を逸しているとしか見えません。ここから考えられることは、この方々は主観的には自己の生存権を侵されていると感じているのだということです。事実、国会議員Tの場合、秘書の身体を叩きながら、「お前は私の心を叩いている」と絶叫しており、彼女にとってこの行為は正当防衛なのです。経歴を見るとこれまで何一つ思い通りにならないことはなかったであろう高学歴の女性です。この方の場合は、国会議員という道を選んだことが唯一の失敗と言えるのではないでしょうか。もう少し自分の能力や努力がそのまま業績に反映されるような職を選ぶべきでした。政治などは或る意味人気商売で、しかもこの方の場合あらゆる点で自分よりはるかに劣る一般大衆を相手にするのですから、うまくいくはずがありません。いずれ国会議員は辞めざるを得ないと思いますが、それで転身できるならこの方にとってはよいことです。ただ家族、特にいきなり地獄に突き落とされた子供たちは本当に気の毒です。

 俳優の妻Mの場合は、献身的に夫を支えてきた伴侶というのが唯一のアイデンティティだと本人が自覚しています。夫から離婚を突きつけられることは自己の存在の基盤を失うことなのです。器用な人でもあるようでカリスマ主婦として資産を築き、タレント的な振る舞いもしていますが、夫を支えることが自己目的化していなければ今回のような行動にまで走ることはなかったでしょう。最悪の意味で、自分以外の人のために生きてしまったこの方は今後とても難しい問題を抱えることになります。恨みという形で爆発するしかないので、見苦しい姿をさらし続けることになるでしょう。もはや唯一の目標は相手を社会的に葬り去ることなのです。人気商売そのものである当の夫は針のむしろを覚悟しなければなりませんが、相手が悪すぎました。気の毒です。

 共通して言えるのは、この二人の女性は「自分しかいない」ということ、従ってその意味では5歳の子供と同じだということです。結局のところ、他者は自分の欲望に奉仕する限りにおいて存在し、自らは神のごとくに振る舞っているのです。ちょっとでも自分を客観視できるならそのおかしさがすぐわかるはずですが、気づいてくれることを願うばかりです。とにかく、呪いの言葉を吐くのはもうやめてください。マスコミももう取り上げないでください。聞きたくないのです。


2017年7月7日金曜日

「反省しなくていいのでしょうか」

 都議選の日は何日か前に不在者投票を済ませ、それきり選挙のことは忘れていました。政治に対する期待は微塵もないので気にもならず、夜になって結果を聞きました。予想以上の大差がついたことに少し驚きましたが、もっと驚いたのは、その前日だったか安倍首相が秋葉原に応援演説に行った時の報道でした。非常に多くの人が「安倍はやめろ」と「帰れ」コールを繰り返しており、ちょっと騒然としていました。その場にいた人たちの年代はわかりませんが、場所柄若い人が多かっただろうということ、それほど人が集まったのにはなにがしか呼びかけがあったのだろうということは推測できました。(それにしても、昭恵夫人にもらった百万円を返そうと籠池氏までいて札びらを見せていたというのだから凄い。) 応援演説をかき消された形の総理はいつものごとくいきり立って、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言っていました。その時頭に浮かんだのは次の二点。「安倍総理は十代の若者に選挙権を与えたことを後悔しているだろうな」ということと「こういう時のために禁じ手まで使って共謀罪法案を通したんだろうな」ということでした。

 「こんな人たち」と名指しされた人々はマジョリティとはいえぬまでも普通の方々でしょう。自分に反対しているからと言ってこの方々を排除する姿勢は首相としては失格です。敵対者を消していくのは独裁者であり、この方々とも共存していける仕方を模索するのが議会制民主主義国家の代表者ではないでしょうか。というようなことを、「中間報告」という名の強行採決で共謀罪法案を通した政府に向かって言っても無理なのか。もうだいぶ前から文明国としての議会運営の体をなしていないと思うのは私だけではないでしょう。忖度と密告は紙一重です。相手が、「鳴かぬなら脅してみようホトトギス」と思っていれば、「とりあえず鳴きまねしようホトトギス」とならざるを得ません。ホトトギスの話になったのは、たまたま友人からお子さんの話題で、ホトトギス川柳を作って遊んだ話を聞いたからです。その時、友人が私のことも詠んでくれたのですが、「あ、わかった」と言うなり一人で笑い出してしまいなかなか収まらず、ようやく聞けた一句はこうでした。「鳴かぬなら説得しようホトトギス」 私もゲラゲラ笑いました。ホトトギス相手に説得はしないと思いますが、りくにならするなあ。あの子はちゃんと話せば反省してわかってくれるから。


2017年7月3日月曜日

「捨てられない物」

 物に対する執着が薄くいらないものは大胆に処分できるたちですが、なかなか捨てられない物もあります。ちょっと古ぼけてはいるが十分機能は果たせるものや長年使って愛着のあるものが時折クローゼットの中から出てきます。この機会に何とかするかと思うもののそのままでは使えないので、ふと布製品は染め直してみようと思いました。真っ先に試したのは大型のトートバッグです。すっかり色あせ何年も日の目を見ていませんでしたが、十年前には仕事用具をすべて詰め込んでほぼこれだけを使っていたなあ、と。パンダマークのWWFの製品で作りがしっかりしており、持ち手の長さも金属の留め具部分もとても気に入っていたのです。

 布製品の染色といえば、やはり英国のD社、とりあえず一番近い色を選んで購入しました。元々の色は段ボールのような色なのですが、ベージュでは薄く茶色では濃い気がしたのでゴールドを試すことにしました。使用法に書いてある通り、お湯で溶き、塩水を加え(驚いたのは6リットルのお湯に対し塩が250gも必要なこと!)、かき混ぜながら15分、そのまま45分、あとは十回くらいすすいで脱水、乾燥させるだけです。途中でアイロンをかけて形を整えて干しました。

 結果は、新品のようにとはいきませんが、かなりパリッとした感じに生まれ変わり、まあ満足な仕上がりです。捨てずに済んでよかった。あとひと頑張りしてくれそうです。他にも帽子や衣類を別な色で試しましたが、もともとの色に似た色をのせるような感じで染め直すなら、かなりよくなるということがわかりました。ポリエステルやアクリル、ナイロンは染められないので残念です。難点があるとしたら、すすぎに大量の水を使うことで、これは排水溝に流すしかないから水質汚染になるだろうな。

 それにしても捨ててしまえば楽なのに捨てられないのはなぜでしょう。普段使いの衣類や身の回り品なら当たり前ですが身の丈に合っているということ、それゆえどうしてもそればかり選んで使い長い時間を共有してしまったこと、ゴミ箱に捨てるという安易な手間に比して、その中に消えてゆく記憶の容量があまりにも大きいこと、こういったことがその行動にブレーキをかけさせるのでしょうか。テレビはすぐに捨てられたんですがね。
 


2017年6月29日木曜日

「懐かしの中学生」

 史上最年少でプロ棋士になった中学生、藤井聡太が日本を席巻しています。私が将棋と聞いて頭に思い浮かぶのは二つだけです。一つは子供の頃読んだ四コマ漫画で、最初の一手を指した途端相手が「参りました」というもの。将棋の深遠さを知らされました。もう一つは教師として勤めてからのことですが、教室で生徒を当てる時の席順でしょうか。大抵は飛車か角の進み順、たまに「桂馬とび」を入れたりすると悲鳴が上がったものでした。

 このところの藤井フィーバーの根底には世間の安堵感があるのではないかと思います。もちろん彼は底知れぬ才能を秘めた天才ですが、或る意味人々をほっとさせるものを持っています。十代、それも前半で各方面の逸材が現れてきていることが顕著な昨今ですが、しかしそれはこれまでスポーツや芸能、歌やダンスという身体そのものが人目にさらされることを前提にした分野が多かったように思います。そして彼らはその分野の性質上、明るく活発で積極的な性格が目立っていました。しかし、藤井四段の場合は、リュックを背負ってとぼとぼ歩く姿はどこにでもいる地方都市の中学生ですし、はきはきと自分を主張することなく伏し目がちに訥々と話す様子は、押し出されてやむなく語っている少年にすぎません。ごく普通の家庭できちんとした育てられ方をしたこと、よい師匠に出会ったことなどが周辺取材から垣間見ることができ、とても懐かしい日本の中学生の原型を見ているようでした。
「ああ、まだこういうタイプの天才が絶滅していなかったのだ」
これが大方の率直な感想であり、それゆえみな安堵したのです。同時に、
「こういう子が才能を発揮できる場があって本当によかった」
とも思ったことでしょう。

 藤井四段をことさら有名にしたのは彼が会見で語った言葉でした。「とても中学生の言葉とは思えない」語彙であるとも話題になり、新聞を第一面から最後まで全部読んでいるという話を聞いて、やはり只者ではないと思った人も多かったでしょう。なにより、幼い時から将棋に負けると将棋盤を抱え込んで号泣していたという逸話から、そういう子供でなければとてもここまで来られなかったのも確かなことでしょう。しかし、彼について語る時のコメントで繰り返された、「まだ14歳の中学生が」という指摘は的外れだということは、自分がその年齢だった時のことを思い出せばすぐわかるはずです。思い当たることがないとしたら、その人は子供時代を忘れてしまったのです。14歳がどれほど大人であるか人は本当は知っているはずです。生活していく上でのほとんどのことが親頼み、大人頼みであったとしても、思考力の点では大人に劣るものではありません。ただ、置かれている寄る辺ない立場が重々わかっているので、心にどうすることもできない鬱屈を抱えているだけです。プロ棋士になるには、奨励会に入る、入って昇段していくという過程があり、なってからのタイトルを目指す一局一局の対戦の歩みは、聞くだけでも壮絶で厳しい世界です。藤井四段がいかに穏やかに見えても、我が内にとんでもないモンスターを宿している以上、どれほど高く大きな大志を秘めていることか想像もつきません。地元のプロ昇段の祝賀会で、50年以上なかったというタイトルを「東海地区に持って帰りたい」と抱負を述べていた時、その静かな闘志を見たと思いました。

 今回の快挙に水を差していたのは、竜王戦の賞金額や他の名だたる棋士の生涯獲得額などを調べ上げて情報を流している大人たちの態度です。そういう姿勢がこれまで子供たちの学ぶ力ををどれだけ損なってきたか、そういう風潮をあっさり退けるために藤井聡太が出現したのだということがまだわからないのかとあきれてしまいました。すでに詰んでしまった彼らの思考盤は救いようがありません。若き才能は余計な雑事に煩わされることなく一事に専心してほしいです。29連勝が結局するまでの間一番面白かったのは、夕飯に注文したチャーハンが売り切れでワンタンメンを注文し直したという話で、インターネット中継での「さすがにチャーハン売り切れまでは読めなかったか」というコメントは秀逸でした。



2017年6月25日日曜日

「よい知らせを」

 ろくなニュースがない。事件、事故、犯罪、暴力、テロ、不正、悪巧み、言い逃れ・・・。詩編には素直な祈りの詩もありますが、時に敵の殲滅を祈る呪いの言葉もあってたじろぐことがあります。しかし、悪いニュースがこれほど多く、悪人がこれほどわがもの顔に跋扈している今日、自分も呪いの言葉を心で呟いていることに気づくのです。心が荒れるといいことは何もないのですぐやめますが、「世に正義が打ち立てられていないのはおかしいと考えて、個人が悪人を私的に処罰する」という社会の風潮は日に日に高まっているように思います。或る種のドラマにおいてはその流れが一ジャンルを形成していると言ってもよいようです。現代は呪いの時代なのです。

 先日、申し込みをしていなかったのですが地区教会婦人会の研修会に当日参加で午前中だけ出させていただきました。礼拝説教をされた牧師はその中で、「ルターの宗教改革から五百年の今、プロテスタント教会という呼称はやめて、福音教会という名乗りをすべきではないか」という話をなさいました。福音派や福音主義という呼び名はすでに歴史を背負っておりそれゆえ色がついてはいるが、今プロテスタント(抗議する者)という名を変えるなら、福音教会としか言いようがないのではないかということでしょう。大変印象深いその説教は、「呪いではなく福音を求めましょう。なぜなら神様はあらゆる人を救いたいと思っておられるからです」と、結ばれましたが、確かにそれこそが教会のすべきことなのです。

 また、この日「私の歩んできた道」という題で講演なさった牧師の話で私が一番印象に残った言葉は(そのままの言葉ではないのですが)、「私は、神様は祈りを聞いて、話される言葉がそのまま現実となる方であることを知っていたので祈れなかった」という言葉でした。子供が生死の境にいた時、同じ状況にある孫を持つ方が、「私が代わってあげたい」と言うのを聞いた時の話です。他にもあだちいさい子どもがいたため、今目の前で苦しむ子を見てもとても「私を代わりにしてください」とは祈れなかったとのこと。結局、お子さんは助かりましたが、「光あれ」と言えばその通りになる神様を信じるがゆえ、祈れなかったことを神はご存じでそのうめきを聴き届けてくださったのでしょう。二人の牧師の話は私の中で呼応し合いました。呪いと復讐は神の専権事項です。キリスト者は福音を語ればよいのだし、この世に立つ教会はこの世の他の場所では決して聞くことのできない福音を聴ける唯一の場所なのです。教会で福音を聴けないとしたら、この世に希望はありません。教会は、神の言葉を信じて、祈って、待つ、そうあらねばならないのです。


2017年6月21日水曜日

「紅春 107」

 帰省して翌日りくを風呂に入れ、準備が整いました。5月に行くはずだったワクチン接種が今年は6月になってしまいました。夏毛の生え代わりが遅れ抜け毛が6月まで続き、とても行ける状態ではなかったからです。土曜日の午前中に行くはずでしたが、前日の午後に兄の予定が空いたので、午後に行くのは初めてでしたが行ってみました。土曜日よりは空いているはずです。

 診察は二匹待ちで、すぐりくの番になりました。受診台の上で問診を受けながら、体重測定、検温、聴診器での心臓音の確認があり、体重はまた減っていたのでがっくりきました。もう一つ指摘を受けたのは脚に毛の薄い部分があること。りくがいつも毛づくろいをしているせいだと思うのですが、薄毛は被毛の状態としては望ましくないとのことでした。まあ、それはそうだろうな。

 それから採血となりいったん飼い主は診察室を出ましたが、なぜか「もう一度入って、注射の時りくちゃんを励ましてください」と言われました。注射に関しては飼い主がいない方がうまくいく場合と、同席した方がうまくいく場合があるそうで、そう言えば前々年は同席したのに昨年りくはひとりで注射を受けたことを思い出しました。隣室にキャンキャン鳴いている犬がいたせいでりくも怖がったのか、今年は同席することになったようです。入ってビックリ、りくはエリザベス・カラーをつけられており、これは初めてのことでした。注射は無事終了、りくは全く騒がずおとなしくしていました。アレルギー反応がないか2時間様子を見るように言われ帰宅しました。そのまま昼寝をさせ、夕方起きた時にはすっかり元気になっていました。今年の一仕事を終えて安心しました。これで一年間、ジステンバー、肝炎、咽頭気管炎、コロナ、パラインフルエンザ、パルボ、レプトスピラ(これが三種)の心配はないぞ、りく。

2017年6月17日土曜日

「テレビとの決別」

 ずいぶん前から、「もうテレビはいらないんじゃないか」と思っていました。以前職場で、お子さんもいらっしゃる方でしたが、「うちにはテレビがないの」と言っていたのを聞いて、「ほう、それはそれでいいかもしれない」と強く思ったのを覚えています。テレビの音声が入るラジオを使ってみて何の支障もないのは実感できていましたが、ふんぎりがつかないまま惰性でそのままになっていました。

 きっかけはNHKの訪問でした。地デジテレビを持っていて衛星放送を受信できるマンションなどに居住している場合、衛星放送受信料も支払わなければならないと放送法で決まっているそうです。契約させられてしまいましたが、見てもいない衛星放送受信料まで支払えというのはおかしい、あまりにも横暴だと感じました。その時は末端の請負業者と言い争いたくもないので黙って判を押しましたが、この時はっきり「テレビを処分しよう」と決めました。長いこと迷っていたことについて、背中を押してもらえてむしろよかったと思ったくらいです。

 三日後にはリサイクル業者に電話してテレビを引き取ってもらい、「TV処分代」と書かれた領収証をもらい、NHKに電話して解約手続きをしました。書類が送られるまで十日もかかるそうで、料金は日割りではなく月単位でかかるというあきれ果てた怠惰な体質をこの期に及んで知りました。業者は怪訝そうに、「故障したんですか」と尋ねましたが、処分したのは全盛だった頃のシャープのアクオス(亀山モデル)、8年で壊れるはずがありません。ただ、諸行無常の言葉通り、社会の状況は一変しています。衛星受信料契約手続きをしてから一週間もしないうちに、契約を解除するとはNHKも予想していなかったかもしれません。私にとってどうにも不可解なのは、どうしてマンションに於いて地上波とBSを分けて受信ができるようにしないのか、そして受信した通りに受信料を徴収するシステムを構築しないのかということです。その方が長期的に見て受信料収益を減らさずに済むに違いありません。

 使用してもいないものに課金することを世間一般では詐欺と言います。こんなことができるのは、「テレビなしでやっていけるはずがない」という驕りがあるとしか思えません。しかし時代は変わったのです。受信料を徴収していない放送局にしても、番組の三分の一がCMではどうしようもありません。テレビというメディアが新聞同様終焉に向かっているのが誰の目にも明らかな今日、せいぜいできるのはその速度をほんの少し遅らせ、延命を図ることだけでしょう。


2017年6月13日火曜日

「健康食材花盛り」

 テレビ番組というのは、ニュースとドラマを除けば、お笑いか食または健康に関わるもので成り立っているように思われます。健康をテーマとする番組は需要も多いのでしょう、老若男女を問わず人気があるようです。体に良い食べ物は大体もうよく知られているので、最近はかなり細かい情報が出されてきます。その一つがシナモンです。毛細血管の修復に明らかな効果がある食材だそうで、以前からシナモンロールを作っていた私は大変うれしく思いました。匂いが強いので何にでも合うとはいきませんが、りんごやかぼちゃとの相性は抜群です。つい最近は、もう終わりも終わりのりんごがスーパーで格安で売られていたので、どっさりシナモンアップルを作って冷凍してあります。かぼちゃも欠かさず食べている大変優良な野菜ですが、これからはなるべくシナモンと組み合わせるつもりです。

 ミニトマトは食べやすいこともあり大人気ですが、抗酸化作用があまりにも有名になったため、特においしい商品は品薄で、よく行く店では入荷するとすぐ売り切れるのか、最近はいつ行ってもありません。そのミニトマトはどういう違いなのか、まるで果物のようなおいしさなのです。

 納豆は知る人ぞ知る健康食品です。(消費量は水戸を抜いて福島市が全国一だそうです。)今まで通り普通に食べればよいようです。できるだけ熱を加えない方がよいとも聞きましたが、熱いご飯にのせるくらいは許してほしいです。

 先日は鉄分に関する放送がありました。動物系の食品は体に吸収されやすく、野菜や海草は吸収されにくいと聞いて、がっかりでした。私はプリン体の多い食品を控えているので、レバー等はあきらめホウレン草やひじきで摂取していたからです。しかし、鉄製品を用いて調理し、貧血を国家的レベルで大幅に改善したカンボジアの話を聞いて、「そんな方法があったのか」と目からうろこでした。そういえば家にずっと使っていないすき焼き用の鉄鍋があった・・・と思いだし、おもむろに取り出して可能な限り調理はそれで行うことにしました。鉄が溶けだすまでに7分かかるらしく、放送ではそのことが強調されていたようです。これで少しでも食生活が改善されるとよいなと、ちょっと来月の検査結果が楽しみです、


2017年6月9日金曜日

「おてんとさまはどこいった」

 たしか北野武の子供時代を描いたドラマで、母親が「うちは貧乏だけど、おてんとさまに顔向けできないようなことは、これっぽっちもしてないんだからね」と、タケシに言っている場面がありました。昔の日本の家庭には、貧富の差を問わずこういう健全な感覚があったと思います。今は本当にひどいものです。世間を騒がせているM学園、K学園問題を見ると、内閣府の驕り、横暴な態度は度し難いものがあります。取り巻きや友人の便宜を図り、関係先に圧力をかけておきながら全く悪びれることがない。むしろ逆切れしたふりを装い、誠実さがみじんも感じられないことは誰の目にも明らかで、こんな内閣府をいただく国は憐れです。絶対他者の正義と公正という視点を持たず、自らが神のごとくに振る舞う人間をを見ると、詩編の断片が次々と心に浮かびます。

神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
 (詩編103節)
12:05彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
 (詩編125節)
主に逆らう者は勝手にふるまいます
人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
 (詩編129節)
 神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
 (詩編141節)

「主をたたえながら」というのは、敬虔なふりをしてという意味でしょう。所詮、人は塵に過ぎないものです。そうした人の行く末は明確に思い浮かびます。

人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。 風がその上に吹けば、消えうせ
生えていた所を知る者もなくなる。
 (詩編1031516節)
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
 (イザヤ書407節)

そしてイザヤのその言葉に続くのはもちろんこの一文です。

草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
 (イザヤ書408節)


2017年6月5日月曜日

「紅春 106」

  りくをお風呂に入れたときのことです。もともとお風呂はきらいなのですが、もう慣れたと思っていました。ところが、バスタブから出して洗っている時に、「ヒーン」という妙な声を出しました。これはまずい。なぜなら発作が起きる手前の状態に似ているからです。あわててなだめながら手短に切り上げ洗い流して終わりにしましたが、その間ずっと断続的にこの声をだしており、また発作が起きるのではないかとはらはらしました。

 結局何事もなく終了し、その後の様子も変わりありません。思うに、どうもりくは発作を起こして以来、発作を起こせばいやなことをやめてもらえると思っているのではないかと思うのです。頭のよい子なのでそのくらいは考えそうです。それに、これは自分もそうなのでよくわかるのですが、年をとると忍耐力が明らかに落ちてきます。以前は辛抱していたことでも、もう嫌なことは我慢しないというふうに変わってきています。これからはお互い相手の我儘と折り合っていかなければならないようです。


2017年6月1日木曜日

「冷たい食生活」

 どなたもそうかもしれませんが、私は暑くなるとてきめんに食欲が落ちます。冷たいものしか食べられなくなるのです。思い起こせば、他のものが何ものどを通らずそうめんしか食べられなかった夏もありました。すいかは運ぶのが大変ですが、夏場は欠かしたことがありません。普通の温めて食べるものを冷やすことは念頭になかったのですが、先日自動販売機で冷たい味噌汁なるものが販売されていることを知り、なるほどと思いました。母が昔言っていたのですが、暑くなって赤ちゃんがミルクを飲まなくなったとき、「味噌汁の上澄みでも良い」と医者から言われ試してみたら、それはよく飲んだというのです。「こんなの栄養あるのかしら」と心配だったそうですが、栄養はあるはずだし何よりちゃんと食べられることが大事です。具材はいろいろ試してみるつもりですが、とりあえずすぐ柔らかくなる玉ねぎとニンジンで味噌汁を作り、鍋のままだと場所を取るのでミキサーにかけてからポットに入れて冷蔵しました。う~ん、冷たい味噌汁もなかなかおいしいものです。

 ちなみに私は薄味のだしが染みた大根の煮物等も好きですが、冬しか食べられないと思っていました。これも冷やしてみたらとてもおいしく食べられました。コーヒーはすでに少し前からサイフォンで淹れたものを冷蔵しています。ひとつ難点があります。冷やすには時間がかかるということです。そのため朝の6時から夕飯作りが始まり、出来たらあとは冷やすだけ。また前夜作ったものは、翌日にはよく冷えておいしくいただけます。


2017年5月29日月曜日

「家のメンテナンス」

 数年前に集合住宅の一回目の大規模修繕が終わりました。委員会から出される様々な指示に従っているだけの立場だったので気楽でしたが、全体を取り仕切っていた委員会の方々はどれほど大変だったことかと察せられます。携わる設計会社、施工業者も公募入札で決定し、その公明正大で非常に丁寧な仕事ぶりに頭が下がりました。おそらくそのせいで、今年あった共用部の火災保険見直しでは、保険会社の調査により「めったにない良い管理状態」と判定されました。ありがたいことです。

 家というのは建てるよりメンテナンスの方が大変です。家に限らず世の中の大体のことがそうかもしれません。こういった地味な保守管理によって本来の機能が保たれているのです。実家の方はかれこれ築三十年は経っていますから、相当くたびれています。到底私には手がつけられませんが、急に真夏日になった5月の或る日、蚊の侵入に際して網戸だけは張り替えないといけないと決意しました。長年の紫外線に晒されて憐れな状態のまま放置されていたものが限界を迎えていました。しかし、日程を調整して業者を呼んで・・・等と考えていたら面倒になり、それだけで疲れました。そこでふとインターネットで検索したら、「網戸の張り替えはとても簡単にできます」との表示です。金属部分をばらして張り替えるのかと思っていたのですが、ただ溝に細い専用のゴムを押し込んで固定させるだけのようです。一生のうち、自分で網戸を張り替える日が来ようとは思ってもみませんでしたが、早速ホームセンターに行って材料を買い、やってみました。結論から言うと、網戸を外すときネジで締められた突起部を緩めることさえできれば、張り替え自体はとても簡単でした。この点に関しては、何しろ古い代物ですから、ネジを外すとき頭がつぶれて外せないというのが一番大きな問題でしたが、まあできる範囲でほどほどにしました。

 網戸のことは兄も気にしていたらしく、専用のカッターを買ってきてくれたのですが、はぶの頭のような形をしたその器具を見た時、「あ~、これは・・・」と既視感がありました。どこで見たかは定かではありませんがおそらく掃除関係の器具子で、「これ何だろう」と思った記憶があったのです。そう言えば、場所によっては網戸が割としっかり張られていた所もあった、あれは父が張り替えた跡だったのでしょう。とても器用な人でしたから、日よけや風よけの柵なども河原から取ってきた葦を利用して造っていました。三年たってもうすっかり駄目になってしまい残念ですが・・。家の手入れは本当に大変ですが、今回の作業でとりあえず夏への備えはできたと思います。


2017年5月24日水曜日

「庭の手入れ」

 帰省してまず驚くのは家の一帯が緑に覆われていることです。決して喜ばしい景観ではなく、「このままでは植物に侵食され幽霊屋敷になってしまう」と恐れるのです。ですから、帰省の翌日からまず取り組むのは草むしりです。朝一でりくと散歩に行ってから、涼しいうちに毎日小一時間もやっていますが、不在中に繁茂した雑草を取りきるのは至難のわざです。たまにうっかりして、ちゃんとした庭の花を抜いてしまったり、雑草かどうか迷うこともありますが、「急速に伸びるのは雑草」という基準で間違いないようです。人間界と同じで悪いものはまたたく間に増殖するのです。

 取った草を山にしてできるだけ乾燥させ、燃えるごみ回収の前日に袋に詰めてみたら12袋にもなりました。次の回収日にもまた12袋…、驚くべき量です。「12のかごにいっぱいになった」のが、五千人の給食でのようにパン屑ならよいのですが、雑草ではどうしようもありません。藪蚊の温床ともなる雑草はりくの大敵、これから夏に向かってその生命力が益々増大すると思うと、おちおち帰京もしていられません。今回はまだ芽が出たばかりの本の小さな草も抜いて様子を見てみるつもりですが、雑草でもまだ赤ちゃんのうちはちょっと可哀想にもなり、抜くのに一瞬ためらいが生じます。しかし、ここは心を鬼にして、来月の作業量を少しでも削減しないとこちらの身がもちません。

2017年5月20日土曜日

「紅春 105」

5月半ば、りくは抜け毛で憐れな状態です。4月に一応落ち着いたように思っていたのですが、5月に入ってまた始まり、こんなにひどいのは初めてだとおもうほどの有様です。ダブルコートの内側の毛が全部抜けるのですから半端な量ではありません。毎日ごそっと抜け、胴体だけでなく手足もまだら模様になっています。知らない人が見たら、何か悪い皮膚病ではないかと思うことでしょう。頭頂部のハート形のハゲのことは以前書きましたが、目から鼻にかけては毛が抜けて黒い地肌が見えており、鼻黒イタチを通り越しカモノハシのような顔になっています。

 ただ一つ救いなのは、本人はだんだん涼しくなっていくので至って快適そうで、外観的みじめさを感じていないことです。ブラッシングは気持ちいいのか、ブラシを持っただけで自分からやって来ておとなしく抜け毛の世話をされています。しかしこれはまるできりがなく、抜け毛の季節が終わるのを待つしか手はなさそうです。


2017年5月17日水曜日

「今年の受難と小人の靴屋」

 今年参ったことの一つは、集合住宅の管理組合の理事が廻ってきたことです。輪番制だからいつかは順番になるのですが、ここ二年その順番表が出ていなかったので不意打ちを食らった感じでした。役職決めでは、不在にすることも多いため、一番これといった仕事のない副理事長にしていただきました。皆こうしたことに不慣れな者同士でしたが、わからないなりになんとか船出しました。
 ところがです。理事会が動き出して一か月ほどで、理事長が倒れられ入院されるという非常事態となりました。すぐに復帰できる状態ではなく、また他にも理事会に出られない方もいて、理事会自体が成員不足で流れてしまうという困難な状況となりました。もう一人の副理事長は昨年からの継続の方なので、理事長代理として奮闘されていますが、私も一応同じ立場なので大変なことになってきたのです。しかも今年は、大規模修繕5年目点検や長期修繕計画の見直しの年に当たっており、その仕事の質と量において到底今の理事会で対応できるものではなく、時間的にも間に合わないように思われました。他にも様々な通常業務があるのです。とりあえず大規模修繕委員をされた方にお話を伺いに行きましたが、それだけで頭がくらくらしました。以前の資料を一緒に見つけ出し、理事会耀に必要文書をコピーするだけで丸一日かかりました。そのうち、往復生活の中で無理がたたって体調を崩し、万事休す。「私の助けはどこからくるのか」と思いつつしばらく寝たり起きたりの状態でした。若干回復してから今後の方策を考えなければと、何日かぶりでパソコンを開けメールチェックをしたところ、驚きの知らせが! 理事長代理の要請に応じて、理事会業務の引き継ぎに来てくださったことのある元理事や大規模修繕委員の方々が現状を案じてくださり、援助の手を差し伸べてくれることになったという知らせでした。私が伏している間にまるで小人の靴屋のように働きがなされ、大きな問題が解決されていたのです。もちろんその方々にはひたすら感謝ですが、何より「確かに、私の助けは天地を造られた主から来た」という思いが強く、神様に心から感謝致しました。とはいえ、他の問題を含め今後も課題山積の理事会です。助けは必ず来ることを祈って進まなければなりません。


2017年5月11日木曜日

「火災保険」

 連休中にしてよかったことは、火災保険の見直しです。しばらく前に切れていたのにのんびりしていましたが、「最近火事が多いな」と気づいてハッとしました。以前は住宅ローンに付随していたところにしたので、ちゃんと調べて入るのはこれが初めてです。比較サイトで検索すると、それぞれの保険会社の加入者が感想や体験記を書いており、各人がそこに決めた合理的な理由を読んで、「皆さん、堅実に生きていらしてえらいなあ」と感心しました。それだけで疲れそうになったので、気を取り直し、とりあえず最低限必要な保障に絞ることにしました。火災とはまるで関係のない様々な災難に対応する保障が細かく決められているようで、必要な保障だけ選んで付けられるようになっています。私の場合、盗られる物がないので「盗難に対する保障はいらないな」などと、ざっくり考えました。

 ところが調べてみると、私はこういうことに全く疎いため、火災保険の常識に属することでも、これまで知らなかったことが多かったので、いくつか驚いた順に書いておきます。
1.地震で起きた火災は、地震保険に入っていないとカバーされない。
 今回、「とりあえず火事の時に保障されればよい」と考えており、何が原因でも火災は火災と思っていたので、これはびっくりです。地震保険に入っておかなければ、火災保険に入った意味は無い気がします。
2.「水災」という項目でカバーされるのは、床上浸水や土砂崩れのような場合である。
 「水災」と聞いて、台風で窓ガラスが割れ・・・といった事態を想定していただけに、ここでいう「水災」というのは、街中のマンションでしかも低層階でない場合、まずあり得ない被害だとわかりました。台風の被害のようなものは「風災」でカバーされるとのこと。したがって、この保障は心置きなく外すことができました。
3.火事はもちろん水濡れ等の被害も、他の部屋に原因がある場合でも自分で原状復帰するしかない。
 新潟県糸魚川市の大火で強調されていたのは、「火元がどこであろうと、延焼の賠償責任を負わない」ということでした。マンションの場合共用部分が原因の被害は、マンション全体で加入している火災保険でカバーされますが、何か起こるとしたら他の戸からである可能性が大きいでしょう。これは付加するのが賢明です。

 というわけで、ともかく「水災」だけ外して、個人賠償責任(他人に迷惑をかけた時の保障)を付ける方針で考えがまとまりました。あとはその路線で各社を比較し、パンフレットを送付してもらって決定。これでよかったのかどうかわかりませんが、保障年数は書いてあった中で一番長い10年にしました。一年換算の費用が安くなること以上に、もうこの件はできるだけ長く考えなくて済むからです。「保険料は払って、何も起こらないのが一番!」というのが保険の勘所だからこれでよいでしょう。

2017年5月8日月曜日

「紅春 104」


 帰省して茶の間にいる時、私は以前父がいた場所に座ります。パソコンの電源も近いし、一番いい場所なのです。ところが、私が台所仕事などして戻ってくると大抵りくがそこにいます。「ちょっとごめんね」と言ってどいてもらいますが、よく考えると一年365日、それも一日中家にいるのはりくだけなのですから、普段そこはりくの席なのです。ですが、他の席は私には不都合なので申し訳ないのですが、帰省中はそこを使わせていただかねばなりません。ですから席を立つ時は席取りのため、物を置いておきます。多くはりくのおもちゃを積み上げておくなどです。
 可哀想に、りくは「僕の席がない」というようにうろうろして、しかたなく時間をかけて別な席にクルクルポンと座ります。りくもどこでもよいというわけにはいかないようで、席決めは難しいのです。私もりくが眠そうだったり、すっかり落ち着いて座っている時は席を譲って別な席につきます。今日も席取りゲームは大変です。

2017年5月4日木曜日

「頭を空にする方法」

 世は連休気分で幾分華やいでいますが、私にはあまり関係がありません。このところ、集合住宅に関わる手に負えない面倒な用事がやって来たり、なぜこうも悲しいことが起こるのだろうという事件がお起きたりと、気が沈むことの方が多いのです。こういう時は料理以外の地味な家事をするに限ります。普段あまりしないところのお掃除とか、手洗いによる洗濯とか、どうでもいい繕い物や毛玉取りなどで、頭は使わないが適度に集中が必要な家事です。やっているうちに頭が空になるのでやる前よりは気が晴れます。

 私は仕事に伴う悩み事はないし、対人的なストレスも知れたものですが、このところ考えているのは人間にとって一番難しい問題、すなわち「謝ること」と「赦すこと」についてです。人間は自分が悪いと思ってもどうあっても謝りたくない生き物です。言い訳はいくらでも思いつきますし、一度謝ったらどんなに責められるかわからない、きっと赦してくれないだろう等々と考えると、ほとんどの人が自己保身に走ります。また、自分に対してなされた悪事を「赦すこと」の難しさを知らない人はいないでしょう。かけがえのないもの(特に命のあるもの)、大事にしてきたものを壊されたり粗末に扱われたらまず赦せないのが普通ですし、「絶対赦さない」と心に誓うこともあるでしょう。もっと瑣末なこと、他の人から見ればたいしたことでないと思えることでもしばしばそうで、暗い怨念を募らせてされたことの何倍にも値する復讐が事件化して、人間の心の闇を知らされることも少なくありません。

 「私が人を赦すのはサタンに付け込まれないためなのです」と語ったのはルターだと思っていたのですが、もともとはパウロの言葉だったようです。
「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」
  コリントの信徒への手紙二2:10~11 (新共同訳)

 私の場合、日が短い冬の間が憂鬱なのはずっとのことですが、少し前から五月~六月もなんだか鬱々とするようになってきました。おそらくこの時期が、新年度の様々な事項の切り替えに対処したり認定書の更新の書類をそろえたりするため、煩雑な雑事に煩わされるようになったせいです。こういうことが面倒になったのは年をとった証拠、病院で診断書を書いてもらうのも愉快なことではありません。先日の通院日は気晴らしを兼ねて、前日に焼いたシナモンアップルブレッドとサイフォンで淹れたコーヒーのポットを持って出かけ、帰りにピクニック気分を味わうことにしました。バスの乗り換え地点でよさそうな公園を見つけて気になっていたのですが、実際行ってみたら「もっと早く来ればよかった」と思うほど、緑の深い大きな公園でした。今は新緑の絶好の季節、穴場的な場所なのか人も少なく、1時間以上森林浴でぼーっとし、本当にいい息抜きができました。すっかり頭が空になって、人間に関わる事はもうどうでもよくなり、こんな環境なら「謝ること」も「赦すこと」もできそうなのだが・・・と、ふと思ったことでした。

2017年4月29日土曜日

「エックス・デイに備える心境」

 北朝鮮の核ミサイル発射のエックス・デイが子供の間でも話題になっていると聞きました。一部の子供たちは「僕たちもうすぐ死ぬんだね」と話しているのだとか。一方で、家庭用の核シェルターも売れていると言います。聞けば、わりと手の届きそうな値段なのですが、そこまでして生き残りたいという前向きな気持ちを持てることの方がすごい、と正直思います。こういう生活の在り方は或る意味、持病を抱えているのと同じ心境でしょう。その日はいつ来るかわからない。なるべく先送りする努力は必要ですが、その先についての準備をしたり心持ちを整えるのも同じくらい大事だと思っています。

 昨今の社会状況は国の内外を問わず、最悪レベルまで下がっているとしか思えず、劇画的な言い方をすれば神の怒りがいつ爆発してもおかしくないと感じています。最近の事件で一番つらかったのは安孫子の幼女連れ去り殺人事件です。こういう無抵抗で弱い者、人を信じている小さな者に対する犯罪は聞くだけでも気持ちがどーんと落ち込み、人間の罪悪の計り知れぬ深さを思い知らされます。犯人はもちろん赦し難い極悪人ですが、この点は犯人が死刑になればそれで済むものでもないと強く感じますし、底なしの罪悪に沈んだ人をどうするべきか全く見当もつきません。神の怒りのしるしはいつか下されるでしょう。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する(ローマの信徒への手紙12:19)」とあるからです。

 今村雅弘復興大臣はやはり辞職となりました。更迭と言った方がいいかもしれません。問題発言は二階派の集まりでの講演で起きましたが、それは東日本大震災の被害について触れた次の言葉です。
「これはまだ東北で、あっちの方だったから良かった。首都圏に近かったりすると、莫大な、甚大な額になった」
正直な人です。ただ愚かなのです。下を向いて原稿を読んでいた他の部分は、おそらく官僚の作文でそつのない文章だったのでしょうが、唯一顔を上げてアドリブで言ったこの部分が命取りとなりました。佐賀出身とのことですが、私の想像ではこの方は東京暮らしが長く、熊本の大地震についてもきっと同じ感想をもたれたのではないでしょうか。語弊があるかもしれませんが、これが東京に住んでいる者の感覚なのです。東京人の考えは私にもよくわかります。こんなことを言うと災厄を呼び寄せそうで恐いのですが、東京人は東京に被害が及ばない限り決して他の地域について深く考えることはないでしょう。いや、この方の場合は仕事にもかかわらず、当の担当地域に対して「あっち」という遠称の指示代名詞でしか呼べない距離感が一番駄目なところと言うべきか。

 ただ、一連の騒動に関してもっと問題だったのは二階俊博幹事長のコメントで、
「政治家の話をマスコミが余すところなく記録をとって、一行悪いところがあったら『すぐ首を取れ』と。何ちゅうことか。それの方(マスコミ)の首、取った方がいいぐらい。そんな人は初めから排除して、入れないようにしなきゃダメ」
と述べたことです。ここまで認識不足と独裁体質が身体化してしまっていたら、「そんな人は初めから排除して、政治家になれないようにしなきゃダメだな」と、私は思ったのですが、他の東北人の反応はもっとおおらかでした。インスタグラムに満開の弘前の桜を載せ、「東北でよかった」の文字。今村大臣の言葉を逆手にとっての見事な切り返しに、私はかなり東京ナイズされてしまった、東北人として再修業しなければと反省しました。


2017年4月25日火曜日

「やり残していた仕事」

 昨年の夏から結構本気で旧約聖書を読み出し、耳で聞いただけではすり抜けてしまうことを書きとめる、調べる等を繰り返すうち、自分の中でまとまってくるお話がありました。消えないうちにと書き始め、大げさに言うと寝食忘れて二週間で最初の稿ができ、ふうっと脱力。あまり簡単に書けたので自分で書いている気がしないほどでした。創作という活動はもともと自分の楽しみのためのものであり、自分にとってだけ面白ければよいというのが常々私の持論ですが、この時も出来栄えに結構満足し、それで終わってよかったし、終わりにしたつもりでした。

 しかしその後も旧約聖書を読んでいると、さらにわかってくることが急激に増え、自分の理解を書きとめる必要がでてきました。せっかくなので出来上がっていた作品にわかったことをどんどん盛り込んでいくことにしました。これは全く地道な作業で、フィクションを書いた時のようにすいすいとは進みませんでしたが、この過程で発見することは多く、口語訳と新共同訳の比較から思わぬことに気づいたり、各書のつながりが見えたりして別の楽しさがありました。結局、分量が3倍になりその分中身も厚みが増して、話の骨格は同じながらなんだか違う作品になった気がしました。とりあえず完成としたのは、聖書を読み込むという営みは終わらないと言えばいつまでも終わらないからで、しかしどこかで切らないときりがないためでした。

 もともと出来上がったらちょっとずつブログに載せようと思っていましたが、途中ではたと思い返し、それはいつでもできることだからその前にどこかに応募してみることにしました。自分なりには旧約聖書を概ね概観できるので、確かにかなり特殊なお話ではあるものの、聖書と無縁な一般的日本人にも案外伝わるのではないかと思います。とりあえずもう送ったので、半年は塩漬けです。少し後始末がありますが、いまさら致命的な間違いを見つけても困るし、あとは手を付けずに放っておきます。半年後に冷静な目で見てその先を考えることに致しましょう。ま、或る意味、ずっとやらなくちゃと思っていた仕事を終えたと感じています。
 
 

2017年4月20日木曜日

「里山を守らなければ」

 先日、福島の宝、花見山に連れて行っていただきました。考えてみれば、震災の翌年、養生のため一般公開されていなかった折に行って以来でした。ちょうど花が見ごろの時で、天候もよかったので大変な人出でした。周囲の山も含めて何とも言えないパステル調に曇った風景も、鮮やかな菜の花畑との対照も全てが味わい深く、時折吹くゆるい春風にはためく庭先の鯉のぼりも里山の風物詩です。

 先日(4/17)のニュースで、「キノコ違法採取 共謀罪、妥当か」という記事が報道されました。「共謀罪」の構成要件を改め「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案をめぐっての話で、金田勝年法相が保安林でのキノコや鉱物の採取も対象犯罪としたことについて述べた時のものです。理由は「相当の経済的利益を生じる場合もある。組織的犯罪集団が必要な資金を得るために計画することが現実的に想定される」とのことでした。

 これは或る意味、テロ以上に恐ろしい話です。山の幸に対して、ついにここまで魔の手が伸びて来たのかという思いです。この案件の狙いは実は里山の破壊にあるのではないかとの疑念を抱いています。数年前に『里山資本主義』が出版されてからは特に、里山が象徴する自然の豊かさに目を見開かされ、お金に依存しないサブシステムを上手に作りだし活用しようとする人々が増えてきました。これがマネー資本主義にとってどれほど危険なアイディアであり、まだ芽のうちに摘み取ってしまわなければならないと考える人々がいるのは事実でしょう。そういう人々が経済界を牛耳り政権を担っており、躍起になってこの流れの拡大を阻止しようとしています。里山を荒廃させ、人々を都市に回帰させないと、地方の行政は立ち行かなくなります。また、過密状態でも都会に人を集中させ一円でも多く出費させないと、マネー資本主義は回りません。彼らの目論見が成功した時、その先に何が待っているのか、私には想像もつきません。命の源ともいえる豊かな里山がなくなった後、いったい日本に何が残るのでしょうか。

 花見山の周辺はお店もでていましたが、とても商売っ気のないゆったりした商いでほっとしました。のんびりした雰囲気の中、行政サイドの派遣員だけでなくボランティアのガイドも大勢出て、交通規制をしたり、案内や説明をして環境を守っている姿をとても清々しく感じました。いかにも福島らしいことです。こういった趣すべてはお金では買えないものなのです。そして、これはいくら強調してもしすぎることはないことですが、あの山は個人所有であるにもかかわらず無料で公開されているのです。こういった金儲けのチャンスをみすみす逃すような行為は、キノコ法案を通そうとしている方々にはおよそ理解に苦しむ馬鹿げた事例に見えるに違いありません。しかし、これこそが福島の豊かさなのです。花見山に象徴される里山は、市民がしかと慈しみ守っていかなければならないものだと深く感じました。


2017年4月17日月曜日

「紅春 103」

 福島に帰ってりくとひとしきり挨拶を済ませると、だいたいすぐ一緒に散歩に出ます。その一時間後くらいにネットスーパーで注文したものが届くことになっているからです。りくも車が止まると「来たよ」と知らせてくれ、ピンポーンと同時に一緒に玄関に出て行きます。配達のおじさんにも慣れてきて、以前は逃げていたのに最近は頭をなでられても平気です。いつも食べ物が届くのを知っているので、届いたものをのぞきこんでくんくんしたりしています。
「りく、何かおいしいの来たかな~。『いつもありがとうございます』って言ってください」
と言いながら頼んだ物を受け取り、受領印を押して終了。この頃にはりくは茶の間に戻っていますが、おじさんは犬好きなので一応私はりくを呼んでみます。やって来て「さよなら」を言うこともありますが、まったくの気分屋なので廊下の向こうで顔だけ出して来ないこともあります。「挨拶、終わりだそうです」とおじさんに伝えて、笑っておしまいです。



2017年4月14日金曜日

「アンスリューム 2」

 昨年9月ごろ購入して5か月咲いたアンスリュームも、2月末くらいには花がなくなりました。よく咲いてくれたなあと、葉だけになってからもそのままにしておいたのですが、もうよいだろうと思い、春になる前に同じ花屋さんに買いに行きました。以前「勧められてとてもよかったので」と言って同じものを求めると、「あるけど、花はまだないよ」とのこと。とはいえ、店に置いてあるとはどういうことかと思い、「これから咲くんですか」と訊くと、春になったら作とのこと。その一言を聞いて、それでは私の家のも咲く可能性があるかもしれないと期待が一挙に高まりました。果たして尋ねてみると、「肥料と水をあげていれば咲く」とのこと。いや~驚きました。まだ咲くと決まったわけでもないのにすっかりうれしくなり、「やってみます」と店を後にしました。

 それから水と液体肥料を時々やりながら、ずっと温室で様子を見ていましたが、なんと先日本当に一輪の赤い花をつけているではありませんか。しかも、花はもちろんその辺りの新しい葉もニスを塗ったようにピカピカに光っています。まるで造花のように見えることがあるのがアンスリュームですが、その面目躍如です。今のところまだ一輪のみで、これはひょっとすると花屋さんに話を伺う前に自己流に剪定してしまったのがいけなかったのかもしれません。これから様子を見ますが、一時はもう処分しようと思っていただけに、一輪だけでも咲いてくれたのはまさにイースターのこの時期、死んでいた植物が復活したようでとてもうれしいです。

「宅配の見直し」

 ヤマト運輸がアマゾンから受託している即日配送サービスから撤退するとの報道がありました。正直ほっとしました。ドライバーさんの負担を考えたらとても無理な設定だからです。そもそもどうしても当日に手に入れなければならない物などないはずで、それがあるとしたら当然事前に手配しておく準備を怠っていたことにほかならないのです。これはアマゾンが年間3900円の料金でプライム会員に対して行っているサービスの一つだと思うのですが、以前巧妙な誘導で知らないうちに1年間プライム会員になっていた経験から言うと、或る種悪魔的なシステムだと感じました。自分もその一人ですが、現代人の忍耐力は著しく弱っています。通信状況の発達にさらされてきたせいで、すぐ目に見える結果が出ない、思うような効果が現れないといらいらするようになってきています。そして思い通りの効果が出たら出たで、人の欲望はまた別の物に際限もなく移っていくのです。

 私も通販はよく使うので言えた義理ではありませんが、せめて心がけていることとして、なるべく注文する物をためてまとめて注文すること、うまくいかないことも多いですが、到着日に在宅できる日を選んで注文すること、そして何より、荷物を持って来られる業者の方にはいつも心からの感謝を表すことなどです。根本的には、物がすぐに手に入るという日常は実は異常なことであるという認識に立ち、長い目で計画を立てるというゆったりした心持ちを取り戻す訓練が必要でしょう。

 少し前に、ヤマトが日中の時間帯の配送をやめたことも聞きましたがよかったと思います。現代人の生活スタイルからして、そんな時間に在宅して受け取れる家などごく少数でしょうから、無駄足になるのは目に見えています。コンビニでの受け取りという手もあるようですが、重い物の受け取りや、コンビニから遠い家はどうするのか疑問ですし、コンビニ側の仕事も大変でしょう。マンションの場合は宅配ボックスがあるので頼む方も気が楽で、防犯面での懸念が解消されれば一般家庭でもこの方向に進むしかないのではとも思います。

 といいつつ、これはヤマトさんではありませんが、先日しでかした大失敗の話を書きます。りくのドッグフードを注文し、到着するあたりの日はなるべく買い物等の外出を控え、散歩をせがむりくにも、「もうすぐりくのご飯が届くから」と言い聞かせ、けっこうそわそわと日を過ごしました。届かぬまま2、3日が過ぎ、いくらなんでも遅いと思って配送追跡サービスで調べてみると、なんともう「配達完了」になっていました。配達先は自宅の宅配ボックス…。思わず呆然としました。3キロのりくのフードを東京に送ってしまったのです。「バカバカバカ・・・」と自分に言い、がっくりして「姉ちゃん、だめだな」とりくに謝りました。「東京にも犬がいるんですかい」と、りくに嫌味を言われながら、「今度来るとき持ってくるね」と答えました。私の場合、まずこういう愚かな失敗をなくすのが第一です。



「旧約時代の食からみる社会の変化と『申命記』改革」

 これまで、「『申命記』の食物規定からわかること」及び4回の「旧約聖書における調理方法」において、旧約聖書の食に関する記述を手掛かりに疑問点を考えてきました。調べるうち、なんとなくこのまま進むとかなり衝撃的な結論に達するのではないかと思っていたのですが、その通りになりました。これまでのところで気づいた、旧約聖書の中にある様々な記述から論理的に導き出される結論を書いておきます。

 イスラエル民族には古来より動物犠牲による祭儀がありました。祭儀ですから「調理」という言い方は適切ではないのですが、ここは割り切って食という観点から考えてみます。まず代表的な3つの献げ物、燔祭・罪祭・酬恩祭について、主として『レビ記』にそってまとめてみます。

 「燔祭」については、以前書きましたが、私個人としては神に献げるものとして祭壇で焼き、その肉は食べられていたと考えていますが、まだまだ一般的に肉は「焼き尽くして灰にした」と考えられているようなので、とりあえずそこに触れないでおくとします。この場合でも『レビ記』の規定から動物の皮は祭司に帰属します。

 一方、罪祭(新共同訳では「贖罪の献げ物」)ですが、これは罪を犯した人の立場や身分によって祭儀方法が違い、大祭司は若い雄牛、全会衆の罪の贖いのためには雄牛、司(族長や王)は雄山羊ですが、一般の人はそれぞれの経済状態に合わせて、雌山羊または雌羊または小麦粉を献げます。動物の場合は、脂肪は全部焼いて煙にしますが、皮、肉、頭と足、内臓と汚物の一切を、「ことごとく宿営の外の清い場所である焼却場に運び出し、燃える薪の上で焼き捨て」ます(『レビ記』4章12節)。『レビ記』5章13節で、小麦粉の場合、残りは祭司に属することは知っていましたが、4章12節にある通り、罪祭の肉は誰の口にも入らないものと思っていました。ところが、なんとこれは祭司が「食べなければならないもの」のようなのです。下記の引用は新共同訳ですが、口語訳では二度もはっきりと、「これを食べなければならない」と訳出されています。
「アロンとその子らに告げてこう言いなさい。贖罪の献げ物についての指示は次のとおりである。贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で主の御前に屠る。これは神聖なものである。この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる。 (『レビ記』6章18~19節)
4章12節と整合性がとれませんし、様々な点で驚きを隠せない記述ですが、これを見ると罪祭の肉が焼き尽くされて灰になっていないことは明らかです。

次に酬恩祭(新共同訳では「和解の献げ物)に関しては、牛または羊または山羊(雌雄どちらでもよい)を献げますが、脂肪と腎臓だけは火で焼き尽くし神への香ばしいかおりとして献げます。肉は祭司と奉献者およびその家族で分け合い、動物の皮は奉献者のものとなります。

 このほかに、愆祭(新共同訳では「賠償の献げ物)、自発の献げ物などがあります。イスラエルの民はそれぞれ自分の必要や現状に合わせて、動物や穀物等を献げてきたのです。ざっと見てわかるように、奉献者が献げた物の分け前に与れるのは、酬恩祭です。これなら皮も自分のものとなりますし、肉も食べることができます。

 イスラエルは遊牧時代からカナン定着を経て、やがて王制となります。ソロモン時代には国中に徴募の長や代官を置いて、労役や年貢を課していくことになりました。『列王記上』の4章7節には、ソロモンがイスラエル全土に置いた十二人の知事がそれぞれ一か月ずつ王と王室の食糧調達を担ったこと、さらに4章26節には、戦車の馬の厩四千と騎兵一万二千にも同様に、十二人の知事たちが一カ月交代で食糧を調達したことが書かれています。これは一般庶民から強制的に徴収するのですから、民にとってはいわば避けられない出費です。王制になって庶民の暮らしは苦しくなったはずです。また、エルサレム土着のバアル礼拝だけでなく、ソロモンの多くの妻たちが様々な地域の神々を流入させたため、イスラエルの民は自分たちのヤハウェ礼拝が、他の宗教の神々と相当違うことに気づいたでしょう。献げ物の相違にも敏感になっただろうと思います。

 『歴代誌下』13章9節にこんな記述があります。
「また主の祭司であるアロンの子らとレビ人を追い払い、諸国の民と同じように自分たちの祭司を立てているではないか。若い雄牛一頭と雄羊七匹をもって任職を願い出た者が皆、神でないものの祭司になっている。」

これはソロモンの次のヤラベアム ― アビヤの時代に関する記述ですが、その頃にはすでに「誰でも雄牛一頭、雄羊七頭で」祭司になれたと言うのです。なぜこんなことになったかを考えると、やむにやまれぬ時代の要請であることがわかってきます。祭司となる側と庶民の側、双方にとって利益があったのです。庶民にとっては税金は払わずに済ませられないのですから、動物供犠で経費節減をしなければなりません。おそらくレビ人祭司のところへ行くより、他のにわか祭司のところへ行った方が自分の取り分が多かったのでしょう。例えば、全くの想像で言うと、燔祭の場合でも少しの肉と引き換えに皮が奉献者のものとなるとか、酬恩祭の場合なら、レビ人祭司のところへ行くと肉は半分ずつ分けることになるが、他の祭司なら三分の一だけ渡せばよいとかといったケースを思い浮かべればよいでしょう。最上の部位として神に献げられていた脂肪が手に入るということもあったかもしれません。あるいは庶民に限らず王や司たちにとっても食指が動いたに違いないこととして、祭儀のたびに動物を無駄に取られてしまうより、食事用に屠る時に少しだけ祭儀の要素も加えて祭儀行為に代替するという仕方があったとしたらどうでしょう。ちょっと考え方を変えれば大幅な節約になるとしたら、それを目当てに人は集まったに違いありません。にわかに祭司となった者にも、祭司としての商売が十分成り立ったのです。

 今はどうかわかりませんが、以前ドイツでは所属する教会籍により自動的に十分の一税を象徴する献金が徴収されていました。ヘルベルトはカトリックだったので、そのお金はカトリック教会に納められていました。それを初めて聞いた時は衝撃を受けました。日本で自由意志で捧げる献金は、ドイツでは教会税、第二の税金とも言えるものでした。徴税は国家が先か教会が先か知りませんが、いずれにしてもそれなしには国家は無論のこと、教会制度も成立しえないものだったのでしょう。この税金を節約したいと思うなら、ずいぶん前にシュティフィー・グラフがしたように、教会籍を離脱するだけでよいのです。信仰心がないなら簡単なことです。この、コスト・パフォーマンスを至上命題とする身の振り方に近いことが、おそらく三千年前のパレスチナでも起きたのです。この合理的思考がカナン的誘惑であり、この世の罠なのです。そのうちさらに、アッシリアや新バビロニアといった世界帝国に蹂躙されたのですから、グローバル化の波は貧富の格差の拡大に伴い、この思考に一層拍車をかけたことでしょう。それから三千年後にも、世界中で同じことが起きており、この「1円でも安いものを求める」という姿勢が賢い振る舞いとされているのです。いや、三千年後の今だけでなく、この三千年間連綿と変わることなく進められてきたのが、このような一見合理的思考に象徴されるカナン的生き方です。その意味で、『列王記』に描かれる王・祭司・民は紛れもなく私たちと同時代人なのです。

 これで、なるほど、列王記上3章3~4節の記述が納得できます。
「ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。 ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。」

これはギブオンの聖なる高台の話なので、明らかに正統的なレビ人祭司による祭儀ではありません。ソロモンはおそらく高台を廃したくても廃することができなかったのです。自らが課している重い年貢のために民が疲弊していることを、彼は知っていたはずだからです。民から見れば、家計から出ていく収穫物や家畜は、王制以前のほぼ2倍になっていたのですから、レビ人祭司のところへ行くより少しでも負担の少なくて済む(すなわち奉献者が自分の取り分を多くできる)、高台の祭司のところへ行く流れは止め難く、従ってソロモンほか歴代の王たちは高台の祭壇を廃止するわけにはいかなかったのです。

 『申命記』の記述に見られる大幅な規定の変更は、この流れになんとか歯止めをかけることを目指したものでした。そのため、地方聖所を廃して中央聖所に集約し、正統的な祭儀を挙行するとともに、過越の祭を家庭ごとの祝祭から巡礼の祝祭に変え、その意味を一変しようとしたのです。そのためなら、肉は焼くのではなく煮る(16章7節)ことになってもしかたない、羊でなくて牛(16章2節)でもやむを得ないということになったに違いありません。また、それぞれの町で時代の流れに取り残され没落していくレビ人を救うには、彼らを中央聖所に集めて職を与える制度が必要になる。レビ人が不足する地方では清めの手続きができなくなるため、汚れた者も食べてよい(12章15節、12章22節、15章22節)ことにし、町に残ったレビ人をも三年ごとのもてなし(14章28~29節、26章12節)で保護しなければならない。
「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。」 (14章28~29節)

これを見ると、レビ人が社会の最下層に属する寄留者、孤児、寡婦と同程度に困窮している現実があった、或いはそれほどに零落する危険があったということがわかります。なにより切迫した事態を伝えるのは、
「あなたは、地上に生きている限り、レビ人を見捨てることがないように注意しなさい。」  (『申命記』12章19節)
「あなたの町の中に住むレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのうちに嗣業の割り当てがないからである。」 (『申命記』14章27節)
という、特に具体性のないやみくもな規定です。

 『申命記』には、正統派レビ人祭司が時代の流れにせめてもの抵抗を試みた痕跡が色濃く残っています。私はこのことについて誰からも聞いた覚えがありません。私が知らないだけかもしれませんが、聞こえてこなかったのです。しかし、このようなことは旧約聖書全体を読めば誰にでもわかります。素人でもわかることですから、おそらくどこかで述べられているのでしょうが、ひょっとするとそれを明確に述べることにためらいがあったのかもしれません。私が大きな勘違いをしている可能性は常にありますが、それはおそらくもっと旧約聖書を読み込むことにより判明するでしょう。というわけで、今後さらに新しい発見があり、もっと深い結論に至るかもしれませんが、とりあえず今のところの結論をここに記しておきます。

2017年4月1日土曜日

「旧約聖書における調理方法 4」

 イスラエルの民が半遊牧民時代を経て、ついで農耕時代、とりわけ王制となってからの食について考えてみます。当然のことながら、この時代には貧富の差が拡大します。『レビ記』1章によると、燔祭の献げ物は、雄牛または雄羊または雄山羊または鳥の4種類ですから、貧しい者は鳥(山鳩か家鳩のひな)を献げたことでしょう。ちなみに燔祭ではありませんが、罪の清めとしての罪祭は、『レビ記』4~5章によると立場や身分によってそれぞれ定められており、大祭司は若い雄牛、全会衆の罪の贖いには雄牛、司たち(共同体の長、族長や王か?)は雄山羊となっています。一般の人は雌山羊または雌羊または山鳩二羽か家鳩のひな二羽、または小麦粉十分の一エパとなっており、それぞれの経済状態に合わせて献げたのでしょう。罪を犯さずに生きられる人はいないのですから、罪祭は誰にとっても必須の献げ物だったはずで、それゆえ最も貧しい者は小麦粉を献げればよかった、いや小麦粉を献げるしかなかった、ここまで貧富の差がひらいてということです。ザレパテの寡婦とその子のように、一握りの粉とわずかな油を最後の食糧とし、それを食べ終えたらもう死を待つしかないと言う困窮した者がいる(列王記上17章9~12)一方で、ソロモンの王宮で一日に消費された食糧は、「細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、 肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥」(列王記上4章22節)が食べられているという現実がありました。コルという容量は約230リットルとのことですから、いかに膨大な量の食糧が消費されていたかわかります。

 過越の祭は元来家庭ごと、或いは隣近所で羊を屠って行う儀式でした。しかし、半遊牧時代から時を経て、この祭は中央聖所で行う巡礼祭になっていきます。この時代になると、貧しい者が食物連鎖の最上位に位置する家畜の肉を口にできる機会はほとんどないほど、貧富の差がひらき、全会衆で行う巡礼祭、すなわち、過越の祭、七週の祭、仮庵の祭の時くらいしか食肉の幸には与れなかったことでしょう。
 一方で、裕福なものは普段の食卓に肉料理が上り、極端な場合は毎日、毎食ということもあったかもしれません。こうなると、これはもはや動物犠牲を神に献げるという祭儀でさえなくなり、動物を食用に屠るということを職業的に行う者が現れたことでしょう。『レビ記』を読み直してちょっと驚いたのですが、もともと燔祭にせよ酬恩祭にせよ罪祭にせよ、鳥以外の家畜を屠り、皮を剥ぎ、体の節々を切り分けるのは奉献者の役目で、祭司の役目は血の注ぎと切り分けられた部位を祭壇の上に並べて焼くという作業部分です。動物を屠ること自体は一般の人誰でもができることでした。つまり、純粋に作業的部分に焦点を当てれば、食肉加工は誰にでもできる行為だったということです。

 するとどうなるかと言えば、全くの想像ですが、宗教的祭儀と言う観点を取っ払えば、どう考えても動物を屠って皮を剥ぎ切り分けるという作業より、その血を所定の場所に注ぎかけ肉を祭壇で焼くと言う方が簡単な作業ですから、食肉加工の技術的観点からは一般人と祭司の境界はほとんど見分けがつかなくなっていきます。これがヤラベアム以来、あるいはそれ以前からずっと行われてきた一般民の祭司化の正体です。なぜそんなことをしたのかの理由もわかってきます。私は以前から『レビ記』を読んで、「祭司の取り分が多い、というか奉献者の取り分が明記されていない」と感じていました。たとえば燔祭における動物の皮は祭司に帰すと書かれていますが、では酬恩祭ではどうなのか、これがわかりませんでした。それもそのはず、「『レビ記』には祭司の取り分しか記されておらず、言及されていない部分が奉献者の取り分になるのだ」ということに、最近ようやく気づいたのです。祭司の取り分は決して多くはないのですが、それはあくまで信仰心に支えられた理解があってのことです。また、信仰心はあってもあまりにも経済的に窮乏している場合は、祭司の取り分に関して疑念がよぎるということもあるでしょう。この問題に関してはさらに考えてみる必要があります。


2017年3月28日火曜日

「旧約聖書における調理方法 3」

 このところずっと考えているこの問題の出発点は、どんなに時代や地域や環境が変わろうとも、人間である以上何かを食べて命をつないできたというところにあります。イスラエルの民が遊牧民であった時代は、農耕による収穫物はないのですから、わずかな自然の恵みの他はとりあえず家畜を食べたことでしょう。その時もちろんまず神への感謝として焼いた犠牲の動物を捧げたでしょうが、当然、一族皆がその食事に与ったはずです。これを「燔祭」(口語訳)と呼んだのです。前述の通り新共同訳ではこれを「焼き尽くす献げ物」と訳していますが、言うまでもないことながら、焼き尽くして炭や灰にしたのでは食べることはできません。食べるために適度に焼いたのだと考える以外在りません。もちろん一頭は完全に焼いたという可能性はありますが、これは「もったいない」を通り越して「食べ物への冒涜」であると感じるのは、私が日本人だからでしょうか。食べることによって神への感謝が完結するのだと、私個人は一点の迷いもなく確信しているのですが、そう考えるのはおかしなことでしょうか。『出エジプト記』24章9~11節に、モーセがアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちとシナイ山にのぼり、「神を見て、飲み食いした」という記述がありますが、これほど幸せなひとときが他にあるでしょうか。

 この点に関して、或る牧師さんが「燔祭」の原語、ヘブル語子音表示でOLH「オーラー」という語について述べています。原意は「立ち昇る」ということです。英訳の場合、1611年のキング・ジェームズ版聖書では the burnt offering、1990年の New King James Version では a burnt sacrifice と訳されているそうで、この場合「焼き尽くす」というニュアンスがないのは明らかです。では、「焼き尽くす」という訳がどこに由来するか考えると、1966年の The Jerusalem Bible で、 a holocaust of an animal と訳されたのが最初らしく、この「ホロコースト」という訳語は、いわゆるギリシャ語の「70人訳聖書」の訳語をそのまま英訳して使ったものとのことでした。1970年の New American Bible の his holocaust offering  というものもこの系列です。

 この牧師さんによると、『レビ記』のこの部分のヘブル語{すべて焼く、全部焼く」は、切り分けられて祭壇に並べられた動物の部分を「全部焼く」という意味で「灰になるまで焼く」という意味ではない、その証拠に「70人訳聖書」の『申命記』12章27節を確認してみても、「ホロコーストの肉を食べる」となっているとのことでした。これにより、私は「やはりそうだったか」という思いを強くしています。何か加えるとしたら、ひょっとしたら「燔祭」という言葉の意味が時代と共に少し変わっていった可能性はあるかもしれないということくらいです。いや、やはり最初から「燔祭」は食べられていたのだというのが真相でしょう。つまり、「燔祭」に関して、「焼き尽くす献げ物」という訳は、非常に誤解を生む訳出であり、敢えて言えば誤訳だということです。


2017年3月24日金曜日

「紅春 102」

先日、山形の伯母の訃報が入り、兄と車で出かけ、納棺、火葬、通夜に行って来ました。日曜で礼拝を欠席しなければならないのは残念でしたが、緊急のことですからいたしかたありません。場所は鶴岡ですので、ほとんど東北横断の道のりで、初めて山形道を走りました。この日は快晴に近かったので助かりましたが、月山、湯殿山を越えていく山道は道路の両側が白い雪の壁のようになっていて、もし吹雪いていたらたどり着けなかったかも知れないと思ったことでした。

 短い休憩を入れて片道3時間半の道のり、帰りは夜遅くとなりました。この日りくは13時間のお留守居、これまでで最長です。帰った時は大喜びで迎えてくれ、とにかく兄がトイレに連れ出しました。我慢していたのでしょう、粗相はなかったようです。予想していたことですが、用意していったお皿2杯分のご飯は、ほとんど手を付けられていませんでした。ただでさえ食が細いりくですが、家族がいないとさらに食欲が落ち込むのです。

 その日は夜遅かったのですぐ休んで、まあ何事もなかったのですが、りくはなんとなく落ち着かない様子でした。翌日、起床は普段どおりでしたが、その後よく見ていると、りくに分離不安の症状が現れていました。一日中私に引っ付いており、トイレのドアを開けたらりくにゴンとぶつかり、「トイレまでついてきたのか…」という有様です。可哀想なことをしたなあと思いました。不安の症状はその日で治まりましたが、この出来事から、震災時に飼い主が引き取りに行けなかった犬たちを思い、胸が痛みました。