2017年6月9日金曜日

「おてんとさまはどこいった」

 たしか北野武の子供時代を描いたドラマで、母親が「うちは貧乏だけど、おてんとさまに顔向けできないようなことは、これっぽっちもしてないんだからね」と、タケシに言っている場面がありました。昔の日本の家庭には、貧富の差を問わずこういう健全な感覚があったと思います。今は本当にひどいものです。世間を騒がせているM学園、K学園問題を見ると、内閣府の驕り、横暴な態度は度し難いものがあります。取り巻きや友人の便宜を図り、関係先に圧力をかけておきながら全く悪びれることがない。むしろ逆切れしたふりを装い、誠実さがみじんも感じられないことは誰の目にも明らかで、こんな内閣府をいただく国は憐れです。絶対他者の正義と公正という視点を持たず、自らが神のごとくに振る舞う人間をを見ると、詩編の断片が次々と心に浮かびます。

神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
 (詩編103節)
12:05彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
 (詩編125節)
主に逆らう者は勝手にふるまいます
人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
 (詩編129節)
 神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
 (詩編141節)

「主をたたえながら」というのは、敬虔なふりをしてという意味でしょう。所詮、人は塵に過ぎないものです。そうした人の行く末は明確に思い浮かびます。

人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。 風がその上に吹けば、消えうせ
生えていた所を知る者もなくなる。
 (詩編1031516節)
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
 (イザヤ書407節)

そしてイザヤのその言葉に続くのはもちろんこの一文です。

草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
 (イザヤ書408節)