2017年6月25日日曜日

「よい知らせを」

 ろくなニュースがない。事件、事故、犯罪、暴力、テロ、不正、悪巧み、言い逃れ・・・。詩編には素直な祈りの詩もありますが、時に敵の殲滅を祈る呪いの言葉もあってたじろぐことがあります。しかし、悪いニュースがこれほど多く、悪人がこれほどわがもの顔に跋扈している今日、自分も呪いの言葉を心で呟いていることに気づくのです。心が荒れるといいことは何もないのですぐやめますが、「世に正義が打ち立てられていないのはおかしいと考えて、個人が悪人を私的に処罰する」という社会の風潮は日に日に高まっているように思います。或る種のドラマにおいてはその流れが一ジャンルを形成していると言ってもよいようです。現代は呪いの時代なのです。

 先日、申し込みをしていなかったのですが地区教会婦人会の研修会に当日参加で午前中だけ出させていただきました。礼拝説教をされた牧師はその中で、「ルターの宗教改革から五百年の今、プロテスタント教会という呼称はやめて、福音教会という名乗りをすべきではないか」という話をなさいました。福音派や福音主義という呼び名はすでに歴史を背負っておりそれゆえ色がついてはいるが、今プロテスタント(抗議する者)という名を変えるなら、福音教会としか言いようがないのではないかということでしょう。大変印象深いその説教は、「呪いではなく福音を求めましょう。なぜなら神様はあらゆる人を救いたいと思っておられるからです」と、結ばれましたが、確かにそれこそが教会のすべきことなのです。

 また、この日「私の歩んできた道」という題で講演なさった牧師の話で私が一番印象に残った言葉は(そのままの言葉ではないのですが)、「私は、神様は祈りを聞いて、話される言葉がそのまま現実となる方であることを知っていたので祈れなかった」という言葉でした。子供が生死の境にいた時、同じ状況にある孫を持つ方が、「私が代わってあげたい」と言うのを聞いた時の話です。他にもあだちいさい子どもがいたため、今目の前で苦しむ子を見てもとても「私を代わりにしてください」とは祈れなかったとのこと。結局、お子さんは助かりましたが、「光あれ」と言えばその通りになる神様を信じるがゆえ、祈れなかったことを神はご存じでそのうめきを聴き届けてくださったのでしょう。二人の牧師の話は私の中で呼応し合いました。呪いと復讐は神の専権事項です。キリスト者は福音を語ればよいのだし、この世に立つ教会はこの世の他の場所では決して聞くことのできない福音を聴ける唯一の場所なのです。教会で福音を聴けないとしたら、この世に希望はありません。教会は、神の言葉を信じて、祈って、待つ、そうあらねばならないのです。