2017年12月6日水曜日

「赦すということ」

 先日友人に、キリスト教でいう「赦す」とはどういう意味かと聞かれて、うまく答えられませんでした。「赦す」という言葉自体は自明なものと思っていたのです。「忘れる」でもない、「我慢する」でもない、事象としては「責めない、とがめない」ということなのでしょうが、相手に対する態度としてはそうできても、自分の心の中でそれができているとは限りません。常々人間にとって一番難しいことは、「謝る」ことと「赦す」ことだと思っていますが、考えてみればこれは罪をめぐる表裏一体のことです。つまり、人間にとって最も御しがたいのが罪の問題だということです。

 キリスト教では「赦す」ということは人の力ではできないことと考えていると言ってよいでしょう。日本基督教団の「主の祈り」の中のこの部分に関する文言は、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていますが、聖公会やカトリックでは、「「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を赦します」と唱えているようです。ちなみに新共同訳聖書では次のようになっています。

「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」  (マタイによる福音書6章12節)
「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」   (ルカによる福音書11章4節)

「神が人の罪をゆるすこと」と「自分が相手の罪をゆるすこと」の前後の連関は様々ですが、この2つを切り離せないものとして考えていることは明らかです。しかもこの祈りは、どう祈ればよいのか教えてほしいと願った弟子たちに向けて答えた一連の言葉の中にあるのですから、一般論として語っているわけではないのです。あなたがたは神によって赦されているのだから、人を赦しなさい」と言っているのだということです。

 「私たちは赦された者として、そして、赦していない者として祈ります」と言った人がいます。その通りなのです。人を赦せない苦しみは、自分が神に赦されていることを知っているがゆえに生まれる苦しみだとも言えます。キリストの死を通して自分の罪が赦されていることを知ることは嬉しく感謝なことですが、そのとたん、「敵を赦しなさい」という言葉に直面し苦しむことになるのです。これは人間の力では解決できない。だからこそ神に祈る、なぜなら、生きていくためには、しかも平安のうちに幸せに生きるには、どうしても赦し・赦されるということが必要だからです。

 変な話ですが、私はいつも犬の行動や自分との関係を考えます。楽しさを抑えきれず手を離れて遊びに行き、後で叱られた犬が私と目を合わさなかったこと、失意のうちに何時間化過ごし、その間先ほどの不従順をぼそぼそと犬に向かって蒸し返したこと・・・。「責めてもしかたない」と思ってはいたものの、赦してはいなかったのです。そのうち犬が「ごめんなさい」と言うように、天真爛漫な顔でやって来たので赦しました。やっぱり可愛かったからです。その後とても晴れやかな気持ちになり、犬との関係がいつも通りになりました。すなわち、この「赦す」というのは、言ってみれば「元の状態に戻る」ということに近いのではないかと思います。神と人間の関係を、自分と犬の関係のアナロジーとして考えるのは、真面目な方々の逆鱗に触れること必定ですが、私にとってはこれが一番しっくりくる理解です。神様は人間の罪や悪行に怒ったり落胆したりしながらも、人間が可愛いので見捨てることができないのではないでしょうか。

「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。」 (ホセア書11章 8節)

一つ確かなのは、そういうことが起こるのは、心から「ごめんなさい」という悔い改めがあってのことだということです。