宗教改革500年の記念の年であることに促され、今年、旧約聖書にまつわる物語『ザ・ブックの誕生』を書いたのは、一つにはキリスト教と無縁な友人や知人に少しでも興味を持ってほしかったからです。聖書というと身構えてしまう方もいるでしょうし、特に旧約聖書は一般の方にはとっかかりがなく親近感がもてない書物でしょう。返信をくれた友人の言葉の中に「旧約は日本人にとって究極の異文化」とありましたが、その通りだと思います。また別の方から、「背景を知らないのですがお話として楽しみました」という返信をいただき、フィクションの枠組みにして、ミステリーの入ったビルドゥングスロマーンに仕上げてよかったなと思いました。皆様にただただ、「読んでくれてありがとう」です。
「なにゆえこのような本を書かれたのか、あとがきを書いてほしかった」という言葉もいただいたのですが、これはその時はどうにも書けませんでした。何を書いてもちょっとちがうという感じになってしまうからです。これまでちゃんと読んだことのなかった旧約聖書を集中的に読んでみたら、お話が浮かんだのは事実、二回目に読み込んだら様々なことが一挙に繋がってきたのも事実、口語訳と新共同訳を比べてみたら驚くような違いに気づき、そこから或る重大な推論に至ったのも事実です。その間ずっと面白かったし、苦しくも楽しく、子供時代からのことを思い返すこともでき感謝に満ちた時間でした。
つい最近福島教会でバザーがあった時、特に出すものがなかった私は一応本を出品させていただきました。バザーとは無関係にすでに献金して買ってくださった方もいたのですが、その日は自分で営業(押し売り?)もして本の紹介をしてみました。福島教会には、四人のお子さんがいる、教会にとって至宝のようなご家庭があります。いつも一家六人で礼拝に出席なさるので会堂がどれほど明るくなることか。今回そのご一家のお父さんがこころよく本を買ってくださってありがたかったのですが、もっとうれしかったのはその小・中学生の息子さん二人が興味を持ってくれたことです。このお子さんたちは活発で利発かつガッツのある兄弟です。私もつい、「君たちのような少年二人が出てくるよ。あと、ミステリー入ってるから」と宣伝してしまいました。子供にはこんな本は面白くないだろうと漠然と思っていた自分の考えを改めたのです。その瞬間、「ああ、私は自分が子供の頃こんな本があれば読みたかったと思う本をかいたのだ」ということがはっきりわかりました。イエス様の言動に度肝を抜かれてぐいぐい読めた新約聖書と違って、旧約聖書はハードルが高すぎて歯が立たなかったし、かといって子供向きに書かれた旧約聖書物語のようなものでは、なんだか物足りなかったのです。
そういう意味では、旧約聖書の異質さは大人も子供もあまり差がありません。大人であっても日本人がサラサラ読んで「なるほどそうか」とわかるようなものでないことは確かです。今回ひょんなことから、私は旧約聖書を日本人にわかるように現代誤訳したかったのだなと、自分の動機が理解できました。日本は明治以来あらゆる事柄や思想を猛然と翻訳してきた独特な国です。日本にはない概念にぶち当たっては新しい言葉を創造してまで貪欲に日本語に移し換えてきたのです。自然科学だけでなく、世界中のあらゆる人文科学、思想・宗教・哲学をも母国語で多少なりとも知ることができるという途方もないアドヴァンテージを、私もずっと享受してきました。特にまだ母国語以外それらにアクセスする手段を持たない子供にとってそれは死活的に重要なことです。そうして幼い者にも裾野が広がれば、興味を持って探求する者が現れ、研究者の層も厚くなって、中にはとんでもない達成をする者が出てきます。そういうことを私は深く切望しています。もちろん今の時点であの話を笑い飛ばし、旧約聖書の成立の真実を教えていただけるのならすぐにも聴きたいのですが、一方で未来において、「子供の頃、なんかヘンテコな旧約聖書の物語本を読んだけど、あれ間違ってるよね。本当は旧約聖書はこんなふうにして書かれたんだよ」と教えてくれる読者がいたら最高です。その意味で、あの本は否定されるために書いたのだということがすとんと胸に落ちた瞬間でした。
先日久しぶりに読み返してみて、ほんとに自分が書いたのかな」という変な感じがしました。そしてそう思うのも半分は無理もないことなのです。話の中に自分が疑問に思ってきたことを書きこんだり、あちこち読んで点と点がつながったところは意識して書きましたが、話の骨格自体は頭の中に既にきれいに出来上がった状態で湧き出てくるものをただ書き写したにすぎないからです。そういう意味では自分が書いたものとは到底言えず、これは2017年に与えられた大きな恵みとしか言いようのないものでした。