2017年12月11日月曜日

「不思議なヨブ記」

 「義人がなぜ苦しむのか」を主題とするこの書はあまりに有名なのでわかったような気になっていましたが、読み返してみて、まずどうにも片付かない気持ちになりました。堂々巡りが続いていて何一つ解決していないようなのです。因果応報の理屈を繰り返す友人たちに対して、自分の義を信じるヨブは自分がなにゆえこれほどの苦しみに遭うのかの理由を知りたいのですが、神はヨブが最も知りたいことについては最後まで何も答えません。あまりにあっさりヨブを不幸のどん底に落とす神の行為は、真面目に読めば、心理学者ユングが『ヨブへの答え』で述べていたように、「腑に落ちないのは、ヤハウェの示すものが、熟慮でも、後悔でも、同情でもなく、ただ無慈悲と残酷さだけだという点である」ということになるでしょう。

 次々と災難に襲われたヨブが吐く呪いの言葉はまず「生まれてこなければよかった」ということ、そして「生きていたくない」ということであり。神に対して「構わないでください」と言うのです(7章16節)。友人とのやりとりが延々と続き、ヨブとの仲は険悪になり、やがて議論も止みます。そんなヨブが急転直下神の前にひれ伏すのは、神が創造主であることを示されたからです。まさにこの一点に尽きるのです。『ヨブ記』においては、この創造の業こそが人知では計り知れぬ神秘であると見なされています。人間の知恵など、「確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ(12章2節 新共同訳)」と言うほどのものでしかないのです。創造主に向かって「わたしの生れた日は滅びうせよ」だの「わたしは命をいとう。わたしは長く生きることを望まない(7章16節)」だのと口にするとは、最大の不義であるということです。ヨブ自身の主張にもかかわらず、ヨブが義人であるという前提の間違いがあぶり出されたのです。

 この物語で一番興味深い存在であるサタンは、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」というだけあってさすがによくこのことを知っています。神の子たちが来て神の前に立った時、サタンもその中にいた(1章6節、2章1節)というのは味わい深い言葉です。ルターの言う通り、やはり神のいるところにはサタンもいるのです。この物語の展開で鍵を握るのはサタンです。彼の提案でヨブは始め所有物と子供を失いますが、その時口にするのは、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1章21節)という有名な言葉であり、サタンの二度目の提案でヨブ自身の体が腫物におかされた時には、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言う妻に対し、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(2章10節)という完璧な答えをします。

 ここで終わっていたらヨブにとって或る意味さいわいなことだったかもしれませんが、それでは物語になりません。先ほど「真面目に読めば」と書きましたが、『ヨブ記』は実はあまり真面目に読んではいけないのではないかと思うのです。なぜなら、全体が寓話的であり、話を進めているのは、三度目はもはや舞台に登場しないサタンのように思えるからです。確かに1章でヨブの財産と子供たちを奪い、2章の冒頭でヨブの身体を撃ったサタンは、その後二度と姿を現しません。どこへ行ったのでしょう。地を行きめぐっている可能性もありますが、もう一つの仮説を立てることもできます。何度か読んで気づいたのですが、手掛かりは2章と3章のギャップにあります。すなわち、ヨブが神を呪うのは所有物を失ったからでも、自らの身体を傷つけられたからでもない。「すべてこの事においてそのくちびるをもって罪を犯さなかった」ヨブが、いきなり3章で自分の生まれた日を呪い始めるのは、なんと2章の終わりで友人たちが来た後なのです。ひょっとしていつのまにか論敵となってしまうこの友人たちはサタンの仮の姿かもしれません。こう考えると、深刻なテーマを扱っているように見える『ヨブ記』も案外単純な構成で書かれているような気がします。