2017年12月22日金曜日

「カナン的生き方と罪意識」

 教会に初めて来た人の話でたまに聞くのが、「キリスト教で人を罪人扱いするのはいかがなものか」という話です。これは結構根が深い問題だと思います。「罪」という言葉は日本語なので理解できているような気になっていますが、キリスト教でいうこの言葉の概念は日本語のそれとは相当ずれています。本当は初めて渡来した時に別の単語を創出したほうがよかったのではないかと思うほどで、このずれがいろいろな場面で妨げになっている気がしてなりません。「罪」にあたる日本語を探せば、「悪しき思い」「汚れた思い」「ずるい思い」「卑しい思い」等、あるいはそういう思いから行ってしまう行為と言えば近いかもしれません。こう考えると、日本人の罪意識が千差万別である理由がわかるでしょう。普段、神を意識することなく生きていれば「悪さ」「汚さ」「ずるさ」「卑しさ」等の基準は自分になるのは当然であり、他者の基準としてはせいぜい法律でしかないからです。よく刑事ドラマなどで登場人物が「私、何か罰を受けるんですか? 何か悪いことしました?」と開き直る言葉を聞きますが、世の中は法に触れなければ罪ではないという明確な基準で動いています。しかしこのような言葉を発すること自体、いわゆる犯罪とは違う「罪」があることを暗示しています。昔風の日本語で言えば「お天道様」や「内なる心の声」ということになるでしょうが、キリスト教では神の義という絶対的な掟があります。掟というと厳しい決り事のように思えますが、おそらく大方の想像に反してこういう基準があるととても楽で、神の義に従って歩むことができれば人間にとって平安でありまことの幸いです。

 先日大相撲の横綱が、「態度が悪い」後輩力士を指導しようとして暴力を振るうという事件がありました。暴行は犯罪ですから罰を受けねばなりません。被害者の方は自分の態度がよくなかったという意識はなく、認識は、すれ違ったままですが、本当のところは本人だけが知っているはずです。世の中で起きる全ての事件について言えることですが、どのように公表され決着がつこうと本当のところは本人しか知らないのです。この事件では、同席した他の横綱や理事にして被害力士の親方でもある人物の対応の仕方、さらには相撲道といった国技としての側面等が複雑に絡み合ってこじれにこじれ、皆が自分の正しさを主張し合ったまま不幸な結末に終わりそうです。めいめいが自分の正しさを主張し自らが神になる世界は結局神がいない世界であり、その結果は不幸なものにならざるをえないでしょう。

  「神の義に従って歩むことができれば幸い」だと言いましたが、もちろんこれはたやすいことではありません。「クリスチャンになるということは日本人をやめることだ」と言った牧師がいます。真実の或る一面を衝いたこの言葉の意味は、『沈黙』を引き合いに出すまでもなく、直感的にわかります。しかしそれは日本的なものがキリスト教的なものと相容れないという意味ではありません。その言葉と対をなすかのように、「アメリカでクリスチャンとして生きるということはエイリアンになるということだ」と言ったアメリカ人牧師もいるからです。キリスト教国だからクリスチャンはたくさんいると思ったら大間違いなのです。「キリストの平和」ひとつを考えただけでも、アメリカの軍事政策と相容れないのは明らかです。つまるところ世界中どこにあろうと、キリスト者として神の掟に従って生きるということは至難の業であり、その道を歩むには狭き門から入らなければならないという現実があります。その者とて、「キリスト者として「歩もうと日々努めている」というにすぎず、決して歩めているというものではない。ただ、それができればどれほど幸いなことかは知らされているのです。

 たとえば自分の楽しみだけを追求することに後ろめたさを感じるとか、物事を都合よく運ぶために相手を出し抜く形になって居心地の悪さを感じるとか、身を削ることなく他者を助けたいという虫のいい考えに対して自己嫌悪を感じるということがありますが、カナン的生き方すなわち一般世間では何の問題もないと思われる生き方をしていても、突き詰めれば神の前には正しくあり得ない自分を認めることになります。「ペシャー」、「ハッタート」、「アーウォーン」など罪を表すヘブライ語は幾つかあると聞いたことがありますが、どの言葉も人間が神と向か合うことをしない状態を示していると言います。正しさの基準が日本語とは違うのです。こういったこと全てを日本語の「罪」という言葉で表すのは到底無理なことです。何かいい方策はないのでしょうか。