世は連休気分で幾分華やいでいますが、私にはあまり関係がありません。このところ、集合住宅に関わる手に負えない面倒な用事がやって来たり、なぜこうも悲しいことが起こるのだろうという事件がお起きたりと、気が沈むことの方が多いのです。こういう時は料理以外の地味な家事をするに限ります。普段あまりしないところのお掃除とか、手洗いによる洗濯とか、どうでもいい繕い物や毛玉取りなどで、頭は使わないが適度に集中が必要な家事です。やっているうちに頭が空になるのでやる前よりは気が晴れます。
私は仕事に伴う悩み事はないし、対人的なストレスも知れたものですが、このところ考えているのは人間にとって一番難しい問題、すなわち「謝ること」と「赦すこと」についてです。人間は自分が悪いと思ってもどうあっても謝りたくない生き物です。言い訳はいくらでも思いつきますし、一度謝ったらどんなに責められるかわからない、きっと赦してくれないだろう等々と考えると、ほとんどの人が自己保身に走ります。また、自分に対してなされた悪事を「赦すこと」の難しさを知らない人はいないでしょう。かけがえのないもの(特に命のあるもの)、大事にしてきたものを壊されたり粗末に扱われたらまず赦せないのが普通ですし、「絶対赦さない」と心に誓うこともあるでしょう。もっと瑣末なこと、他の人から見ればたいしたことでないと思えることでもしばしばそうで、暗い怨念を募らせてされたことの何倍にも値する復讐が事件化して、人間の心の闇を知らされることも少なくありません。
「私が人を赦すのはサタンに付け込まれないためなのです」と語ったのはルターだと思っていたのですが、もともとはパウロの言葉だったようです。
「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」
コリントの信徒への手紙二2:10~11 (新共同訳)
私の場合、日が短い冬の間が憂鬱なのはずっとのことですが、少し前から五月~六月もなんだか鬱々とするようになってきました。おそらくこの時期が、新年度の様々な事項の切り替えに対処したり認定書の更新の書類をそろえたりするため、煩雑な雑事に煩わされるようになったせいです。こういうことが面倒になったのは年をとった証拠、病院で診断書を書いてもらうのも愉快なことではありません。先日の通院日は気晴らしを兼ねて、前日に焼いたシナモンアップルブレッドとサイフォンで淹れたコーヒーのポットを持って出かけ、帰りにピクニック気分を味わうことにしました。バスの乗り換え地点でよさそうな公園を見つけて気になっていたのですが、実際行ってみたら「もっと早く来ればよかった」と思うほど、緑の深い大きな公園でした。今は新緑の絶好の季節、穴場的な場所なのか人も少なく、1時間以上森林浴でぼーっとし、本当にいい息抜きができました。すっかり頭が空になって、人間に関わる事はもうどうでもよくなり、こんな環境なら「謝ること」も「赦すこと」もできそうなのだが・・・と、ふと思ったことでした。