イスラエルの民が半遊牧民時代を経て、ついで農耕時代、とりわけ王制となってからの食について考えてみます。当然のことながら、この時代には貧富の差が拡大します。『レビ記』1章によると、燔祭の献げ物は、雄牛または雄羊または雄山羊または鳥の4種類ですから、貧しい者は鳥(山鳩か家鳩のひな)を献げたことでしょう。ちなみに燔祭ではありませんが、罪の清めとしての罪祭は、『レビ記』4~5章によると立場や身分によってそれぞれ定められており、大祭司は若い雄牛、全会衆の罪の贖いには雄牛、司たち(共同体の長、族長や王か?)は雄山羊となっています。一般の人は雌山羊または雌羊または山鳩二羽か家鳩のひな二羽、または小麦粉十分の一エパとなっており、それぞれの経済状態に合わせて献げたのでしょう。罪を犯さずに生きられる人はいないのですから、罪祭は誰にとっても必須の献げ物だったはずで、それゆえ最も貧しい者は小麦粉を献げればよかった、いや小麦粉を献げるしかなかった、ここまで貧富の差がひらいてということです。ザレパテの寡婦とその子のように、一握りの粉とわずかな油を最後の食糧とし、それを食べ終えたらもう死を待つしかないと言う困窮した者がいる(列王記上17章9~12)一方で、ソロモンの王宮で一日に消費された食糧は、「細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、 肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥」(列王記上4章22節)が食べられているという現実がありました。コルという容量は約230リットルとのことですから、いかに膨大な量の食糧が消費されていたかわかります。
過越の祭は元来家庭ごと、或いは隣近所で羊を屠って行う儀式でした。しかし、半遊牧時代から時を経て、この祭は中央聖所で行う巡礼祭になっていきます。この時代になると、貧しい者が食物連鎖の最上位に位置する家畜の肉を口にできる機会はほとんどないほど、貧富の差がひらき、全会衆で行う巡礼祭、すなわち、過越の祭、七週の祭、仮庵の祭の時くらいしか食肉の幸には与れなかったことでしょう。
一方で、裕福なものは普段の食卓に肉料理が上り、極端な場合は毎日、毎食ということもあったかもしれません。こうなると、これはもはや動物犠牲を神に献げるという祭儀でさえなくなり、動物を食用に屠るということを職業的に行う者が現れたことでしょう。『レビ記』を読み直してちょっと驚いたのですが、もともと燔祭にせよ酬恩祭にせよ罪祭にせよ、鳥以外の家畜を屠り、皮を剥ぎ、体の節々を切り分けるのは奉献者の役目で、祭司の役目は血の注ぎと切り分けられた部位を祭壇の上に並べて焼くという作業部分です。動物を屠ること自体は一般の人誰でもができることでした。つまり、純粋に作業的部分に焦点を当てれば、食肉加工は誰にでもできる行為だったということです。
するとどうなるかと言えば、全くの想像ですが、宗教的祭儀と言う観点を取っ払えば、どう考えても動物を屠って皮を剥ぎ切り分けるという作業より、その血を所定の場所に注ぎかけ肉を祭壇で焼くと言う方が簡単な作業ですから、食肉加工の技術的観点からは一般人と祭司の境界はほとんど見分けがつかなくなっていきます。これがヤラベアム以来、あるいはそれ以前からずっと行われてきた一般民の祭司化の正体です。なぜそんなことをしたのかの理由もわかってきます。私は以前から『レビ記』を読んで、「祭司の取り分が多い、というか奉献者の取り分が明記されていない」と感じていました。たとえば燔祭における動物の皮は祭司に帰すと書かれていますが、では酬恩祭ではどうなのか、これがわかりませんでした。それもそのはず、「『レビ記』には祭司の取り分しか記されておらず、言及されていない部分が奉献者の取り分になるのだ」ということに、最近ようやく気づいたのです。祭司の取り分は決して多くはないのですが、それはあくまで信仰心に支えられた理解があってのことです。また、信仰心はあってもあまりにも経済的に窮乏している場合は、祭司の取り分に関して疑念がよぎるということもあるでしょう。この問題に関してはさらに考えてみる必要があります。