2017年4月14日金曜日

「旧約時代の食からみる社会の変化と『申命記』改革」

 これまで、「『申命記』の食物規定からわかること」及び4回の「旧約聖書における調理方法」において、旧約聖書の食に関する記述を手掛かりに疑問点を考えてきました。調べるうち、なんとなくこのまま進むとかなり衝撃的な結論に達するのではないかと思っていたのですが、その通りになりました。これまでのところで気づいた、旧約聖書の中にある様々な記述から論理的に導き出される結論を書いておきます。

 イスラエル民族には古来より動物犠牲による祭儀がありました。祭儀ですから「調理」という言い方は適切ではないのですが、ここは割り切って食という観点から考えてみます。まず代表的な3つの献げ物、燔祭・罪祭・酬恩祭について、主として『レビ記』にそってまとめてみます。

 「燔祭」については、以前書きましたが、私個人としては神に献げるものとして祭壇で焼き、その肉は食べられていたと考えていますが、まだまだ一般的に肉は「焼き尽くして灰にした」と考えられているようなので、とりあえずそこに触れないでおくとします。この場合でも『レビ記』の規定から動物の皮は祭司に帰属します。

 一方、罪祭(新共同訳では「贖罪の献げ物」)ですが、これは罪を犯した人の立場や身分によって祭儀方法が違い、大祭司は若い雄牛、全会衆の罪の贖いのためには雄牛、司(族長や王)は雄山羊ですが、一般の人はそれぞれの経済状態に合わせて、雌山羊または雌羊または小麦粉を献げます。動物の場合は、脂肪は全部焼いて煙にしますが、皮、肉、頭と足、内臓と汚物の一切を、「ことごとく宿営の外の清い場所である焼却場に運び出し、燃える薪の上で焼き捨て」ます(『レビ記』4章12節)。『レビ記』5章13節で、小麦粉の場合、残りは祭司に属することは知っていましたが、4章12節にある通り、罪祭の肉は誰の口にも入らないものと思っていました。ところが、なんとこれは祭司が「食べなければならないもの」のようなのです。下記の引用は新共同訳ですが、口語訳では二度もはっきりと、「これを食べなければならない」と訳出されています。
「アロンとその子らに告げてこう言いなさい。贖罪の献げ物についての指示は次のとおりである。贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で主の御前に屠る。これは神聖なものである。この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる。 (『レビ記』6章18~19節)
4章12節と整合性がとれませんし、様々な点で驚きを隠せない記述ですが、これを見ると罪祭の肉が焼き尽くされて灰になっていないことは明らかです。

次に酬恩祭(新共同訳では「和解の献げ物)に関しては、牛または羊または山羊(雌雄どちらでもよい)を献げますが、脂肪と腎臓だけは火で焼き尽くし神への香ばしいかおりとして献げます。肉は祭司と奉献者およびその家族で分け合い、動物の皮は奉献者のものとなります。

 このほかに、愆祭(新共同訳では「賠償の献げ物)、自発の献げ物などがあります。イスラエルの民はそれぞれ自分の必要や現状に合わせて、動物や穀物等を献げてきたのです。ざっと見てわかるように、奉献者が献げた物の分け前に与れるのは、酬恩祭です。これなら皮も自分のものとなりますし、肉も食べることができます。

 イスラエルは遊牧時代からカナン定着を経て、やがて王制となります。ソロモン時代には国中に徴募の長や代官を置いて、労役や年貢を課していくことになりました。『列王記上』の4章7節には、ソロモンがイスラエル全土に置いた十二人の知事がそれぞれ一か月ずつ王と王室の食糧調達を担ったこと、さらに4章26節には、戦車の馬の厩四千と騎兵一万二千にも同様に、十二人の知事たちが一カ月交代で食糧を調達したことが書かれています。これは一般庶民から強制的に徴収するのですから、民にとってはいわば避けられない出費です。王制になって庶民の暮らしは苦しくなったはずです。また、エルサレム土着のバアル礼拝だけでなく、ソロモンの多くの妻たちが様々な地域の神々を流入させたため、イスラエルの民は自分たちのヤハウェ礼拝が、他の宗教の神々と相当違うことに気づいたでしょう。献げ物の相違にも敏感になっただろうと思います。

 『歴代誌下』13章9節にこんな記述があります。
「また主の祭司であるアロンの子らとレビ人を追い払い、諸国の民と同じように自分たちの祭司を立てているではないか。若い雄牛一頭と雄羊七匹をもって任職を願い出た者が皆、神でないものの祭司になっている。」

これはソロモンの次のヤラベアム ― アビヤの時代に関する記述ですが、その頃にはすでに「誰でも雄牛一頭、雄羊七頭で」祭司になれたと言うのです。なぜこんなことになったかを考えると、やむにやまれぬ時代の要請であることがわかってきます。祭司となる側と庶民の側、双方にとって利益があったのです。庶民にとっては税金は払わずに済ませられないのですから、動物供犠で経費節減をしなければなりません。おそらくレビ人祭司のところへ行くより、他のにわか祭司のところへ行った方が自分の取り分が多かったのでしょう。例えば、全くの想像で言うと、燔祭の場合でも少しの肉と引き換えに皮が奉献者のものとなるとか、酬恩祭の場合なら、レビ人祭司のところへ行くと肉は半分ずつ分けることになるが、他の祭司なら三分の一だけ渡せばよいとかといったケースを思い浮かべればよいでしょう。最上の部位として神に献げられていた脂肪が手に入るということもあったかもしれません。あるいは庶民に限らず王や司たちにとっても食指が動いたに違いないこととして、祭儀のたびに動物を無駄に取られてしまうより、食事用に屠る時に少しだけ祭儀の要素も加えて祭儀行為に代替するという仕方があったとしたらどうでしょう。ちょっと考え方を変えれば大幅な節約になるとしたら、それを目当てに人は集まったに違いありません。にわかに祭司となった者にも、祭司としての商売が十分成り立ったのです。

 今はどうかわかりませんが、以前ドイツでは所属する教会籍により自動的に十分の一税を象徴する献金が徴収されていました。ヘルベルトはカトリックだったので、そのお金はカトリック教会に納められていました。それを初めて聞いた時は衝撃を受けました。日本で自由意志で捧げる献金は、ドイツでは教会税、第二の税金とも言えるものでした。徴税は国家が先か教会が先か知りませんが、いずれにしてもそれなしには国家は無論のこと、教会制度も成立しえないものだったのでしょう。この税金を節約したいと思うなら、ずいぶん前にシュティフィー・グラフがしたように、教会籍を離脱するだけでよいのです。信仰心がないなら簡単なことです。この、コスト・パフォーマンスを至上命題とする身の振り方に近いことが、おそらく三千年前のパレスチナでも起きたのです。この合理的思考がカナン的誘惑であり、この世の罠なのです。そのうちさらに、アッシリアや新バビロニアといった世界帝国に蹂躙されたのですから、グローバル化の波は貧富の格差の拡大に伴い、この思考に一層拍車をかけたことでしょう。それから三千年後にも、世界中で同じことが起きており、この「1円でも安いものを求める」という姿勢が賢い振る舞いとされているのです。いや、三千年後の今だけでなく、この三千年間連綿と変わることなく進められてきたのが、このような一見合理的思考に象徴されるカナン的生き方です。その意味で、『列王記』に描かれる王・祭司・民は紛れもなく私たちと同時代人なのです。

 これで、なるほど、列王記上3章3~4節の記述が納得できます。
「ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。 ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。」

これはギブオンの聖なる高台の話なので、明らかに正統的なレビ人祭司による祭儀ではありません。ソロモンはおそらく高台を廃したくても廃することができなかったのです。自らが課している重い年貢のために民が疲弊していることを、彼は知っていたはずだからです。民から見れば、家計から出ていく収穫物や家畜は、王制以前のほぼ2倍になっていたのですから、レビ人祭司のところへ行くより少しでも負担の少なくて済む(すなわち奉献者が自分の取り分を多くできる)、高台の祭司のところへ行く流れは止め難く、従ってソロモンほか歴代の王たちは高台の祭壇を廃止するわけにはいかなかったのです。

 『申命記』の記述に見られる大幅な規定の変更は、この流れになんとか歯止めをかけることを目指したものでした。そのため、地方聖所を廃して中央聖所に集約し、正統的な祭儀を挙行するとともに、過越の祭を家庭ごとの祝祭から巡礼の祝祭に変え、その意味を一変しようとしたのです。そのためなら、肉は焼くのではなく煮る(16章7節)ことになってもしかたない、羊でなくて牛(16章2節)でもやむを得ないということになったに違いありません。また、それぞれの町で時代の流れに取り残され没落していくレビ人を救うには、彼らを中央聖所に集めて職を与える制度が必要になる。レビ人が不足する地方では清めの手続きができなくなるため、汚れた者も食べてよい(12章15節、12章22節、15章22節)ことにし、町に残ったレビ人をも三年ごとのもてなし(14章28~29節、26章12節)で保護しなければならない。
「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。」 (14章28~29節)

これを見ると、レビ人が社会の最下層に属する寄留者、孤児、寡婦と同程度に困窮している現実があった、或いはそれほどに零落する危険があったということがわかります。なにより切迫した事態を伝えるのは、
「あなたは、地上に生きている限り、レビ人を見捨てることがないように注意しなさい。」  (『申命記』12章19節)
「あなたの町の中に住むレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのうちに嗣業の割り当てがないからである。」 (『申命記』14章27節)
という、特に具体性のないやみくもな規定です。

 『申命記』には、正統派レビ人祭司が時代の流れにせめてもの抵抗を試みた痕跡が色濃く残っています。私はこのことについて誰からも聞いた覚えがありません。私が知らないだけかもしれませんが、聞こえてこなかったのです。しかし、このようなことは旧約聖書全体を読めば誰にでもわかります。素人でもわかることですから、おそらくどこかで述べられているのでしょうが、ひょっとするとそれを明確に述べることにためらいがあったのかもしれません。私が大きな勘違いをしている可能性は常にありますが、それはおそらくもっと旧約聖書を読み込むことにより判明するでしょう。というわけで、今後さらに新しい発見があり、もっと深い結論に至るかもしれませんが、とりあえず今のところの結論をここに記しておきます。