2017年3月28日火曜日

「旧約聖書における調理方法 3」

 このところずっと考えているこの問題の出発点は、どんなに時代や地域や環境が変わろうとも、人間である以上何かを食べて命をつないできたというところにあります。イスラエルの民が遊牧民であった時代は、農耕による収穫物はないのですから、わずかな自然の恵みの他はとりあえず家畜を食べたことでしょう。その時もちろんまず神への感謝として焼いた犠牲の動物を捧げたでしょうが、当然、一族皆がその食事に与ったはずです。これを「燔祭」(口語訳)と呼んだのです。前述の通り新共同訳ではこれを「焼き尽くす献げ物」と訳していますが、言うまでもないことながら、焼き尽くして炭や灰にしたのでは食べることはできません。食べるために適度に焼いたのだと考える以外在りません。もちろん一頭は完全に焼いたという可能性はありますが、これは「もったいない」を通り越して「食べ物への冒涜」であると感じるのは、私が日本人だからでしょうか。食べることによって神への感謝が完結するのだと、私個人は一点の迷いもなく確信しているのですが、そう考えるのはおかしなことでしょうか。『出エジプト記』24章9~11節に、モーセがアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちとシナイ山にのぼり、「神を見て、飲み食いした」という記述がありますが、これほど幸せなひとときが他にあるでしょうか。

 この点に関して、或る牧師さんが「燔祭」の原語、ヘブル語子音表示でOLH「オーラー」という語について述べています。原意は「立ち昇る」ということです。英訳の場合、1611年のキング・ジェームズ版聖書では the burnt offering、1990年の New King James Version では a burnt sacrifice と訳されているそうで、この場合「焼き尽くす」というニュアンスがないのは明らかです。では、「焼き尽くす」という訳がどこに由来するか考えると、1966年の The Jerusalem Bible で、 a holocaust of an animal と訳されたのが最初らしく、この「ホロコースト」という訳語は、いわゆるギリシャ語の「70人訳聖書」の訳語をそのまま英訳して使ったものとのことでした。1970年の New American Bible の his holocaust offering  というものもこの系列です。

 この牧師さんによると、『レビ記』のこの部分のヘブル語{すべて焼く、全部焼く」は、切り分けられて祭壇に並べられた動物の部分を「全部焼く」という意味で「灰になるまで焼く」という意味ではない、その証拠に「70人訳聖書」の『申命記』12章27節を確認してみても、「ホロコーストの肉を食べる」となっているとのことでした。これにより、私は「やはりそうだったか」という思いを強くしています。何か加えるとしたら、ひょっとしたら「燔祭」という言葉の意味が時代と共に少し変わっていった可能性はあるかもしれないということくらいです。いや、やはり最初から「燔祭」は食べられていたのだというのが真相でしょう。つまり、「燔祭」に関して、「焼き尽くす献げ物」という訳は、非常に誤解を生む訳出であり、敢えて言えば誤訳だということです。