私は普段著作権の切れた口語訳聖書をデータで入手して読んでいます。そのため新共同訳との違いに気づかずにいて、最近一番驚いたのは「焼く」と「煮る」の相違点です。『申命記』の過越の祭の説明部分で、16章7節の口語訳と新共同訳を比べてみます。
「そしてあなたの神、主が選ばれる場所で、それを焼いて食べ、朝になって天幕に帰らなければならない。」 (口語訳)
「それをあなたの神、主が選ばれる場所で煮て食べ、翌朝自分の天幕に帰りなさい。」 (新共同訳)
献げ物に関する「煮る」という調理法の記述で私が覚えているのは、過越の祭ではありませんが、『サムエル記上』で祭司エリの強欲な息子たちが肉なべから三つ又の肉刺しで刺した肉を自分のものとする記述です。その他はほぼ「焼く」という方法なので、この話は印象深かったのでしょう。「煮る」という仕方は珍しいどころか、『出エジプト記』12章には、過越の祭の肉は「煮てはならない」とはっきり書いてあるのです。
「そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。」
出エジプト記12章 8~9節(新共同訳)
このことから考えると、『申命記』におけるこの変化が意味するところは、もはや祭壇で一頭一頭焼くことができず、大鍋で煮るということなのでしょう。そして、この変更は非常に大きな変化を示唆しています。それは、過越の祭がそれぞれの町で羊を屠って家庭ごとに食べる行事から、主が選ばれる場所(中央聖所? どこにも書かれていないが具体的にはエルサレムか?)で皆が集まって祝う巡礼祭になったということを示しているのです。しかも、『申命記』16章をよく読んだら、犠牲の動物は羊だけでなく、「牛」でもよいことになっていて思わずのけぞってしまいました。こうなると、私の頭に浮かぶイメージは山形県民の秋の祭、「いも煮会」なのですが、それはさすがに違う?
調理法について、もう一つだけ、口語訳と新共同訳で異なる箇所がありました。『レビ記』2章7節の素祭(穀物のささげもの)に関する記述です。
「あなたの供え物が、もし深鍋で煮た素祭であるならば、麦粉に油を混ぜて作らなければならない。」 (口語訳)
「献げ物を平鍋で蒸して穀物の献げ物とする場合は、上等の小麦粉にオリーブ油を混ぜて作る。」 (新共同訳)
上記はスープの中の団子状のものを想像しますが、下は蒸しパン的なものを思い浮かべます。これは明らかに別物のように聞こえますし、おいしさも相当違いそうです。
こんなことにこだわっているのをいぶかしく思われそうですが、何か大事なことに辿り着けそうな気がするので、もう少し探ってみるつもりです。