このところ気になっているのは、口語訳の燔祭」、新共同訳では「焼き尽くす献げもの」と訳されている言葉です。私は「焼き尽くす献げもの」という言い方にはどうしてもなじめないと感じていますが、その理由の一つは日本語としてもおかしいからです。たとえば、これはエルサレムの神殿ではなくギブオンの聖なる高台の話ですが、列王記上3章4節に、「ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」という文があります。これなどは明らかに、ささげたのは一千頭の牛(か羊)であって、捧げ方としてそれを焼き尽くしたということですから、始めから「焼き尽くす献げもの」なる物があるわけではありません。
ちなみに、この「焼き尽くす」というのがどの程度焼くのかについても、私はずっと疑問を持っています。もちろん、炭に近くなるまですっかり焼いて神に捧げることもあったでしょうが、上記の場合などを考えると、到底全部隅になるまで焼いたとは思えません。もちろん、最初は炭になるまですべて焼いて神様にささげたに違いありません。最初の祭壇と思われるノアの場合がそうでしょうか。「香ばしいかおり」(口語訳)、「宥めの香り」(新共同訳)と呼ばれる動物犠牲の全焼の煙を神にささげたのでしょう。ただ、清い動物を焼いているところを見るとノアとその家族も食べた可能性は捨てきれません。共に食べることによって礼拝が完成するようにも思うからです。
いずれにせよ前回書いたように、『レビ記』の規定から献げ物や献げ方がこれほど大きく変更されているのですから、この「燔祭」という言葉も変化しているということがないとは言えません。原語を知らないので何とも言えませんが、例えば動物犠牲は丸ごとではなく切り分けて焼くのですから、場合によっては「切り分けた部位全部を焼く」」というような意味にはとれないのでしょうか。確かに、食べられるささげ物である「酬恩祭」(口語訳、「和解の献げ物」(新共同訳)に関しては、列王紀上8章 63節に
「ソロモンは酬恩祭として牛二万二千頭、羊十二万頭を主にささげた。こうして王とイスラエルの人々は皆主の宮を奉献した。」
とあり、皆で食べてお祝いしたとわかるので、これはこれでつぎつまがあっているのですが、先ほどのギブオンの例を考慮すると、「燔祭」と言えど必ずしも焼き尽くしたわけではない可能性もゼロではないと思っています。この辺りも、もう少し調べてみる必要があります。