日本キリスト教団出版局から宗教改革500年記念のシリーズ5部作が出版されます。東京神学大学の学長で中渋谷教会の代務をしてくださっている大住雄一先生はその監修者の一人であり、また第二巻『聖書 神の言葉をどのように聴くのか』の執筆者でもあります。私はもう紙ベースで本を購入することはないと思っていたのですが、先生が礼拝後に教会員に向けて「助けてください」とお茶目なアナウンスをされていたので、「おお、それでは私も貢献せねば」と思って手にした次第です。実際読むには一ページごとにプリンターにかけて文字を読み取らなければなりませんでしたが、あまり厚くない本だったので助かりました。
私なりに要約すると、儀式やその他の宗教様式によらず、ただ「聖書のみ」から神の御言葉を聴くのは、宗教改革によって生まれたプロテスタントに極めて特徴的なことだということ、宗教改革によって個々人が聖書を所有して読むという成果がもたらされたが、それは或る程度聖書の多様な解釈を認めることにならざるを得ないということ、とはいえ歴史の示すところでは様々なことがありながらも勝手な解釈が生き残ることはなく、むしろそのことによって教会が確かな神の共同体として成長し手来たということです(間違っていたらごめんなさい)。
第一章は明治初期のプロテスタント指導者が一堂に会した写真を紹介し、まず真っ先に彼らが行ったのは聖書の翻訳であり、その普及であったと告げています。ここで聖書の翻訳は原典に劣るものではなく、むしろ状況に応じて原典が表しえなかったものを補い、時代の新しい可能性を開くものであるとの記述になるほどと思いました。まさしく聖霊降臨の出来事に示されているように、私たちはみな自国の言葉で神の福音を聴くことができるのだということです。
第二章は、律法の第三用法という言葉に注目して律法と福音の問題を扱っています。教派によって違いもあるようですが、そもそも律法はそれを守る者には祝福を、破る者には呪いを約束するものです。しかし、その完全な遵守は人間にはなしえないことがわかってき他時、価なしの契約へ道を拓くのはイエス・キリストです。それはアブラハムに対する祝福の廃棄ではなくキリストの義による律法の完成なのです。すなわち、イエス・キリストによって罪赦された者として律法を行うこと、これがいわゆる律法の第三用法です。二十世紀に大きな成果を残した旧約聖書神学においては、旧約の律法による救いはイエス・キリストによる救いに至る救済史の中で新たにとらえ直されました。神の現臨する場が天幕からイエス・キリストに取って代わられたのです。それは倫理的な律法のみならず祭儀的な律法をも引き継ぐものでした。
第三章は、十戒を例に挙げて、聖書が多様な解釈をゆるすものであることを示しています。律法の要である十戒においてさえ、聖書そのものに由来すると考えられる違いが教派によって生じているのです。ここでは、出エジプト記20章と申命記5章の二つの十戒について二十世紀旧約聖書神学における諸説をを示しながら分析を加えています。この二つの十戒はもともと別個に存在したものが教会の中で一つとなったと見ることもでき、それ自体、宗教改革の聖書原理なくしてはあり得ないことが示されています。
第四章は、プロテスタント牧師の最も重要な務めである説教について解説されています。キリスト教は徹頭徹尾言葉の宗教です。プロテスタント教会は、イエス・キリストの救いの出来事を語ることを最大の使命としながら、一方で見えない言葉である洗礼と聖餐というサクラメントを持っています。この章では再洗礼派や無教会主義との対比をしつつ、説教によって聖書を神の言葉として聴くとはどういうことかを述べています。
第五章は、聖書と合理主義の関連について歴史的分析を行っています。植村正久の著作が示すところでは、エリートから社会活動家までを包含した明治期のキリスト教界の現状がわかると同時に、聖書を一字一句文字通りに信じる宣教師と聖書を歴史的合理性の観点から読む新神学との間の葛藤も伝わってきます。教理に注意を払いながらも教会の権威からは自由に、理性に従って真理に忠実に聖書を研究することこそ、宗教改革を経て可能となった聖書の読み方です。ここでは海老名弾正、新渡戸稲造の聖書受容に触れながら、自身の深い罪意識に基づいて歴史上の一点として現れたイエス・キリストによってのみ救いがもたらされたとの信仰に立つ植村正久を紹介しています。宗教改革によってもたらされた聖書の合理的解釈の多様性は、時に混乱を引き起こすこともありましたが、私たちは聖書の示す目的(キリストを証言すること)の核心を離れることなく聖書を読み続けたいものです。