先日礼拝後の小さな集まりで、その日担当された方が旧約聖書の『エゼキエル書』から見張りの務めということについて話されました。最初私はピンとこなかったのですが、それは私が普段聞いている口語訳聖書ではエゼキエル書に見張りという言葉が出てこないからです。ではなんと訳しているかというと「見守り」という言葉です。「見張り」と「見守り」は日本語では明らかにニュアンスが違う言葉です。ちゃんと調べたわけではありませんが、英語だと watchman のようでそれこそ「見張り」なのでしょうが、原語はたとえば watcher 的な意味まで含むような言葉なのかどうか気になります。いずれにしても口語訳ではなぜ「見守り」と訳しているのか少し考えてみました。
口語訳では「見張り」とか「見張る」いう言葉はむしろ『エレミヤ書』に多いのですが、これはよくわかります。エレミヤはエルサレム陥落を砂かぶりで見てきた人であり、それを食い止めるためにイスラエルの民全体に警告を発し続けた人です。その気の進まない仕事にほぼ一生を捧げたこの預言者はそのことで命を狙われさえしました。異教の神々に傾いていく人々に警告し続けたまさに「見張り」の人と言えるでしょう。しかし、エゼキエルの場合はもう神の答えは出ています。エルサレムは陥落し、ユダ王国は滅亡し、ブジの子祭司エゼキエルはバビロン捕囚の憂き目にあっているのです。エゼキエルはもうこれ以上悪くなりようがない状況で預言者として立てられた人です。異郷の地で異教の神々のど真ん中で暮らすイスラエルの民にとって「見張り」は必要ないのではないでしょうか。ケバル川のほとりで集会をもつイスラエルの民に今何か言うべきことがあるとしたら、「我々の神に立ち返ろう」しかないはずです。どん底から求めるものがあるとしたら、エルサレム帰還へのかすかな希望です。その意味では「見守る」という訳はしっくりくるような気がします。エゼキエル書33章6節にこんな言葉があります。
しかし見守る者が、つるぎの臨むのを見ても、ラッパを吹かず、そのため民が、みずから警戒しないでいるうちに、つるぎが臨み、彼らの中のひとりを失うならば、その人は、自分の罪のために殺されるが、わたしはその血の責任を、見守る者の手に求める。 (口語訳)
透徹した頭と熱い心を持つエゼキエルが自らに課した務めの厳しさを物語る言葉であり、エゼキエルの面目躍如と言える語り口でしょう。