情報の収集や娯楽の中心が「読む」から「聞く」に段々と移行してきて、そろそろ10年ちかくになるでしょうか。ずっと活字が異常に好きだったのに、それをあきらめなくてはならなくなり、もう生きる楽しみがないなと思うようになった頃、音声ソフトに出会いました。「読む」と「聞く」の違いが身にしみてきた今、両者が思考に及ぼす影響が少しわかってきた気がします。両者の相違点を思いつくままに箇条書きにかいてみます。
1.情報を得る機会
「読む」ことはその気がないとできないが、「聞く」はその気がなくても聞こえる。(その気があって聞く時は「聴く」と書くべきか。) したがって、「聞く」方は長いコードのヘッドフォンを使えば家事をしながらでも、またICレコーダーに入れれば散歩しながらでも聞けるが、「読む」方は基本的に机に向かって落ち着いて読まなければ読めない。草原に寝そべって、電車の中で、ということはあるにせよ、他のことをしながら読むことはできない。
2.コンテンツの入手方法
「読む」方はただそこにある活字を読めばよい。これまで出されたもの全てが対象である。「聞く」方はデータとして存在するものであることが第一段階である。したがって著作物として読めるのは、50年以上前に書かれた著作権の切れた本である。それを入手して音声ソフトで読ませる、あるいは読ませたものを録音する、ここまではまあたいした手間ではない。問題は今そこにある活字を読む場合であるが、これはプリンターで読み取り、文字認識ソフトでデータ化するという段取りが入る。一頁一頁やらないといけないのでよほど読みたい本でないと、できればしたくない作業である。しかも、文字認識の精度がいまいち精妙さに欠け、なおかつ音声ソフトで読み上げる時に読み違いもあるので二順の意味でゆがんでしまう可能性が高い。書いてあることの概要がわかる程度だと割り切って使うならそれでよいし、慣れてくると推測も働くのでやはり重宝する。
3.聞き流しと精読
「聞く」と「読む」に関して、脳内で起きていることの違いを感じるのがこの両者である。「聞く」場合は基本的に聴いたものはその場で消え、どんどん音声が続いていく。わからないことがあっても飛ばすしかない、それは引っ掛かりとして頭に残る。その繰り返しである。一度聞いたものをもう一度聞いたり、結構長い一続きのものを通して聞いたりする場合、脳内で意外な気づきが生じることがある。「えっ、これってあれとつながっているの? おお、これってあれのこと?」という具合である。たぶん高速でテキストをスキャンするために起こることなのではないかと思う。それから精読に入る。キーワードで検索をかけ、あっちこっち調べまわして「う~ん、そうだったのか」ということになる。
聞いている時と読んでいる時に脳内で起きていることがどれほど違うのか知りませんが、上記の点に関して言えば、おそらく尋常ならざる速読ができる人は同じことが読むことだけによって起こるのでしょう。私の場合は「聞く」生活になってから生じるようになった現象ですが、これも全く見えないのか、或る程度見えているか、生まれつき見えないのか、見えていた時期もあったのかによっても差が出るだろうと思います。古来、語り部というか詩人というか物語を朗唱してきた人々は、盲いた人ではなかったでしょうか。音声は基本的に一続きのものであり、始まったら終いまで聞かなければならないのです。しかし活字はそうではありません。本には厚さがあり、どこからでも読め、これが大事なことですが、どのへんを読んでいるのかがはっきりわかります。つまり、文字は或る種の時間意識と関係しているといってよいでしょう。意外に思われるかもしれませんが、一続きの朗唱を全部聞くことに長い時間がかかることとは裏腹に、それは無時間の感覚に支えられた者なのです。物語が文字通り口伝だった時には時間の観念はなかったのではないか、少なくとも現在の意味での時間はなかったのではないかと思います。