2017年11月28日火曜日

「礼拝について」

 「人はなぜ礼拝に行くのか」ということを一般の方は不思議に思うかもしれませんが、クリスチャンが礼拝について思うところを問われるとしたら、それは信徒なら誰でも自分の言葉で語れることです。毎日時間に追われて多忙な生活を送っておられる方、仕事中心の生活で頭の中がいつも仕事でいっぱいの方、社会奉仕的な活動をしておられる方、自分の役目を意識しつつ与えられた時間を有意義に過ごされている方等、それぞれが礼拝について特別な思いをお持ちかもしれません。

 私の場合は単純です。普段の生活においては、自分の時間を比較的自由に使える環境にあるため、健康の保持に留意しながら自分なりに計画的に過ごしたいと願っています。毎日本当に小さな目標(なるべく達成できるようなごく小さな課題にしています)を3つくらい立てて過ごしていますが、それとて3つともできたという日が多くはなく、「ああ、今日は1つしかできなかった」とか「今日は何もできなかった」という日もまれではありません。がっかりして失意のうちに一日を終える日も多いのです。しかし、日曜は違います。朝起きてまず思うことは、「今日は安息日だから、とにかく教会に行って神様を礼拝できたらそれでよい」ということです。実際、礼拝に出席し、賛美をして無事帰って来るととても満たされた気持ちで、一日の終わりに、「ああ、今日は百点満点の日だった」と思うのです。

 もう一つ強く思うのは、礼拝はその日限り、一回限りの特別な日だということです。今はインターネットの発達した大変便利な時代で、全国の牧師先生方の説教や聖書講解、また学者による聖書研究棟を自由に聴いたり読んだりすることができます。非常に真面目な労作も多く、大変励まされ日々支えられることがあるのも事実です。しかし、礼拝はそれとは次元が違う全く別のことなのです。同じ神を信じる信徒たちが同じ会堂に相集い、共々に神を賛美し礼拝する恵みは格別です。特にご高齢の方々が万難を排して礼拝に集われているお姿には、慰めや励ましを通り越して、自らの背筋をまっすぐにされる気がします。まさに、詩編133編1節の【都に上る歌。ダビデの詩。】
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」
です。神の国においてしか実現しない現実がそこにあるのです。