2019年12月30日月曜日

「紅春 150」

今年は比較的穏やかな年の瀬となりましたが、福島は吾妻おろしが半端なくすごい。日差しはあるのに強風という日、りくが若い頃なら本人が望めば寒風の中でも外に置いたのですが、さすがにご老体となると本人の気持ちとは別に体のことを考えてやらなくてはなりません。

 先日、うっすらと雪化粧して風花の混じる晴天の日、雪見障子を上げて日差しが射し込む窓際でりくは居眠りをしていました。が、突然、「ワワワワワン」とけたたましい咆哮がして、驚いて「どうしたの?」と声を掛けると、猫が悠然と庭を横切って行くところでした。りくは火がついたように起こって立ち上がり、勝手口にダッシュしようとしていましたが、「悪い猫だねえ」とりくをなだめて落ち着かせました。

 こんなことは本当に久しぶりでした。耳が聞こえていたころはいつも猫の声に怒っており、また、玄関先で何頭かの猫が座談会をしていると「わしのシマを荒らしおって」と猛然と抗議、猫を蹴散らしていました。りくは元来おとなしい子なのですが、縄張りが荒らされることに関してだけは許せないらしく、スイッチが入ってしまうようでした。

 「まだこんなところがあるんだなあ」と私は、実のところ、ちょっとうれしかったのです。2019年も終わります。りく、来年も元気でいようね。

2019年12月27日金曜日

「紅春 149」

先日朝4時半にりくに起こされ、バタバタと午前中の仕事を済ませてふっと気が緩んだのか、猛烈な睡魔に襲われました。「眠気が到来した時に寝るのが一番いい」というのが最新の研究結果と聞いていたので、さっそく朝寝。すると12時と12時半にりくがやって来ました。これは「お腹すいた」か「散歩行きたい」だなと思い、すっきりした気分で起きてみると、りくはご飯をやっても食べないし、散歩もせがまない。

 ようやく、あれは「姉ちゃん、大丈夫?」という様子見だったのだとわかりました。本当に優しい子です。りくに心配されているようではだめだなと思いつつ、「散歩行く?」と聞いたら、もう大喜び。高速で部屋を駆け回ったり、おもしゃのぬいぐるみをくわえて何やらはしゃいでいます。その日は福島の冬には珍しい快晴のお天気。年の瀬とは思えない暖かさの中、りくと2キロほどの散歩を楽しみました。


2019年12月24日火曜日

「紅春 148」

りくの老化の症状はまあまあ安定しています。散歩以外ほぼ一日中寝ているのは今までと同じですが、最近は夜明けが遅いのでやって来るのが5時過ぎです。私は目覚ましを使わず起床はりく頼みなので、私の起床も遅くなっています。先日は朝りくが起こしに来たとき時計を見たら5時17分、思わず「えー」と声を上げたのは、その日が冬至で、その前日に朝やって来た時間が5時16分だったことを思い出したからです。ちなみに福島市の日の出の時間は下記の通りです。
12月21日     6:49
12月22日(冬至) 6:50
 りくは日の出のきっかり1時間33分前に起こしに来ていたのです。「きっかり」といってもその意味が私にはまだわかりませんが、おそらくりくが空の白み具合を感じる最初の時刻なのでしょう。りーくん、君は超優秀な明るさ体感犬なのか。姉ちゃん、それほどとは知らなかったよ。

 しかし、りくがこの能力を発揮するには一つ大きな難点があります。その日の天気によって空の明るさには有意な差があるのです。昨日は朝方まで雨が降っていたから、りくの明るさ体感センサーがはじき出した時刻はなんと6時56分。これはさすがに寝坊です。また、前日の就寝時刻もセンサーの感度に影響するらしく、人間が夜更かししたり逆に極端に早寝したりするとだめみたい。りく、繊細だからなー。


2019年12月22日日曜日

「大掃除とお片付け」

 大掃除の季節ですが、私の場合はすでに終了しています。マンションの消防点検・排水溝清掃の時期に合わせて、6月と12月の第一週にやってしまうからです。大掃除とかお片付けとか聞くとどうしても笑ってしまう友人の話があります。郊外から都心に引っ越す時、もうすでに都心で暮らしていたので前のマンションの片づけがとても大変だったという話です。仕事があるため週末しか片付ける時間がなく、またなぜか彼女が一人で一家分の片づけをすることになったため、片付け専門の業者を頼んだそうです。何週間か通って一緒に片づけ(というか処分)をしていったのですが、或るとき時次週の予定を決めようとして、業者に「今日で終わりにしましょう」と言われたというのです。おそらく処分量が業者が予想していた量をはるかに上回っていたため、業者もさじを投げたらしいのです。私も片付けられない質ですが、これはすごい話だと爆笑してしまいました。こういう気の置けない友人がいると、たまに家でお茶する時多少ちらかっていても「床が見えてるなんてすごい」と褒められてしまうのですから、楽ちんです。

 片付けといえば、友人から最近聞いた話もあります。フルタイムの仕事があり、子育てや家事もしている超多忙な人ですが、ついに家の大掃除・片付けを思い立ち、二人の手伝いを頼んだというのです。この時手伝いに見えたのは二人とも40代くらいの女性(いわゆるおばさん)で、和気あいあいで片付けていったとのことでした。昔の手紙や子供たちの学校の作品類もたくさん出てきて、作業する中で処分するかどうか聞かれ、
「手紙は、川辺野さんのはとっておいてください。他の人のは名前を言ってください」
「川辺のさんの手紙、多いですね。筆まめなんですね」
という会話があったそうな。筆まめなのは彼女の方で、いつもさらさらと返事を書いてくれていたなあという印象です。それにしても、私には瞬間的な決断力がないので、私が片付け作業をするなら他人に助けを頼むのは難しく、一人で「う~ん」と悩んで唸りながら処分していくことになりそうです。

 作業の途中で出てきたジグソーパズルをぶちまけてしまい、子供たちとやり直したという話もあり、そこからの連想でなぜかテレビドラマの話が出て、ずいぶんと話は転々と移り変わり、最後は「家族論」になりました。家族同士の会話はなんというか中身を問題にするなら本当にくだらないことばかりなのですが、家族以外とはとてもできないようなくだらない内容の連続こそが家族を成り立たせているもののようです。お互い相当言いすぎていても翌日にはケロッと忘れていられるというのも家族ならではです。家族に関しては、「おはよう」「いただきます」「ごちそうさま」行ってきます」「ただいま」「おやすみ」等の挨拶ができていればなんとかなるんじゃないかなというのが結論です。

2019年12月16日月曜日

「アドベントの日々」

 某重大犯罪の裁判経過を聞きながら、とても暗澹たる気持ちになりました。このケースは見ず知らずの複数名を殺傷した動機が、「刑務所に入っていたいから」というもので、犯人は殺傷の手口をむしろ自慢げに話し、「もし無期懲役でないなら、刑務所を出た瞬間にまた人を殺します」と言い放っていました。罪を犯した悔悟があらばこそ、その償いが意味を成すのでしょうに、今回のケースは救いの足掛かりも何もない、まさしく救いのないものとなりました。

 これほどの悪を見せつけられると言葉もなく、きっとこの人は人類を絶句させるために事件を起こしたのだと思わざるを得ません。もちろん、ここに至るまでの道のりを思うと、他人の想像を絶するひどい環境や出来事を経験した人なのかもしれません。勝手な憶測で語ることはできませんが、大局的にみると、容疑者は悪にまみれた人の世で培養されて出現した得体の知れない生物、もはや人間に罰を加えるために到来した怪物のように思えます。

 そして認めたくないことですが、この世の罪悪というなら、自分もその中に住んでいる以上、全くの無関係と言える人はいません。無論、大多数の人は誰のことも傷つけてはいない、ましてや殺人などしない。その通りです。実行に至るか否かの間には千里の径庭があります。しかし、言葉や行いを通じて相手の心に与えた打撃についてはどうでしょう。最近はハラスメントのことが話題になります。一口にハラスメントと言っても、セクハラ、パワハラ、モラハラ、アカハラ(高等教育でアカデミックな分野における前三者を含んだ形態のハラスメントのことらしい)と様々です。これもよくよく考えると難しい問題で、相手がそう感じたらハラスメントというのであれば、およそ人間同士の接触においてハラスメントでないことがどれだけあるかと思わざるを得ないのです。とくにハラスメントの場合、本人はたいてい「良かれと思って」しているのがほとんどですから、ますます難しい。自分でも気づかぬうちに、相手に回復不能の傷を負わせていることはないでしょうか。あるいは端的に、心を殺すことも?

 新約聖書の福音書では、イエスが捕らわれた後のペテロの姿を捉えています。マルコ及びルカによると、その夜、大祭司の屋敷の庭にいたペテロは火にあたっていたとの記述があり、それゆえ顔が照らされて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」との証言が出ます。ここで火というのは光といってもよいもので、ペテロには光が当たっていたのです。しかし、彼はそれを気に留めていないのです。もしペテロがこの時、自分を照らす「光」について証しすることができていたならどうだったでしょうか。すべてが変わっていたはずです。しかし、それは夜の闇の中にいるペテロが自力で理解できるようなことではなかったのです。福音書に余すところなく描かれている弟子たちの無理解が示すように、イエスが誰であるかをまだ知らないペテロには無理なのです。ペテロだけでなく、すべての人間に不可能なことです。ヨハネによる福音書の冒頭で「暗闇は光を理解しなかった」と書かれているとおりです。さて、その状況で、「あなたもイエスと一緒にいた」と言われてペテロはそれを否定します。ペテロはこれを三度繰り返すのですが、マタイ及びマルコはそれぞれの福音書において、「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた」と記しています。「呪いの言葉さえ口にしながら」とは、「もしそれが本当なら、私は呪われよ」とペテロが自分に向かって言ったということなのでしょう。これはペテロが自分で自分にかけた呪いでした。呪いはかけた人によってしか解除することができません。ペテロはこのままではどうあっても呪われたままだったのです。復活されたイエス・キリストに出会うまでは。

 ペテロが呪いから解き放たれ、再び命の息吹を帯びて目覚ましい働きをするようになったのは、復活のキリストに出会って以降です。なるほど、そういうことだったのかと深く納得しました。アドベントにイエスの降誕物語だけでなく、最晩年の十字架と復活物語を読むのは誠にふさわしいことです。それらは一つの事なのですから。暗い世相の中では毎日が主の降誕を待ち望むアドベントです。

 

2019年12月12日木曜日

「太陽光発電」

 きっかけはLEDの懐中電灯を買いに行き、近くにあった小型ガーデン・ライトを見つけたことでした。頭頂部に太陽光パネルが貼ってあり、暗くなると自動で点灯するあれです。うちに庭はありませんが、なんとなく心惹かれて、何個か購入しました。昼間窓辺に置いて陽に当て、夕闇が迫るころ部屋のあちこちに配置すると、これが十分明るい。日が短くなるこの季節、いつも気鬱になることが多いのですが、小さな光があるだけで気持ちを温かく満たしてくれます。気が付けば、これはただの太陽光、万人に与えられる神様の恵みです。「ただの」は「唯の」であり、まさしく「無料の」です。これを利用しない手はないなと楽しくなってきました。

 「あの小さなパネルでも一晩中輝くエネルギーを貯められるのなら」と、さっそく某通販サイトで太陽光パネルの研究。まずはお試し用に一番小さい部類の縦横40cm角×2枚組購入を決定。ジャクサ探査機はやぶさの太陽光パネルを彷彿とさせる代物でとてもよい感じです。アウトドアで使用することが想定されているらしく、持ち手がついて折りたたんで鞄のように持ち歩けるようになっています。USB端子がついているので携帯電話やスマホを充電できるだけでも、大いに役立つことでしょう。

 ここでハタと気づくのは、これは災害時に必須のものだということです。チャンスがあれば電子機器によって他の人と連絡が取れる状態であることは重要です。と、その時、目に留まったのは小型充電器です。これがあれば太陽光を電気の形で貯めておき、必要に応じて取り出すことができます。今までこういうことを考えてこなかった自分に愕然とし、とりあえずお試し用に一番小さな、従って一番出力のちいさなモデルを選びました。昔の小型カセットデッキくらいの大きさです。私が選んだポイントは、パネルから太陽光を取り込む挿入口があることと、コンセントの差込口があって電気を取り出せることです。

 商品が届き、毎日いろいろと試しています。太陽光パネルでは、マイクロUSBの出力口にLEDのスタンドライトをつないで十分な充電ができます。また、昼間パネルと充電器をつないで電気を貯め、夜間に充電器のコンセントに乾電池用充電器をつなぎ、単三4本や単四4本は十分に充電できます。うちには電池使用のラスタンドイトが2つ、テレビはなく乾電池用のラジオが1台とマイクロUSB接続用のラジオが1台あるだけなので、これで十分です。パソコンは位置的に遠いのでつないでいませんが、災害時には力を発揮してくれるはずです。つまり、災害時の情報収集と緊急時の発信については、太陽さえ出てくれれば無制限に可能ということでこれはありがたい。

 うちにある他の家電は、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、エアコン、炊飯器、湯沸かし器といったところですが、これらは到底小さな充電器では動きません。(コードレス掃除機の充電はできました。)もっと大型の充電器なら動くものかどうか、この実験には相当の出費が見込まれます。一戸建ての方なら、屋根に太陽光パネルをつけて電力を売るというのはよい選択だと思います。このところずっと曇りがちでしたから充電に時間がかかるという印象はありますが、考えてみれば今は一年中で最も太陽の力が弱い時期です。それでも陽の光が燦燦と降り注ぐような日は、結構すぐに「フル充電」の表示がでます。既得権を脅かされるので反対する人はいるでしょうが、それはそれとして、単純に国としてこの方向に進めばいいのではないでしょうか。明るい方へ、光の方へ。もっと光を!

2019年12月9日月曜日

「乗り物あれやこれや」

 それぞれの交通手段には、歴史の影というべき特有性がまとわりついているように思います。鉄道は近代になって以降最も身近で便利なものですが、『オリエント急行殺人事件』や『点と線』の時刻表の謎解きのように、なにやら殺人事件と組み合わされることが際立っています。飛行機およびその原初的形態である客船はパニック系と親和性がある気がします。以前JALの機内で『タイタニック』を見たと言ったら、「えっ、あんなパニックものを…。ルフトハンザではあり得ない」とヘルベルトに驚かれたのを思い出します。自家用車はもちろんロードムービー系ですが、限られた人数で移動するせいか、結構ワイルドな展開になる(今、念頭に浮かんでいるのは『テルマ&ルイーズ』かな)という印象です。そしてバスというと、これはいつも乗っているので断言できますが、カフカ的不条理の世界を存分に味わえる乗り物です。

 バスを利用するにあたって一番難しいのは、意外にもきちんと乗り場の前で待っているということなのです。田舎道でバスを待つ場合は、道を挟んでほぼ真向いにあるので、方向さえ間違わなければ何の問題もありません。しかし、都市ではそうはいきません。乗り場は交差点から確か50m話さなければならないので、たいていは交差点を通り過ぎてしばらくいったところにあり、すると道路の両側でバス停のある位置が相当離れてしまいます。それでも必ず交差点を過ぎてからという決まりならよいのですが、たまに何らかの事情で交差点の手前にあることもあるので、こうなるといくら行っても乗り場が見つからないという困難な事態に遭遇します。それでも諦めずにどんどん進むとなんと次の乗り場が現れ、こうして一駅歩いてしまうこともしばしばです。大きな鉄道駅のそばでは、降車の位置と発車の位置が大幅に離れており、すぐには見つからないということが起きます。これは国の内外を問いません。私はウフィツィ美術館(フィレンツェ)の一日券で入って途中抜け出してシエナに行き、十分間に合う時間にバス停にいたら、そこが降車場所だとわかり、ウフィツィの閉館前に戻れるよう、発車場所までヘルベルトと300mを全力疾走したことがあります。さらに問題を困難にするのは乗り入れているバスが1社でない場合です。同じ名前のバス乗り場でも、別のバス会社が10mほどずらして乗り場の表示を出している場合があり、15分ほども待っていた人が乗り場違いで置いてきぼりを食い、目の前を自分の乗るべきバスが通り過ぎていくのを「あ~」と頭を抱えて呆然と見送っている場面を何度か見ています。こういうのは気の毒でなりません。

 前乗り、後ろ乗りを正しく選択し運よく予定のバスに乗れたとして、次に生じるのは運賃支払いの問題です。現金だけからICカードもOKになって、私はどれほど助かっているかわかりませんが、都バスのように西多摩を除く全区間に通用する一日券なら楽ですが、KKバスのように他県にわたっているためにICカードの一日券がない(削り落とし式の紙のカードの扱いにくさは以前書きました)という不便さを感じることもあります。子供の頃主流だった、切符を差し込んで印字するという様式はさすがにもうないのでしょうか。一つの路線なら何駅分乗ってどこで降りても同一料金というのは、運転手さんの負担軽減の切り札なのかもしれません。私がバスで一番気に入っているのは、一度乗ってしまえば降りるときにICカードや切符を取り出す必要がないことです。これに慣れてしまうと、たまに電車に乗ったとき降りてから改札の前で「あ、出るときもカードタッチが必要だった」ともたもたすることになります。

 そこもクリアできて最後にやってくるのは降車バス停の壁です。「〇〇橋」があり、「〇〇三丁目」があり、「〇〇三丁目交差点」があり、となると、降車バス停をうろ覚えで乗った場合は「どこでおりればいいんだ~」という事態が発生します。「△△二丁目」、「△△三丁目」、「△△四丁目」の次が「△△六丁目」となるケースでは、降車バス停を「△△五丁目団地」と教えられて初めてその地域に来た人は一瞬不安になること請け合いです。このあたりの困難さは外国でも日本でもあまり差がありません。外国の場合は「□□で降ろしてください」と運転手さんにお願いしておくのが一番です。自分で降りるバス停を探せず、何度か失敗して学びました。

 東京のようなバス路線網が発達したエリアでは、上級者向けの楽しみもあります。二点を結ぶ行程を考える時、全く違う路線が意外なところで交わっていたり、または呼び名の全く違う双方のバス停がごく近いので、ほんの少し歩けば大きな時間の節約になったり、うれしい発見のバス旅を楽しめるといった利用法です。都バス一日券と都バスの全路線地図だけもって、路線網を山野に見立ててオリエンテーリングのような遊びも面白そうです。

2019年12月3日火曜日

「一年が速すぎる」

 流行語大賞(今年はONE TEAM)が話題になる季節となったことにもう仰天しています。一年の始まりがつい二、三か月ほど前だった気がするからです。例年に比べても、いくら何でも早すぎる気がするのでその原因について考えてみました。

①歳をとった
 1年の長さは人生の長さと関係していると言われています。十歳の子どもにとって1年は人生の十分の一ですが、例えば五十歳の人にとっては1年は五十分の一に過ぎません。五十歳の人にとって十分の一の長さと言うと5年ですから、これが十歳の子どもの1年に当たる・・、そう考えると「なるほどなあ」としっくりきます。昔は時間はゆっくり流れており、1年は結構長いものでしたから。今はその5倍以上の速さで1年が過ぎる・・・納得です。

②よく寝た
 私は睡眠時間が長い方です。加齢のせいで起床時間が早まっていますが、そのぶん就寝時間が早くなったり(そう言えば、夜7時に家の中が真っ暗だったので私が倒れているのではと、帰宅した兄をぎょっとさせた事件もありました)、また、昼間急激な睡魔に襲われて昼寝をしたりしているので、8時間は十分寝ています。また、具合が悪くなるととにかく寝る。こんこんと半日、一日、二日、三日くらい平気で寝ます。もちろん時々起きて、水分や栄養は適宜摂取。さすがに三日も寝ると、たいていの体調不良は完全に回復。睡眠は時に医者や薬に勝ります。睡眠おそるべし。ただ、寝ている時間はこの世の時間には組み込めない。1日寝ていた日には当然「今日は何もできなかったなあ」と思います。

③本をたくさん読んだ、書き物もした
 本を読んでいる(聴いている)時間には、私はどこかわからないところに行っています。これに一番近い感覚は、睡眠中に見る夢の中ですが、ちょうどハッと夢から覚めるように「本から覚める」と言う感じです。書いている時も同様で、どこか別の所にいる自分がいろいろなことを考えています。なんとなく自分がキーボードを打っていることは把握しているのですが、この場にいない気がするのです。いずれにしても明確に覚醒した時には、この世的には何時間もたっているのです。だから、読んだり書いたりしている時間もこの世の時間には組み込めない。この世というのはご飯を食べたり、外出したり、家事をしたりしている時間で、これはこれで大事な時間です。

④いろいろと事件が起きた
 親族や知人で亡くなった方がおりますと、心の中で喪に服する時が流れるので気が付けばもうこんなに経ったのかと思います。りくの体調の変化もいろいろあって気を揉むことが多かった気がします。元号が変わり、即位に関わる行事が多かったのも時の速さを感じる一因かもしれません。さらに、11月末に来日したフランシスコ教皇のインパクトはとても強いものでした。プロテスタントの私はさほど注目していなかったのですが、さすが世界数十億の信徒を抱える宗教指導者はかくあるべしという威厳と気品と慈愛が全身から湧き出ているような方とお見受けしました。教皇というとどうしても世界史の中に登場する激烈な権力闘争の勝者という先入観があり、そこまではいかずとも相当なやり手だろうという予想に反し、ほとんど聖人というイメージを具現化した人物のように思えました。都内のカトリック系の大学での講演か、あるいは東京カテドラル聖マリア大聖堂での若者との集いか、ニュースでフランシスコ教皇の言葉を聞きましたが、言っていることは「弱い立場の人の側に立って考えてください」、「誠実な人でいてください」などの、その言葉だけ取ればだれもが言いそうなことなのですが、もう圧倒的な優しさと確信に満ちていて、言葉というものはだれがそれを発するのかが第一義的に重要だと思い知らされました。日本の政治家にはあのオーラは薬にしたくもない、本当に影さえないと感じました。

 そんなこんなで、本当に盛り沢山の1年でした。私なんぞが忙しいはずはないのに、しみじみ「あ~忙しかった」。いや、本当に忙しい師走はむしろこれからか。あと1か月近くの日々、1年の締めくくりらしく落ち着いて過ごしたいです。

2019年11月30日土曜日

「紅春 147」

クリスマスまで間があるので11月末に一度帰省することにしたのは、りくのことが気になったからです。例の事件以後、普通の暮らしができているか、老化は進んでいないかが心配になって様子見に帰ったのですが、りくは結構元気そうで、兄の話ではそれ以後の粗相はないそうです。帰るなり、「散歩、散歩」とねだられ、もうりくの言いなりです。

 朝は4時半ころからやって来るので「まだ早いよ。真っ暗だよ」と言って帰しますが、りくも心得たもので「二度、三度と行かないとだめだな」と思っているのです。5時前後に「おはよう」とやって来る満面の笑顔を見ると、「そんなにうれしいのか」と起きないわけにはいかなくなります。朝、下の橋まで往復2キロくらいしても9時にはまた散歩をせがまれます。「じゃ、セブンに付き合って。コーヒー粉と洗剤会に行くから」と言うと、もう待ちきれない様子です。いつもの土手を行き、勝手知ったるお店の裏手、桃畑の手前につないでおくと、静かに待っています。これも往復約2キロ。

 散歩以外の時間はたいてい寝ていますが、夕方になるとむっくり起きて必ず「散歩に連れてって」とやってきます。トイレを済ませるのに往復で1キロほど歩きます今日は橋を渡り切ったあたりで、自転車を引いてきたおじさんに「かわいい犬ですね。何歳ですか」と聞かれ、「13歳です」と答えると、「えー、若く見える」とのお返事。人間も同じでしょうが、りくは普段ほとんど寝ているのが健康維持に役立っているのでしょう。散歩のときは足腰がしっかりしておりぐいぐい引いていきます。階段のところで膝痛の私が遅れると、「ん、姉ちゃん大丈夫?」と振り向くので、ありがたいけどちょっと情けない気持ちにさせられます。


2019年11月27日水曜日

「KKバス乗り換えゲーム」

 先日自宅からとある大江戸線の駅まで行く必要があり、私は、私鉄・JR・東京メトロ・都営地下鉄・都バスを組み合わせての最適経路を考えていました。「都バスで主要駅まで出て、私鉄に乗り、あと1キロほど徒歩というのが、その時の体調を含めて最適解だな」と、ほぼ決めかけたその時です。ふと、「徒歩の部分に当たる交通手段は何かあるかな」と調べたら、ほとんど未知のKKバスが浮上しました。しかし驚いたのは、そのバスが結んでいるルートです。一方の端は「住みやすい街ランキング」でいつも上位にくるあのJR駅ではありませんか。頭がぼおっとしたのは、その駅に向かうKKバスが家の前を通ることを思い出したからです。つまり、家からKKバスの乗り換え1回だけで目的地に着けることがわかったのです。KKバスは都心とは逆方向に行くバスという先入観があり、利用できる交通手段の範疇になかったので、思いつきもしませんでした。私は想定外の事態に対応するのが苦手ですが、この場合どう考えても最も便利で早い最適な経路なので、即決です。さらに調べたら、十円玉のへりで番号を削り取るタイプの、いつの時代のものですかと思えるような一日券があることがわかりました。都バスのようなICカードではなく運転手さんから買えますが、ホームページの案内には「売り切れの場合があります」といった趣旨のことが書いてあり、なんだかハラハラします。

 今週の通院に際してKKバスを利用してみようと思い立ち、事前に乗り換え時間や乗り場を確認して乗ったのですが、乗り換え用として胸の内ポケットを探ったらない! そういえばさっき何かがスルリと落ちた気がする…。入れたつもりでポケットに入らなかったのだと認めざるを得ず、時間はあるので予定していた乗り換えのバスを見送り、降りたところまで少し戻ってみることにしました。すると降車ロータリーの水たまりのそばに、若干濡れた状態でしたが、一日券が落ちていました。開いてみると、削り取られた日付の状態は忘れもしない自分の作業の跡が認められました。これが見つかったのは奇跡的です。私もしぶとい。病院に着く前にぐったり疲れたものの、十分間に合って1コイン(500円)で往復できました。KKバスの良いところは病院までバスが乗り入れていることで、帰りに用事がなければ雨や猛暑の時などは本当に便利ですから、選択肢が増えて、これはうれしい。何でもやってみるものですね。


2019年11月21日木曜日

「年金ランティエ」

 明治時代の小説に今の人々が違和感を感じることの一つは、学問も修め、結構な年齢になっているのに働いていない、いわゆる高等遊民の存在ではないでしょうか。そしてとっくに隠居している裕福な父親が、息子に生活費を与えつつ結婚を執拗に迫るという家族のあり方に、「うーむ、これでよいのだろうか」と不可解な感覚を抱くのです。こういった違和感は端的に明治の或る時期と現在との社会的、経済的変容の何たるかを教えてくれます。大学を出た青年は当時はエリートであり、世間体もあって学歴にふさわしい処遇が期待できる職業に就く以外に道はなく、一方、家長である父親は家の存続を至上命題として、息子には何としても跡継ぎを残してもらわねばなりません。不幸にして夫婦に子どもがない場合、養子縁組をするという話もよく出てきます。そして明治の或る時期にこういった高等遊民という生活形態のあり方が可能だったのは、今からは想像できないほどの金利の高さがあるでしょう。詳細は知りませんが、例えば金利が7.2%なら10年で預金が倍になるのですから、金利が6%くらいでもそれなりの資産のある人は利息だけで見苦しくない暮らしができたことでしょう。しかし、高金利も長期間は続かず、やがて高等遊民も消えてゆきます。

 もう一つ今の人が明治の暮らしに抱く違和感は、家族。親族の人間関係の親密さでしょう。親族間の行事関係の付き合いは、今よりずっと濃く、また、お金の工面はまずもって親族間で行われていたのです。当然、借金を申し入れる側は相手を納得させられるようなもっともな理由がなくてはならず、またその過程で個人的な事情も親族の知るところとなります。やがて、子どもが様々な理由で都会に出て行き、将来的に老親と同居できず、かつて存在した家族の絆が薄れていくことは時代の趨勢でした。そしておそらく、まるで糸の切れた凧のような根無し草の不安に負けず劣らず、その身軽さや自由を、多くの人が快適に感じたことは間違いないだろうと思います。でなければ、現在まさしく表出しているように、核家族さえ崩壊寸前というところまで家族が解体することはなかったでしょう。明治期になくて今は存在している金融システムの一つはサラ金であり、これは極論すれば、自分勝手な理由でお金を借りたいという人々の欲求を満たす金融上の要請により出現したのです。それゆえ、現代における明治期の小説の読者は、登場人物が直面するお金の工面をめぐる親族間の煩わしさにうんざりしてしまいます。

 また、明治期にはなかった経済にかかわる社会システムの一つは、もちろん年金制度です。これは明治期どころか戦後大分経って整えられた制度ですから、今危機的状況が懸念されてはいるものの、明治の人から見れば夢のような制度であると断言してよいでしょう。明治期の小説によれば、家族のいない使用人は奉公先の家で一生を終えていたのですし、それこそ女性は結婚する以外に生きていく道はなかったことが分かります。

 現代社会においては、働き方は人によって千差万別です。定年まで働き、その後は年金暮らし(余裕のある世代なら海外旅行を好む)という少し前までの王道を行く方々は、明治の人には夢想だにできない年金ランティエと呼んでよいでしょう。また、仕事をセーブしつつ、働く楽しみを一生手放さない人も相当いるでしょう。かつて株のトレーダーは消耗がひどく三十代でリタイアという話をよく聞きましたが、その頃はあとの人生をどう過ごしているのか不思議で仕方ありませんでした。果たしてこういう人がデイ・トレーディング以上にのめり込めることを見つけられるかどうか分かりませんが、これは適宜資産を運用しながら、余生は好きなことをして過ごすという選択だったのかもしれません。そして、その中間に、年金給付資格(かつては25年の払い込みが必要でした)を得たのち、早期退職して残りの人生を送るという方も結構いるでしょう。健康上の理由で定年を待たずに退職する人もいます。この方々は公的年金の開始まで、何らかのたずきの目途が立っており、しかもまだやりたいことやそのためのエネルギーがある世代のはずですから、贅沢はできないものの質素な年金ランティエ予備軍と言えるのではないでしょうか。元気いっぱいの方々はアウトドア系・インドア系を問わず、具体的な好みの方向性、仲間やネットワークの有無、個人的な工夫等によって、相当楽しい老後が送れるでしょうし、読書が趣味などという人はもはやほぼお金をかけずに時間だけはたっぷりある至福の暮らしが待っています。何を幸福と感じるかにもよりますが、現在はこのように社会制度が整えられていることは確かです。年金制度は明治人が望んでも届かなかった優れた社会制度です。他に方法があれば別ですが、ここはよくよく考える思慮深さが必要でしょう。知恵を出し合い、我慢し合って制度を手直ししながら、維持していくほかないのではないでしょうか。


2019年11月14日木曜日

「影山君のこと」

 夜更けに中学の友人からメールが来ました。訃報でした。懐かしい何人もの同級生の手を経て、運ばれたメールであることがわかりました。その夜、彼を知る人は皆悲しくて、眠れぬ夜を送ったのです。私は麗ちゃん探しでとてもお世話になったし、元気なものと思ってばかりいたので信じられない気持ちでした。こういうことはできる限り知らせておいた方がいいと思い、同級生に知らせました。一人は中学・高校のクラスメートで、年賀状とメールでのやりとりはあったものの、お会いするのは何十年かぶりで、元気な姿を嬉しく思いました。麗ちゃん探しで決定的情報をくれたK君は、アドレスが変わったらしくメールが戻ってきましたが、影山君とは縁の深い人だったので他からの連絡を願いました。もう一人は年賀状のやり取りはあるもののメールアドレスを知らなかったので、葬儀には間に合わないと思いましたが、何しろクラスメートのことなので、メールをプリントアウトして封書で送りました。

 影山君は中学で出会った人でしたが、中には小学校、あまっさえ幼稚園からの付き合いという友人も多く、通夜に参列した東京組に訊いたところでは、近しい福島の同窓生が取りまとめて同窓会名で供花を出し、告別式にも参列とのことでした。思うに影山君はいろいろな人の結節点にいる存在でした。追悼とは、その人のことを思い巡らせて様々なことを想起することだと思うので、いくつか思い出したことを書いてみます。

 中学時代はよく席が隣りでした。出席番号順で並ぶときはアイウエオ順的にそうなるのですが、くじ引きだった時もなぜか隣り合わせのことが多く、お互い「えっ、また…」という感じでした。でもそのせいで、当時男子とはほとんど口をきいたことがない私が最もよくしゃべった相手ではないかと思います。話すと何気にとても面白い人でした。消しゴムの貸し借りもしていたなあ。強烈に覚えているのは、卒業間近のころ秘密裏に企画されたお別れ会が先生にバレて一人一人尋問を受けた時、影山君が知らぬ存ぜぬで通したという話です。十五歳でこの対応ができるのはすごいと思うと同時に、「えっ、しゃべっちゃったの私だけ?」という顔面蒼白の事態でもありました。途方もないエネルギーを持て余し、しばしばとんでもない方向に暴走していた中学の頃を思うと、「先生、ごめんなさい」というほかありません。

 最近では、といっても2016年の同窓会で会った時、麗ちゃん探しで行き詰っていた私は影山君と同じ部活でその後麗ちゃんとつながりのあったK君にもう一度詳細を聞いてもらうことで、最終的に葬儀をした教会もわかり、そこからご家族にも辿り着けました。五月だったか六月だったか、影山君に「麗ちゃん見つかったよ」というメールを送ってこのことは一段落しましたが、「探してもらえて、作田は幸せだな」と言ってくれてとてもうれしかったのを思い出します。やり取りの中で、麗ちゃんのことを書いたブログを読んでくれて、ついでに「文学部に行く意味」というタイトルの文に「私も文学部だったので、興味深く読みました」とのコメントをくれました。やり取りのメールの発信時刻が真夜中と言うことも多く、忙しい中で様々な対応をしてくれたこと、申し訳なく、また感謝です。

 こうして思い出してみると、あらためて思いやりのある人でした。だからこそ、多くの人がその死を悼んでいるのです。それにしても早すぎる。いい人ってどうして早く亡くなるのでしょうと思わずにおれません。ご冥福とご家族への御慰めを祈ります。



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2019年11月7日木曜日

「明治イヤーズ一段落」

 宗教改革五百年が終わり、2018年の秋に『中渋谷教会百年史』をいただいたのがきっかけで、私の関心は明治時代に向かっていったように思います。その頃ふと、自分の生年から百年遡るともう江戸時代になる…と分かって、「本当かな」と数え直し、ショックで呆然としたのを覚えています。百年と言えば、或る意味つい最近のことではありませんか。ちょうどその頃、中学の同級生から明治関係の御著書が届き、私にとって大変良い取っ掛かりとなりました。データ化された著作物を音声ソフトで読んでいる私のようなものにとって、著作権が切れてパブリック・ドメインに置かれている明治期の著作物は願ってもない宝の山です。その蔵書の冊数は到底生きている間に読み切れるものではありません。良質の書物が読み放題という本当にありがたい恩恵に浴する幸いに感謝です。人類の英知の一端に触れて感嘆しながら、この1年半ほどを過ごしました。2019年は明治本を立て続けに読むうち、なんだかお話が思い浮かんで短編を書きましたが、まだブログには載せられず塩漬け状態です。

 少し前に、前述の同級生からもう一冊著書をいただきました。通院のついでに道草をして調べてみましたが、発売前に送ってくれたものなのでまだ大学の総合図書館にも入っていませんでした。こういうのはすごくうれしい。その書は、私がかろうじて名前だけは聞いたことのある明治の言論人、三宅雪嶺についての研究書で、推測ですが、日本でもその専門家は十指に満たないのではないでしょうか。専門家の中には時々インサイダーにしかわからない書き方をする人もいますが、この本は日本史に登場する人物についての叢書の一巻であり、私のような一般人がわかるように書かれた包括的な著述の本です。長年の丹念な研究の成果が丁寧過ぎるほどリーダー・フレンドリーな構成で書かれており、信頼できる良書です。送り主はその昔から博士と呼ばれ、いい加減なことのできない理論派でしたから、彼にふさわしい本当に良い仕事をされました。同級生が何十年も前と変わっていないというのは誠にうれしいことです。
 ちゃんと読んでお礼状を書こうと思いましたが、研究者の書いたものに対して何かを言うほどの見識が私にあるわけがありません。そのため、いつものように、思い付きで本筋とは無関係のへんてこ話でお茶を濁すことにしました。

 私が三宅雪嶺という人物について興味を引かれたのは、彼が自分の思考を口述筆記させたという点です。口述というと太宰治のいくつかの作品が思い浮かび、確か『如是我聞』は後にその草稿が見つかって話題になりました。なぜなら、その草稿は太宰が自分で書いたものを暗記して「蚕が糸を吐くように口述し」、記者に筆記させたという事実を暴露することになったからです。淀みなく流れる自分の声を聴きながら、太宰は深い愉悦のうちに自らの天才性を一粒で三度味わったことでしょう。

 三宅雪嶺の場合は、原稿そのものを書く様態が主に口述筆記だったようなので、太宰のケースとは違います。雪嶺が稗田阿礼に匹敵するほどの博覧強記であったという可能性はありますが、決定的に違うのは文字を書ける人だったということです。ところが雪嶺は、洋行の際に顕著だったように、傍らに筆記者がいないと「何も書くことがない」という人でした。彼が筆記者無しに自分に到来するものを口述できなかったと聞いて思い当たるのは、雪嶺が訥弁で知られていたという事実です。私の知る限り、発話に支障がある場合、その人は自分が自分であることに違和感を感じたり苦しんだりしている場合が多い。だから、このような人の多くは、他人に憑依する(風邪で声が変わる、落語の高座に上がる、芝居に出る)ような場合には普通に発話できます。この仮説によれば、雪嶺は口述筆記によれば口ごもらずに話せたと想定できます。一般的に感情が大きく揺れる時など、今の自分と1時間前の自分が別人だと感じることは誰にでもある現象ですが、問題はその度合いです。コギト(とりあえず「私が私であるという確信」と言っておきます)の強弱には個人差があると仮定せざるを得ないと私は思っています。自筆の原稿ではなく署名もないことから生じる問題は、それが本当に本人のものなのかどうかですが、御本を読む限りそういう問題はよく起きたようです。筆跡鑑定もできず署名もないなら、テキストの内容や書かれた状況ほか周辺的な証拠によって、雪嶺のものであるかどうかが判断されることになります。また、雪嶺が入稿直前の原稿に手を入れて修正するので、版下作業の関係者が困惑するという逸話も紹介されていました。思うに、コギトをものともしないタイプの人が原稿への署名に無頓着なのも、校正で原稿を修正することに心的負担を感じないのも当然でしょう。だってその原稿は名実ともに「自分が書いたもの」ではないのですから。

 そして直感ですが、この「私が私であること」への確信は、時間の観念と何らかの関係があるのではないかという気がするのです。自分が音声主体の生活になってわかったのは、「聴く」「話す」行為においてはその行為が続く間、時間を飛び越えられないということです。今はデジタル機器があるのでできますが、本来はできない。音声が続く限りは、それがどれほど長時間続こうが常に「今」であり、その意味で時は止まっているのです。活字を扱う「読む」「書く」の場合は全く異なり、任意の箇所から始めたり終えたりすることができます。時間をフライングできるのです。つまり人間が文字を発明し、文字に書き残すことで手に入れたのは時間意識だったということです。私は今まで「文字とともに歴史が始まった」という言葉の意味を本質においてわかっていませんでした。古の詩人の多くが盲た人であったのはこれと関係があるはずですし、文字を手に入れた人間は「未来に備える」ということを自覚的に行えるようになっただろうと思います。

 書き物をする様態として口述筆記を考えた時、自分にはとてもできないなと思います。自分で書かないと気が済まないのです。私のコギトは結構強固なのでしょう。それでも書く時にどこからか自分ではない声が聞こえてくるという感じはちょっとだけ分かる・・・このあたりのことが「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。この読書から私が得た仮説は「著述の様態はコギトの強弱で決まる」です。どうでしょう。「あなた、いったい何の本を読んだの?」って言われそうですけど。


2019年11月4日月曜日

「幸せな挫折」

 新聞の若い読者からの投稿で、かいつまんで書くと以下のような声があったそうです。
 「幸せになりたい。これまでは親が言う通りにすれば、幸せになれると思ってきた。よい大学に入り、よい会社に入り、人生を歩んできた。けれども、ちっとも幸せに感じない。まずいことに、私はそれ以外のレールを歩むことを知らない。幸せとは何か、どうしたら幸せになれるのか、誰か教えて欲しい。」

 なるほど悲痛な悩みで、何かの拍子に悪い宗教にはまってしまいそうな方です。二十五歳くらい(下手すると卅前後ということもあり得る)方にこんな人生相談をされても困ります。厳しいことを言わなければならないからです。

 これは30年前なら中学生の問いでしょう。しかし、こういう投書が新聞に載ることから考えるに、これが今では二十代半ばくらいの方にとって、マイナーな問いではないということです。しかも、「よい大学に入り、よい会社に入り」とあることから、この方は恐らく普通以上に裕福なご家庭の方だろうと推察されます。それは自分を不幸だとは思っていないことからもわかります。このような若者の隆盛は、「子どもに失敗させたくない」という親心から生じています。親も学校も先回りして、子どもが失敗するのを回避するような選択をさせ続けてきた結果なのです。学校も親御さんに選ばれるためには、いかに面倒見の良い学校であるかを示す必要があり、そうしないとあっという間に生き残り競争からとうたされてしまうという現状があるのです。

 投書をされた方が言っているのは「私は自分の人生を生きたことがない」ということです。「不戦敗の損得勘定」で書いたワールドカップバレーのように、この方は、或る意味、アメリカ戦を欠場させられた選手と同じなのです。試合に出ていないのですから、勝ちも負けもない。しかしこれからさきの人生においては、12か国参加の総当たり戦、即ち11戦連戦の戦いに出続けなければならないのです。失敗や敗北が必ずある長丁場です。

 投書主のような若い方が続生するのは、おそらく今の方々が失敗を極端に恐れるからではないでしょうか。「ワタシ、失敗しないので」という決め台詞のドラマがありますが、「失敗したくない」というのが今の若者の切なる願いです。しかし、失敗から学ぶということこそが人が成長するということであり、人生においてはそれ以外の方法で成長し成熟するということは本来あり得ないでしょう。失敗や挫折の経験がなければ、人は幼児にとどまらざるを得ません。そう思って投書を読み返すと、これはまさしく幼児の物言いです。残念ですが、「ちゃんとした大人になりたい。でも失敗したくない」などという虫のいい考えは通りません。二十五歳はもう決して若くない。やりたいことをやって失敗しながら学び、悔いのない人生を送るしかないのではないですか。何? やりたいことがわからない? その質問にはさすがにお手上げです。


2019年10月31日木曜日

「紅春 146」


 りくはますます老境に達し、先日、家庭内某重大事件が発生しました。兄の話では、朝の忙しい時に、まだ十分覚醒していない感じのりくを散歩に連れ出そうとしたら、りくはそのままお漏らししてしまったというのです。一応四つ足で立ってはいたのですが、まだ夢心地で、立ったまま悪びれずに漏らし放題・・・「あ、しまった」という様子は全くなく、優雅にやっていたそうです。兄には「絶対に叱らないで」と言っています。人間ならもう80歳なのですから、そういうことがあっても当たり前です。

 私がいるときは、りくは朝5時ごろ起こしに来ますが、この時は頭がしっかり覚醒しているので、まだ失敗はありません。このところ膝痛でしんどい私よりずっとしっかりとした足取りで散歩に行き、普通通りに外でマーキングしながら用を足しています。猫はあまり水を飲まないので腎臓の病になりやすいという話を聞いたことがありますが、りくはよく水も飲み、大丈夫そうです。しかし、散歩中、マーキングというには結構盛大に用を足していることもあるので、人間同様、膀胱の貯水容量の機能低下があるかもしれません。な~に、お漏らしくらい何でもありません。「りくはボケじいになってお漏らししたっていいんだよ」と、最近よくりくに言っています。

2019年10月28日月曜日

「聖書と私:あらためて聖書とは」

(注)会報の最新号に依頼を受けて書いた原稿です。「聖書と私」はシリーズになっており、私は104人目の執筆者です。

 聖書は不思議な書物である。「聖書と私」というお題をいただき、家にある聖書を取り出してみると自宅でも十冊を超えた。福島の家ならその数倍あるだろう。今は亡き母の手製のカバーが付いた子どもの頃使った聖書、「父より贈らる」と母の字で書かれた祖父からの聖書、また様々な機会にいただいた聖書も多く、自分で買ったものではない本がこんなに重なることは普通はない。また、これほど人に読ませたい書物でありながら、通読を先送りされる本も珍しい。きっとそばにあるだけで安心するのだろう。この点で聖書は極めて特異な本である。

 小学校高学年から中学にかけての教会学校で、今思うと聖書を素読する時間があった。副牧師館と呼ばれた畳の部屋で、正座して相当長い聖書の箇所を音読した。あれはよかったと思う。日本語の聖書にはあらゆる漢字に読み仮名が振ってある。明治の文語訳からの伝統なのか、難しい漢字を知らなくても、たとえ小さな子どもでも、ひらがなさえ読めれば聖書が読めるのだ。これほどまでして万人に読ませたい熱意がうかがえる書物は他にない。これが日本語の本の中で聖書を唯一無二のものにしている点である。「読書百遍意自ら通ず」とはゆかずとも、読むことで伝わるものは確実にある。教会学校ではもちろん音読の後にその解き明かしが続いた。聖書ほど勝手な解釈が危険な書物もない。確かな導き手と共に読まねばならないという点でも聖書は極めて特殊な本である。

 視力低下と病を得て早期退職した私は、昨日まであれほど大事だったものを一挙に処分した。翌年も、「昨年はまだこれが必要だと思っていたのか」と苦笑いしながら、また大量に捨てた。だが、聖書は私に残った。家中探していると、大学の教養課程で半期だけ取った西洋古典・荒井献先生の「新約聖書原典講読」のテキスト、即ちギリシャ語の聖書も出てきた。学生時代の本は全て処分したと思っていたのに、これだけは取ってあったのだ。今ではアルファベットもおぼつかないが、「エゴー・エイミ」はまだ分かる。日本語の聖書は、文語訳、口語訳、新共同訳、それに新改訳等があり、どれも捨てがたい趣がある。また、昨年は聖書協会共同訳が刊行された。この他に個人が手掛けた翻訳もあり、とにかく翻訳への思いが熱い。一つの書物に対してこれほど繰り返し翻訳が出されるという点でも、聖書は稀有な書物であり、これに匹敵する本はおそらく無い。

 紙ベースで本を読むのが困難になって、私は活字をパソコンの音声ソフトで読むようになった。読書というより聴書である。ネット上に公開されているのは基本的に著作権の切れた古い著作物であるが、聖書ほどフリーデータを収集し易い本はない。パソコンに読ませた音声を録音しICレコーダーに入れて持ち歩くようになると、聖書を集中的に聴くことができ、脳内で不思議なことが起きたように思う。ばらばらに散らばっていた断片がガチャン、ガチャンと繋がる感じで、一瞬だが霧の晴れた山頂から美しい峰々を見渡せたような気がした。「読む」から「聴く」への転換によってもたらされた恵みであろう。神様は時に応じた聖書の読み方を与えてくださる。御計らいに感謝したい。




2019年10月19日土曜日

「不戦敗の損得勘定」

 まだワールドカップバレーを引きずっています。共に戦った疲れだけではありません。結果的に日本は、ブラジル、ポーランド、アメリカに次いで4位となり大健闘だったのですが、私には忸怩たる思いがあります。

 11か国と戦う10戦目のブラジル戦の前に、主力選手IとFが「試合に出してほしい」と直訴したというのです。発端は前半何戦目かのアメリカ戦において、主力選手の一部に出番がなかったことにあります。それはアメリカ戦に勝つことより、主力の温存を図ったという以外の見方が私にはできないのですが、世界大会においてそんなことがあってよいのでしょうか。連戦で体は疲れているでしょう、日本の選手は体力的に不利だというのもその通りでしょう。しかし、選手はみなプロであり、自分の体のことは誰よりわかっているはずです。4年に一度しかない大会で、ランク的に強い相手に対して主力を出さないということはありえないことだと私には思えます。選手は勝負したいに決まっています。たとえ、完膚なきまで打ちのめされても、長い選手生活を考えればそれ以上に得るものがあったはずです。

 監督のこの判断に私は愕然とします。自分も選手だったのだから、そのくらいわかっているはずですが、解説の元全日本センタープレーヤーのKも最終戦に勝って4位で終わることを最優先に考えていた節があるので、日本はずっとそういう考え方で来たのかもしれません。はっきりいいます。だから駄目だったのです。十代、二十代、あるいは三十代でも、最前線で戦う若者にとって、不戦敗はないでしょう。相手がどんなに才能にあふれ次元の違うレベルにあっても、挑戦するのが若者です。かなわないから体力を温存し、それ以降の戦いに備えるというのは若者をつぶすことに直結するでしょう。これはひどい、ひどすぎる。

 今アジアチャンピオンはイランなのだそうですが、それを私が知らなかったのは、その座がいろいろな国の手に渡ってきたからです。「イランにできたなら、僕たちにできないことはない」とのI選手の言葉が紹介されていましたが、そうなのです。マンハッタン計画でアメリカがひた隠しにしたのは、原爆が完成したという事実そのものだったと聞いたことがあります。「アメリカにできたのなら我々にもできるはず」とドイツに思わせないためです。「○○にできて私にできないはずがない」と思えるのが若者だと言ってもよいと思います。この推力がなければ、若者が限界を超えてその力を爆発させることはないでしょう。本来自分が持って生まれたものからは到底できないようなことまでできてしまうのは、このような時だけです。この実体験があれば、今度は「一度できたのだから、またできる」と思えるようになり、さらなる挑戦をすることもあるでしょう。いわゆる天才との才能の違いを思い知らされ、「自分にはできない」と認めるのは何度も挑戦した後でよいのです。大人は若者のブレークスルーの機会を奪ってはなりません。

 それをまざまざと見せてくれたのは、最終のカナダ戦でのN選手の進化です。最年少まだ十九歳ですが、もはや押しも押されもせぬ大黒柱となりました。フルセットにもつれ込んだ5セット目、8対9で負けていた大詰めの場面、ラジオにかじりついて聞き入っていると、彼のサーブの局面で日本は何と7連続得点で会場総立ちの勝利。そのうちサービスエースが5本、しかもこれらは相手の遅延行為と言ってもよいような試合中の間合い取りにも全く動ぜず、ビッグサーブを決め続けたほとんど神がかり的なパフォーマンスでした。私はスポーツに疎いのですが、アスリートが脱皮した瞬間に初めて立ち会った気がします。大人の方々にお願いです。どうか若者の成長を妨げるようなことだけはしないでください。「監督を替えろ~」などと言うと、プロ野球の負け試合でくだを巻いているおじさんたちと同じになるので、そうは言いませんけど。


2019年10月12日土曜日

「まもなく台風の襲来です」

 昨日から台風対策で慌ただしくなっています。やるべきことはやったつもりでいたのですが、今日は朝から何度も「500ミリの大雨と風速60メートルの強風」予報が流され、やはりただ事ではないとおののいています。これでは停電はほぼ必至なのでは…? 来るとわかっていながらどうしようもないのか…。いてもたってもいられず、最後のあがきをすることにしました。

1.飲料水をもう少し貯めておく
 とっておいた厚手のビニール)ジッパー付き)5袋に水を入れ、一応風呂場に保管。3キロ~5キロの米が入っていた袋なので、これでさらに20リットル以上の水を貯めることができた。

2.食料を食べられる状態にして冷凍保存する
 蕎麦をゆで冷凍保存。米飯を炊き冷凍保存。冷凍庫の鶏むね肉と鮭も蒸して冷凍保存。停電しても解凍状態となり、そのまま食べられる。食べ物がすぐ腐る暑さの時期でないことはありがたい。カップ麺は減塩生活のため普段から置いていない。あったとしても電気またはガスが使える時しか利用できないという点で不利である。

3.充電器用乾電池のフル充電をする
 普段使っているTV音声も入るラジオは、単4電池4本で丸一日使える。3日分の電池をフル充電する。もう一台、パソコン端末から充電するタイプのラジオも念のため充電しておく。灯り用としては、単3一本で使える小型懐中電灯があるので、単3六本をフル充電する。また、いつもパソコンにつないで使っている小型だが強力なスタンドはフル充電で丸2日以上持つようだ。多分これで大丈夫だろう(ろうそくとマッチも一応あるが、火事が恐いので最終手段とする)。

4.必需品ではなくても、あればうれしいものを用意しておく
 昨日、くるみパンを焼いてくるみが無くなったので、午後買い足しに行った。くるみとアーモンドの大袋を買い、なんとなく安心した。チョコレートやビスケットは山で遭難した時のっバージョンだとすると、こちらは無人島に漂着のバージョンである。何の話かと言えば、あらゆる場合に対応できるという自信である。そして最後に、サイフォンでコーヒーを淹れ、携帯用サーモス2本を満タンにした。不測の事態に見舞われた時、この一杯の熱いコーヒーがあるという心の余裕が行動の決定的な差となってあらわれる(はず)。

 こうしてできる限りのことはやり終えました。すでに疲れました。冷蔵庫は料理でいっぱいです。今後三日間は調理をせずに過ごせるだろうと思います。これでもまだ甘いでしょうか。だんだんガラスに当たる雨が激しくなってきました。あとは無事に過ぎてくれることを祈るばかりです。



2019年10月11日金曜日

「速報 ワールドカップバレー」

 日本で開催されているのはラグビーのワールドカップだけではありません。四年ごとに開かれるワールドカップバレーも時を同じくして行われています。前にも書いた気がしますが、私はドはまりの世代なのでこの時期は本当に疲れます。福島の家には大型のテレビがあり、試合観戦を楽しんできましたが、ファン心理というものは理性では説明が付きません。毎日リキ入れて応援してしまうのです。特に男子バレーはずいぶん強くなっている。四年前にすでに日本男子バレー史上最高の逸材と言われていたI選手はイタリアリーグで武者修行しているとのことで、自信にあふれたパフォーマンスを見せています。動きが速すぎてよく見えないほどですが、これを眼福と言わずして何と言いましょう。他国の選手に比べれば体格で劣ることは否めませんが、それを上回る素晴らしいプレースタイル、老成したと言ってよいほどの落ち着きとテクニック、感服しました。また、今回十九歳で登場したN選手には、すでにチームの大黒柱の片鱗が見えます。若い人が非常に頼もしい。これはもう、全国のバレー世代おばさんたちの心鷲づかみでしょう。おごりの春のうつくしきかな、でよいではありませんか。人生の秋ともなると、おばさんは若い方々が一つのことに全力で打ち込んでいる姿を見ると、わけもなく涙が出てしまうものなのです。他の選手たちも本当に一生懸命で健気、ポーランド戦で負けた時などは、もう途中からハラハラして見られない有様…。翌日、N選手は「あの試合は自分のせいで負けたようなもの」と総括しており、普段、自分の責任を糊塗するおじさんばかり見ているせいで、思わず「エライ!」と叫んでしまう。自分の駄目さ加減を認めない限り、そこから先へは進めないのだから。

 東京ではラジオで観戦してもあまり面白くないが、とりあえずフォロー。昨日はロシア戦に勝利、なんと十年ぶりとのこと。日本がマッチポイントを取ったあたりで、解説の元全日本センタープレーヤーのタレントKが「ロシアに勝ちたいなあ」と絶叫していた。なにしろこの十年、ロシアには一勝もできていなかったのだ。この日、選手たちは十年越しの悲願達成に沸いた。ただ、N監督のインタヴューに愕然。確か残りの試合について答えて、「高望みせず」というような言葉を使っていた。「高望みしろよ!」と茶の間で叫んだのは私だけではあるまい。初戦の時も、目標は8位」という監督に対し、「監督、目標が低すぎます」と選手たちが述べたというエピソードが紹介されていた。彼らはマジでメダルを狙っている。監督のこの姿勢は何かの作戦なのか、それともただの駄目おじさんなのか…。ほら、文章がいつの間にか敬体から常体になり、私の文体もこんなに乱れている。たとえ理性が吹っ飛んでも、おばさんは応援するぞ。今後の勝敗の推移を冷静に見守っていけるとよいのだが、ま、それは無理か。

「今年最強の台風に備えて」

 台風という気象現象が私の子どもの頃とは明らかに違ってきています。生まれ育った場所が東北ということも関係しているのでしょうが、私は台風を楽しみにしていたのを思い出します。めったに来ないし、集中豪雨の迫力と吹きすさぶ嵐が繰り広げる猛烈なスペクタクルを窓に張り付いて凝視するのを常としていました。今はそんな危険なことはできません。昨日、集合住宅のエレベーターに乗り合わせた居住者(小さなお子さんのいる二人のお母さん)は、「窓にガラス飛散防止の保護シート貼る?」と話し合っておりました。今日聞けば、今のところ静岡に上陸の見込みで、これは台風の東側に当たる関東から見ると、最悪の事態が予想される状況とのことです。

 昨日から私は台風に備えはじめ、まず水の確保をしました。たぶん1年以上替えていない18リットル入りのポリタンクの水を浴槽に入れ、新しい水にしました。2リットル入りのペットボトル8個も同様です。浴槽にはできる限り水を張り、不測の事態に備えました。午後は買い物に出て、電気やガスが止まっても3日間は耐えられるような食糧を購入しました。缶詰はもちろん(さば缶3パック278円は激安!)、常温で置けるトマトジュースや豆乳はありがたい。私の行く小さなスーパーではバナナはもうほとんどなくなっていましたが、とりあえず1房ゲット。皆考えることは同じです。これを機に普段自制しているお菓子や煎餅も非常食という名目で購入することにし、ちょっとうれしい。

 次に今日行ったのは調理です。電気やガスが使えなくなった場合、冷蔵庫もダメになるわけですから、できるだけ具材に火を通しておく必要があります。ドライカレーを作り、これをスライスチーズとともに食パンにはさんでカレーパンとして冷凍しておくのは一つの手です。実はしばらく前から某コンビニのカレーパンにはまっていたのですが、人気の品らしく売り切れのことが多かったことから、自分で作ることにしたのです。サンドイッチメーカーで両面を軽く焼いておくと、解凍と同時においしく食べられます。今日はクルミパンも焼くことにしました。ここしばらく高血圧、高血糖の心配が出てから、朝は蕎麦にしていたのでパンを焼く機会がなかったのです。しかし、電気が止まるかもしれない非常事態なのですから、あとで「焼いておけばよかった」という後悔はしたくない。先月の千葉の台風被害で目が覚めました。電気、ガス、水道はあって当たり前過ぎて、それが失われた時の想像が及ばない。東日本大震災で体験したはずなのに、日がたつにつれて気持ちに緩みが出るのは避けられません。仕切り直しです。

 さて、ここまで準備してあとは飛来物による窓ガラス等の破損、何らかの建物への被害ですが、ベランダやバルコニーには何も置いていない身としては、他の住戸からの被害を考えても仕方がない、皆さんがそれぞれ理性的に行動されるのを願うほかありません。風速60メートルでは車も空を飛ぶらしいので、これは想像もつかない。そこまでの威力がありませんようにと祈るばかりです。もう一つ最後の心配は,翌・日曜日の交通状況です。この日はよりによって前々から自分で礼拝登板を希望していた日です。「バスは? 電車は? 果たして渋谷まで辿り着けるのか、午後は会報委員会もあるし…」と、不安がよぎりますが、これこそ神様にお任せして、「台風よ、来るなら来い」と安んじて過ごしたいです。


2019年10月10日木曜日

「語り口の刻印」

 もう二カ月以上前のことですが、私が編集後記を書いた会報のことで或る方からおはがきを頂きました。その時は「ご丁寧にありがたい」と恐縮し、お礼を後日口頭で伝えただけでしたが、よく考えると実際「有難い」ことだったと最近思うようになりました。編集後記は実際の編集作業を誰がしたかとは無関係に会報委員が順番に書いていますが、その号は私の番で、追悼のページについて中心に書きました。会員の中にはご高齢の方も多いので、会報に天に召された方の「追悼」のページが掲載されることがあります。その号もそうでした。おはがきをくださった理由は、「追悼」のページ内に載せきれなかった背景について、編集後記で触れたこととも関連していましたが、趣旨は「心からの共感」を伝えたいとのことでした。

 しかし、編集後記の署名はアルファベットの頭文字でなされており、はがきの書き出しも「M・K様ですよね」で始まっていました。私は会報委員ですが、客員なので各委員会の構成員としては名前は記載されていません。ですから、私が会報委員であることを知らない方も結構います。依頼されて会報や他の紙面に原稿を書いたのはこれまで五、六回でしょうか。してみると、おはがきをくださったご年配の方は、編集後記のM・Kという署名だけを見て、なんらかの理由で執筆者が私であると断定し、その日のうちに名簿から私の住所を探しおはがきをくださったということになります。数日待てば教会でお会いするのですから、私が書いたものであることを確かめ、言葉を交わすこともできたはずです。そう考えると、編集後記はいかにも私が書きそうなことが私の言葉遣いで書かれていたことになり、その方は私の言葉遣いの刻印からそう確信して、時を移さず筆を執り共感を示してくださったのです。こんなことはなかなかできないことで、「有難い」というのはそういう意味です。人に固有の文体というものがあるのかどうかわかりませんが、私の書いた編集後記(固有名詞は不記載)を記しておきます。


   編集後記

 五頁にある句は、「次回はダンナ様にお会いしたいわ」との○○姉の求めに応じて見舞われた□□夫妻が、病室から満開の桜を見て ○○姉が口にされた句を書き留められたものです。「花彩る春を/この友は生きた、いのち満たす愛を/歌いつつ……」(『讃美歌 21 』 三八五番)。私たちは、大切な人が群れの中から天に移される時、堪え難い寂しさの一方で、共に過ごせたかけがえのない時間の、この上なく幸福な記憶で満たされます。召された者たちは生きている者とは違う仕方で私たちに触れ、私たちの歩みは強くされて、復活の初穂となられたキリストを感じるのです。
 私たちの世界には、大きな気候変動や想像を絶する事件・事故が絶えません。神様が良しとされた世界へ、全ては神への立ち返りを求めているように思います。「わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った(イザヤ書四四章二二節)。」
 七月号も多くの方々のご協力により発行することができました。会堂建築着工という神のわざに感謝と祈りをもって応え、その恵みを味わいつつ過ごしたいと願います。(M・K)


2019年10月8日火曜日

「紅春 145」


 柴犬人気は海外にも広まっているようで、先日、子犬を飼い始めたオランダの家族の放映を見ました。その家に引き取られた子は、一緒に生まれた兄弟の中でもひときわ大人しく、他の兄弟が活発なのに対して、ケージの隅でお座りしている様子が「あ、りくと同じだ」と思いました。


 オランダでは赤ちゃんが生まれると、窓のところにその子の名前を知らせるデコレーションをするとのことですが、引き取った家でも子犬の名前を知らせるバルーンを飾っていました。家の中も歓迎一色の状態なのですが、肝心の子犬は環境の違いに固まってしまい、全然動こうとしませんでした。「そうそう、りくもこんなふうだった」と思い出しましたが、飼い主さん(二十歳前後の息子が二人いるお父さんでした)は、「動かない、ドッグフードを食べない、元気がない」の三重苦に平静さを失っていました。撮影されているせいだと思ったらしく、この日の撮影は中止を言い渡されました。いや、そうじゃないのです。思わず「柴の赤ちゃんでおとなしい子は環境に慣れるのに時間がかかります。最初はみんなこうだから、心配いりませんよ」と声を掛けてあげたくなりました。このお父さん、心配でケージのわきで一緒に寝たらしく、翌日は目の下にクマができていました。ああ、いい人だなあ。

 翌日、外に連れ出してもやはり動かず・・・そうそう、りくも散歩ができるまでに時間がかかったなあと思い出し、こうやって少しずつりくもいろいろなことを学んでいったんだ、二階に上がれるようになったのはなんと9年目だったっけ…と何だかしんみりしました。そのうち慣れてきたようで、動き回れるようになったところで番組は終わりましたが、飼い主さんが犬と一緒に一喜一憂するような愛情にあふれた方だったので、「いい家にもらわれて幸せだねえ」と、穏やかな気持ちになれました。

 りくは散歩のときは元気に歩いていますが、帰ってくると素直に家に入って休むことが多くなりました。疲れた後は正体もなく寝ています。もうすぐ13歳になります。人間なら八十歳くらいですから、一日のほとんどを寝て過ごすのも無理はありません。赤ちゃんだった日から長い年月がたちました。この歳まで元気でいてくれて感無量です。


2019年9月30日月曜日

「世知辛い世の中」

 三年に一度のガス器具の点検の日程を受け取り、福島滞在の時期に重なっていたので、インターネットで日程変更することにしました。なんと翌日から受け付けておりましたが、一日で台所をきれいにする自信がなかったので翌々日にしました。やってきた作業の方は、給湯器、ガスコンロを点検して「異常は認められません」と判断しながら、機器の使用開始から二十年たつことに驚いていました。業者がよく交換を勧めに来てその巧妙で強引な手法に引っかかって交換した世帯もあるようですが、私はもちろん壊れるまで交換はしません。当たり前です。私の住む階では交換していないのはうちだけかもしれません。私は物もちがよいのです。ガス機器に限らず、家の中の設備や家電にはポンと機器を軽くたたきながら、「いつもありがとね」と感謝の気持ちを伝えているのです。うるさい業者の撃退法は、まず「管理組合を通してください」と言い、「これは各戸対応です」と言われた場合は、「では、うちは結構です」と言えば済みます。今回、ガス点検業者から「支払いを電気とまとめると安くなります」との提案がありましたが、この集合住宅は電力自由化になった時、東電ではなく別の所から一括購入しているはず…。この場合はどうなるのかについて、業者の方も確言できませんでした。ま、いつもより2カ月ほど早く台所の大掃除がすんだことでよしとしましょう。

 どんなことでも「○○すると安くなる」という勧めには乗らないことにしています。スマホ決済の不手際が某巨大流通企業で発生したばかりですが、私の感覚では、アプリによる商品購入の決済が預金口座から直接できるなどという恐ろしいシステムを「みんなよく使えるな」というのが正直なところです。これほど詐欺が横行している現在、私はよく知らないことについてはわずかばかりの節約など考えず、個人情報を抜き取られるといった重大なリスクばかりでなく、プライベートな生活を覗かれるといった可能性も不愉快なので、安んじて損する道を選ぶことにしています。

 先日来、かんぽ生命の保険の乗り換えにかかわる悪質な勧誘方法が問題になっていますが、私も危ないところでした。他の手続きでお世話になっていたこともあり、乗り換えの手続きをしてしまったのですが、家でよくよく考えて取りやめることにし、事なきを得ました。この事件が明らかになる前のことですから、土壇場で自力で正しい判断をできたのはただ自分の違和感に従ったことによります。こういうセンサーは常に磨いておかなければならないと改めて肝に銘じました。もう少しで3カ月の無保険状態になるところでした。一番許しがたいのは、こういう勧誘をお為ごかしで行ったことです。問題のある行為をする人はたいていそうです。油断も隙もありません。「相手の利益を図って」というようなアプローチはもう詐欺的危険な手口と断ずる方がよいかもしれません。こうして人間に対する信頼が社会的規模で失われていくのです。次々に提出される新しい商品は、あらゆる分野で余裕を失った厳しい現実を反映して、明らかにどんどんジャンクなものになっています。以前よりはるかに低価値なものをうまく糊塗してよく見えるようにしているだけです。こういう時は「動かない」のが骨法でしょう。


2019年9月26日木曜日

「紅春 144」


 他の犬と比べて、りくの並外れた点は3つあります。厳密には他の犬と比べてはいない項目もあるので、人間と比べてといった方がいいかもしれません。普段何気なく一緒にいても、「これはすごい、人間にもなかなかできないことだ」と感心してしまいます。



1.食欲をコントロールできる
 これは子犬の時から驚くべき事象だと思っていました。どんなにおいしいものでも「もうおなか一杯」となれば、ピタッと食べるのをやめ、惜しげもなくその場を離れます。子どもの頃飼っていた犬はあげればあげるだけ食べており、その後も「もっと、もっと」という感じでしたから、りくの食行動には驚かされました。ですから、まもなく13歳になろうとする今でも、柴犬の名に恥じないすっきりとした雄姿を保っています。

2.未来を想定した行動ができる
 これは前にも書きましたが、りくにとって私は「普段は旅に出ている」群れの仲間なので、私がいなくなることを察知すると他のメンバーに伝えて阻止しようとします。明日起こることがわかるのです。
 また夏には散歩の前に水飲み場に跳んで行って水を飲み。自分で熱中症に備えるという、人間でも忘れがちな行動をとります。父がよく何かにつけ「こんな利口な犬はみたことがない」と言っていましたが、本当にそうなのです。

3.スーパーリアルな行動ができる
 りくは無駄なことをしません。夕食後に兄と散歩に出るりくは、兄が食べ終わって台所で片付けや洗い物をしている間は茶の間でまったりしています。そして終わる頃合いを読み切って兄のもとへ行きます。あわよくば散歩なしで済ませたい兄は「いつも絶妙なタイミングで来る」と嘆いています。
 私がいなくなる時もそうです。「明後日、姉ちゃん東京に帰るから」と言っておくと。最初は空気を抜かれた風船のようにしぼんでいますが、やがて切り換えて、翌日は時間になると帰宅する兄をきちんとお座りして迎えます。前日までは私に引っ付いて、兄が帰ってきても挨拶にも出ず茶の間で寝そべったままだったのに、その晩からは兄にまとわりついて離れません。きっと「明日からは兄ちゃんとの暮らしに戻るから、愛想よくしておかなきゃ」と思うのでしょう。その現金さはもう清々しいほどです。「君子は豹変す」とはなるほど至言です。



2019年9月18日水曜日

「五十肩」

 ひどい目にあいました。右肩に感じていた違和感が2、3日で痛くなり、耐えがたいほどになりました。自分には来ないと思っていた五十肩だろうという予想がつきました。私の場合、たいていの体調不良は睡眠で治るのですが、今回は寝返りも打てない痛さで睡眠がとれません。或る年齢になれば皆が通る道にある、昔からある病だからと言って、それだけ症状が軽いというわけではありません。翌日、ぼーっとした頭で動けそうになかったので「今日は一日横になっているしかないな」と、うとうとしていたのですが、よく働かない頭でもわかったのは次のことです。
「そのうちよくなることはない。こういう治療は早いに越したことはない。」
それで病院に行く決心をしました。なにしろ、腕を上げるどころかちょっと伸ばすのも痛くてできない。右腕はほとんどすべての作業にかかわっているということも今回知りましたが、それはつまり何一つ仕事ができない状態だと思い知ったのです。

 このままでは当分治らないということ以外に、頭をかすめたもう一つの心配は、「五十肩以外の病気の可能性」です。私の世代では、子どもの頃の女子のスポーツと言えばとにかくバレーボールでしたが、子どもの頃ブームとなった女バレのスポ根ドラマでは、主人公の一人が骨肉腫になるのが重要な筋立てになっていました。「骨肉腫」という病気は恐ろしい病として同世代の幼い心に刻まれたはずです。世の中には万一ということがありますから、この疑念だけは払拭しておかねばと強く思ったのも事実です。

 病院に行くと、「今日は混んでいるので、かなりお待ちいただくことになるかも」と受付で言われ覚悟していましたが、30分ほどで呼ばれ、ちょっと拍子抜け。レントゲンを撮っての診断は「大きく言うと五十肩ですが、石灰化が起きています。これが起こると痛みを伴うことが多いです」とのことでした。エコーを見ながら肩に痛み止めの注射をしていただき、痛み止め(痛くないときは飲まなくてよい)を二週間分処方してもらって帰ってきました。

 痛み止めの注射と薬のおかげでそれからはまあまあ普通に過ごせ、夜はよく眠れました。翌朝起きたら「あ~、嘘みたい、両手が上がる」とうれしくなり、朝のウォーキングにも行けました。体の一か所が悪かっただけで、何する気も起きなかった前日が嘘のようです。しかし、痛みというのは医学的には電気信号のはずで、痛み止めというのは神経ニューロンのシナプスの電気信号伝達を遮断する働きをするはずのものと考えると、痛みの原因の治療にはならないのではないかと思ったりもします。石灰化というのは体の組織へのカルシウムの沈着ですから、これはカルシウム摂取過多のせいなのか? 確かに乳製品は好きだが、ヨーグルトメーカーを買ってからはそれが加速している気もする・・・。ま、いろいろ考えるときりがありません。五十肩が一生続いたという話も聞きませんから、ここは「そのうちよくなる」と、深く考えないでいるのがよいでしょう。それにしても医者はやっぱりすごい。これは医者のせいではありませんが、治らない病気でずっと通院してきたので、こんなにはっきり効果が出るとは、「医者に行ってよかった」と久々に思える出来事でした。


「これってひいき?」

先日、或る会でたまたま隣り合わせた方が、某フェミニズム学者の東大入学式の祝辞について賞賛していて、なんだか気が重くなりました。私は自分の考えを言うべき場ではないと思い、「そういえば話題になってましたね」と答えただけでした。あの祝辞で私に同意できる部分がなかったからです。「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」のところは同意できそうだったのですが、どうもこの「あなたたち」が女子学生への呼びかけのようなので、やはりこれにも全く共感はもてませんでした。私の誤解であれば申し訳ないのですが、この方はなぜ女子学生に呼び掛けるという形をとったのでしょう。この場に入学者全員がいるなら、どうして全員に語り掛けなかったのでしょうか。また、そもそも「自分の努力を自分のためだけに使わないでください」というようなことを入学式でわざわざ言わなければならないほど、大学はもう駄目なのでしょうか。

 これについて気が重いのは、突き詰めると自分がいかに恵まれているかということに行きつくからです。育った家庭には父権性イデオロギーの影がなく、男女平等という語が頭に浮かばないほどそれが当たり前に実現していました。就いた職業も日本では昔から一番男女同権が行き渡っていた場だったため、世間では違うらしいと頭でわかっても共感はできずに過ごしました。幼児虐待の痛ましい事件を知るにつけ、すべての基本は家庭にあると言わざるを得ないことが一層明らかになってきている昨今、これに関しては「私の場合は運がよかった」としか言いようのない事実がまた私の無力感を深めます。とりわけ両親が神の愛を知る人であったため、私には特別の愛情が注がれたのですが、その代償であるかのように私は社会では極めて少数者という刻印を押されていました。「信仰」という面倒な贈り物を受け取って歩む過程はしんどいものではありましたが、この歳になってようやくその恵みがわかるようになりました。この「厄介な贈り物」が私に成長と成熟を強いたからこそ、今があり、自分がいかに恵まれているかわかるようになったのです。

 現在、視力低下はあるは、持病はあるは、普通に考えればとても恵まれた状態ではないのですが、人知れず「私は神様にひいきされているのでは?」と変なことを考えています。祈るたび、いろいろなことが適えられますし、欲しいものが何もないほど満たされているからです。小さな例を挙げましょう。今、東京で通っている教会は来年新会堂が完成予定で、引っ越し準備のため本の在庫一掃処分をしています。キリスト教関係のものがほとんどですが、その他の宗教・哲学書もあり、誰でも早い者勝ちで引き取ってよいことになっています。先日、図書室をのぞいてみたら、区の図書館にもなくて読めなかった50年前に刊行された本が、続編まで並んで私を待っているではありませんか。「こんなことってあるんだろうか」と思う一方、「ああ、やっぱり・・・」と畏れながら、ありがたくその本を戴いてきました。こうはっきり恵みを示され続けるのはちょっと後ろめたいものですが、これには訳があるはず。今度はそれについて考えながら過ごさねばならないと思うのです。



2019年9月7日土曜日

「紅春 143」

例のりくの通院騒動以来、東京にいる間はずっとりくの心配をしています。急に病状が悪化するとか、介護が必要な段階に入るとか、そういった状況を考えて気もそぞろです。兄から連絡もないまま、普通に翌月の帰省の時期になり、恐る恐る帰ったのですが、意外にもりくは元気でした。目の落ち窪みもさほどめだたなくなり、寝ている時間は多いものの、散歩となると大層活発に歩きます。まずまず元気で安心しました。今回はいつも配達時にりくをかわいがってくれているヨーカドーネットの宅配おじさんが来た時、見事に熟睡していたので起こせなかったのが残念だった程度です。また、残暑の厳しさは侮れないと思っています。

 先日、テレビで総合診療医が患者に症状を問いながら病名を当てるという番組があり、「何だか私の症状と似てるな」と聞くともなく聞いていると、見事に病名の一つと一致しました。その方も「とにかくだるい」というのが主訴らしく、家でごろごろしていたようですが、「やっぱりこれでいいんだな」と妙に安心しました。隣でまったりしているりくに、「姉ちゃんと涼しいところでごろごろしてようね」と声を掛け、何でもないことをするにも時間がかかるのは仕方ないなと諦観しています。りくも姉ちゃんも、もう年寄りだもんね。

2019年9月6日金曜日

「各国ニュース報道の傍観から」

 昨日のニュースのおもなものは、日本:電車のトラック衝突事故、幼児虐待死裁判、英国:EU離脱をめぐる国会の紛糾、韓国:大統領側近の数々の私的不正疑惑と、それぞれに特徴的な不幸を伝えていました。しかし、一つだけ一筋の光があったのは、香港からの報道でした。3カ月に及ぶ逃亡犯条例に伴う混乱の後、香港政府が法案撤回を表明したという知らせには正直驚かされましたが、もっと驚いたのは反対派がこれで満足せず、一連のデモに関する警察の対応の検証やさらには普通選挙まで求めたことでした。「民主の女神」と呼ばれ、今回逮捕までされた若い女性は、本当に自然体でしなやかです。一見どこにでもいる少女のようですが、自分の信じるところに従って行動し、様々な困難を傍目にはあっさり越えていくかのように見えます。このタイプの人は確かになかなかいないなと感心させられます。きっと香港というかなり特殊な歴史を持つ地域が生んだ治世の在り方なのでしょう。普通選挙は中央政府が絶対に認めないことでしょうから、今後、事態がどうなるか全くわかりません。彼女には神のご加護を祈るばかりです。

 中国政府は国民の監視活動に国防費以上の国家予算を充てていると聞いたことがあります。コンピューターが中央集権的に専有できた時代ならともかく、非中枢的に共有されている現在にあって、これを監視するというのは相当効率の悪い国家の統治方針なのではないかと思います。しかし、これをやらない限り、国家が崩壊するかもしれないということが、今回の香港の事例で証明されたといってもいいでしょう。香港政府が逃亡犯条例を撤回しなければならなかった顛末について、中央政府は結構おののいているのではないかと思います。加えて、伸び率が7%を切ったら危機的事態になると言われている経済についても、そんな十年で倍になるような成長がいつか破綻するのは明らかです。結論的に言うと、そろそろハードパワーでの統治からソフトパワーでの統治に転換していくしかないように思います。

 アメリカについてのニュースはヒットしませんでしたが、きっと何かあったはずです。「何故これほどまでアメリカに関心が持てないのか」、これがアメリカに関する私の一番の関心事です。これを解明するにはたぶん相当時間がかかるでしょう。国家の成り立ちや歴史はそれぞれ違うので、軽々なことは言えませんが、歴史を概観すれば、国家の崩壊も新国家の建設も、必ず流血を伴う悲劇でした。どちらもいいことないです。ゆっくりすこしずつでも綻びを繕っていくしかないでしょう。どんな国に住む国民にも、その国が「理想からはほどとおいけど、まあそこそこいい国なんじゃない」と思って住める国になってほしい…などと、人ごとのように思いながら、「ほう、9月にもまだ桃が出てるのか。今年最後の桃は『ゆうぞら』という品種か」と美味しい桃をほおばっています。たぶんそこそこいい国なんでしょう。

2019年8月19日月曜日

「暑さの限界」

 ずいぶん前のことですが、ヨーロッパを熱波が襲って確か1万人を超える人が亡くなったというニュースがありました。その頃日本では、いくら暑いといっても37度程度だったので、暑さで人が死ぬということがピンときませんでした。今はよくわかります。エアコンの普及していない頃のヨーロッパなら容易に想像がつきます。現在の東京では、昼間買い物に出たりして、「あ、ちょっとまずいかも」と思うくらいフラッとすることがあります。涼しい目的地があっても、よほど早く家を出て日が沈んでから戻るくらいでないと往復の途中で暑さにやられてしまいます。熱帯夜ですから朝のウォーキングもできないほど朝から暑いのです。

 勢い、家でエアコンをつけてじっとしているしかなくなるのですが、これも体に良くないと、他ならぬ身体が告げてきます。まったく外に出ないわけにもいかないので、その温度差で体が変になるのです。体を慣らそうとエアコンの温度を高めにし、ポケットや首に巻いたハンケチに保冷剤を忍ばせ、寝る時はアイスノンの冷たい枕、それでも熟睡できません。身体のリズムがすっかり狂っているのです。加齢という要素も見過ごせないでしょう。頭がぼーっとして、生産的なことをしようという気が起きません。

 来年、この時期に本当にオリンピックをやるのでしょうか。正気の沙汰とは思えません。プレ大会(?)か何かの話で、お台場でのトライアスロンが水温が高すぎて競技時間を3時間早めた等のニュースも聞きましたが、その日の朝の水温でこれほど競技時間が変わるのは、もう無茶苦茶ではないでしょうか(トライアスロンの場合は大腸菌問題もあるようです)。観客のための熱中症対策も話題になっていますが、保冷剤や携帯用扇風機程度でなんとかなるものとも思えません。きっと暑さに慣れていないヨーロッパの方の中には体調を崩される方もいるでしょう。重篤な状態になったらどうするのでしょう。私は「夏は東京に来てはいけない。命に係わる暑さです」と声を大にして言いたいと思います。1964年の東京オリンピックは10月開催でした。2020年はそもそも7月24日 ~ 8月9日です。盛夏とわかっていて手を挙げるなど、愚かである以上にとても罪が深いように思います。開催が避けられないなら、東京だけは冷夏になってほしいと願うばかりです。


2019年8月10日土曜日

「変化が速すぎます」

 完全に時流に乗り遅れていると感じます。デジタル化の波が来た最初の頃はまだなんとかついていこうという気がありましたが、もう無理です。先日、しばらく(といっても一週間ほど)行っていないスーパーに行ったら、商品の処理と支払いが完全に分かれており、自分が使う交通系ICカードで支払いに辿り着けず、近くの店員さんに聞いてようやく支払いができました。タッチパネルの選択肢が多すぎて、まず読むのに時間がかかる、クレジットや系列店のICカードはもちろん、スマホ決済等もすべてカバーしているらしく、表示が細かく分かれている。「えーと、スイカはどれだろう…」と表示を読んでもわからない。同じ機械を使う次の方が待っていると思うと焦りも出て…。これだけでも次回この店を使うハードルが確実に上がりました。私はスマホを持っていないので、そのうち買い物もできなくなるかもなと思います。しかし、いろいろ話を聞くと、スマホは持っていれば持っているで様々な危険を引き寄せそうで、今のところ切迫した必要がないのでもういいやという感じです。

 グーグルのブログサービスもよくわからないうちに縮小されたようで、今年になって或る日を境にメールも届かなくなりました。きっと何か事前にしておく通知があったのでしょうが、すっ飛ばしているうちgmailが使えなくなっていました。これももういいやという感じです。

 管理者となっている教会ホームページも、そもそも自宅電話に付帯されていたサービスを使っていたのですが、サービス終了となり、今のところに移したのです。その時点で無料のサービスをしているのは調べた限りで2つくらいしかなく、今ではその両方とも新規契約を打ち切っています。現在使っている人も、3カ月ごとに「更新しますか」と訊かれ、ファイルマネジャーを開いて「更新」ボタンを押す方式になりました。うっかり忘れたりすると「終了」になってしまうので、気が抜けず心臓に悪いです。これも何だかサービス終了は時間の問題という気がします。確かに、亡くなられた方のホームページがそのままというような事態は望ましくないでしょうから、それを避けるためかもしれません。

 とにかく、あらゆることが凄いスピードで変わっていくので、ちょっと動くたびに困惑することが多いです。こんなデジタル難民は私だけでしょうか。皆さんよくついていけてるなあと感心しています。


2019年8月9日金曜日

「紅春 142」

帰省して家に向かう車の中で、「りく、どうしてた?」と兄に聞くと、「りーくんは病気になりました」との返事。びっくりして詳細を聞くとこうでした。

 7月末頃、りくの片方の目から目やにが出て、丹下左膳のように目の大きさに違いが出たので、いつも定期健診をしている動物病院に連れて行きました。草むらに顔を突っ込んだりしているせいで虫でも入ったかと予想していましたが、医師の診察では、昆虫や微生物、病原体等によるものではないと言う。ではどんな原因かというと、このあたり兄も医師の説明がよくわからなかったようなのですが、どうも神経に関わるものらしいということでした。「片目が落ち窪んでいますね」と言われ、どこの神経のことか不明ですが、何やら神経のつながりがうまくできていないのが原因ではないかと、医師から話がありました。りくはその日、普段したことのないレントゲンや点眼をされて恐い思いをしたようです。兄は「初めてりくの骨格の写真を見た」と言っていましたが、特に明らかに悪いところは見つからなかったということで、一応安心しました。

 その日、病院から帰って、りくは尾っぽをたらしたままふらふら家の中を歩いていたそうで、しばらく軽いショック状態だったのではないかと思います。とにかくエアコンのきいた茶の間で寝かせたとのことで、この日ばかりはりくのトレードマークのかわいい巻尾が見られなかったというのですから、りくも相当具合が悪かったのでしょう。暑さのせいもあるかもしれないと、以来兄はほぼエアコンをつけっぱなしで仕事に行っています。

  帰省して私が見た範囲では、確かに暑さで参っているようではありますが、朝の散歩は喜んでするし、ドッグフードはトッピング次第でモリモリ食べるし元気は元気です。人間も夏は食欲が落ちますが、りくは今のところ食欲旺盛で、とにかくご飯が食べられるというのは大いに安心材料です。一方、言われてみれば以前よりぼうっとした感じで、神経がうまくつながっていないという説明も腑に落ちました。りくは急に目も耳もきかなくなったので、精神的な弱りがあってもおかしくありません。「どうして誰も話しかけてくれないのだろう」などと思って落ち込んでいる可能性もあるので、なるべく撫でてあげて、「りくはぼうっとしてていいんだよ。りくはうちの宝物だから」と話しかけるようにしています。いずれにしても、全てが加齢に関係していることは間違いなく、気を付けて見てやらなければならないと思います。

2019年8月1日木曜日

「紅春 141」

帰省するとりくの定期検診の血液検査の結果が来ていました。兄はすでに見ているはずですから大丈夫とは思いましたが、中身を見る時はやはりドキドキしました。犬はもともと寝ている時間が長いのですが、この頃はいっそうよく寝ている気がします。また、早朝の散歩の後、必ず一度家に「入らない」というので外に置くと、5分後にはもう疲れて「入りたい」と鳴くこともあり、寄る年波が体にきていることは確かなようです。

 そんなわけで、我が子の通知票を見る親のような気持ちで恐る恐る封筒から結果票を取り出しました。パッと開いてみると、赤字が2か所あるもののどちらもギリギリ引っかかった数値で、医師のコメントも「特に異常は見られません」というものでした。「りー、よかったな~」と声を掛けて、安心してさらにりくの血液検査結果を熟読すると、概ねすべてにわたって私の血液検査よりはるかに良い結果でした。隣でうとうとしているりくに、思わず「いーなー。りく」と言いましたが、とりあえず、今まで通りの生活でよいことがわかりホッとしました。ただ、今後はなるべくゆっくり家で寝かせた方がよさそうです。

2019年7月29日月曜日

「皇室とキリスト教」

 今年度は改元もあり、皇室と日本人について考えるところがありました。国民の大多数が皇室には好意的ですが、それは特に上皇ご夫妻が長年国の内外で政府にはできない戦後処理をしてきたからだろうと思うのです。それは一言でいえば、鎮魂と慰謝ということになるでしょう。私はそれが全部神道から出たものなのかどうかずっと疑問に思ってきました。戦後、今の上皇の教育係として招かれたエリザベス・ヴァイニングが上皇に与えた影響は計り知れないと思われますし、上皇后はミッションスクールの出身です。皇嗣の娘は二人とも国際基督教大学に通い、天皇は大学院時代に英国留学し、皇后は米国ほかヨーロッパでも学ばれた元外交官(北米局北米二課)というのですから、普通に考えてもこれ以上に西洋文明に近い環境の一族はなかなかないでしょう。そうであれば、彼らの思考の中にキリスト教的思想が入り込んでいるのは避けがたいのではないかと思います。もちろんキリスト教的考え方の一部に共感するということとキリスト者であるということは全く別物ですが、皇室の考え方全体を神道で括ることができないことも確かでしょう。

 私が編集に携わっている会報にほぼ毎号「私の好きな讃美歌」というコラムが載ります。先日書かれていた方は、子供時代の懐かしい思い出と共に今では誰でも知っているクリスマス・キャロルの1つを挙げていました。お祖母様に茶道のお作法を習ったり、ピアノの伴奏で歌ったりと、睦ましいやり取りの話を何気なく読んでいたのですが、その中に「お祖母様が『貞明皇后とご一緒に、よく聖書を読んだり讃美歌を歌ったりして楽しかった』という話をしてくれた」と書かれていて、思わず「え~っ」とのけぞりました。これはもう下々の家柄ではない。あらためて執筆者のお名前を見ると、確かに明治の元勲の一人と同じ姓。私が驚いたのは、皇室とキリスト教の関わりは戦後のことだと思っていたのに、もう大正時代にはそんなことがあったという事実と、語られる内容が何やらとても自然に聞こえるという不思議な感覚に打たれたからです。だからどうということはないのかもしれませんが、これはすごい歴史の証言ではないでしょうか。


2019年7月23日火曜日

「記憶の再構築」

 帰省して、いつもの道を通って兄の車で家に帰る時のこと、
「さっきの左手の三角形の土地に、昔、ラーメン屋があったよね」
「あった。でも、ラーメン屋じゃなくて小さな食堂じゃなかった?」
「そうだな。焼きそばはあったような…」
「うん、おにぎりとか」
「木の板の壁で囲まれた、小さな店だった」
「いくら当時でも、子供心に「大丈夫かな」と思うくらいボロい店だったね」
「三、四人が座れるだけのカウンター席で…」
「うん、狭くてテーブル席はなかったよね」

 なぜこの店が話題になったかというと、その理由はこの店の立地にあります。喘息だった兄が通っていた小児科医院がこのすぐ近くにあったのです。大きな病院ではないので、施設内にはたぶん売店はあったものの食堂はなかったし、まだコンビニは日本に上陸していなかったので、何か食べられるものというとその食堂に行くしかなかったのです。私が覚えているのは二回ほどで、一度は学校が終わってから直接その医院へ行った時です。その日は兄の喘息がひどくて、診察後すぐ入院となったのですが、私に知らせるすべがない母は学校に連絡し、私は先生から家ではなく病院に行くよう言われました。おそらく母は、帰宅しても誰もいない理由が私には分からず、また、家に一人で置くのは心配だと思ったのでしょう。ちびまる子ちゃんくらいの歳で、医院は家と逆方向に1.5キロはありましたが、てくてく歩いて行ったのを覚えています。その日は兄を病院に入院させて、私と母は家に帰ったような気がします。

 しかし、母が付き添いで医院に泊った日もあると思い当たりました。なぜかというと、これは鮮明に覚えているのですが、運動会の日とぶつかったからです。当時の運動会は、今と違って家族の大きなイベントではありませんでしたし、運動会は自分が出るだけでよいのですから、別に一人で大丈夫なのですが、お弁当は必要です。医院に泊まり込んだ母はお弁当が作れないので、一計を案じて、例の食堂にお願いして、おにぎりとちょっとした総菜を作ってもらったのです。母がそれを持って運動会を見に来て、お昼を一緒に食べた記憶があります。今まで忘れていましたが、そういうことがあったのを今思い出しました。

「あの食堂、『おかめ食堂』っていう名前じゃなかった?」
「名前は全然覚えてない」
  残念です。私もその名に自信はありませんが、「なんかへんな名前」と思ったことだけは覚えています。こんなことはどうでもいいことなのですが、一連のことを思い出している間中、なんだか非常に活発に脳が動いており、とても楽しい時間でした。

2019年7月20日土曜日

「物語ること」

 いつも同じ生活をしています。こんなふうです。

  読みたい本を何冊かピックアップして、図書館から借りてくる。すぐ疲れてしまうので、ゆっくり、ゆっくり休みながら読む。返却日を気にしながら、幾日もかかってようやくなんとか読み終える頃には、読まなければならない本が倍くらいに増えている。また借りてくる…。この間に、もちろん家事や朝の運動、通院や出かける用事、健康を保つための食事作りや休息、そして福島への帰省などが入る。

 飽きないかと問われれば、これが全く飽きません。本を読んで、知らないことを知るのはいつも本当に楽しい経験です。朝一に犬の散歩をしていると、犬も全く同じだとわかるのですが、毎日通る同じ道でもいつも新しい情報に満ちており、楽しくて仕方ない様子です。一つ違うことがあるとすれば、犬の場合はそのままでおしまいのようですが、私は読んだことが溜まってくると急激に書きたくなります。読んだことをまとめてお話を作る、読んだことで心に引っかかったものを集めて、何か物語りたくなるのです。それは実際にあったこととは関係なく、絶対になかったとは証明できない物語で、読んだことが自然とつながって「こんなこともあったかもな」という話に落ち着きます。過去の事実は動かないので、そこさえ外さなければ、物語の創作は自由自在です。私には楽しい作業ですが、こういうことを楽しいと感じるのは自分だけかもしれないと時々思います。


2019年7月8日月曜日

「宿泊旅行」

 所用が合って関西に2泊の旅行をしました。宿泊を伴う旅は帰省を別にすれば体調を崩して以来もう十年ぶりくらいです。具合が悪くなって寝込んだりするのが怖くて今までできなかったのですが、今回「行こう」と決めてからはその日のうちに新幹線と宿を予約し、一週間もたたずに出発しました。勢いが大事です。

 行先は決まっていたのですが、これまでも国内の一人旅はしたことがなかったので宿をどうしたらいいか迷いました。調べるうち新幹線とセットになっている宿泊プランがあり、1泊の料金で2泊できるくらいのリーズナブルな料金設定を見つけて即決しました。これは「こだまで行く」というのがミソで格安なのだとわかりましたが、別に急ぐたびではないのでノー・プロブレムです。宿泊数や部屋のタイプ、食事のオーダーとチェックを入れていくと該当する宿屋が表示されるのですが、最後に「天然温泉」にチェックを入れたところ1つに絞られました。天然温泉の付いたシティ・ホテルの快適さはヨーロッパで散々体験したのでここに即決、無事予約が取れました。

 当日は「もう1時間早いのにすればよかった」と思うほど、東京駅に着くまでのラッシュがすごかったです。何しろもうこういうものには、無縁な生活を続けていたので「この生活はやっぱり無理だ」と改めて自覚しました。各駅停車の新幹線は2時間半で行けるところを4時間かかりますが、空いていたので文句なし。行きも帰りも富士山が見えなかったのは残念でしたが、梅雨なのでしかたありません。

 目的地で用事を果たす以外は自由時間でしたので、なるべくご当地を歩いてみましたが、大阪というのは意外に小さな都市だとわかりました。短い日程でもそのほぼ四分の三は歩いて踏破できたと思います。ここはだいぶ前にユニバーサルスタジオがオープンしたころ修学旅行の引率できた覚えがありましたが、生徒が盲腸になり病院にいた記憶しかありません。今回テーマパークを訪れるほどの体力も時間もなかったので、あの場所を体験するということは私の人生にはもう訪れないかもしれません。

  ホテルの天然温泉は期待通り、朝・晩と本当にゆったりできました。実は新大阪の駅に降りて待合所を見た瞬間に、フランクフルト国際空港の幻影がよみがえりました。こんな大きなスペースの待合所があるとは思っておらず、そこが外国人でいっぱいになっており、さらに向こうには免税店が並んでいたからです。今の日本はこんな風になってしまったのか…と、既視感に打たれてしばし茫然でした。そしてホテルでの滞在もヨーロッパ大陸の旅を彷彿とさせるものでした。快適な温泉の大浴場、入浴後に血圧を測ったら元の値に戻っていてもううれしかったこと。膝の漢方をやめたせいなのか、蕎麦や大麦のご飯にして食事改善をしてきたせいなのか、ゆったりとした環境を楽しめたせいなのか・…おそらくその全部なのでしょう。朝食バイキングも1時間ほどゆっくりいただき、大食いの女芸人のように思われないかしら、と心配したほどです。

 良い旅でした。何より何事もなく帰宅できて自信が付きました。ただやはり疲れたのでしょう、帰ってきて二日ほど寝込んでしまいましたが。でも、ちょっとずつ旅行ができるようになるといいなと思っています。




2019年6月28日金曜日

「紅春 140」

りくは散歩が大好きです。朝一の散歩を5時半にしても、8時か9時にはまた行きたいと言います。手っこを出してしつこく肩をトントンするのがその合図です。根負けして「行きたいの?」と尋ねると、「ワン!」と力強い返事。しかたなく散歩の準備をしていると、あれほど付きまとっていたりくが、しばし姿を消します。「何してるんだろう」と思って見に行くと、水を飲んでいるのです。外を歩くと喉が渇くし外では水が飲めないから、行く前に備えているのです。これって賢すぎませんか?
 
 はじめは偶然かと思っていたのですが、これが毎回毎回なのです。散歩随行要員のターゲットを兄にした場合も、交渉成立となれば同じことをします。個々の場合に応じ、未来のことを予測してそれに備えた行動が普通の動物にできるものでしょうか。頭が良すぎて、使われる身としてはため息が出ます。最近は、「いま忙しくて行けないから」と言っても、わざと水を飲んでプレッシャーをかけるという技まで身に着けました。こちらは「あ、水なんか飲んで。水飲むんじゃない!」と叫んだりしていますが、これは絶対に虐待しゃありません。過重労働を強いられているのは人間の方なのです。




メール mail

2019年6月15日土曜日

「紅春 139」

りくの定期健診に行ってきました。雨降りの土曜日、診療時間は9時からと思い15分前に着いたのですが、5分ほどですぐ診察をしていただけました。昨年までは診察台で震えていたのに、今日は不思議と落ち着いていました。ワクチン接種が来院の主たる目的ですが、会計の領収書によると、他に「わんドック」(体重測定・体温測定・問診・血液検査等を指すらしい)、フィラリア検査(結果は陰性)をしていただき、フィラリア予防薬、ノミ・ダニ予防薬を1年分もらって帰ってきました。採血時にキャン鳴きをして動いたため両脚での採血となりましたが、発作も起きずその後は元気にしていてほっとしました。血液検査の詳細は後で送付されます。

 体重が1キロ減って8.3キロになっており、これはやはりという結果になりました。ドッグフードが一番いいことを医師に確かめたものの、なるべく他の食べ物をやらずに食べさせるにはどうしたらいいかの悩みは解決しません。「運動量が落ちたということはありませんか」の質問には、自信をもって「むしろ増えているくらいです。1日2キロ・2キロ・1キロの5キロくらい歩きます」と答えたら、「それほど元気なら問題ないでしょう。できるだけ食べさせてください」とのことでした。

  聴力がかなり落ちた、視野がかなり狭くなったことも相談しましたが、やはり加齢のためで特に治療法はないらしいです。確かに手術などして体に負担を与えるのは本意ではないので、これは怪我などに気を付けて見守っていくしかないのでしょう。昨年と違い落ち着いているように見えるのも、実は加齢によるものかもしれず、そういえば1日の時間の中でもボーッっとしている時間や寝ている時間が増えているように思います。雨のせいもあって帰宅してからずっと静かに寝ていました。

  それにしても、病院にいた30分ほどの間に5名ほどの来院があり、飼われている様子を見てとても大切にされているのがわかりました。犬猫の虐待事件を思うと、ここに連れてこられるような子たちは本当に幸せです。中に、「近所の者ですが、これから連れてきていいでしょうか。耳がパサパサに乾いていて垂れてるんです」と相談されている方がいましたが、これはいったい何の飼い主さん? うさぎ?はこんな症状あるんでしょうか?


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2019年6月14日金曜日

「第三次食事改革」

 私が膝の治療の通院を途中でやめたわけは、行けば必ず薬(漢方です)が処方されることにありました。医者は「そんなことはない」と言うのですが、薬を飲み始めて急に血圧が上がったという懸念を払拭できなかったのです。。おそらくそれは遺書の言う通り無関係で何か別の要因なのでしょうが、少なくとも私にはそれ以外の原因が思い当たらない以上、自分で「やめてみる」判断をしました。医者は全員にリサーチしたわけではないでしょうし、大多数の人に当てはまることでも自分に当てはまらないことは経験上たくさんあります。自分の体に関する最終責任者は自分なのですから、一昨年より20以上上がっている血圧をさすがにこのままにしてはおけません。膝とは別に持病があるのでこれ以上薬は増やしたくないし、ギリギリで止まっている血糖値もなんとかしたい…。というわけで、時々波のようにやってくる食料品と食事への関心が再燃しました。

①まずは野菜。もともと野菜はよく食べていましたが、さらに強化し、大根、ゴボウ、人参、じゃがいも、トマト、生姜、ネギは毎食、カボチャ、ブロッコリ、キャベツ、その他季節の野菜はできるだけ毎日採るのを目指すことにしました。大根などは大根おろし、トマトはジュースも活用、あとは薄味できんぴらごぼうやポテトサラダを常備食として作っておけば無理なく実行できます。ブロッコリーや季節の野菜は蒸すだけで結構おいしいですし、カボチャは時にシナモンを使った料理にします。

②大豆もしくは大豆製品。最近同じタンパク質でも、大豆には肉や魚にない働きがあるという衝撃的な事実を知りました。記憶が正しければ、大豆タンパクは組成上、筋肉を修復したり増やしたりするのに不可欠な物質に似ているので、障害となる物質が現れた時身代わりになってくれるというものでした。そのため大豆タンパクを採っていると、筋肉の修復・増強に効果があるというのです。牛乳は毎日飲んでいましたが、豆乳も非常に良いとわかりました。また最近、大人用の粉ミルクが話題になっており、ミネラル類も摂取できてよさそうではありますが、値段が張るのと人工的すぎる気がして私は試していません。その代わりスキムミルクときな粉をお湯で溶いて牛乳のように冷蔵庫で冷やし、特製ドリンクを作っています。きな粉は溶けないので沈殿しますが、冷めてからペットボトルで保存すると振って飲めます。一日500mlくらいは簡単に飲んでしまいますが、スキムミルクもきな粉も買い置きができるのでとても楽です。

 大豆はこれまでも蒸した青豆を食べていましたが、毎晩水に浸しておくのを忘れないようにして毎朝食べるようにし、また定番の豆腐、納豆も今まで通り採っています。豆腐は買い置きのできる高野豆腐もよく使います。一口サイズのものを薄味で調理し一晩冷蔵庫で冷やすと、暑くて食欲が出ない日でもあっさりおいしくいただけます。今回、油揚げやさつま揚げにも相当大豆タンパクが含まれていることを知ったので、こういうものも料理に取り入れていこうと思っています。言わずもがなのことですが、肉や魚、卵、チーズ。ヨーグルトといった乳製品は今まで通り食べています。

③主食について。もはや主食とは言えない存在の炭水化物ですが、三食中一食は蕎麦にし、ご飯の時は麦ご飯にすることにしました。蕎麦は食塩不使用のものを使い、つけ汁は薄めにします。薬味としてネギや大根おろしをふんだんに採れ、暑くなってくる季節はのど越しもよくあっさり食べられます。パンはたまにしか焼かなくなり、朝から蕎麦をゆでていたりします。麦ご飯は少しパサつく感は免れませんが、これで体調が改善するならなんでもありません。

④その他。私はフルーツ王国を自称する県で育ったので、毎日果物を食べない生活は考えられません。りんごは相当体にいいらしいので秋から冬は毎日食べますが、夏場はやむなく白濁タイプのジュースを飲んでいます。桃の話は前にもしましたが、これは魔性の食べ物。子供の頃食べ続けたせいか何がどこに効くのかわからないほど私には効く(すなわち体調が良くなる)ので、帰省した時は好きなだけ食べています。あとは年中食べられるバナナやキウイほか、イチゴ、スイカ、梨、ぶどう、みかん…何でも好きです。
 果物以外では、くるみ、アーモンドは常備し、他にはひじき、わかめ、海苔等の海藻類を1日のどこかで採るようにし、お菓子は動いて疲れた時に少し取る程度で極力控えるよう心がけています。

今年はこんな感じで食事改革を2カ月ほどやってから、定期検診に臨むつもりです。結構本気の食事改革です。

2019年6月13日木曜日

「変形性膝関節症の治療について」

 膝痛で整形外科を訪れてからほぼ完治したと思えるまで、13カ月かかりました。この間、大腿四頭筋を鍛えほぼ良くなったと思ってもまたぶり返したり、歩いたり走ったりするのに支障はなくてもかすかな違和感を感じたりして、これはもうまったく元通りになることはないのかと思ったこともありました。正直に言うと、医者通いは3カ月以上前に2か月分の漢方を頂いて以来やめてしまいました。普段なら「もういいですよ。また何かあったら来てください」と言われるまで続けるのですが、行けば必ず薬が出るのでやめることにしたのです。

 もう一つの理由は、これも普段なら眉唾で聴いている健康番組の「膝痛の直し方」に妙に納得してしまったことにあります。すり減った軟骨は元に戻らないらしいので完治するはずはないのですが、先日、「同程度の軟骨の減り具合でも、痛みとして感じない人もいる」という言葉にビビビときました。よくわかりませんが、脳の神経回路の問題らしく、痛みとして感じなければ支障なく暮らせるということになります。なるほどと思い、番組で推奨していた方法を半信半疑で試してみました。まったく手間ではないし、とりあえず8日間でよいというので、だまされたつもりでやってみたのです。

 それはお風呂の中で行う方法なのですが、「バスタブに背を付け脚を伸ばして座り、太腿を膨らませるイメージで脚を突っ張る」というもので、20回ほど行えばよく、1回あたりどれくらい突っ張ればいいのか忘れましたが、5秒くらいで試してみました。なんとなくですが効果が実感され、8日目には以前より改善した気がしました。この方法が効いたのか、もともと治る時期だったのか断言できませんが、違和感がなくなったのは確かで、やめずに今も続けています。膝の痛みにはいろいろな原因があり、必ずしも誰にでも効くとは限りませんが、通院してだいぶたつのにちっともよくならないと膝痛でお悩みの方、一つの治療法として試してみてはいかがでしょう。

2019年6月8日土曜日

「子育て困難な社会」

 先日読んだ本の中に、幼児致死の母親の裁判員裁判を扱った小説があります。自らも子育てに苦闘する母親が補欠で裁判員に選ばれ、それによって自分の日常の掘り起こしと心の葛藤が浮き彫りにされていく優れた作品です。作者の人生経験の深さと巧みな筋の展開に、「これが作家なのだ」と何度も思わされ、子供を持つ母親なら自分と重なっていくこともあろうかと感じました。

 私の場合は、部分的に「ああ、その気持ちはわかる」ということはありましたが、深く共感できるというところまでは行けませんでした。描かれる子育ての大変さに、「いつから子育てはこんな化け物じみた大変な営みになってしまったのか…」という気持ちでため息が出たというのが正直なところです。ごく普通のどこにでもいそうな家族なのに、「配偶者やその親が発する言葉をここまで深読みしないといけないのか…」、「互いの思いがここまで見事にすれ違ってしまうのか…」と、そこまでくつろぎの場でない家庭には想像が及ばず、「大変だろうな。疲れるだろうな」と思うばかりです。

 もう一つ感じたのは、「ここに出てくるのは全部人だな」ということです。当たり前過ぎて何を言うかと思われそうですが、早く神様に全部話して楽になればいいのにと単純に思うし、自分ならそうします。そうでないと一日一日リセットできないでしょう。昨日の重荷を背負って、その続きのまま、さらにまた今日の重荷を背負うなんて私には到底できません。「一日の苦労は一日にて足れり」(マタイによる福音書6章34節)という言葉があります。大失敗があっても大きな間違いを犯しても、それを赦す権威をお持ちの方に謝って赦していただき、翌日新しい気持ちで始められるから生きていけるのです。

 この小説を読んでちょっと気持ちが暗くなったのは、「こんなの詠んだら、子供を産む人どころか結婚して家庭を作る人も減るんじゃないか」と思ったからです。子供ではなく犬だとしても家族の一員として飼っている場合、「他の犬は~なのに、うちの子は…」と、他の犬と比べてしまうことはありますが、いつもその場限りのことであとを引くようなことはありませんし、次の場面ではリセットされて元通りになります。「簡単なことを難しく考えるな」という犬川柳もありました。

 このところ子供に関わる想像を絶するような事件が立て続けに起きており、子供を持つことは加害者になる、被害者になる両面で大きなリスクであることに世間は震撼しました。避けられない犯罪というものもあるのでしょうが、なにはともあれ人生の出発は幸せに満ちた家庭を基盤に始められ、続けられるしかないでしょう。作家にはぜひ、希望ある未来を感じさせる家庭を描く作品を書いていただきたいものです。


「紅春 138」

帰省してりくと散歩をした後、足を洗うためにひょいとりくを抱き上げるといつも「なんだか軽い…」という気がするのです。体重を測っているわけではないので、気のせいかもしれないのですが、私がいない間、どうもりくはあまりドッグフードを食べず、兄が鶏肉等を中心に調理してやっているようなのです。確かに私もフードにいろいろなトッピングを工夫して食べさせるのに苦労しているのですが、やはり栄養バランス的にドッグフードはとても優れているので、どうしても食べてほしいのです。

 りくには獣医師お墨付きの最高レベルのドッグフードをあげていて、購入時に他の方のレヴューを読むと、「バクバク食べます。いつもこれにしています。」とか「これは食べます。前はよく残していましたが、きれいに食べてくれるのでもうこれに決めました。」等のコメントがあるのに、りくの場合は、「おいしいトッピングしてくれたら、食べてもいいよ」という感じの態度なので、「くっ、なんでうちの犬だけ…」と、ため息が出ます。

 最近は自宅にいる時に自分が食べない脂身や鶏の皮などを冷凍しておき、帰省する時に持って帰って加熱して肉汁を取り、刻んだ肉と一緒にドッグフードにかけてやっています。これだと肉汁がドッグフードに沁み込んでいるせいか、きれいになくなるまで皿を舐めています。ドッグフードの方は高齢犬用のを買っているのに「これでいいのか?」とも思いますが、フードは食べているからとりあえずよしとします。りくの頭の中では、「姉ちゃんの帰郷=脂身の肉汁フードの食事」になっているかもしれません。実際、数日たつと、りくを抱き上げた時、「あ、重くなってきた」と感じるのです。気のせいではないと思います。



2019年5月29日水曜日

「紅春 137」


 りくはすっかり老犬の域に入り、様々な症候が出てきました。

①耳が遠い。
 かなりそばで話しても聞こえていないことがあります。これは少し前から始まり、急速に進んでいるきがします。猫の声が聞こえないのはいいのですが、家族も相当大声で言わないと聞こえなくなっています。また、聞こえないから自分の「ワン」の大きさ加減が調節できないのか、どんどん大声になってきているのです。外にいる時はたいてい通る犬への声掛けなのですが、早朝などは近所迷惑なので、本人が嫌がっても家の中に取り込んでいます。

②視野が狭くなった。
 真正面のものは見えていますが、真横ですぐそばにいても気づかず、声を掛けながらなでても「ビクッ」とするのでわかります。せめて白内障はできるだけ避けられたら、と思っています。内犬なので始終紫外線を浴びているわけではないですが、「外に居たい」という時は外に置いているので心配です。

③我慢ができなくなった。
 散歩に行く気が旺盛なのはよいのですが、「今、用意するから」と言って支度をしていても、もう待ちきれないのです。何度も私と勝手口の間を落ち着きなく行き来し、時間がかかっていると何やら「ムニャムニャ」唸ったり、「ワン、ワン」と大声で吠えたりするのです。昔はこれほどひどくはなかったので、これは加齢による何らかの脳の状態の変化に由来するもののようです。人間でも老人が切れやすくなったという現象につながるものと思われます。吠えるのが止まらなくなった時は、りくの体の下に両腕を入れ、そのままの格好で上方へ持ち上げるのが効果的です。脚が地面についていないので踏ん張れず、従って声も出ないようです。「大声出しちゃダメなんだよ」と落ち着いて話しかけると静かになります。

 朝の散歩の後、気が済むまで外に置きますが、前を通る人や犬への声掛け以外で吠える時は、「姉ちゃんも一緒に外にいて」です。このところ、信じられない速度で伸びる草むしりをしているので、その時は吠えません。
 

2019年5月18日土曜日

「読書の時間です」

 ずいぶん久しぶりの投稿になり、ご心配をおかけしました。改元騒ぎと超大型連休の混雑ぶりをラジオで聴くだけですっかり疲れてしまい、この間ずっと読書に没頭しておりました。本はプリンターで読み取りながらなのでゆっくりですが、わからないことを調べるうち、芋づる式にどんどん読まねばならない本が増えてゆき、書く方がまったくできなくなってしまいました。脇道に入っていって訳が分からなくなりましたが、日本の近代を知ることは、世界史を辿りヨーロッパの近代に再会することでもあります。

 最近一番の収穫は、ライプニッツとアルノーの往復書簡の訳書が出ているのを知ったことです。この書簡は、たしか大学一年の後期(すなわちまだ教養課程の時)に文学部の持ち出し講義としてとった「哲学講義」の授業で読んだものでした。あの頃は哲学科に行く気満々で、小さな教室でぽつりぽつりとごく少数の学生しかいない授業でした。暮れていく時間帯の冬学期の寂しい光景をありありと思い出します。テキストは先生が配布するプリントで、それぞれがとっている第二外国語で読めるように左右にフランス語とドイツ語で同じことが書いてありました。元々はフランス語で出版されたもののコピーらしく、フランス語から翻訳されたドイツ語のテキストは読みにくく、ドイツ語選択者にはただでさえ「?」な内容がさらに「??」だった記憶があります。「日本語訳が出ていたのか…」とちょっと愕然、当時もあったのかどうかは分かりませんが。

 ヨーロッパの近代はやはりデカルト抜きには語れませんが、デカルト主義的世界観を前提にすると、その先の機械論的自然観と神の意志をどう調和させるかが大問題となってきます。なにしろまだ神の存在証明が哲学的にできると考えられていた時代だったのですから。ライプニッツが『形而上学叙説』で明らかにした考え、すなわち、「各人の個体概念は、いずれその人に起こってくることを一度に全部含んでいる」に対して、アルノーは、「神がアダムを造ろうと決定する時、そのアダムという個体的概念には彼とその子孫に起こる全ての出来事が含まれているのなら、可能的アダムの中から選んで創造した後はもはや神は自由に介入できないことになる」と反論します。ライプニッツの理解では、「神がアダムに対して何らかの決定を行う時、同時にアダムに関する宇宙全体のすべてに対しても配慮して決定する」のだから、矛盾はないというわけです。また、現実敵存在(「なぜ他のようにではなくてそのようにあるのか」)には単に可能性とは別の原理が働き、それは個々の事物のうちにも、事物の全集合及び系列のうちにも見いだせず、究極の原因である神に至るとライプニッツは考え、デカルトの機械的自然観を斥けています。

 このように訳の分からない話をじっと考えるなどということは、若い時にしなければまずできないことでしょう。若い時に必要なのは無駄な時間なのですが、現在のご時世ではこんな浮世離れしたことをしている時間はありません。高速情報社会で経験できないものがどんどん増えていく気がします。時代に逆行する形になりますが、今後は大昔に書かれた本をじっくり読んでいくつもりですので、ブログを書く時間が減ると思いますが、どうぞご心配なさらないでくださいね。


2019年4月25日木曜日

若冲展 2 「象と鯨図屏風」

 東日本大震災復興祈念の伊藤若冲展第2弾が福島にやって来ました。たまたま前を通ってさほど混んでいないと思い、土日は避けて先日朝一で出かけてきました。開館の15分ほど前に着いたのですが、既に何十人か並んでいるのはチケットを持っている人の列で、どんどん人の列が長くなっていきます。チケット購入の列は別に百人ほどは並んでおり、その後に並びなおすので、入れたのは開館から15分後くらい、たぶんそれ以前に数百人は入場していたはずです。

 今回は以前来た大作「鳥獣花木図屏風」のようなものはなく、「百犬図」はかわいかったものの、全体的に色彩も乏しくちょっと残念でしたが、「象と鯨図屏風」が見られたのは幸いでした。これについては、福岡伸一が『動的平衡』の中で、非常に印象的な文を残しています。彼はライアル・ワトソンの『エレファントム』を訳し、雌だけで形成される子育ての群れを率いるリーダーの母親象を追ってゆくワトソンを見つめます。以下、要約を交えながら引用します。

 「象は太古の昔からずっとヒトを見守っていた。象たちは、ヒトの祖先が樹から降り、森林から草原に出てきたときも、そっと場所を譲ってくれたほどだった」

 しかし、象牙を求める人間によって象の数は急速に減っていきます。そして、一九八一年に三頭、一九八七年にはわずかに母子二頭が目撃されるだけになります。そして一九九〇年、森に残された象はたった一頭になります。

 おそらく過去にも目撃されてきた母象だった。推定年齢四五歳。このクニスナ最後の象は、人びとから「大母(メイトリアーク)」と呼ばれる雌だった。一世紀ほど前に五〇〇頭もいた象の群れは、ついに一頭を残すのみとなった。」
(266頁)

 それから数年後、当時、アメリカにいたライアル・ワトソンのもとに不穏な知らせが届いた。最後の母象がここ数ヵ月、行方不明になっているというのだ。ワトソンは急遽、南アフリカ行きを決心する。メイトリアークを探し、その無事を確認するためにー。
 生涯、母系家族を維持し、常にコミニュケーションを取り合って暮らしてきた象が、たった一頭残されたとき、彼女はいったい、どこへ行くだろうか。ワトソンにはある確信があった。彼は、少年時代を過ごした南アフリカのある場所で、かつて象を見たことがあったのだ。
 それはクニスナ地区から国道を越え、森林地帯が終わるところ。そこでアフリカの台地は突然、崖となり、その下の海面に垂直に落ち込む。切り立った壁の上から大海原が見渡せる。
 はたして、ワトソンは、その崖の上にたたずむメイトリアークを見た。そしてその光景を次のように書き記した。

「私は彼女に心を奪われていた。この偉大なる母が、生まれて初めての孤独を経験している。それを思うと、胸が痛んだ。無数の老いた孤独な魂たちが、目の前に浮かび上がってきた。救いのない悲しみが私を押しつぶそうとしていた。しかし、その瞬間、さらに驚くべきことが起こった。
 空気に鼓動が戻ってきた。私はそれを感じ、徐々にその意味を理解した。シロナガスクジラが海面に浮かび上がり、じっと岸のほうを向いていた。潮を吹きだす穴までがはっきりと見えた。
 大母は、この鯨に会いにきていたのだ。海で最も大きな生き物と、陸で最も大きな生き物が、ほんの一〇〇ヤードの距離で向かい合っている。そして間違いなく、意思を通じあわせている。超低周波音の声で語りあっている。
 大きな脳と長い寿命を持ち、わずかな子孫に大きな資源をつぎこむ苦労を理解するものたち。高度な社会の重要性と、その喜びを知るものたち。この美しい希少な女性たちは、ケープの海岸の垣根越しに、互いの苦労を分かち合っていた。女同士で、大母同士で、種の終わりを目前に控えた生き残り同士で」

 『エレファントム』の中の最も美しいシーンである。自然界は歌声で満ちている。象たちは低周波で語り合っている。ヒトはただそれが聴こえないだけなのだ。(268頁)

 これほど哀切に満ちた話があるでしょうか。これは実話です。人間にはわからないことがまだまだたくさんあるのです。若冲はただ、陸上で一番大きい生物と海上で一番大きい生物を一緒に描いただけなのかもしれませんが、にわかには信じられない組み合わせです。いや、やはり彼は二つの生物が言葉を交わしているのを、どういう方法でか、知っていたのではないでしょうか。この屏風を見ているとそう思えてなりません。人間80歳を過ぎればそういうことがわかるものでしょうか。こういう境地に達することができるものでしょうか。


2019年4月21日日曜日

「理論と実際」

 理論と実際は違うとはよく言われることですが、最近この二つがぴたりと一致する現象を私たちは体験しました。それは世界の科学者が協力し合い、いくつもの望遠鏡を繋げて撮影が可能となったブラックホールの写真です。私はラジオで聞いていたのですが、その写真が公開された時漏れた報道陣の「おおっ」というどよめきからその凄さがわかりました。実際に人間の目で見られる映像ではなく、色彩もそれらしく彩色されていたらしいのですが、それはだいたい我々が想像していたものと同じだったのです。聞いた話では、角砂糖1個の大きさでほぼ地球の質量と同じというとてつもない重さのブラックホールは、アインシュタインが100年も前に自らの相対性理論から導き出した仮説でしたが、実際にその通りだったというのは恐ろしいほどの知力です。ろくなニュースが無い中、本当に素晴らしい知らせでした。

 最近は昔の書物を楽しみに読むようになり、日本だと明治期の本、西洋のものだと近世の哲学関係の本が面白いとかんじます。とはいっても、あまり難しいもの(カントの三大批判書など)には手を出さず、近代市民社会についての読んでわかるものだけなのですが、ほぼ40年ぶりくらいに哲学書を読んでなんだか楽しいです。カントの『理論と実践』の論文の完全な題目は、「理論では正しいかも知れないが、しかし実践には役に立たない、という通説について」ですが、理論が全体として厳密に構成されていれば、それは的確に実践と一致する、というのがカントの主張で、弾道の理論を火砲の発射に適用しても、実際には理論通りに着弾しないが、その理論を空気の抵抗に関する理論で補えば、弾道理論はよく実践と一致するという例を挙げて説明しています。原理がいかに大切かということを改めて肝に銘じなければならない時代というものもあるなと感じました。若いころにはあまり価値や重要性がわからなかったものでも、なるほどとうなづけることも多く、年を重ね世の中で経験を積んでわかるようになったこともあるのでしょう。今読んで新鮮味に欠ける思想、例えば国際連合の構想なども二百年以上前のアイディアなのですから、これも射程の長さは相当なものです。

 西洋における知のあり方と日本における知のあり方は違うと言えば違うのでしょうが、日本においては福沢諭吉のような最良の知性においては変わるところが無いように思います。同類の知性は呼応し合うのです。こういう本を読んでいると、自分が紛れもなく類的存在であるという巨視的な視座が与えられ、時代も地域も違う現実の中で知力の限りを尽くして良書を残してくれたことに対し、人類の一人として感謝の念に満たされます。

2019年4月15日月曜日

「雑学の使い道」

 私は基本的に好きなことしか「勉強」しないので、知らないことがたくさんあります。自然体で気分よく話せるのは仲のよい友達と二人で話すときで、これは知らないことを、「何それ? 知らない!」と気軽に聴けるからです。だから、二人での会話ではなく、何人かの集まりで他人が話している時はたいてい聞き上手です。(ああ、そういうことだったのか)、(ほう、なるほどねえ)、(よく知ってるなあ、すごい!)と思いながら、だいたいいつも静かに聞いています。うなづくことがあっても決して知っているからではなく、その場で聴いてわかったという意味なのです。

 しかし、たまには幸運(?)がめぐってくることもあります。いつだったか、話好きの方々が数人集まって「社会史」の話をしている場に居合わせたことがありました。皆、その筋に詳しい方々で議論が活発に進んでいく中、西洋近世の魔女狩りの話になりました。関連した本について一人が、「あ~、あの本、誰が書いたんだっけ」と、喉元まででかかった著者名を求めて叫んだので、私が「ミシュレじゃないですか」と一言いったら場が静かになりました。偶然知っていただけなのですが、「この人は何も言わずに聞いているが、実はよく知ってるのかも」という臆断を与えてしまったようでした。一応、「たまたまですよ」と言いましたが、その場の空気はかなり冷えました。

 また或る時、これも数人の集まりだったのですが、読書の話になり、誰かが「友人はやはり本を読んでいる人じゃないとね」と言いました。続けて別なやや年配の方が、「それに、六分の侠気、四分の熱だね」と言い、そのまま、「妻をめとらば…はいっ」と私に振りました。私が「才たけて みめ美わしく情けある」と続けると、よどみなく答えたことに少なからず驚いていました。別に与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」を読んで知っていたわけではないのです。これはメロディのついた歌になっており、実際私は先ほどの問いに答える時、歌いださないように努めていたのです。私の母は台所に立ってよく歌を歌っていましたが、そのほとんどは讃美歌だったものの、時折唱歌やよくわからない昔の歌も混じりました。母の世代の人にとってはきっと身近な歌に相違なく、思わず口を突いて出てしまったのでしょう。だから私は、何だかよく似た感じの節回しの「水師営の会見」さえ、部分的には歌えるのです。しかし、戦前の唱歌は、「今ぞ相見る 二将軍」などから分かるようにどう見ても軍歌、母には全くふさわしくない歌ですが、学校で習ったものは持久力が長いということの一つの例です。(日露戦争の頃はそんな悠長な感じだったの? 「昨日の敵は 今日の友」ってこの歌が出所かな…)などと思いながら聞いていたのを思い出します。ま、何がいつ何時役に立つかはわからないということです。


2019年4月10日水曜日

「紅春 136」

りくを連れて買い物に行く時、ブンちゃんの家の裏手を通ります。ブンちゃんは外犬なので小屋に入っている時以外は挨拶ができます。りくより3歳ほど年少なので、子犬として来たばかりの頃はりくがお兄さんでした。でも今はブンちゃんの方が明らかに年長に見えます。冬でも外の小屋で寝るからか、同じ柴犬なのに体毛がふさふさとしており、顔つきも「さすが外犬」といった精悍な表情です。ポワンとした顔のりくはあまり相手にされなくなってきている気がします。

 先日りくを外に繋いでおいたところなんだか声がするので行ってみると、子どもが二人来ていました。小学二年生の男の子と女の子で、学童に行く途中でりくを見つけてやってきたとのこと。
「チョコちゃん、いた~」
「えっ」
「チョコちゃんって呼んでたの。名前、何ていうの?」
(むむっ。りくの名前を勝手に…)
「りくだよ。チョコちゃんじゃなくて、りく!」
それから、自分の両手でジャンケンをして、「りく、どっちが勝った?」という子どもにしかわからない遊びをりく相手に試みていました。りくがたまたま顔をどちらかに向けると、「わぁ、当たった」と言って大喜び。りくは子ども好きですが、少々困惑していました。よい子たちでしたが、何かあるといけないので私はずっとついていました。
 翌日、なんだか外が騒がしい気がして外を見ると、今度は子どもが3人に増えていました。繰り返しジャンケン遊びをしています。私が出ていくと、私を見るなりりくが「姉ちゃ~ん」と駆け寄ってきました。子ども三人の相手はりくの手に余ったのでしょう。しばらく一緒に遊んでから、「りく、昼寝の時間だから」と子どもたちに言って家に入れました。午後のこの時間はいつも寝ているのです。その日はいっそうぐったりして寝ていました。「りくに外犬は無理だな」とあらためて思った次第です。

2019年4月6日土曜日

「切り替えの季節」

 新年度になって全てが新しくなる時です。日常生活に関わる事項でいくつか更新の手続きがあるので、3月下旬から4月にかけては帰省もできず、また、安心して外出もできません。書類が書留等で届くからです。とはいえ、全く家を空けずにいるわけにもいかず、「まだ来ないだろう」と買い物に出ている間に不在票が入ることもあり、配達者に申し訳なくなります。昨日はようやく更新のための書類を書き、区役所に提出し、一つ終わりました。

 もう一つ厄介なのはクレジットカードの更新です。これは5年ごとくらいですが、カードが何枚かあるので毎年のようにやって来ます。もう海外に行くことはないだろうし、とりあえずビザとマスターが一枚ずつあればよさそうなものですが、年齢的にも新しく作ることは出来ないので、年会費を無駄に払っても保持しています。使うのはほぼ一枚だけで、新幹線をよく使っていた頃に最適だったカードに交通系のICカード・スイカも付帯しているのでとても便利です。昔は海外でしかクレジットカードを使いませんでしたが、今は公共料金の支払いもこれにまとめ、最近は病院の支払いもクレジットで済むので、本当に楽になりました。スイカが使えない所では買い物をしないので、東京ではほぼ現金を持ち歩く必要はありません。
 問題は更新時のカードがいつまで使えるかです。例えば更新月が4月とするとそのカードは4月いっぱい使えるはずですが、新しいカードが4月初旬に届くとすると4月いっぱいは両方使えるのでしょうか。それとも新しいカードを使い始めた時点で切り替わるのでしょうか。これが気になるのはスイカが付帯しているからで、スイカに残った金額はどうもそのままでは新カードに引き継がれないらしく、別な手続きもめんどうなのでとりあえず旧カードのスイカ分を使い切ることにしました。きれいにゼロにしたつもりでほんの少し残額が出たのは、都バスは90分以内の乗り換えならICカードをっ使うと100円引きになることを失念していたためです。スイカ使い切りゲームは楽しかったのですが、ほんの少し残額が出て残念。もういいことにします。税込みでちょうど100円のものはなかなかないものです。
 もう一つ気になったのは、クレジットカード使用日と口座引き落とし日の時間差です。以前バスの予約を変更したときカードが切り替わっていたので払い戻しの手続きに窓口まで行かねばならなかった経験がありましたが、これなどは引き落としが翌月になるからだったのでしょう。今回はその経験を踏まえて、変更の可能性があり得るものは別のカードで支払いました。ところが、たぶん同様の事例があったからなのでしょう、新しく届いたカードの規約を読むと、例えば有効期限が4月と書いてあっても次回の更新時には5月まで有効とだとの記載がありました。なんだか頭が混乱しますが、とりあえず5年間は面倒なことに煩わされずに済むのがありがたいです。

2019年4月2日火曜日

「言文一致に至るまで」 その3

 物事には過程があり、歴史はそれを飛び越えて進むことはできませんが、言文一致体の誕生とその成長を思う時、もし二葉亭四迷の実験的言文一致体小説が『浮雲』ではなく、『平凡』並みの佳作であったなら、日本の近代文学は現在私たちが手にしているものとは相当異なった様相を呈していただろうとの想像を私は禁じ得ません。『浮雲』は印象が薄く未完でもあったため、言文一致体は文体として形を成しつつあったにもかかわらず、その評価はパッとしないものになっています。この時代を知れば知るほど、近代文学史における二葉亭四迷の占める位置はその貢献に見合っていないと言わざるを得ないでしょう。そういう私自身、『浮雲』にはついつい点が辛くなるのですが、それはその後の文壇を彩る作家たちの鮮やかさに目を奪われてしまうからで、その点森鴎外は流石です。鴎外は、「あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く」と、その功績を正当に評価しています。『浮雲』が書かれたのは明治20年(1887)であって、その時代の読み物と言えば、明治16年(1883)から翌年に書かれた矢野龍渓の『経国美談』、明治17年(1884)に翻訳された坪内逍遥の『ジュリアス・シーザー』、明治18年(1888)の文芸評論『小説神髄』、小説『当世書生気質』くらいしか見当たりません。二葉亭四迷が意見を伺う相手として坪内逍遥しかいなかったことは理解できますが、『小説神髄』において『南総里見八犬伝』を前時代のものとして批判的に評した当の本人が、『当世書生気質』のような戯作文学風の小説をかいてしまうところに、この時代の困難さが端的に示されているのです。これは先駆者の大変さをつくづく知らされる現実です。

 こののち明治20年代に尾崎紅葉と幸田露伴が代表的作家として活躍した「紅露時代」が訪れますが、明治22年(1889)に淡島寒月を介して『都の花』に発表された幸田露伴の『露団々』は、舞台がアメリカにもかかわらず文語体で書かれており、なぜか章の冒頭に毎回芭蕉の句が置かれています。露伴は文語体で作品を書き、同年の『風流仏』、また明治24年(1891)から翌年にかけて「国会新聞」に連載された『五重塔』で作家としての地位を不動のものにしました。尾崎紅葉は明治29年(1896)に『青葡萄』で、明治30年(1897)には『多情多恨』で言文一致体を用いているものの、翌年から『読売新聞』に連載され明治36年(1903)に35歳という若さで逝去する前年まで続いた未完の遺作『金色夜叉』は文語体で書いています。こうしてみると、この頃は言文一致による口語体が選択肢の一つとして試された時代であり、作家はそれぞれ懸命に自分の文体を模索していたと言ってよいでしょう。

 言文一致体は明治31年(1898)、雑誌『国民之友』で発表され、明治34年(1901)刊行の第一小説集に収録された國木田独歩の『武蔵野』をもって完成されたと私は考えています。『武蔵野』は今読んでも、文体上ほとんど違和感なく読める作品で、独歩自身、この点では自分が二葉亭四迷の直系の継承者であると自覚しています。それは『武蔵野』の中で、『あひゞき』の冒頭部分を引いて、こう述べていることから知られます。

 すなわちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭(ぼうとう)にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。

 こうして『あひゞき』から十年で言文一致による口語文体はほぼ完成しますが、夏目漱石、田山花袋、森鴎外、島崎藤村らがそれを用いて次々と作品を生み出すにはまだ数年から十年かかります。そしてここに、二葉亭四迷も再登場するのです。これは、文学を志す人々が新しい文体を試し、それを我がものとするまでにほぼ一世代の時間が必要だったということで、考えてみればそれはむしろ作家による長足の達成だったというべきかもしれません。なぜなら、文体の変化を読者が受け入れるにはそれ以上の時間が必要であり、一般人になじみ深い新聞の文体が口語体になるのはまだ先の大正期の話だからです。こうして世に出された作品は、明治38年(1905)に『吾輩は猫である』、明治39年(1906)に『坊ちゃん』および『「草枕」、『破戒』、明治40年(1907)に『蒲団』、『其面影』、『虞美人草』、明治41年(1908)に『平凡』、『三四郎』、『春』、明治42年(1909)に『ヰタ・セクスアリス』、明治43年(1910)に『それから』、『青年』、明治44年(1911)に『門』、『雁』と、切れ目なく続いて、時代は明治から大正へと移っていくのです。

 この時起きたハプニングが「自然主義」と名付けられた文学なのだろうと私は思います。明治36年(1903)に尾崎紅葉が死去したことが結果的に転換点となったように見えるのですが、少年時代『あひゞき』を読んで衝撃を受けた田山花袋が、今度は『蒲団』を描いて文壇に衝撃を与えます。彼は一連の文芸隆興の流れの中で、自分の文体で自分なりの作品を書いただけなのですが、これを今の人が読んだら、特に最後の場面など十人中九人は「気持ち悪い」と思うのではないでしょうか。田山花袋には同年に『少女病』という小説もありますが、これなどは部分的に性犯罪者一歩手前の心理を描いているのではないかと思うほど本当に「キモい」のです。私は文芸評論家という立ち位置がよくわからないのですが、島村抱月が『蒲団』を絶賛し、田山花袋や島崎藤村の作品に「自然主義」という名が付されてしまったのは、小説を書いた当人にはその気がないことを考えると、抱月の願望の表現であり、おそらくフランスで起きたフローベール、ゾラ、モーパッサンらの文芸活動と同じものが日本でも起きたと見立てたかったのでしょう。私にはそうとしか思えませんが、『坊ちゃん』と『破戒』が同じ年に書かれたという事実が、何より確かなその裏付けとなってくれていると思います。口語体も選択肢の一つとなったこの時代、それぞれの作家が様々な制約から解放されて自分を見出そうと熱中したことは確かです。自由民権運動が吹き荒れる政治の時代でもあり、わずか25歳で人生を駆け抜けた鬼才北村透谷もその一人でした。

 しかしまさにこの時、若くして死んではいけない、長生きした者の勝ちなのだと思わされる作品が二葉亭四迷によって書かれます。『余が言文一致の由来』で、「支那文や和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である、人間の私意でどうなるもんかといふ考であつたから、さあ馬鹿な苦しみをやつた」と『浮雲』を書いた頃を振り返った彼が待ちに待った時代、すなわち、「どこまでも今の言葉を使って、自然の發達に任せ、やがて花の咲き、實の結ぶのを待つとする」と言っていた時代がついに到来するのです。
 『平凡』は「私は今年三十九になる」で始まる作家が主人公の小説です。一瞬、二葉亭四迷が内職として翻訳もこなすしがない作家としての日常や回想を基に私小説を書いているのかと錯覚するのですが、実際の二葉亭四迷はその年四十四歳であり、『東京朝日新聞』に夏目漱石の『虞美人草』を挟んで『其面影』に続く二作目の連載をしているわけですから、以下に描かれるのは別な人物なのです。

 実は、極く内々(ないない)の話だが、今でこそ私は腰弁当と人の数にも算(かず)まえられぬ果敢(はか)ない身の上だが、昔は是れでも何の某(なにがし)といや、或るサークルでは一寸(ちょっと)名の知れた文士だった。流石(さすが)に今でも文壇に昔馴染(むかしなじみ)が無いでもない。恥を忍んで泣付いて行ったら、随分一肩入れて、原稿を何処かの本屋へ嫁(かたづ)けて、若干(なにがし)かに仕て呉れる人が無いとは限らぬ。そうすりゃ、今年の暮は去年のような事もあるまい。何も可愛(かわゆ)い妻子(つまこ)の為だ。私は兎に角書いて見よう。
 さて、題だが……題は何としよう? 此奴(こいつ)には昔から附倦(つけあぐ)んだものだッけ……と思案の末、礑(はた)と膝を拊(う)って、平凡! 平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ、と題が極(きま)る。
 次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊(いささ)かも技巧を加えず、有(あり)の儘に、だらだらと、牛の涎(よだれ)のように書くのが流行(はや)るそうだ。好(い)い事が流行(はや)る。私も矢張(やっぱ)り其で行く。
 で、題は「平凡」、書方は牛の涎(よだれ)。
 さあ、是からが本文(ほんもん)だが、此処らで回を改めたが好かろうと思う。

ここにはもう『浮雲』で頼りなげだった筆遣いの二葉亭四迷はいません。彼は自分の文体を手に入れたのです。冒頭の「一」にはこんな身に染みる文も出てきます。

 こうなって見ると、浮世は夢の如しとは能(よ)く言ったものだと熟々(つくつく)思う。成程人の一生は夢で、而も夢中に夢とは思わない、覚めて後(のち)其と気が附く。気が附いた時には、夢はもう我を去って、千里万里(せんりばんり)を相隔てている。もう如何(どう)する事も出来ぬ。
 もう十年早く気が附いたらとは誰(たれ)しも思う所だろうが、皆判で捺(お)したように、十年後れて気が附く。人生は斯うしたものだから、今私共を嗤(わら)う青年達も、軈(やが)ては矢張(やっぱ)り同じ様に、後(のち)の青年達に嗤(わら)われて、残念がって穴に入る事だろうと思うと、私は何となく人間というものが、果敢(はか)ないような、味気ないような、妙な気がして、泣きたくなる……

二葉亭四迷が、「自然主義」は「何でも作者の経験した愚にも附かぬ事」を「牛の涎」のように書くとバッサリ切り捨てながら、「好(い)い事が流行(はや)る。私も矢張(やっぱ)り其で行く」と書いているのは、もちろん大いなる皮肉です。ここには、「『私小説を書く自然主義作家』というものを私は書く」という形で、「次元を一つ上げて書きますよ」というからくりが隠れているのです。そうして、子供の頃からの回想文は、祖母の死、異例な長さのポチの死、上京して住み込んだ叔父一家の娘・雪江さんとの出来事、文士となってからのお糸さんをめぐる出来事と田舎の父の死までを描いた後、ふいに終わります。しかし、唯では終わりません。二葉亭はここで二つの細工をして、二重の言い逃れを遊びとして残しています。一つは、文壇を去って役所に勤めるようになった「私」が書く言葉で、
「高尚な純正な文学でも、こればかりに溺れては人の子もわれる。況(いわ)んやだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今(ここん)の文壇のヽヽヽヽヽヽヽヽ」
と、果てしなく続く「ヽヽヽヽヽ」の後に(終)の文字を置くことです。文壇批判を途中で「へへへっ」と飲み込む形でやめているのは明らかですが、まだこれで終わりではありません。最後のダメ押しが次の文です。

二葉亭が申します。此稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません。

この文を『平凡』の末尾に置いて全部をふざけた他愛もない話にしてしまい、「おあとがよろしいようで…」と舞台裏に消える格好です。自然主義の批判を「くだらない話ですから、目くじら立てないでくださいね」とかわしているのです。この『平凡』が当たったということは、牛の涎のような個人的体験のダラダラを「別に知りたくないもん」と思っていた読者も多かったということでしょう。

 これとほぼ同じ趣旨で筆を執ったのが、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』であることは明白だろうと思います。鴎外は、『長谷川辰之助』の中で、あたかも文壇に生き埋めにされていたかのような二葉亭四迷の復活について、「長谷川辰之助君などもこんな風にレサアレクシヨンを遣られた一人かと思ふ」と書き、直後に、「平凡が出た」とそれを控えめに寿いでいます。
 『ヰタ・セクスアリス』は森鴎外が口語体で書いた二作目の小説ですが、書き出しは、「金井湛(しずか)君は哲学が職業である」という鴎外らしい簡潔な文です。金井湛はもちろん鴎外自身ではありませんが、時々は顔を出す感じで話が進み、ドイツから届いた報告書をもとに「性欲的教育」を自分が息子にできるかどうか、まず自分史を書こうと決めます。自分の成長過程で日常生活の中で見聞した性的出来事を一つ一つ切り取ってサクサクとスクラップしたファイルを作成するのですが、最後はこう終わります。

 さて読んでしまった処で、これが世間に出されようかと思った。それはむつかしい。人の皆行うことで人の皆言わないことがある。Prudery に支配せられている教育界に、自分も籍を置いているからは、それはむつかしい。そんなら何気なしに我子に読ませることが出来ようか。それは読ませて読ませられないこともあるまい。しかしこれを読んだ子の心に現われる効果は、予(あらかじ)め測り知ることが出来ない。若しこれを読んだ子が父のようになったら、どうであろう。それが幸か不幸か。それも分らない。Dehmel が詩の句に、「彼に服従するな、彼に服従するな」というのがある。我子にも読ませたくはない。
 金井君は筆を取って、表紙に拉甸(ラテン)語で
VITA SEXUALIS
と大書した。そして文庫の中へばたりと投げ込んでしまった。

 つまり、自分がスクラップしたものは、「我子にも読ませたくはない」ものであり、最終的にそのままゴミ箱に捨てられたも同然なのです。これは江戸の戯作を装った『平凡』の最後の終わらせ方と趣は違うものの、構造は全く同じです。鴎外は軍医でもあり、官憲が顔をしかめること必定の本を書くからには、やはり自然主義への批判をあまり角が立たない形でしたかったのでしょう。途中、鴎外がここに書かなければこれほど名前が定着することはなかったであろう「出歯亀」事件の話がでてきますが、どの国にもあるこのような婦女暴行事件について、「所謂(いわゆる)自然主義と聯絡(れんらく)を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る」と書いているのですから、鴎外が言いたいことは明らかに、「一応自然主義と呼ばれるものを調べてみたけど、くだらんね」であり、だからこそそれは捨て置かれるのです。ただ、おうがいのすごいところは、自分が知る性的出来事を一つ一つ標本化したことで、これはまさしくミッシェル・フーコーが『性の歴史』で解明した性行動の一覧化へ向かう力の存在を「自然主義と呼ばれた文学」へ駆り立てる要因として暴いたということです。実際、江戸時代までは性的なものの満ち満ちた世界で、今から見れば性的逸脱といった言葉で括られる類のこともなんら区別されずにそこにあったはずですから、性は近代秩序に組み込まれるようになって初めて前景化してきたのです。性についての関心は個人差が大きく、日本の私小説は出だしが出だしだったためなのか、あるいはどれだけ衝撃的な内面を開示できるかが作家としてのランクを決めるというような暗黙の了解があるためなのか、性を中心に自分を語りたい人はその力を押しとどめ難いようです。生きている限り避け得ない恥の多い人生を、また、自分のままでは書けないようなことを仮面をつけてまでなぜ語りたいのか、本当に不思議だと私などは理解に苦慮するのですが・…。

 自分が使っている文体について何も知らないのはまずいのではないかという思いから、言文一致の誕生と成長・定着過程を中心に、日本語の変遷を追ってきましたが、「今はここまで」という感じです。自分なりにはざっと把握でき、たぶん大きく違ってはいないと思うのですが、その検証には時間がかかります。これまでの過程で感じたのは、千年前の著作をも容易に読める言語の国の有難さであり、今はただ「長い道のりでしたが、よく頑張りましたね」と、いつも使っている日本語に言ってあげたい気持ちです。この貴重な言語を絶やさないためにできることは、とりあえず愛しんで使ってあげることでしょうか。

2019年3月28日木曜日

「言文一致に至るまで」 その2

 明治の文学というと、二葉亭四迷の言文一致体の創出が必ず取り上げられますが、私はずっとその必然性がよくわかりませんでした。書き言葉と話し言葉が乖離していたというのはその通りでしょうが、書き言葉として完成した文語文があれば、とりあえず不自由はなかったはずです。二葉亭四迷が勢い込んで新しい文体を作ろうとするのは、明らかに彼がロシア文学の翻訳者であったことと深く関係しており、漢学以外の外国文学を移す文体として文語体を選択できなかったということだろうと思います。というのは、「その1」で検証したように、文語文が完成体として存在するならば、訳者が用いる日本語にはあまり自由に訳せる余地がないからで、それは外国語の音調を含めての翻訳には不向きです。従って、これまで知られていなかった外国文学を日本に紹介するなら、いまだ存在しない新しい文体を必要としたのです。その後に試される言文一致体の翻訳小説は、最初はまだ未熟ながら、訳者の力量によって表現できる広がりと深みにおいてかつてない可能性を示しました。

 その観点から見ると、言語は異なるものの、二葉亭四迷と同様に翻訳者であった森鴎外には、二葉亭四迷の意図がよくわかっていたように思います。言文一致体を用いれば翻訳書でさえ自分の思い通りに訳せるとするなら、日本語による文芸作品の創造となれば、どれほど従来と違う新しい文学が可能になることかと、二葉亭四迷は考えたのでしょう。二葉亭四迷の初めての小説『浮雲』第一篇が刊行されたのは明治20年(1887)の六月、翻訳小説として後の文学者たちに大きな影響を与えた『あひゞき』が雑誌『国民之友』に発表されたのは明治21年(1888)の七月と八月ですから、小説『浮雲』のほうが早くだされました。森鴎外は二葉亭四迷の死に際して、『長谷川辰之助』(注:二葉亭四迷の本名)の中で彼への敬慕を書いています。

 浮雲には私も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出したのは、日本ではあれが始であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。坪内雄藏君が春の屋おぼろで、矢崎鎭四郎君が嵯峨の屋おむろで、長谷川辰之助君も二葉亭四迷である。あんな月竝の名を署して著述する時であるのに、あんなものを書かれたのだ。 の名を著述に署することはどこの國にもある。昔もある。今もある。後世もあるだらう。併し「浮雲、二葉亭四迷作」といふ八字は珍らしい矛盾、稀なるアナクロニスムとして、永遠に文藝史上に殘して置くべきものであらう。

 これを読むと、二葉亭四迷と森鴎外は親しく交際していたのかと誤解しがちですが、『長谷川辰之助』は、「逢ひたくて逢はずにしまふ人は澤山ある。」に始まり、前述の文章の直前は、「 長谷川辰之助君も、私の逢ひたくて逢へないでゐた人の一人であつた。私のとう/\尋ねて行かずにしまつた人の一人であつた。」という文なのですから、決して付き合いが深かったわけではないのです。しかし、その死に際してこのような分を残しているのですから、鴎外が二葉亭四迷に特別な思いを持っていたことは確かです。二葉亭四迷同様、森鴎外も旺盛な翻訳者であったということが、お互いの親近感の源だろうと私は思います。
 『長谷川辰之助』の中で森鴎外は、唯一度、洋行前に二葉亭四迷が訪ねてきた時の話を次のように書いています。

 長谷川辰之助君は、舞姫を譯させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、お禮は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好く面倒を見て譯して下さつたと答へた。
 血笑記の事を問うた。あれはもう譯してしまつて、本屋の手に つてゐると話された。
 洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは此上もない事だと思つて、うれしく感じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の樣子を見ずにゐる私なんぞは、羨ましくてもしかたがないと云つた。

二葉亭四迷が『舞姫』のロシア語訳をしていたとは初耳でしたが、二葉亭四迷は『あひゞき』と『舞姫』という二つの悲恋ものをそれぞれ日本語とロシア語に訳していたのです。また、ロシアの作家アンドレーエフの『血笑記』という全く肌色の違う小説を訳していたということを知るにつけ、エドガー・アラン・ポーの『うづしほ』や『病院横丁の殺人犯』(いわゆる『モルグ街の怪事件』を訳している森鴎外とはやはり趣味が合ったのでしょう。
二葉亭四迷と森鴎外の共通点は、それぞれロシア語、ドイツ語のバイリンガルだったという事実に存しますが、相違点もあります。それは森鴎外が卓越した文語体の使い手だったのに対して、二葉亭四迷はそうではなかったという点です。これは彼自身が、『余が翻訳の標準』の中でカムアウトしています。

第一自分には日本の文章がよく書けない、日本の文章よりはロシアの文章の方がよく分るような気がする位で、即ち原文を味い得る力はあるが、これをリプロヂュースする力が伴うておらないのだ。

 二葉亭四迷が自らの翻訳の技術について語ってくれている『余が翻訳の標準』に書かれている要旨は、「欧文は自ら一種の音調があって音楽的であり、声を出して読むとよく抑揚が整っている点が日本語と違う。翻訳はその分の調子をもうつさなければならない」ということでこれは理解できますが、そのため、「コンマ、ピリオドの一つをも濫(みだ)りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の調子を移そうとした。殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏(ひと)えに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労した」となると、それはご苦労様でしたと言うほかはありません。そればかりでなく、明治の人は本当に真面目だなと感心するのは、「ツルゲーネフはツルゲーネフ、ゴルキーはゴルキーと、各別にその詩想を会得して、厳しく云えば、行住座臥、心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ実に翻訳における根本的必要条件である」と書いていることです。ちなみに私が翻訳に関して教えられたのは、「原文と違うことを言っていたら翻訳ではない」と「翻訳だけ読んで意味が通らなければ翻訳ではない」の二つだけで、それは受験の英語には必要十分であっても、本職とするには「翻訳とは何でないか」ではなく「翻訳とは何であるか」を知らなければならないということです。それから二葉亭四迷はバイロンのロシア語翻訳者ジュコーフスキーの名を挙げて、
原文よりよくわかる思い切った訳だとしながら、「自分には、この筆力が覚束ない」という先ほどと同じ告白をしています。正直な人です。
つまり、二葉亭四迷がまだ少年だった田山花袋を感動させたツルゲーネフの『あひゞき』を訳して乗せる文体として言文一致体を試してみたのは、この悲恋ものを表現するのに音韻の点で文語体が不適切だっただけでなく、文語訳は彼の手に余るものだったからだと言ってよいでしょう。鴎外は文語体、後には口語体においても見事な両刀遣いですが、さほど文語に達者でなかったがために、二葉亭四迷は新しい文体の創出という方向に向かったのです。すなわち、用いる適切な文体がないという点で、二葉亭四迷には切実な欲求があったということです。

翻訳ではなく小説となると、二葉亭四迷が『浮雲』を書いた次第は『余が言文一致の由來』にこう記されています。

 もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。
自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。

 この文は、明治三十九年(1906)五月の「文章世界」に載ったもので、、『浮雲』を書いた明治二十年(1887)年から十九年もあとに当時を振り返って書いた回想です。坪内逍遥は日本にシェークスピアを紹介した人として有名ですが、そのアドバイスが的確だったかどうかは大いに疑問です。ちなみに、英国留学中の夏目漱石はシェークスピアを相当読んだはずですが、翻訳は一作もしていません。想像ですが、漢語が達者で立派な漢詩も残している漱石は、シェークスピアのiambic pentameter(弱強五歩格)を十分調べた後、翻訳には手を付けなかったのではないかと思います。もしくはシェークスピアに限らず漱石がこれといった翻訳作品を残していないことには何らかの理由があるでしょう。長編の『ファウスト』(第一部を翻訳した鴎外とは対照的です。

 しかし言うまでもなく、シェークスピアの作品は戯曲ですし、逍遥が例として挙げている円朝の落語も基本はト書きなしの会話形式による一人芸です。話し言葉の抜き書きだけならともかく、それだけでは小説にならない、一番問題なのは地の文なのです。この点が坪内逍遥のもとに赴いた二葉亭四迷の誤算だったのではないかと私は思います。「何か一つ書いて見たいとは思つた」と書いているのはそのまま受け取ると書きたい主題が特になかったということであり、落語の円朝と言えば「芝浜」というわけであったかどうか、舞台はなんとなくそれを思わせます。この作品は作者自身『予が半生の懺悔』の中で、「第一『浮雲』から御話するが、あの作は公平に見て多少好評であったに係らず、私は非常に卑下していた。今でも無い如く、其当時も自信というものが少しも無かった」と評する出来栄えで、この初の小説は、残念ながら話の展開が面白みに欠け、特に第三編では話の筋に動きがなくなって、結局、未完のままになりました。しかしここで終らないのが二葉亭四迷で、小説は三作しかないものの、彼が非凡なのは『浮雲』から二十年たって会心の作と言える『平凡』を書いたことです。



2019年3月23日土曜日

「言文一致に至るまで」 その1

 思考や感情を乗せるための「適切なvehicleがない」という事態を私はうまく想像できないのですが、明治期の文学者が突き当たった問題はこれでした。私の場合は「です・ます」調の敬体の文にするか、「だ・である」調の常体の文にするかで迷う程度で、これも大体は「不特定多数であっても話しかける相手がいる場合は敬体」、「自分の考えを自分で確認する時は常体の文」と決めています。常体の文とは或る種自分にとってモノローグを記す文体なのです。ただ、想定する相手がいる場合でも、その場の感覚で常体が入り混じってごちゃごちゃになることもしばしばで、いずれにしても自分の書く文体が適切かどうかを深く考えずに済んでいるのです。

 江戸末期から明治初期にかけて、日本にはどんな文体があったのでしょうか。
こう聞かれると、一挙に頭が朦朧としてきますが、日本における文体について、私が受けた学校教育の範囲で箇条書きに整理してみると、私世代の常識としては以下のようになります。
中国から渡来した漢字を用いて書かれた『古事記』は当時の日本で使用されていた日本語を漢字の音韻を用いて表記した物語であったこと
②『日本書紀』に始まる歴史書は漢語で表記されたこと
③一方で、朝廷の女官たちの用いた「かな文字」というものもあり、『枕草子』や『源氏物語』という「かな文学」が存在したこと
④男もかな文字を用いて物語や和歌、随筆等を書くようになっていったこと
⑤漢字とかなの入り混じった和漢混交文としての完成形はとりあえず鎌倉末期から南北朝時代を生きた卜部兼好の『徒然草』であること

その後の文体に関して教わった記憶がないのはなぜかと考えると、正式文書は別として、一般のレベルでは一応この和漢混交文が日本の書き言葉の原型となったからなのだろうと思うのです。この理解で正しいのかどうか十全の確信はありませんが、なにしろ『徒然草』は中学生でもさほど違和感なく面白く読めたのですから、相当現代語に近づいていることは確かなはずです。

 日本における正式文書は古来からずっと漢語であり、漢語は江戸時代後期から明治になってもある時期まで知識人にとって必須の教養でした。幼い時から行われた漢語の素読とは、意味が解らずとも音韻によって漢語をその身に叩き込むものであり、であればこそ、漢字を用いる東アジア文化圏では筆談によって意思の疎通が可能になっていたのです。漢字は西欧中世のラテン語にあたる働きを担っていたといっても過言ではないでしょう。日本においてこの状況が揺らいだのは、やはり黒船来航に象徴される西洋文明の圧倒的な力の到来によるのであり、決定的だったのは日清戦争による「眠れる獅子」の敗北とその後の植民地化だったでしょう。

 学校教育の場で明治期の文学で必ず読むのは、森鴎外の『舞姫』と夏目漱石の『こころ』です。前者は文語体、後者は口語体(と呼んでよいかどうかわかりませんが)なので、圧倒的に後者の方が読みやすく、前者は音読だけで国語の時間を何時間も費やした記憶が強く残っています。しかし、文語文が読みにくいかというと、そうとも言えず、『舞姫』の冒頭、「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」はスラスラ出てくるのに、『こころ』の方はそうはいかない。「たぶん常体の文だったよ」なと迷い、「私はその人を常に先生と呼んでいた。」という短い文さえ、「私はわたくしと読むんだっけ」、「常にその人を」だったっけ」と実に曖昧な記憶であることが暴露されます。私の祖父はもちろん文語の世代ですが、よく「文語の聖書は覚えられたけど、口語の聖書は全く覚えられない」と言っておりましたので、これは私だけの話ではないのです。

詩編23編1~2節
文語訳
ヱホバは我が牧者なり われ乏しきことあらじ
ヱホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱(みぎは)にともなひたまふ

「ヱホバ」は誤解から生じた訳語なのでこれはいただけませんが、「ヱホバ」を「主」と代え、さらにいわゆる「歴史的仮名遣い」を現代仮名遣いに変更するとこうなります。

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ
主は我をみどりの野にふさせ いこいの水濱(みぎわ)にともないたまう

これなら、文語世代でない私でも一度聞いただけで覚えられます。

口語訳
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

こちらは子供の頃から読んでいる訳なので、それなりにしっくりきますし、覚えてもいるのですが、同じ現代語訳でも新共同訳はこうです。

新共同訳
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

 1節では原典にはある「わたしの」が落ちており、私などには思わずのけぞるような訳です。ここは一般的な羊飼いの話をしている場面ではないので、肝心な語がないのは重大な問題だと思っています。新共同訳はカトリックとプロテスタントが共同で訳した画期的な書ではあるのですが、声に出して読まれることを重視したからなのか、本当に原文は同じなのかと思えるほど、いわゆる口語訳とももちろん文語訳とも違っています。

 実際には後者の二つが現代語を用いた訳文なのですが、ここからわかるのは、文語文とはほとんど動かしようのない完成した文体であるということ、口語文は訳者にとって表現上かなり自由度の高い文体だということです。文語文は明治期からおそらく昭和初期までは生活上の普通の文体でああって、書き言葉として何ら問題はなく流通していたはずです。ここまで整理してだんだん言文一致体が生まれた時の日本語の状況がわかってきました。では、明治期の文学にあたりながら、できる限り言文一致が生まれた由来に近づいてみましょう。




2019年3月19日火曜日

「紅春 135」

12歳を過ぎて、りくの足腰は本当に丈夫だなと感心しています。最近の朝一番の散歩は下の橋まで一周で約30分、2キロくらい歩きます。外につないで疲れたころ中に入れますが、午前中に必ずまた散歩に行きたいとモーションをかけてきます。買い物がてら上の橋まで行き、コンビニに寄って帰ってくるのもおよそ30分、これも2キロくらいです。その後はおとなしく夕方まで寝たり起きたりしており、夕方もう1回、短く1キロくらい歩きます。湧水池の鯉が気になるので、私の希望でそこへ行くことが多いです。誰が管理しているのかわかりませんが、錦鯉も含めて数匹の鯉がいるのです。水もきれいだし住みやすいのでしょう。わたしでもたやすく見つけることができるほどの澄んだ水です。会いに行くのが楽しみですが、水辺にいると鯉が集まってくることもあるのでのんびりできません。りくは鯉には無関心です。

 こんな感じで、私が帰省している時は1日5キロは歩いているのです。他の時間はだいたい寝ていますが、起きている時は隣の部屋からパソコンに向かう私をじっと見ています。スキを見せないようにしていますが、一度、時間が空いた時、「行く?」っと聞いたら、それまで寝そべっていたのにバーンと跳ね起きて、一目散に勝手口に走って行ったので、「そんなにうれしいのか…」と唖然としました。おそらく人間以上に、犬は歩けなくなったら大変ですので、自分から散歩をせがんでくれるのを喜んでいます。負けないように、私がついて行かねばなりません。

2019年3月15日金曜日

「天保の人 福沢諭吉」 その3

 『学問のすゝめ』は全部合わせると300万部ほど売れたのではないかと言われていますが、明治初期の人口が3500万人程度であったことを考えればこれは途方もない数です。ほぼ国民の全員が読んだ、あるいは聞いたと考えてもよいだろうと思います。なぜそれほど読まれたのかを考えることは、廃藩置県後の福沢の歩みをたどることと重なります。明治4年、福沢は郷里中津の旧藩主、奥平昌邁を説いて、中津に「中津市学校」という洋学校を設立します。新しい世になって藩がなくなっても郷里を見捨てることなく学校を作ったのですから、福沢の胸中に故郷への愛着、恩義の思いがあったのでしょう。そこへは慶應義塾から初代校長として小幡篤次郎、教師として松山棟庵らが赴任するという力の入れようで、このとき学問の趣意を中津の人々に示すために小冊子を作りましたが、それが他ならぬ『学問のすゝめ』なのです。ですから、この初編には福沢諭吉と並んで校長の小幡篤次郎の名前も記されていますが、書いたのは福澤一人です。新しい時代の新しい学校設立の趣意書として書かれた『学問のすゝめ』は、人々に熱い感動を与え、中津にのみ留めおくのはもったいないとの声が上がって全国に出版されることになったのです。
 これは福沢にとって大きな転機となる出来事でした。国中に名が知れ渡ったということより、学者相手にではなく、一般の人民に対してカナ交じりの平易な文で書くという手法の影響力を知ったという意味です。それは民の潜在能力を信じるということでもあります。

 福沢の書くものは続編も含めて論理的な構成にはなっていません。前述の「その1」において、福沢が二編で人民と政府が社会契約を結んだかのように書いていることを指摘しましたが、『明六雑誌』第2号の「非学者職分論」において西周は、独立の危機とその後の論理の非整合性や無気無力の民を短期間で開明できるという主張の非現実性をついています。それももっともなことですが、西周であれば、福沢がカナ交じりの平易な文で書いたという事実から、福沢の狙いに気づいてもよかったでしょう。そもそも『学問のすゝめ』という学問をすすめるための書に、学者に宛てた編があるのはおかしいのです。本気で学者に対する主張をしたいのであれば、きちんと論旨の通った文を、必要とあらば漢語で書くことも福沢にはできたはずです。ですから、この四編、五編もやはり一般の民に読ませるためのものだと考えるべきでしょう。学者が読んで食いついてくるのは計算済みのことで、これが論題になって一般人にも「官」ではなく「民」を目指す道を考えてもらえたら勿怪の幸いと思ったのではないでしょうか。この点では福沢の方が一枚上手でした。

 これらすべてが意味するところは、福沢諭吉の書いた「学問のすゝめ」は時事談義を含む学問についての物語であり、啓蒙文学とでも言うべきものなのだということです。それが成功したのは、『西国立志編』や『民約約解』のような西洋の翻訳書ではなく、福沢が自分の言葉で語りかけたことによると思います。福沢が用いた或る種独特の文体は、バルト的に言えば「教師のエクリチュール」ということになるでしょう。日本の歴史において、一般大衆に向かって教師として語りかける本を書いたのは、福沢諭吉が初めてです。お上のことばではなく、「教師のエクリチュール」をもって語られたために、様々な状況にある広範な民の学びが起動したのです。

 実のところ、かつて知識階級に対して「学問のすすめ」を行った人物を我々は一人知っています。それは『愚管抄』を書いた慈円です。言わずと知れた比叡山延暦寺の天台座主で、当時の知的世界の頂点に君臨した人でした。慈円はその立場にあるまじき、カナを用いて『愚管抄』を書くというアッと驚く手法に出た理由を巻7において記しています。にわかには信じられないのですが、この時代、「「学問の家に生まれた者でさえ、漢文で書かれた書物を読まない。読めない」という状況が生まれていたようなのです。慈円はカナ文字を用いた和漢混交文という文体を使用することで注目を引き、知識階級たる僧侶と官吏に「歴史を学べ、原典を読め」と呼びかけたのです。これには平安朝を守るべき摂関家の父・関白藤原忠通の失策から、鎌倉武士へと権力が移るきっかけともなる保元の乱が起こったという慈円の個人的事情も絡んでいるのですが、移行期的混乱の中で「勉強しろ」と発破をかけたという点では、慈円も福沢も同じなのです。

 福沢は文体こそ変えませんでしたが、「教師のエクリチュール」を確立したという点で画期的でした。この頃の読み物と言えば、私は仮名垣魯文の滑稽本くらいしか思い浮かびませんが、文学の空白時代だったということも幸いしたかもしれません。明治期の真の新文体の創出は二葉亭四迷の努力とその達成を待たねばなりません。教師が自分の言葉を持っていて揺るがぬ信念を述べる時、そしてその人がその言葉のままに生きている時、教師の言葉はほとんど無敵です。事実でないことを言おうが、論理に飛躍があろうが、関係ありません。多少きつい言葉で罵倒されても本物の教師の言葉は、無為に過ごしていた人々に、「勉強したい」という彼ら自身思いもかけなかったような欲望を起動させてしまうのです。慈円は漢文のみならず、『新古今和歌集』の代表的歌人でもあるという、和歌においても最高水準にあった人です。『小倉百人一首』の大前僧正慈円作
「おほけなく うき世の 民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖」
は誰もが知っている歌でしょう。この「身の程知らずかもしれないが、つらい浮世を生きる民を包み込んでやりたい」という気持ちは、恐らく福沢も同じだったのではないでしょうか。だからこそ、「馬鹿者、勉強して力をつけなさい、!」という厳しい言葉にもなるのです。

 『虞美人草』に登場する小野という書生は、明治の時代精神を反映した若者として描かれますが、最終的に漱石はこの青年をすんでのところで前近代に押しとどめています。福沢も漱石も明治という時代に馴染めないものを感じながら、それでも「来るなら来い」との強い気持ちをもって新しい時代を自分の言葉だけで生きていった人たちです。その志の中には、「国民を西洋人に立ち向かえるだけの自立した大人にする責務を引き受ける」との決意があったことは確実だろうと思います。日本が未知の世界に直面した明治という時代に、福沢諭吉や夏目漱石が見せた健気で可憐なたたずまいが、醜悪にならざるを得ない近代の中でとても貴重なものとして光を放っています。


2019年3月11日月曜日

「天保の人 福沢諭吉」 その2

 福沢諭吉は徹頭徹尾「私」の人で、「官」を毛嫌いしています。ここでいう学者とは、明治政府に出仕している官吏である洋学者のことで、『学問のすゝめ』の四編と五編はこれらの学者に向けて書かれたものです。啓蒙書であれば学者に向けて書く必要はなさそうですが、福沢にとってはそうではない、それらの洋学者こそ「大馬鹿者」なのです。これを書くことになった経緯は明六社の創立と関係しています。森有礼は、明治6(1873)年7月に駐米代理公使の任から帰国し、その後すぐ、西村茂樹を通じて「都下の名家」に結集を呼びかけるという形で学術結社としての「明六社」の結成に動いています。メンバーはほぼ明治政府の官吏ですから、声のかかった福沢は九月一日に「明六社」の最初の会合に出席して、おそらく困惑したのではないでしょうか。福沢は月二回の会合を重ねるうち、政府に取り込まれないためにも、また馬鹿をのさばらせないためにも、『学問のすゝめ』の続編を書かねばならないとの思いを強くしたのだろうと私は思います。実際、この年の11月から毎月のように『学問のすゝめ』の続編が刊行されますが、これに明六雑誌の創刊と停刊を重ねて記すと次のようになります。

明治6(1873)年11月、二編刊行
明治6(1873)年12月、三編刊行
明治7(1874)年1月、四編および五編刊行
明治7(1874)年2月、六編刊行
明治7(1874)年3月、七編刊行
*4月 『明六雑誌』の創刊 第1号から第6号が刊行される。
明治7(1874)年4月、八編刊行
明治7(1874)年5月、九編刊行
明治7(1874)年6月、十編刊行
明治7(1874)年7月、十一編刊行
明治7(1874)年12月、十二編および十三編刊行
明治8(1875)年3月、十四編刊行
明治8(1875)年6月、太政官布告、讒謗律・新聞紙条例が制定される。
*11月 『明六雑誌』第43号にて停刊となる。
明治9(1876)年7月、十五編 刊行
明治9(1876)年8月、十六編 刊行
明治9(1876)年11月、十七編 刊行

 これによってわかるように、福沢諭吉は明六社の創立後すぐに続編を書き始め、太政官布告、讒謗律・新聞紙条例の制定を受けて停刊へ向かうことが明らかになった後は、1年以上続編を書いていません。続編を書いた主な目的は、事実上「明六社をつぶす」ことにあったことは間違いありません。『学問のすゝめ』四編は「学者の職分を論ず」と題するいわゆる「学者職分論」ですが、これに対し、『明六雑誌』第2号の論説は、加藤弘之の「福澤先生の論に答う」、森有礼の「学者職分論の評」、津田真道の「学者職分論の評」、西周の「非学者職分論」であって、「学者職分論」への反論特集となっています。

 福沢が『学問のすゝめ』四編で述べていることとは、「日本の独立維持の条件として学術、商業、法律の発展が必要であり、政府の振興策にもかかわらず「人民の無知文盲」によりうまくいっていない。いま民を導くことができるのは洋学者であるのに、それが揃いも揃って『官途』につき、世の風潮もそれに倣っているため、私自身がまず人に先だって『私立の地位』につく責任を負うものである」という、在野での活動宣言なのです。これにより、福沢の明治政府および官途にある人々から成る明六社との決別の意志は、満天下に知られることになります。

 福沢が「こいつらとは付き合いきれない」と思った理由は他にもあったに違いなく、それは『明六雑誌』創刊号の西周の「洋字を以て国語を書するの論」と西村茂樹の「開化の度に因て改文字を発すべきの論」です。なんとこれは、森有礼に近い、国語のローマ字表記論なのです。森は十九歳でロンドン大学に学んだ経験から、西洋文明の基底にある科学技術やキリスト教の精神の導入を必須と感じましたが、おそらくそのための教育を行うには事物や概念を表す日本語の語彙が無く無理だと考えたのでしょう、「日本語を棄て去って英語を国語とする」という構想を抱きます。そして冗談ではなく、それに近い考えを持つ洋学者は結構いたのです。

 一方、外国語取り扱いについての福沢の考えは、ずっと前の明治3(1870)年三月に書かれた『学校の説』(慶応義塾学校の説)に述べられています。目ぼしいところをざっと要約すると、

「漢洋兼学は難しいのでどちらかにしなさいという人もいるが、二、三か国語を学ぶなど何でもないことである。『洋学も勉強すべし、漢学も勉強すべし、同時に学んでともに上達すべし。』」

「翻訳書を読む時は、まず仮名まじりの訳書を先にし、漢文の訳本は後にしなさい。『字を知るのみならず、事柄もわかり、原書を読むの助けとなりて、大いに便利なり。』」
 このように述べた後、福沢は洋学者に対して重要なことを言います。
「『国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり。原書のみにて人を導かんとするも、少年の者は格別なれども、晩学生には不都合なり。』」

 また、次のようにも言っています。
「二十四、五歳以上で漢書に通じた人が洋学に入る場合、横文字になじめず漢学に戻ってしまうことがあるが、こういう人は理解力はあるのだから、翻訳書を読んで洋学に慣れてから原書を学べば、速やかに上達するはずである。『ひっきょう読むべき翻訳書乏しきゆえにこの弊を生ずるなり。漢学生の罪にあらず。ゆえに方今、我が邦にて人民教育の手引たる原書を翻訳するは洋学家の任なり。』」
 つまり、福沢の見解は「原書をどんどん翻訳して日本国中に流通させるのが洋学者の責任である」ということです。

 このように、官と民、英語と日本語という国家を導く根本理念が、明六社と福沢諭吉では全く違っていたのですが、福沢は反論に反論を重ねて泥沼の論争になるという愚かな選択はしません。不毛な論争に賭ける時間はなく、言うべきことを淡々と書いて発表するのが一番の方策だと考えたのでしょう。時が過ぎ、『明六雑誌』の停刊からちょうど1年たった頃に、『学問のすゝめ』の最後の十七編の中で、福沢は当世の書生批判という形で次のように書いています。

 あるいは書生が「日本の言語は不便利にして、文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿を言う者あり。按(あん)ずるにこの書生は日本に生まれていまだ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて、しだいに増加し、毫(ごう)も不自由なきはずのものなり。何はさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり。

 私は森有礼の漢語力、日本語力がどれほどのものか知りませんが、この痛烈な言葉は、若くして渡英し英語は自在に操れるようになったものの、例えば十分に漢学を修めた英語翻訳者であれば持っているはずの、英語の翻訳能力を持たない若者に対する批判であるように思われます。

 『福翁自伝』には、文久の遣欧使節で共に洋行を果たした箕作秋坪や松木弘安(寺島宗則)、福地源一郎の名前は他の文脈でも登場するのに、明治期の洋学者の代表であるような西周や森有礼の名前が一切出てこないことを私はずっと不思議に思ってきました。最初はフロイト的な抑圧が強すぎるのかとも考えたのですが、どうもそうではない。思い出さなかったか、自伝に残すほどのこともない馬鹿者という扱いだったのではないかという気がします。知識があることと賢明であることは全く別のことなのです。


2019年3月7日木曜日

「天保の人 福沢諭吉」 その1

 夏目漱石の『虞美人草』の中に、井上孤堂という老人が時代遅れの人物としてその端正な姿を刻んでいますが、これが書かれた明治四十年どころか、もう明治二十年代にはご維新はすでに遠く感じられたようで、時代遅れの人として「天保の老人」という言葉が使われています。福沢諭吉というとバリバリの明治人のような印象がありますが、彼は天保5年(1935)の生まれです。天保は15年までありましたが、その後、明治までの元号は数年で変わることが多く、天保→弘化→嘉永→安政→万延→文久→元治→慶応と、8回も変わっており、明治を迎えた時には福沢諭吉は33歳です。亡くなったのは、明治34年(1901)ですので、維新を挟んでほぼ同じ年数を生きたことになります。福沢諭吉は洋学者ですが、洋装の写真を見たことがなく、『学問のすゝめ』と『福翁自伝』を読む限りでは、彼自身は天保人としてのメンタリティが強かったのではないかと私は思います。

 福沢諭吉を一言で言うと、曇りのない目で物事を見て自由自在に考えることができる人、また、筋目の通った常識人で、信頼できる良き家庭人でもあるという印象です。特に『福翁自伝』では、若い時に良き師・良き友と一心不乱に学ぶことがどれほど豊かな人生につながるかを教えてくれています。 (酒豪とは知りませんでした。)

 『学問のすゝめ』というと啓蒙の書の代名詞ですが、言いたいことはただ一つ、「学んで賢い国民になれ」に尽きると思います。福沢は江戸時代の武士の横暴も民の卑屈さも許せず、さらにもっと許せないのは薩長に牛耳られた明治政府の専制なのだと思います。福沢は『学問のすゝめ』の二編で、眼前の政府を無視してこんなことを述べています。
 
元来、人民と政府との間柄はもと同一体にてその職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬(たと)えば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従うべしと条約を結びたる人民なり。

 もちろんこれは、福沢の頭の中の理想の政府について述べているのですが、「理念としてはこうであるべきで、今の政府は全く駄目だ」ということを暗に言ってもいるのです。しかし、こう書かざるを得ないのは、福沢が国内の混乱を望んでいないからで、この書き方は苦肉の策なのです。こう続きます。

ゆえにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々謹(つつし)みて守らざるべからず。これすなわち人民の職分なり。

そしてここから怒涛のような「馬鹿嫌い」が噴出します。七編「国民の職分を論ず」にあるように、福沢にとって民と政府がそれぞれの分限を守って折り合っていくのが国の一番良い姿で、そうでない場合は「民が節を屈して政府に従う」か、「民が力をもって政府に敵対する」か、「民が正理を守りて身を棄つる」か、のどれかとなりますが、この三番目がよいと説いています。

第三 正理を守りて身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、いかなる暴政の下に居ていかなる苛酷の法に窘しめらるるも、その苦痛を忍びてわが志を挫(くじ)くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。以上三策のうち、この第三策をもって上策の上とすべし。

 実際にはありもしない「民と政府の契約」という社会契約説を持ち出してまで福沢がこのように説くのは、彼に洋行の経験があり、欧米の民主主義国家の実情を知っていたからではないかと思います。また、アレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカの民主政治』(De la démocratie en Amérique, 第1巻1835年、第2巻1840年に刊行)の英訳を読んでいた可能性もあるでしょう。いづれにしても、民主主義国家においては、既に古代ギリシャの時代から「衆愚政治」という実態があったのです。日本が今後どんな政体を取るにしても、「国民が賢くならない限りどうにもならない」という確信があったのでしょう。だから福沢は、「啓蒙」という一見手間のかかる迂遠な道を選んだのだと思います。二編にある次の文を読めば、福沢がいかに「馬鹿者」すなわち「学ぶことをせず蒙の状態にある者」を嫌っているかわかります。

しかるに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁(のが)れ、国法の何ものたるを知らず、己(おの)が職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。かかる馬鹿者を取り扱うにはとても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威(おど)し、一時の大害を鎮(しず)むるよりほかに方便あることなし。

 あまりの語気の激しさに、「わ~ん、勉強するから許して」と言いたくなるほどで、よほどの確信が無ければここまでは言えません。これはもちろん一般人に対する言葉ですが、 福沢諭吉が最初に『学問のすゝめ』初編を書いた時には、それで終わるはずでした。ところがそうはいかない状況が生まれたのです。そのため、続編においては、一般人への啓もうに加えて、福沢はその批判の矛先を学者へも向けていくことになります。四編、五編のようにそれを明示して行うこともあれば、民への批判に巧妙に織り込んでいる場合もあります。



2019年3月1日金曜日

「祈りの基本?」

 少し前に、知り合いの方から「私の友人のために祈っていてほしい」との話があり、事情を聴くと、「親友が手術を受けることになったから」とのことでしたので快諾しました。それから1カ月ほど過ぎる頃、「友人は退院し、自宅に戻ったが、なお引き続き祈っていてほしい」との連絡がありました。手術が無事終わり、術後もよくて退院できたことを神に感謝し、ご自宅での生活に慣れていかれるようにと願いつつ祈っておりました。それから2カ月ほどして再び連絡があり、「友人は再入院となりました。今度は緩和ケア病棟です」との連絡がありました。「これから先どのようにお祈りしてよいのかとても辛い気持ちです」とあり、引き続きお祈りしてほしいと書かれていました。確かに、再入院となった当人はもちろん、知らされた方にとっても大変お辛い状況だと思いました。私は返信に様々なことを述べるなかで次のような文も書きました。

 「テレビのCMで『年寄りはみんな寂しいんだ』というようなフレーズが聞こえてきた時、『そんなことないよ』と思わず口にしていました。イエス様が共にいてくださるのを知っていることはなんとありがたいことでしょうか。」
 すると返信が来て、次のように書いてありました。
「あなたにお祈りをお願いして本当によかった。今の私は昨日のどう祈っていいのか分からないという私ではなく、主に望みをおき今の彼女のことをしっかり受け止め、愛する親友とそのご家族のことをお祈りさせていただきたいという新しい気持ちになりました。」

 そうなのです。人には災いは付き物で、いつ思いもかけない災難に見舞われるかわからず、そうなると林の木々のように動揺し、心に不安が沸き上がることは避けられません。そんな時こそ祈りの基本に返ればよいのです。イエス様は言われたではないですか。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる (マタイによる福音書28章 20節)」と。

 イエス様が「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と言われているのです。イエス様が世の終わりまでいつも共にいるのに、「寂しい」なんてことはあり得ないでしょう。キリスト者はそれをただ信じればよいのです。

2019年2月25日月曜日

「空耳英語遊び」

 最近、電子辞書の発音機能を利用して、日本語に聞こえる英語のフレーズ遊びがはやっているそうです。が、これは今に始まったことではありません。母語とあまりに違う体系を持つ言語に出会うと、人はそれを学ぶ勉強の合間につい遊びたくなってしまうのか、あるいは、古来から、母語での新語・造語を含めて、言葉遊びは日本人の習性なのか、「はまち “How much?” 」だの、「揚げ豆腐 I get off. 」だの、とりわけ有名だが通じない「掘った芋いじんな “What time is it now?” 」だの、楽しい努力の跡がいろいろ見られます。

 秀逸と思ったのは、「字引く書なり dictionary 」で、意味まで覚えられるとは、やはり昔の方の作品はキレが違う。「かっけー! Super cool!」ですね。本当かどうかわかりませんが、昔の外交官の試験では、
“ Oh, my much match care of no sort.”
のような文に応えるという問題が出たとのこと。解答例としては、
 “Wash a car, Nick. What a tale!  Why not?”
なら合格でしょうか。
「お前待ち待ち蚊帳の外」 — 「わしゃ蚊に食われているわいな」

 先日、友人から「キリン」というお題での作品を書いて何かに応募するという話を聞いて、一つ思い出したことがありました。中学にはなっていたと思うのですが、母が子供の頃読んだという絵本か何かの話をしていて、「キリンの次郎は…」と言ったことがありました。
「キリンの名前って『じろう』って言うんでしょ?」
「キリンの名前?」
「キリンは『じらう』とか『じらふ』とか・・・」
「・・・お母さん、それ、giraffe なんじゃない?!」
「キリンって giraffe って言うの?」
辞書を引いて確認、二人で大笑いしました。「じらふ」と「giraffe」は発音が相当違いますが、昔の人はこうまでして英語を覚えようとしたのかと思うと、その遊び心はなんと健気で可憐なことでしょうか。

2019年2月19日火曜日

「紅春 134」

「四季の里でライトアップしているみたいなんだけど、りくと行く?」
「いつ?」
「今」
 1月中頃の会話です。兄が急にどこかへ行こうと言うのは、いつも写真を撮るのが目的です。最近一眼レフに凝っていて、腕を磨いているようなのですが、遠景、近景を撮るのに被写体が必要なのでしょう。以前も四季の里の裏側に出る林の中を通って、落ち葉を踏みしめながら遊歩道を歩いたことがありました。夜景となるとまた違った技術が試されるのでしょう。急いで準備して出かけましたが、暗くなってからりくを連れてのドライブは初めてです。(私が不在の時、パニック症状を起こして強制的に病院に連れていかれたことのあるりくは2度目。そんなこともあったなあ。) 

 その日のりくはよく見えないのが却って幸いしたのか、いつもより落ち着いていました。到着してみると、思っていたより暖かく、割と人出はあって、静かな夕べでした。入ろうとして、「犬は入れない」という問題発覚。すまなそうに告げるおじさんの前で、りくはその時一番してはいけないことをしようとして踏ん張っており、「ああ、すみません」とりくの落とし物を始末して園外へ出ました。代わる代わるりくの番をすることにして、イルミネーションを楽しんできました。りくにも園外からライトアップを見せましたが、まったく関心なし。知らないところに行くとりくはすぐそわそわしてしまい、「兄ちゃん遅いな。早く帰ろう」と言ってくるのです。ほどほどに切り上げ、なんだかちょっと疲れましたが、よい夜の散策でした。
*写真は遊歩道を歩いた時のもの

2019年2月15日金曜日

「危機対応の教育」

 都心で積雪が予想されながら、さほど降らずに翌朝を迎えた日のことです。その日は日曜だったのでいつものように礼拝に行くためにバスに乗りました。地面が凍っていたので予感はしたのですが、案の定、バスは普段よりゆっくり目に走っています。そのうち、「橋の上で事故があり、通行止めとなりました」とのアナウンスが入りました。通行止めとはいってもバスは橋に向かうしかない状況にあり、当座は事故車両を避けて一車線での往来になりました。橋の上では止まったりごくゆっくり進んだりを繰り返しています。いつも十分な時間を見て家を出ているので、私はさほど焦ることなく、「ここからどうやって礼拝に遅れずに行くか」を考え始めました。とりあえず電車の駅まで着ければ、あとはそう時間はかからない。電車の駅は、A駅なら山手線、B駅なら確か東京メトロを乗り継いでいけるはず・・・・。

 そんな時、バスの中に大きな声が響きました。
「運転手さん、今日、入試の子が泣いてるよ。あと10分しかないんだって。どうするの。」
 声を上げたのは三十代くらいの男性で、「学校に電話したの? 電話がない? これ使いなさい」と、中学生と思われる女の子を相手に話しをしています。今どき携帯電話を持っていない中学生に私はちょっと感動したのですが、社内もざわつきだして、恐らく本社と連絡を取ってのでしょう、運転手さんから「橋を渡り切ったところで左折し、いったんバスを止めます」とのアナウンスがありました。 その後、その女子中学生がどうしたのかはわかりませんが、私がバスを降りた時には後続のバスからも入試と思しき中学生が何人か降りてきたので、他にも同様の被害者はいたようです。

 もう一つの橋を徒歩で渡りましたが、事故の始末はそうすぐには済まないようで、後ろからくるバスはありません。ふと、その先から出るバスがあったような気がして、私はバス通りに沿って1キロほど速足で歩きました。ただ、このような日は普段とは運行状況が違っている可能性が高いと考え、さらにバス停を2つ過ごし、3つ目に近づいた頃、後ろから駆けてくる足音に抜かれたので、私も後を追って駆けました。思った通りバスが来て、なんとか間に合って乗ることができました。A駅に着いてみるといつもより40分ほど遅れていましたが、ちょうどよい乗換のバスがあって、結局何事もなく礼拝に出席できました。

 その後、バスの中でのことを思い出し、よく考えるとこれはまずいのではないかという気がしてきました。まず、おじさん(お兄さん化も)のほうですが、困っている人の助けになっているのはとてもよいのですが、事故は運転手さんの席ん人ではないのに、その発言が何故、「入試に遅れる子がいる責任の一端はあなたにある」ともとれる言葉になってしまうのかということです。誰かに責任を押し付けるというのは現代の風潮かもしれませんが、この場合のように「責任者出てこい」と言って答えられる責任者はいない事例もあるのです。さらに、このような場合に運転手さんを委縮させては、事態は良い方向に行かないことは確かでしょう。

 次に、運転手さんですが、事故のアナウンスをしたところまではよかったのですが、その後、何の方向性も示さずに結構長い時間がたったのがよくなかったと思います。「橋の上ではバスを止められないので、渡り切った左側のところで止めます。もうしばらくご辛抱ください」と言えばよかったのです。本部の指示を待つのではなく、自分の頭で考えて、「今はこうするのが一番良い状況だ」ということを、逆に本部に打診し許可をもらうという姿勢が必要だったと思います。

 一番の問題は受験生で、これは「まだ中学生なんだからしかたない」とは言えないと思います。厳しいようですが、15歳にもなって、人生の一大事に他人から声を掛けられるまでめそめそしくしくでは困ります。私なら、というか、私が中学生の頃なら、じたばたしたと思います。運転手に「今日入試なので、止まれるところで降ろしてください。行けるところまで歩きます」と言うとか、近くの人に「誰か携帯貸してください。今日入試なのですが、間に合わないので学校に連絡したいのです」と言うとか。これができたとしたら、たとえ集合時間に遅れたとしても、まったく問題ありません。そういう意味では生きる力が損なわれているのではないかと危惧するのです。私が入試の責任者なら、遅れた事情を聞いてそれが説得力のある対応と思えるなら、もう学ぶ構えはできているのですから「はい、合格」です。

 件の中学生がここまで困った状態になっても声を掛けられるまで黙っていたのは、これまで困ったことが起こると周囲が先回りして解決に動いてくれていたからだと思うのです。私が務めていた最後の十年くらいは、とにかく面倒見がいいことが求められ、生徒と保護者の要望を忖度し、用意する・・・それができるのがよい先生、それができる学校が良い学校になっていった感があります。進学等の点で生徒の望みがかなうことはうれしいことなのですが、教育が商品になっていく過程で、私は教育に対する関心を急速に失いました。退職したのは体調が仕事に耐ええぬ状態になったせいですが、教育に未練がなくなったことともきっとどこかで関係していただろうと今では思います。

 福澤諭吉は『福翁自伝』の中で自らの修業時代を懐かしげに振り返っています。確かに緒方の書生は貧乏で、粗衣粗食であり、見看みる影もない貧書生でした。しかし、福澤には「その時間こそが自分の学ぶ力を作ったのだ」という揺るぎない自信が見られます。学問と向き合うその頃の学生の様態を福澤はこう書いています。

兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却(かえ)って仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先(ゆくさき)ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左(さ)ればと云()いって只ただ迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最も宜(よろ)しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末(ゆくすえ)のみ考えて、如何(どう)したらば立身が出来るだろうか、如何(どう)したらば金が手に這入(はい)るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何(どう)すれば旨い物を喰)く)い好(い)い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自(みず)から静(しずか)にして居らなければならぬと云う理屈が茲(ここ)に出て来ようと思う。

 150年前の学生の在り様をかなり露骨な言葉で述べているのに衝撃を覚えますが、もっと深刻に受け止めるべきは、それが今現在と何も変わらないということでしょう。現代は社会の移行期的混乱の中にありますが、それは明治期の社会的階級変動を伴う混乱とどっこいどっこいでしょう。学ぶことから何が得られるかはその人次第です。年を重ねた福翁の忠言に耳を傾けなければならない時ではないでしょうか。