『学問のすゝめ』は全部合わせると300万部ほど売れたのではないかと言われていますが、明治初期の人口が3500万人程度であったことを考えればこれは途方もない数です。ほぼ国民の全員が読んだ、あるいは聞いたと考えてもよいだろうと思います。なぜそれほど読まれたのかを考えることは、廃藩置県後の福沢の歩みをたどることと重なります。明治4年、福沢は郷里中津の旧藩主、奥平昌邁を説いて、中津に「中津市学校」という洋学校を設立します。新しい世になって藩がなくなっても郷里を見捨てることなく学校を作ったのですから、福沢の胸中に故郷への愛着、恩義の思いがあったのでしょう。そこへは慶應義塾から初代校長として小幡篤次郎、教師として松山棟庵らが赴任するという力の入れようで、このとき学問の趣意を中津の人々に示すために小冊子を作りましたが、それが他ならぬ『学問のすゝめ』なのです。ですから、この初編には福沢諭吉と並んで校長の小幡篤次郎の名前も記されていますが、書いたのは福澤一人です。新しい時代の新しい学校設立の趣意書として書かれた『学問のすゝめ』は、人々に熱い感動を与え、中津にのみ留めおくのはもったいないとの声が上がって全国に出版されることになったのです。
これは福沢にとって大きな転機となる出来事でした。国中に名が知れ渡ったということより、学者相手にではなく、一般の人民に対してカナ交じりの平易な文で書くという手法の影響力を知ったという意味です。それは民の潜在能力を信じるということでもあります。
福沢の書くものは続編も含めて論理的な構成にはなっていません。前述の「その1」において、福沢が二編で人民と政府が社会契約を結んだかのように書いていることを指摘しましたが、『明六雑誌』第2号の「非学者職分論」において西周は、独立の危機とその後の論理の非整合性や無気無力の民を短期間で開明できるという主張の非現実性をついています。それももっともなことですが、西周であれば、福沢がカナ交じりの平易な文で書いたという事実から、福沢の狙いに気づいてもよかったでしょう。そもそも『学問のすゝめ』という学問をすすめるための書に、学者に宛てた編があるのはおかしいのです。本気で学者に対する主張をしたいのであれば、きちんと論旨の通った文を、必要とあらば漢語で書くことも福沢にはできたはずです。ですから、この四編、五編もやはり一般の民に読ませるためのものだと考えるべきでしょう。学者が読んで食いついてくるのは計算済みのことで、これが論題になって一般人にも「官」ではなく「民」を目指す道を考えてもらえたら勿怪の幸いと思ったのではないでしょうか。この点では福沢の方が一枚上手でした。
これらすべてが意味するところは、福沢諭吉の書いた「学問のすゝめ」は時事談義を含む学問についての物語であり、啓蒙文学とでも言うべきものなのだということです。それが成功したのは、『西国立志編』や『民約約解』のような西洋の翻訳書ではなく、福沢が自分の言葉で語りかけたことによると思います。福沢が用いた或る種独特の文体は、バルト的に言えば「教師のエクリチュール」ということになるでしょう。日本の歴史において、一般大衆に向かって教師として語りかける本を書いたのは、福沢諭吉が初めてです。お上のことばではなく、「教師のエクリチュール」をもって語られたために、様々な状況にある広範な民の学びが起動したのです。
実のところ、かつて知識階級に対して「学問のすすめ」を行った人物を我々は一人知っています。それは『愚管抄』を書いた慈円です。言わずと知れた比叡山延暦寺の天台座主で、当時の知的世界の頂点に君臨した人でした。慈円はその立場にあるまじき、カナを用いて『愚管抄』を書くというアッと驚く手法に出た理由を巻7において記しています。にわかには信じられないのですが、この時代、「「学問の家に生まれた者でさえ、漢文で書かれた書物を読まない。読めない」という状況が生まれていたようなのです。慈円はカナ文字を用いた和漢混交文という文体を使用することで注目を引き、知識階級たる僧侶と官吏に「歴史を学べ、原典を読め」と呼びかけたのです。これには平安朝を守るべき摂関家の父・関白藤原忠通の失策から、鎌倉武士へと権力が移るきっかけともなる保元の乱が起こったという慈円の個人的事情も絡んでいるのですが、移行期的混乱の中で「勉強しろ」と発破をかけたという点では、慈円も福沢も同じなのです。
福沢は文体こそ変えませんでしたが、「教師のエクリチュール」を確立したという点で画期的でした。この頃の読み物と言えば、私は仮名垣魯文の滑稽本くらいしか思い浮かびませんが、文学の空白時代だったということも幸いしたかもしれません。明治期の真の新文体の創出は二葉亭四迷の努力とその達成を待たねばなりません。教師が自分の言葉を持っていて揺るがぬ信念を述べる時、そしてその人がその言葉のままに生きている時、教師の言葉はほとんど無敵です。事実でないことを言おうが、論理に飛躍があろうが、関係ありません。多少きつい言葉で罵倒されても本物の教師の言葉は、無為に過ごしていた人々に、「勉強したい」という彼ら自身思いもかけなかったような欲望を起動させてしまうのです。慈円は漢文のみならず、『新古今和歌集』の代表的歌人でもあるという、和歌においても最高水準にあった人です。『小倉百人一首』の大前僧正慈円作
「おほけなく うき世の 民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖」
は誰もが知っている歌でしょう。この「身の程知らずかもしれないが、つらい浮世を生きる民を包み込んでやりたい」という気持ちは、恐らく福沢も同じだったのではないでしょうか。だからこそ、「馬鹿者、勉強して力をつけなさい、!」という厳しい言葉にもなるのです。
『虞美人草』に登場する小野という書生は、明治の時代精神を反映した若者として描かれますが、最終的に漱石はこの青年をすんでのところで前近代に押しとどめています。福沢も漱石も明治という時代に馴染めないものを感じながら、それでも「来るなら来い」との強い気持ちをもって新しい時代を自分の言葉だけで生きていった人たちです。その志の中には、「国民を西洋人に立ち向かえるだけの自立した大人にする責務を引き受ける」との決意があったことは確実だろうと思います。日本が未知の世界に直面した明治という時代に、福沢諭吉や夏目漱石が見せた健気で可憐なたたずまいが、醜悪にならざるを得ない近代の中でとても貴重なものとして光を放っています。