2019年3月7日木曜日

「天保の人 福沢諭吉」 その1

 夏目漱石の『虞美人草』の中に、井上孤堂という老人が時代遅れの人物としてその端正な姿を刻んでいますが、これが書かれた明治四十年どころか、もう明治二十年代にはご維新はすでに遠く感じられたようで、時代遅れの人として「天保の老人」という言葉が使われています。福沢諭吉というとバリバリの明治人のような印象がありますが、彼は天保5年(1935)の生まれです。天保は15年までありましたが、その後、明治までの元号は数年で変わることが多く、天保→弘化→嘉永→安政→万延→文久→元治→慶応と、8回も変わっており、明治を迎えた時には福沢諭吉は33歳です。亡くなったのは、明治34年(1901)ですので、維新を挟んでほぼ同じ年数を生きたことになります。福沢諭吉は洋学者ですが、洋装の写真を見たことがなく、『学問のすゝめ』と『福翁自伝』を読む限りでは、彼自身は天保人としてのメンタリティが強かったのではないかと私は思います。

 福沢諭吉を一言で言うと、曇りのない目で物事を見て自由自在に考えることができる人、また、筋目の通った常識人で、信頼できる良き家庭人でもあるという印象です。特に『福翁自伝』では、若い時に良き師・良き友と一心不乱に学ぶことがどれほど豊かな人生につながるかを教えてくれています。 (酒豪とは知りませんでした。)

 『学問のすゝめ』というと啓蒙の書の代名詞ですが、言いたいことはただ一つ、「学んで賢い国民になれ」に尽きると思います。福沢は江戸時代の武士の横暴も民の卑屈さも許せず、さらにもっと許せないのは薩長に牛耳られた明治政府の専制なのだと思います。福沢は『学問のすゝめ』の二編で、眼前の政府を無視してこんなことを述べています。
 
元来、人民と政府との間柄はもと同一体にてその職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬(たと)えば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従うべしと条約を結びたる人民なり。

 もちろんこれは、福沢の頭の中の理想の政府について述べているのですが、「理念としてはこうであるべきで、今の政府は全く駄目だ」ということを暗に言ってもいるのです。しかし、こう書かざるを得ないのは、福沢が国内の混乱を望んでいないからで、この書き方は苦肉の策なのです。こう続きます。

ゆえにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々謹(つつし)みて守らざるべからず。これすなわち人民の職分なり。

そしてここから怒涛のような「馬鹿嫌い」が噴出します。七編「国民の職分を論ず」にあるように、福沢にとって民と政府がそれぞれの分限を守って折り合っていくのが国の一番良い姿で、そうでない場合は「民が節を屈して政府に従う」か、「民が力をもって政府に敵対する」か、「民が正理を守りて身を棄つる」か、のどれかとなりますが、この三番目がよいと説いています。

第三 正理を守りて身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、いかなる暴政の下に居ていかなる苛酷の法に窘しめらるるも、その苦痛を忍びてわが志を挫(くじ)くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。以上三策のうち、この第三策をもって上策の上とすべし。

 実際にはありもしない「民と政府の契約」という社会契約説を持ち出してまで福沢がこのように説くのは、彼に洋行の経験があり、欧米の民主主義国家の実情を知っていたからではないかと思います。また、アレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカの民主政治』(De la démocratie en Amérique, 第1巻1835年、第2巻1840年に刊行)の英訳を読んでいた可能性もあるでしょう。いづれにしても、民主主義国家においては、既に古代ギリシャの時代から「衆愚政治」という実態があったのです。日本が今後どんな政体を取るにしても、「国民が賢くならない限りどうにもならない」という確信があったのでしょう。だから福沢は、「啓蒙」という一見手間のかかる迂遠な道を選んだのだと思います。二編にある次の文を読めば、福沢がいかに「馬鹿者」すなわち「学ぶことをせず蒙の状態にある者」を嫌っているかわかります。

しかるに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁(のが)れ、国法の何ものたるを知らず、己(おの)が職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。かかる馬鹿者を取り扱うにはとても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威(おど)し、一時の大害を鎮(しず)むるよりほかに方便あることなし。

 あまりの語気の激しさに、「わ~ん、勉強するから許して」と言いたくなるほどで、よほどの確信が無ければここまでは言えません。これはもちろん一般人に対する言葉ですが、 福沢諭吉が最初に『学問のすゝめ』初編を書いた時には、それで終わるはずでした。ところがそうはいかない状況が生まれたのです。そのため、続編においては、一般人への啓もうに加えて、福沢はその批判の矛先を学者へも向けていくことになります。四編、五編のようにそれを明示して行うこともあれば、民への批判に巧妙に織り込んでいる場合もあります。