明治の文学というと、二葉亭四迷の言文一致体の創出が必ず取り上げられますが、私はずっとその必然性がよくわかりませんでした。書き言葉と話し言葉が乖離していたというのはその通りでしょうが、書き言葉として完成した文語文があれば、とりあえず不自由はなかったはずです。二葉亭四迷が勢い込んで新しい文体を作ろうとするのは、明らかに彼がロシア文学の翻訳者であったことと深く関係しており、漢学以外の外国文学を移す文体として文語体を選択できなかったということだろうと思います。というのは、「その1」で検証したように、文語文が完成体として存在するならば、訳者が用いる日本語にはあまり自由に訳せる余地がないからで、それは外国語の音調を含めての翻訳には不向きです。従って、これまで知られていなかった外国文学を日本に紹介するなら、いまだ存在しない新しい文体を必要としたのです。その後に試される言文一致体の翻訳小説は、最初はまだ未熟ながら、訳者の力量によって表現できる広がりと深みにおいてかつてない可能性を示しました。
その観点から見ると、言語は異なるものの、二葉亭四迷と同様に翻訳者であった森鴎外には、二葉亭四迷の意図がよくわかっていたように思います。言文一致体を用いれば翻訳書でさえ自分の思い通りに訳せるとするなら、日本語による文芸作品の創造となれば、どれほど従来と違う新しい文学が可能になることかと、二葉亭四迷は考えたのでしょう。二葉亭四迷の初めての小説『浮雲』第一篇が刊行されたのは明治20年(1887)の六月、翻訳小説として後の文学者たちに大きな影響を与えた『あひゞき』が雑誌『国民之友』に発表されたのは明治21年(1888)の七月と八月ですから、小説『浮雲』のほうが早くだされました。森鴎外は二葉亭四迷の死に際して、『長谷川辰之助』(注:二葉亭四迷の本名)の中で彼への敬慕を書いています。
浮雲には私も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出したのは、日本ではあれが始であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。坪内雄藏君が春の屋おぼろで、矢崎鎭四郎君が嵯峨の屋おむろで、長谷川辰之助君も二葉亭四迷である。あんな月竝の名を署して著述する時であるのに、あんなものを書かれたのだ。 の名を著述に署することはどこの國にもある。昔もある。今もある。後世もあるだらう。併し「浮雲、二葉亭四迷作」といふ八字は珍らしい矛盾、稀なるアナクロニスムとして、永遠に文藝史上に殘して置くべきものであらう。
これを読むと、二葉亭四迷と森鴎外は親しく交際していたのかと誤解しがちですが、『長谷川辰之助』は、「逢ひたくて逢はずにしまふ人は澤山ある。」に始まり、前述の文章の直前は、「 長谷川辰之助君も、私の逢ひたくて逢へないでゐた人の一人であつた。私のとう/\尋ねて行かずにしまつた人の一人であつた。」という文なのですから、決して付き合いが深かったわけではないのです。しかし、その死に際してこのような分を残しているのですから、鴎外が二葉亭四迷に特別な思いを持っていたことは確かです。二葉亭四迷同様、森鴎外も旺盛な翻訳者であったということが、お互いの親近感の源だろうと私は思います。
『長谷川辰之助』の中で森鴎外は、唯一度、洋行前に二葉亭四迷が訪ねてきた時の話を次のように書いています。
長谷川辰之助君は、舞姫を譯させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、お禮は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好く面倒を見て譯して下さつたと答へた。
血笑記の事を問うた。あれはもう譯してしまつて、本屋の手に つてゐると話された。
洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは此上もない事だと思つて、うれしく感じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の樣子を見ずにゐる私なんぞは、羨ましくてもしかたがないと云つた。
二葉亭四迷が『舞姫』のロシア語訳をしていたとは初耳でしたが、二葉亭四迷は『あひゞき』と『舞姫』という二つの悲恋ものをそれぞれ日本語とロシア語に訳していたのです。また、ロシアの作家アンドレーエフの『血笑記』という全く肌色の違う小説を訳していたということを知るにつけ、エドガー・アラン・ポーの『うづしほ』や『病院横丁の殺人犯』(いわゆる『モルグ街の怪事件』を訳している森鴎外とはやはり趣味が合ったのでしょう。
二葉亭四迷と森鴎外の共通点は、それぞれロシア語、ドイツ語のバイリンガルだったという事実に存しますが、相違点もあります。それは森鴎外が卓越した文語体の使い手だったのに対して、二葉亭四迷はそうではなかったという点です。これは彼自身が、『余が翻訳の標準』の中でカムアウトしています。
第一自分には日本の文章がよく書けない、日本の文章よりはロシアの文章の方がよく分るような気がする位で、即ち原文を味い得る力はあるが、これをリプロヂュースする力が伴うておらないのだ。
二葉亭四迷が自らの翻訳の技術について語ってくれている『余が翻訳の標準』に書かれている要旨は、「欧文は自ら一種の音調があって音楽的であり、声を出して読むとよく抑揚が整っている点が日本語と違う。翻訳はその分の調子をもうつさなければならない」ということでこれは理解できますが、そのため、「コンマ、ピリオドの一つをも濫(みだ)りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の調子を移そうとした。殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏(ひと)えに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労した」となると、それはご苦労様でしたと言うほかはありません。そればかりでなく、明治の人は本当に真面目だなと感心するのは、「ツルゲーネフはツルゲーネフ、ゴルキーはゴルキーと、各別にその詩想を会得して、厳しく云えば、行住座臥、心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ実に翻訳における根本的必要条件である」と書いていることです。ちなみに私が翻訳に関して教えられたのは、「原文と違うことを言っていたら翻訳ではない」と「翻訳だけ読んで意味が通らなければ翻訳ではない」の二つだけで、それは受験の英語には必要十分であっても、本職とするには「翻訳とは何でないか」ではなく「翻訳とは何であるか」を知らなければならないということです。それから二葉亭四迷はバイロンのロシア語翻訳者ジュコーフスキーの名を挙げて、
原文よりよくわかる思い切った訳だとしながら、「自分には、この筆力が覚束ない」という先ほどと同じ告白をしています。正直な人です。
つまり、二葉亭四迷がまだ少年だった田山花袋を感動させたツルゲーネフの『あひゞき』を訳して乗せる文体として言文一致体を試してみたのは、この悲恋ものを表現するのに音韻の点で文語体が不適切だっただけでなく、文語訳は彼の手に余るものだったからだと言ってよいでしょう。鴎外は文語体、後には口語体においても見事な両刀遣いですが、さほど文語に達者でなかったがために、二葉亭四迷は新しい文体の創出という方向に向かったのです。すなわち、用いる適切な文体がないという点で、二葉亭四迷には切実な欲求があったということです。
翻訳ではなく小説となると、二葉亭四迷が『浮雲』を書いた次第は『余が言文一致の由來』にこう記されています。
もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。
自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。
この文は、明治三十九年(1906)五月の「文章世界」に載ったもので、、『浮雲』を書いた明治二十年(1887)年から十九年もあとに当時を振り返って書いた回想です。坪内逍遥は日本にシェークスピアを紹介した人として有名ですが、そのアドバイスが的確だったかどうかは大いに疑問です。ちなみに、英国留学中の夏目漱石はシェークスピアを相当読んだはずですが、翻訳は一作もしていません。想像ですが、漢語が達者で立派な漢詩も残している漱石は、シェークスピアのiambic pentameter(弱強五歩格)を十分調べた後、翻訳には手を付けなかったのではないかと思います。もしくはシェークスピアに限らず漱石がこれといった翻訳作品を残していないことには何らかの理由があるでしょう。長編の『ファウスト』(第一部を翻訳した鴎外とは対照的です。
しかし言うまでもなく、シェークスピアの作品は戯曲ですし、逍遥が例として挙げている円朝の落語も基本はト書きなしの会話形式による一人芸です。話し言葉の抜き書きだけならともかく、それだけでは小説にならない、一番問題なのは地の文なのです。この点が坪内逍遥のもとに赴いた二葉亭四迷の誤算だったのではないかと私は思います。「何か一つ書いて見たいとは思つた」と書いているのはそのまま受け取ると書きたい主題が特になかったということであり、落語の円朝と言えば「芝浜」というわけであったかどうか、舞台はなんとなくそれを思わせます。この作品は作者自身『予が半生の懺悔』の中で、「第一『浮雲』から御話するが、あの作は公平に見て多少好評であったに係らず、私は非常に卑下していた。今でも無い如く、其当時も自信というものが少しも無かった」と評する出来栄えで、この初の小説は、残念ながら話の展開が面白みに欠け、特に第三編では話の筋に動きがなくなって、結局、未完のままになりました。しかしここで終らないのが二葉亭四迷で、小説は三作しかないものの、彼が非凡なのは『浮雲』から二十年たって会心の作と言える『平凡』を書いたことです。