2019年3月23日土曜日

「言文一致に至るまで」 その1

 思考や感情を乗せるための「適切なvehicleがない」という事態を私はうまく想像できないのですが、明治期の文学者が突き当たった問題はこれでした。私の場合は「です・ます」調の敬体の文にするか、「だ・である」調の常体の文にするかで迷う程度で、これも大体は「不特定多数であっても話しかける相手がいる場合は敬体」、「自分の考えを自分で確認する時は常体の文」と決めています。常体の文とは或る種自分にとってモノローグを記す文体なのです。ただ、想定する相手がいる場合でも、その場の感覚で常体が入り混じってごちゃごちゃになることもしばしばで、いずれにしても自分の書く文体が適切かどうかを深く考えずに済んでいるのです。

 江戸末期から明治初期にかけて、日本にはどんな文体があったのでしょうか。
こう聞かれると、一挙に頭が朦朧としてきますが、日本における文体について、私が受けた学校教育の範囲で箇条書きに整理してみると、私世代の常識としては以下のようになります。
中国から渡来した漢字を用いて書かれた『古事記』は当時の日本で使用されていた日本語を漢字の音韻を用いて表記した物語であったこと
②『日本書紀』に始まる歴史書は漢語で表記されたこと
③一方で、朝廷の女官たちの用いた「かな文字」というものもあり、『枕草子』や『源氏物語』という「かな文学」が存在したこと
④男もかな文字を用いて物語や和歌、随筆等を書くようになっていったこと
⑤漢字とかなの入り混じった和漢混交文としての完成形はとりあえず鎌倉末期から南北朝時代を生きた卜部兼好の『徒然草』であること

その後の文体に関して教わった記憶がないのはなぜかと考えると、正式文書は別として、一般のレベルでは一応この和漢混交文が日本の書き言葉の原型となったからなのだろうと思うのです。この理解で正しいのかどうか十全の確信はありませんが、なにしろ『徒然草』は中学生でもさほど違和感なく面白く読めたのですから、相当現代語に近づいていることは確かなはずです。

 日本における正式文書は古来からずっと漢語であり、漢語は江戸時代後期から明治になってもある時期まで知識人にとって必須の教養でした。幼い時から行われた漢語の素読とは、意味が解らずとも音韻によって漢語をその身に叩き込むものであり、であればこそ、漢字を用いる東アジア文化圏では筆談によって意思の疎通が可能になっていたのです。漢字は西欧中世のラテン語にあたる働きを担っていたといっても過言ではないでしょう。日本においてこの状況が揺らいだのは、やはり黒船来航に象徴される西洋文明の圧倒的な力の到来によるのであり、決定的だったのは日清戦争による「眠れる獅子」の敗北とその後の植民地化だったでしょう。

 学校教育の場で明治期の文学で必ず読むのは、森鴎外の『舞姫』と夏目漱石の『こころ』です。前者は文語体、後者は口語体(と呼んでよいかどうかわかりませんが)なので、圧倒的に後者の方が読みやすく、前者は音読だけで国語の時間を何時間も費やした記憶が強く残っています。しかし、文語文が読みにくいかというと、そうとも言えず、『舞姫』の冒頭、「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」はスラスラ出てくるのに、『こころ』の方はそうはいかない。「たぶん常体の文だったよ」なと迷い、「私はその人を常に先生と呼んでいた。」という短い文さえ、「私はわたくしと読むんだっけ」、「常にその人を」だったっけ」と実に曖昧な記憶であることが暴露されます。私の祖父はもちろん文語の世代ですが、よく「文語の聖書は覚えられたけど、口語の聖書は全く覚えられない」と言っておりましたので、これは私だけの話ではないのです。

詩編23編1~2節
文語訳
ヱホバは我が牧者なり われ乏しきことあらじ
ヱホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱(みぎは)にともなひたまふ

「ヱホバ」は誤解から生じた訳語なのでこれはいただけませんが、「ヱホバ」を「主」と代え、さらにいわゆる「歴史的仮名遣い」を現代仮名遣いに変更するとこうなります。

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ
主は我をみどりの野にふさせ いこいの水濱(みぎわ)にともないたまう

これなら、文語世代でない私でも一度聞いただけで覚えられます。

口語訳
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

こちらは子供の頃から読んでいる訳なので、それなりにしっくりきますし、覚えてもいるのですが、同じ現代語訳でも新共同訳はこうです。

新共同訳
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

 1節では原典にはある「わたしの」が落ちており、私などには思わずのけぞるような訳です。ここは一般的な羊飼いの話をしている場面ではないので、肝心な語がないのは重大な問題だと思っています。新共同訳はカトリックとプロテスタントが共同で訳した画期的な書ではあるのですが、声に出して読まれることを重視したからなのか、本当に原文は同じなのかと思えるほど、いわゆる口語訳とももちろん文語訳とも違っています。

 実際には後者の二つが現代語を用いた訳文なのですが、ここからわかるのは、文語文とはほとんど動かしようのない完成した文体であるということ、口語文は訳者にとって表現上かなり自由度の高い文体だということです。文語文は明治期からおそらく昭和初期までは生活上の普通の文体でああって、書き言葉として何ら問題はなく流通していたはずです。ここまで整理してだんだん言文一致体が生まれた時の日本語の状況がわかってきました。では、明治期の文学にあたりながら、できる限り言文一致が生まれた由来に近づいてみましょう。