福沢諭吉は徹頭徹尾「私」の人で、「官」を毛嫌いしています。ここでいう学者とは、明治政府に出仕している官吏である洋学者のことで、『学問のすゝめ』の四編と五編はこれらの学者に向けて書かれたものです。啓蒙書であれば学者に向けて書く必要はなさそうですが、福沢にとってはそうではない、それらの洋学者こそ「大馬鹿者」なのです。これを書くことになった経緯は明六社の創立と関係しています。森有礼は、明治6(1873)年7月に駐米代理公使の任から帰国し、その後すぐ、西村茂樹を通じて「都下の名家」に結集を呼びかけるという形で学術結社としての「明六社」の結成に動いています。メンバーはほぼ明治政府の官吏ですから、声のかかった福沢は九月一日に「明六社」の最初の会合に出席して、おそらく困惑したのではないでしょうか。福沢は月二回の会合を重ねるうち、政府に取り込まれないためにも、また馬鹿をのさばらせないためにも、『学問のすゝめ』の続編を書かねばならないとの思いを強くしたのだろうと私は思います。実際、この年の11月から毎月のように『学問のすゝめ』の続編が刊行されますが、これに明六雑誌の創刊と停刊を重ねて記すと次のようになります。
明治6(1873)年11月、二編刊行
明治6(1873)年12月、三編刊行
明治7(1874)年1月、四編および五編刊行
明治7(1874)年2月、六編刊行
明治7(1874)年3月、七編刊行
*4月 『明六雑誌』の創刊 第1号から第6号が刊行される。
明治7(1874)年4月、八編刊行
明治7(1874)年5月、九編刊行
明治7(1874)年6月、十編刊行
明治7(1874)年7月、十一編刊行
明治7(1874)年12月、十二編および十三編刊行
明治8(1875)年3月、十四編刊行
明治8(1875)年6月、太政官布告、讒謗律・新聞紙条例が制定される。
*11月 『明六雑誌』第43号にて停刊となる。
明治9(1876)年7月、十五編 刊行
明治9(1876)年8月、十六編 刊行
明治9(1876)年11月、十七編 刊行
これによってわかるように、福沢諭吉は明六社の創立後すぐに続編を書き始め、太政官布告、讒謗律・新聞紙条例の制定を受けて停刊へ向かうことが明らかになった後は、1年以上続編を書いていません。続編を書いた主な目的は、事実上「明六社をつぶす」ことにあったことは間違いありません。『学問のすゝめ』四編は「学者の職分を論ず」と題するいわゆる「学者職分論」ですが、これに対し、『明六雑誌』第2号の論説は、加藤弘之の「福澤先生の論に答う」、森有礼の「学者職分論の評」、津田真道の「学者職分論の評」、西周の「非学者職分論」であって、「学者職分論」への反論特集となっています。
福沢が『学問のすゝめ』四編で述べていることとは、「日本の独立維持の条件として学術、商業、法律の発展が必要であり、政府の振興策にもかかわらず「人民の無知文盲」によりうまくいっていない。いま民を導くことができるのは洋学者であるのに、それが揃いも揃って『官途』につき、世の風潮もそれに倣っているため、私自身がまず人に先だって『私立の地位』につく責任を負うものである」という、在野での活動宣言なのです。これにより、福沢の明治政府および官途にある人々から成る明六社との決別の意志は、満天下に知られることになります。
福沢が「こいつらとは付き合いきれない」と思った理由は他にもあったに違いなく、それは『明六雑誌』創刊号の西周の「洋字を以て国語を書するの論」と西村茂樹の「開化の度に因て改文字を発すべきの論」です。なんとこれは、森有礼に近い、国語のローマ字表記論なのです。森は十九歳でロンドン大学に学んだ経験から、西洋文明の基底にある科学技術やキリスト教の精神の導入を必須と感じましたが、おそらくそのための教育を行うには事物や概念を表す日本語の語彙が無く無理だと考えたのでしょう、「日本語を棄て去って英語を国語とする」という構想を抱きます。そして冗談ではなく、それに近い考えを持つ洋学者は結構いたのです。
一方、外国語取り扱いについての福沢の考えは、ずっと前の明治3(1870)年三月に書かれた『学校の説』(慶応義塾学校の説)に述べられています。目ぼしいところをざっと要約すると、
「漢洋兼学は難しいのでどちらかにしなさいという人もいるが、二、三か国語を学ぶなど何でもないことである。『洋学も勉強すべし、漢学も勉強すべし、同時に学んでともに上達すべし。』」
「翻訳書を読む時は、まず仮名まじりの訳書を先にし、漢文の訳本は後にしなさい。『字を知るのみならず、事柄もわかり、原書を読むの助けとなりて、大いに便利なり。』」
このように述べた後、福沢は洋学者に対して重要なことを言います。
「『国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり。原書のみにて人を導かんとするも、少年の者は格別なれども、晩学生には不都合なり。』」
また、次のようにも言っています。
「二十四、五歳以上で漢書に通じた人が洋学に入る場合、横文字になじめず漢学に戻ってしまうことがあるが、こういう人は理解力はあるのだから、翻訳書を読んで洋学に慣れてから原書を学べば、速やかに上達するはずである。『ひっきょう読むべき翻訳書乏しきゆえにこの弊を生ずるなり。漢学生の罪にあらず。ゆえに方今、我が邦にて人民教育の手引たる原書を翻訳するは洋学家の任なり。』」
つまり、福沢の見解は「原書をどんどん翻訳して日本国中に流通させるのが洋学者の責任である」ということです。
このように、官と民、英語と日本語という国家を導く根本理念が、明六社と福沢諭吉では全く違っていたのですが、福沢は反論に反論を重ねて泥沼の論争になるという愚かな選択はしません。不毛な論争に賭ける時間はなく、言うべきことを淡々と書いて発表するのが一番の方策だと考えたのでしょう。時が過ぎ、『明六雑誌』の停刊からちょうど1年たった頃に、『学問のすゝめ』の最後の十七編の中で、福沢は当世の書生批判という形で次のように書いています。
あるいは書生が「日本の言語は不便利にして、文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿を言う者あり。按(あん)ずるにこの書生は日本に生まれていまだ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて、しだいに増加し、毫(ごう)も不自由なきはずのものなり。何はさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり。
私は森有礼の漢語力、日本語力がどれほどのものか知りませんが、この痛烈な言葉は、若くして渡英し英語は自在に操れるようになったものの、例えば十分に漢学を修めた英語翻訳者であれば持っているはずの、英語の翻訳能力を持たない若者に対する批判であるように思われます。
『福翁自伝』には、文久の遣欧使節で共に洋行を果たした箕作秋坪や松木弘安(寺島宗則)、福地源一郎の名前は他の文脈でも登場するのに、明治期の洋学者の代表であるような西周や森有礼の名前が一切出てこないことを私はずっと不思議に思ってきました。最初はフロイト的な抑圧が強すぎるのかとも考えたのですが、どうもそうではない。思い出さなかったか、自伝に残すほどのこともない馬鹿者という扱いだったのではないかという気がします。知識があることと賢明であることは全く別のことなのです。