物事には過程があり、歴史はそれを飛び越えて進むことはできませんが、言文一致体の誕生とその成長を思う時、もし二葉亭四迷の実験的言文一致体小説が『浮雲』ではなく、『平凡』並みの佳作であったなら、日本の近代文学は現在私たちが手にしているものとは相当異なった様相を呈していただろうとの想像を私は禁じ得ません。『浮雲』は印象が薄く未完でもあったため、言文一致体は文体として形を成しつつあったにもかかわらず、その評価はパッとしないものになっています。この時代を知れば知るほど、近代文学史における二葉亭四迷の占める位置はその貢献に見合っていないと言わざるを得ないでしょう。そういう私自身、『浮雲』にはついつい点が辛くなるのですが、それはその後の文壇を彩る作家たちの鮮やかさに目を奪われてしまうからで、その点森鴎外は流石です。鴎外は、「あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く」と、その功績を正当に評価しています。『浮雲』が書かれたのは明治20年(1887)であって、その時代の読み物と言えば、明治16年(1883)から翌年に書かれた矢野龍渓の『経国美談』、明治17年(1884)に翻訳された坪内逍遥の『ジュリアス・シーザー』、明治18年(1888)の文芸評論『小説神髄』、小説『当世書生気質』くらいしか見当たりません。二葉亭四迷が意見を伺う相手として坪内逍遥しかいなかったことは理解できますが、『小説神髄』において『南総里見八犬伝』を前時代のものとして批判的に評した当の本人が、『当世書生気質』のような戯作文学風の小説をかいてしまうところに、この時代の困難さが端的に示されているのです。これは先駆者の大変さをつくづく知らされる現実です。
こののち明治20年代に尾崎紅葉と幸田露伴が代表的作家として活躍した「紅露時代」が訪れますが、明治22年(1889)に淡島寒月を介して『都の花』に発表された幸田露伴の『露団々』は、舞台がアメリカにもかかわらず文語体で書かれており、なぜか章の冒頭に毎回芭蕉の句が置かれています。露伴は文語体で作品を書き、同年の『風流仏』、また明治24年(1891)から翌年にかけて「国会新聞」に連載された『五重塔』で作家としての地位を不動のものにしました。尾崎紅葉は明治29年(1896)に『青葡萄』で、明治30年(1897)には『多情多恨』で言文一致体を用いているものの、翌年から『読売新聞』に連載され明治36年(1903)に35歳という若さで逝去する前年まで続いた未完の遺作『金色夜叉』は文語体で書いています。こうしてみると、この頃は言文一致による口語体が選択肢の一つとして試された時代であり、作家はそれぞれ懸命に自分の文体を模索していたと言ってよいでしょう。
言文一致体は明治31年(1898)、雑誌『国民之友』で発表され、明治34年(1901)刊行の第一小説集に収録された國木田独歩の『武蔵野』をもって完成されたと私は考えています。『武蔵野』は今読んでも、文体上ほとんど違和感なく読める作品で、独歩自身、この点では自分が二葉亭四迷の直系の継承者であると自覚しています。それは『武蔵野』の中で、『あひゞき』の冒頭部分を引いて、こう述べていることから知られます。
すなわちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭(ぼうとう)にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。
こうして『あひゞき』から十年で言文一致による口語文体はほぼ完成しますが、夏目漱石、田山花袋、森鴎外、島崎藤村らがそれを用いて次々と作品を生み出すにはまだ数年から十年かかります。そしてここに、二葉亭四迷も再登場するのです。これは、文学を志す人々が新しい文体を試し、それを我がものとするまでにほぼ一世代の時間が必要だったということで、考えてみればそれはむしろ作家による長足の達成だったというべきかもしれません。なぜなら、文体の変化を読者が受け入れるにはそれ以上の時間が必要であり、一般人になじみ深い新聞の文体が口語体になるのはまだ先の大正期の話だからです。こうして世に出された作品は、明治38年(1905)に『吾輩は猫である』、明治39年(1906)に『坊ちゃん』および『「草枕」、『破戒』、明治40年(1907)に『蒲団』、『其面影』、『虞美人草』、明治41年(1908)に『平凡』、『三四郎』、『春』、明治42年(1909)に『ヰタ・セクスアリス』、明治43年(1910)に『それから』、『青年』、明治44年(1911)に『門』、『雁』と、切れ目なく続いて、時代は明治から大正へと移っていくのです。
この時起きたハプニングが「自然主義」と名付けられた文学なのだろうと私は思います。明治36年(1903)に尾崎紅葉が死去したことが結果的に転換点となったように見えるのですが、少年時代『あひゞき』を読んで衝撃を受けた田山花袋が、今度は『蒲団』を描いて文壇に衝撃を与えます。彼は一連の文芸隆興の流れの中で、自分の文体で自分なりの作品を書いただけなのですが、これを今の人が読んだら、特に最後の場面など十人中九人は「気持ち悪い」と思うのではないでしょうか。田山花袋には同年に『少女病』という小説もありますが、これなどは部分的に性犯罪者一歩手前の心理を描いているのではないかと思うほど本当に「キモい」のです。私は文芸評論家という立ち位置がよくわからないのですが、島村抱月が『蒲団』を絶賛し、田山花袋や島崎藤村の作品に「自然主義」という名が付されてしまったのは、小説を書いた当人にはその気がないことを考えると、抱月の願望の表現であり、おそらくフランスで起きたフローベール、ゾラ、モーパッサンらの文芸活動と同じものが日本でも起きたと見立てたかったのでしょう。私にはそうとしか思えませんが、『坊ちゃん』と『破戒』が同じ年に書かれたという事実が、何より確かなその裏付けとなってくれていると思います。口語体も選択肢の一つとなったこの時代、それぞれの作家が様々な制約から解放されて自分を見出そうと熱中したことは確かです。自由民権運動が吹き荒れる政治の時代でもあり、わずか25歳で人生を駆け抜けた鬼才北村透谷もその一人でした。
しかしまさにこの時、若くして死んではいけない、長生きした者の勝ちなのだと思わされる作品が二葉亭四迷によって書かれます。『余が言文一致の由来』で、「支那文や和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である、人間の私意でどうなるもんかといふ考であつたから、さあ馬鹿な苦しみをやつた」と『浮雲』を書いた頃を振り返った彼が待ちに待った時代、すなわち、「どこまでも今の言葉を使って、自然の發達に任せ、やがて花の咲き、實の結ぶのを待つとする」と言っていた時代がついに到来するのです。
『平凡』は「私は今年三十九になる」で始まる作家が主人公の小説です。一瞬、二葉亭四迷が内職として翻訳もこなすしがない作家としての日常や回想を基に私小説を書いているのかと錯覚するのですが、実際の二葉亭四迷はその年四十四歳であり、『東京朝日新聞』に夏目漱石の『虞美人草』を挟んで『其面影』に続く二作目の連載をしているわけですから、以下に描かれるのは別な人物なのです。
実は、極く内々(ないない)の話だが、今でこそ私は腰弁当と人の数にも算(かず)まえられぬ果敢(はか)ない身の上だが、昔は是れでも何の某(なにがし)といや、或るサークルでは一寸(ちょっと)名の知れた文士だった。流石(さすが)に今でも文壇に昔馴染(むかしなじみ)が無いでもない。恥を忍んで泣付いて行ったら、随分一肩入れて、原稿を何処かの本屋へ嫁(かたづ)けて、若干(なにがし)かに仕て呉れる人が無いとは限らぬ。そうすりゃ、今年の暮は去年のような事もあるまい。何も可愛(かわゆ)い妻子(つまこ)の為だ。私は兎に角書いて見よう。
さて、題だが……題は何としよう? 此奴(こいつ)には昔から附倦(つけあぐ)んだものだッけ……と思案の末、礑(はた)と膝を拊(う)って、平凡! 平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ、と題が極(きま)る。
次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊(いささ)かも技巧を加えず、有(あり)の儘に、だらだらと、牛の涎(よだれ)のように書くのが流行(はや)るそうだ。好(い)い事が流行(はや)る。私も矢張(やっぱ)り其で行く。
で、題は「平凡」、書方は牛の涎(よだれ)。
さあ、是からが本文(ほんもん)だが、此処らで回を改めたが好かろうと思う。
ここにはもう『浮雲』で頼りなげだった筆遣いの二葉亭四迷はいません。彼は自分の文体を手に入れたのです。冒頭の「一」にはこんな身に染みる文も出てきます。
こうなって見ると、浮世は夢の如しとは能(よ)く言ったものだと熟々(つくつく)思う。成程人の一生は夢で、而も夢中に夢とは思わない、覚めて後(のち)其と気が附く。気が附いた時には、夢はもう我を去って、千里万里(せんりばんり)を相隔てている。もう如何(どう)する事も出来ぬ。
もう十年早く気が附いたらとは誰(たれ)しも思う所だろうが、皆判で捺(お)したように、十年後れて気が附く。人生は斯うしたものだから、今私共を嗤(わら)う青年達も、軈(やが)ては矢張(やっぱ)り同じ様に、後(のち)の青年達に嗤(わら)われて、残念がって穴に入る事だろうと思うと、私は何となく人間というものが、果敢(はか)ないような、味気ないような、妙な気がして、泣きたくなる……
二葉亭四迷が、「自然主義」は「何でも作者の経験した愚にも附かぬ事」を「牛の涎」のように書くとバッサリ切り捨てながら、「好(い)い事が流行(はや)る。私も矢張(やっぱ)り其で行く」と書いているのは、もちろん大いなる皮肉です。ここには、「『私小説を書く自然主義作家』というものを私は書く」という形で、「次元を一つ上げて書きますよ」というからくりが隠れているのです。そうして、子供の頃からの回想文は、祖母の死、異例な長さのポチの死、上京して住み込んだ叔父一家の娘・雪江さんとの出来事、文士となってからのお糸さんをめぐる出来事と田舎の父の死までを描いた後、ふいに終わります。しかし、唯では終わりません。二葉亭はここで二つの細工をして、二重の言い逃れを遊びとして残しています。一つは、文壇を去って役所に勤めるようになった「私」が書く言葉で、
「高尚な純正な文学でも、こればかりに溺れては人の子もわれる。況(いわ)んやだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今(ここん)の文壇のヽヽヽヽヽヽヽヽ」
と、果てしなく続く「ヽヽヽヽヽ」の後に(終)の文字を置くことです。文壇批判を途中で「へへへっ」と飲み込む形でやめているのは明らかですが、まだこれで終わりではありません。最後のダメ押しが次の文です。
二葉亭が申します。此稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません。
この文を『平凡』の末尾に置いて全部をふざけた他愛もない話にしてしまい、「おあとがよろしいようで…」と舞台裏に消える格好です。自然主義の批判を「くだらない話ですから、目くじら立てないでくださいね」とかわしているのです。この『平凡』が当たったということは、牛の涎のような個人的体験のダラダラを「別に知りたくないもん」と思っていた読者も多かったということでしょう。
これとほぼ同じ趣旨で筆を執ったのが、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』であることは明白だろうと思います。鴎外は、『長谷川辰之助』の中で、あたかも文壇に生き埋めにされていたかのような二葉亭四迷の復活について、「長谷川辰之助君などもこんな風にレサアレクシヨンを遣られた一人かと思ふ」と書き、直後に、「平凡が出た」とそれを控えめに寿いでいます。
『ヰタ・セクスアリス』は森鴎外が口語体で書いた二作目の小説ですが、書き出しは、「金井湛(しずか)君は哲学が職業である」という鴎外らしい簡潔な文です。金井湛はもちろん鴎外自身ではありませんが、時々は顔を出す感じで話が進み、ドイツから届いた報告書をもとに「性欲的教育」を自分が息子にできるかどうか、まず自分史を書こうと決めます。自分の成長過程で日常生活の中で見聞した性的出来事を一つ一つ切り取ってサクサクとスクラップしたファイルを作成するのですが、最後はこう終わります。
さて読んでしまった処で、これが世間に出されようかと思った。それはむつかしい。人の皆行うことで人の皆言わないことがある。Prudery に支配せられている教育界に、自分も籍を置いているからは、それはむつかしい。そんなら何気なしに我子に読ませることが出来ようか。それは読ませて読ませられないこともあるまい。しかしこれを読んだ子の心に現われる効果は、予(あらかじ)め測り知ることが出来ない。若しこれを読んだ子が父のようになったら、どうであろう。それが幸か不幸か。それも分らない。Dehmel が詩の句に、「彼に服従するな、彼に服従するな」というのがある。我子にも読ませたくはない。
金井君は筆を取って、表紙に拉甸(ラテン)語で
VITA SEXUALIS
と大書した。そして文庫の中へばたりと投げ込んでしまった。
つまり、自分がスクラップしたものは、「我子にも読ませたくはない」ものであり、最終的にそのままゴミ箱に捨てられたも同然なのです。これは江戸の戯作を装った『平凡』の最後の終わらせ方と趣は違うものの、構造は全く同じです。鴎外は軍医でもあり、官憲が顔をしかめること必定の本を書くからには、やはり自然主義への批判をあまり角が立たない形でしたかったのでしょう。途中、鴎外がここに書かなければこれほど名前が定着することはなかったであろう「出歯亀」事件の話がでてきますが、どの国にもあるこのような婦女暴行事件について、「所謂(いわゆる)自然主義と聯絡(れんらく)を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る」と書いているのですから、鴎外が言いたいことは明らかに、「一応自然主義と呼ばれるものを調べてみたけど、くだらんね」であり、だからこそそれは捨て置かれるのです。ただ、おうがいのすごいところは、自分が知る性的出来事を一つ一つ標本化したことで、これはまさしくミッシェル・フーコーが『性の歴史』で解明した性行動の一覧化へ向かう力の存在を「自然主義と呼ばれた文学」へ駆り立てる要因として暴いたということです。実際、江戸時代までは性的なものの満ち満ちた世界で、今から見れば性的逸脱といった言葉で括られる類のこともなんら区別されずにそこにあったはずですから、性は近代秩序に組み込まれるようになって初めて前景化してきたのです。性についての関心は個人差が大きく、日本の私小説は出だしが出だしだったためなのか、あるいはどれだけ衝撃的な内面を開示できるかが作家としてのランクを決めるというような暗黙の了解があるためなのか、性を中心に自分を語りたい人はその力を押しとどめ難いようです。生きている限り避け得ない恥の多い人生を、また、自分のままでは書けないようなことを仮面をつけてまでなぜ語りたいのか、本当に不思議だと私などは理解に苦慮するのですが・…。
自分が使っている文体について何も知らないのはまずいのではないかという思いから、言文一致の誕生と成長・定着過程を中心に、日本語の変遷を追ってきましたが、「今はここまで」という感じです。自分なりにはざっと把握でき、たぶん大きく違ってはいないと思うのですが、その検証には時間がかかります。これまでの過程で感じたのは、千年前の著作をも容易に読める言語の国の有難さであり、今はただ「長い道のりでしたが、よく頑張りましたね」と、いつも使っている日本語に言ってあげたい気持ちです。この貴重な言語を絶やさないためにできることは、とりあえず愛しんで使ってあげることでしょうか。