理論と実際は違うとはよく言われることですが、最近この二つがぴたりと一致する現象を私たちは体験しました。それは世界の科学者が協力し合い、いくつもの望遠鏡を繋げて撮影が可能となったブラックホールの写真です。私はラジオで聞いていたのですが、その写真が公開された時漏れた報道陣の「おおっ」というどよめきからその凄さがわかりました。実際に人間の目で見られる映像ではなく、色彩もそれらしく彩色されていたらしいのですが、それはだいたい我々が想像していたものと同じだったのです。聞いた話では、角砂糖1個の大きさでほぼ地球の質量と同じというとてつもない重さのブラックホールは、アインシュタインが100年も前に自らの相対性理論から導き出した仮説でしたが、実際にその通りだったというのは恐ろしいほどの知力です。ろくなニュースが無い中、本当に素晴らしい知らせでした。
最近は昔の書物を楽しみに読むようになり、日本だと明治期の本、西洋のものだと近世の哲学関係の本が面白いとかんじます。とはいっても、あまり難しいもの(カントの三大批判書など)には手を出さず、近代市民社会についての読んでわかるものだけなのですが、ほぼ40年ぶりくらいに哲学書を読んでなんだか楽しいです。カントの『理論と実践』の論文の完全な題目は、「理論では正しいかも知れないが、しかし実践には役に立たない、という通説について」ですが、理論が全体として厳密に構成されていれば、それは的確に実践と一致する、というのがカントの主張で、弾道の理論を火砲の発射に適用しても、実際には理論通りに着弾しないが、その理論を空気の抵抗に関する理論で補えば、弾道理論はよく実践と一致するという例を挙げて説明しています。原理がいかに大切かということを改めて肝に銘じなければならない時代というものもあるなと感じました。若いころにはあまり価値や重要性がわからなかったものでも、なるほどとうなづけることも多く、年を重ね世の中で経験を積んでわかるようになったこともあるのでしょう。今読んで新鮮味に欠ける思想、例えば国際連合の構想なども二百年以上前のアイディアなのですから、これも射程の長さは相当なものです。
西洋における知のあり方と日本における知のあり方は違うと言えば違うのでしょうが、日本においては福沢諭吉のような最良の知性においては変わるところが無いように思います。同類の知性は呼応し合うのです。こういう本を読んでいると、自分が紛れもなく類的存在であるという巨視的な視座が与えられ、時代も地域も違う現実の中で知力の限りを尽くして良書を残してくれたことに対し、人類の一人として感謝の念に満たされます。