2019年11月14日木曜日

「影山君のこと」

 夜更けに中学の友人からメールが来ました。訃報でした。懐かしい何人もの同級生の手を経て、運ばれたメールであることがわかりました。その夜、彼を知る人は皆悲しくて、眠れぬ夜を送ったのです。私は麗ちゃん探しでとてもお世話になったし、元気なものと思ってばかりいたので信じられない気持ちでした。こういうことはできる限り知らせておいた方がいいと思い、同級生に知らせました。一人は中学・高校のクラスメートで、年賀状とメールでのやりとりはあったものの、お会いするのは何十年かぶりで、元気な姿を嬉しく思いました。麗ちゃん探しで決定的情報をくれたK君は、アドレスが変わったらしくメールが戻ってきましたが、影山君とは縁の深い人だったので他からの連絡を願いました。もう一人は年賀状のやり取りはあるもののメールアドレスを知らなかったので、葬儀には間に合わないと思いましたが、何しろクラスメートのことなので、メールをプリントアウトして封書で送りました。

 影山君は中学で出会った人でしたが、中には小学校、あまっさえ幼稚園からの付き合いという友人も多く、通夜に参列した東京組に訊いたところでは、近しい福島の同窓生が取りまとめて同窓会名で供花を出し、告別式にも参列とのことでした。思うに影山君はいろいろな人の結節点にいる存在でした。追悼とは、その人のことを思い巡らせて様々なことを想起することだと思うので、いくつか思い出したことを書いてみます。

 中学時代はよく席が隣りでした。出席番号順で並ぶときはアイウエオ順的にそうなるのですが、くじ引きだった時もなぜか隣り合わせのことが多く、お互い「えっ、また…」という感じでした。でもそのせいで、当時男子とはほとんど口をきいたことがない私が最もよくしゃべった相手ではないかと思います。話すと何気にとても面白い人でした。消しゴムの貸し借りもしていたなあ。強烈に覚えているのは、卒業間近のころ秘密裏に企画されたお別れ会が先生にバレて一人一人尋問を受けた時、影山君が知らぬ存ぜぬで通したという話です。十五歳でこの対応ができるのはすごいと思うと同時に、「えっ、しゃべっちゃったの私だけ?」という顔面蒼白の事態でもありました。途方もないエネルギーを持て余し、しばしばとんでもない方向に暴走していた中学の頃を思うと、「先生、ごめんなさい」というほかありません。

 最近では、といっても2016年の同窓会で会った時、麗ちゃん探しで行き詰っていた私は影山君と同じ部活でその後麗ちゃんとつながりのあったK君にもう一度詳細を聞いてもらうことで、最終的に葬儀をした教会もわかり、そこからご家族にも辿り着けました。五月だったか六月だったか、影山君に「麗ちゃん見つかったよ」というメールを送ってこのことは一段落しましたが、「探してもらえて、作田は幸せだな」と言ってくれてとてもうれしかったのを思い出します。やり取りの中で、麗ちゃんのことを書いたブログを読んでくれて、ついでに「文学部に行く意味」というタイトルの文に「私も文学部だったので、興味深く読みました」とのコメントをくれました。やり取りのメールの発信時刻が真夜中と言うことも多く、忙しい中で様々な対応をしてくれたこと、申し訳なく、また感謝です。

 こうして思い出してみると、あらためて思いやりのある人でした。だからこそ、多くの人がその死を悼んでいるのです。それにしても早すぎる。いい人ってどうして早く亡くなるのでしょうと思わずにおれません。ご冥福とご家族への御慰めを祈ります。



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