宗教改革五百年が終わり、2018年の秋に『中渋谷教会百年史』をいただいたのがきっかけで、私の関心は明治時代に向かっていったように思います。その頃ふと、自分の生年から百年遡るともう江戸時代になる…と分かって、「本当かな」と数え直し、ショックで呆然としたのを覚えています。百年と言えば、或る意味つい最近のことではありませんか。ちょうどその頃、中学の同級生から明治関係の御著書が届き、私にとって大変良い取っ掛かりとなりました。データ化された著作物を音声ソフトで読んでいる私のようなものにとって、著作権が切れてパブリック・ドメインに置かれている明治期の著作物は願ってもない宝の山です。その蔵書の冊数は到底生きている間に読み切れるものではありません。良質の書物が読み放題という本当にありがたい恩恵に浴する幸いに感謝です。人類の英知の一端に触れて感嘆しながら、この1年半ほどを過ごしました。2019年は明治本を立て続けに読むうち、なんだかお話が思い浮かんで短編を書きましたが、まだブログには載せられず塩漬け状態です。
少し前に、前述の同級生からもう一冊著書をいただきました。通院のついでに道草をして調べてみましたが、発売前に送ってくれたものなのでまだ大学の総合図書館にも入っていませんでした。こういうのはすごくうれしい。その書は、私がかろうじて名前だけは聞いたことのある明治の言論人、三宅雪嶺についての研究書で、推測ですが、日本でもその専門家は十指に満たないのではないでしょうか。専門家の中には時々インサイダーにしかわからない書き方をする人もいますが、この本は日本史に登場する人物についての叢書の一巻であり、私のような一般人がわかるように書かれた包括的な著述の本です。長年の丹念な研究の成果が丁寧過ぎるほどリーダー・フレンドリーな構成で書かれており、信頼できる良書です。送り主はその昔から博士と呼ばれ、いい加減なことのできない理論派でしたから、彼にふさわしい本当に良い仕事をされました。同級生が何十年も前と変わっていないというのは誠にうれしいことです。
ちゃんと読んでお礼状を書こうと思いましたが、研究者の書いたものに対して何かを言うほどの見識が私にあるわけがありません。そのため、いつものように、思い付きで本筋とは無関係のへんてこ話でお茶を濁すことにしました。
私が三宅雪嶺という人物について興味を引かれたのは、彼が自分の思考を口述筆記させたという点です。口述というと太宰治のいくつかの作品が思い浮かび、確か『如是我聞』は後にその草稿が見つかって話題になりました。なぜなら、その草稿は太宰が自分で書いたものを暗記して「蚕が糸を吐くように口述し」、記者に筆記させたという事実を暴露することになったからです。淀みなく流れる自分の声を聴きながら、太宰は深い愉悦のうちに自らの天才性を一粒で三度味わったことでしょう。
三宅雪嶺の場合は、原稿そのものを書く様態が主に口述筆記だったようなので、太宰のケースとは違います。雪嶺が稗田阿礼に匹敵するほどの博覧強記であったという可能性はありますが、決定的に違うのは文字を書ける人だったということです。ところが雪嶺は、洋行の際に顕著だったように、傍らに筆記者がいないと「何も書くことがない」という人でした。彼が筆記者無しに自分に到来するものを口述できなかったと聞いて思い当たるのは、雪嶺が訥弁で知られていたという事実です。私の知る限り、発話に支障がある場合、その人は自分が自分であることに違和感を感じたり苦しんだりしている場合が多い。だから、このような人の多くは、他人に憑依する(風邪で声が変わる、落語の高座に上がる、芝居に出る)ような場合には普通に発話できます。この仮説によれば、雪嶺は口述筆記によれば口ごもらずに話せたと想定できます。一般的に感情が大きく揺れる時など、今の自分と1時間前の自分が別人だと感じることは誰にでもある現象ですが、問題はその度合いです。コギト(とりあえず「私が私であるという確信」と言っておきます)の強弱には個人差があると仮定せざるを得ないと私は思っています。自筆の原稿ではなく署名もないことから生じる問題は、それが本当に本人のものなのかどうかですが、御本を読む限りそういう問題はよく起きたようです。筆跡鑑定もできず署名もないなら、テキストの内容や書かれた状況ほか周辺的な証拠によって、雪嶺のものであるかどうかが判断されることになります。また、雪嶺が入稿直前の原稿に手を入れて修正するので、版下作業の関係者が困惑するという逸話も紹介されていました。思うに、コギトをものともしないタイプの人が原稿への署名に無頓着なのも、校正で原稿を修正することに心的負担を感じないのも当然でしょう。だってその原稿は名実ともに「自分が書いたもの」ではないのですから。
そして直感ですが、この「私が私であること」への確信は、時間の観念と何らかの関係があるのではないかという気がするのです。自分が音声主体の生活になってわかったのは、「聴く」「話す」行為においてはその行為が続く間、時間を飛び越えられないということです。今はデジタル機器があるのでできますが、本来はできない。音声が続く限りは、それがどれほど長時間続こうが常に「今」であり、その意味で時は止まっているのです。活字を扱う「読む」「書く」の場合は全く異なり、任意の箇所から始めたり終えたりすることができます。時間をフライングできるのです。つまり人間が文字を発明し、文字に書き残すことで手に入れたのは時間意識だったということです。私は今まで「文字とともに歴史が始まった」という言葉の意味を本質においてわかっていませんでした。古の詩人の多くが盲た人であったのはこれと関係があるはずですし、文字を手に入れた人間は「未来に備える」ということを自覚的に行えるようになっただろうと思います。
書き物をする様態として口述筆記を考えた時、自分にはとてもできないなと思います。自分で書かないと気が済まないのです。私のコギトは結構強固なのでしょう。それでも書く時にどこからか自分ではない声が聞こえてくるという感じはちょっとだけ分かる・・・このあたりのことが「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。この読書から私が得た仮説は「著述の様態はコギトの強弱で決まる」です。どうでしょう。「あなた、いったい何の本を読んだの?」って言われそうですけど。