2019年11月4日月曜日

「幸せな挫折」

 新聞の若い読者からの投稿で、かいつまんで書くと以下のような声があったそうです。
 「幸せになりたい。これまでは親が言う通りにすれば、幸せになれると思ってきた。よい大学に入り、よい会社に入り、人生を歩んできた。けれども、ちっとも幸せに感じない。まずいことに、私はそれ以外のレールを歩むことを知らない。幸せとは何か、どうしたら幸せになれるのか、誰か教えて欲しい。」

 なるほど悲痛な悩みで、何かの拍子に悪い宗教にはまってしまいそうな方です。二十五歳くらい(下手すると卅前後ということもあり得る)方にこんな人生相談をされても困ります。厳しいことを言わなければならないからです。

 これは30年前なら中学生の問いでしょう。しかし、こういう投書が新聞に載ることから考えるに、これが今では二十代半ばくらいの方にとって、マイナーな問いではないということです。しかも、「よい大学に入り、よい会社に入り」とあることから、この方は恐らく普通以上に裕福なご家庭の方だろうと推察されます。それは自分を不幸だとは思っていないことからもわかります。このような若者の隆盛は、「子どもに失敗させたくない」という親心から生じています。親も学校も先回りして、子どもが失敗するのを回避するような選択をさせ続けてきた結果なのです。学校も親御さんに選ばれるためには、いかに面倒見の良い学校であるかを示す必要があり、そうしないとあっという間に生き残り競争からとうたされてしまうという現状があるのです。

 投書をされた方が言っているのは「私は自分の人生を生きたことがない」ということです。「不戦敗の損得勘定」で書いたワールドカップバレーのように、この方は、或る意味、アメリカ戦を欠場させられた選手と同じなのです。試合に出ていないのですから、勝ちも負けもない。しかしこれからさきの人生においては、12か国参加の総当たり戦、即ち11戦連戦の戦いに出続けなければならないのです。失敗や敗北が必ずある長丁場です。

 投書主のような若い方が続生するのは、おそらく今の方々が失敗を極端に恐れるからではないでしょうか。「ワタシ、失敗しないので」という決め台詞のドラマがありますが、「失敗したくない」というのが今の若者の切なる願いです。しかし、失敗から学ぶということこそが人が成長するということであり、人生においてはそれ以外の方法で成長し成熟するということは本来あり得ないでしょう。失敗や挫折の経験がなければ、人は幼児にとどまらざるを得ません。そう思って投書を読み返すと、これはまさしく幼児の物言いです。残念ですが、「ちゃんとした大人になりたい。でも失敗したくない」などという虫のいい考えは通りません。二十五歳はもう決して若くない。やりたいことをやって失敗しながら学び、悔いのない人生を送るしかないのではないですか。何? やりたいことがわからない? その質問にはさすがにお手上げです。