2019年12月16日月曜日

「アドベントの日々」

 某重大犯罪の裁判経過を聞きながら、とても暗澹たる気持ちになりました。このケースは見ず知らずの複数名を殺傷した動機が、「刑務所に入っていたいから」というもので、犯人は殺傷の手口をむしろ自慢げに話し、「もし無期懲役でないなら、刑務所を出た瞬間にまた人を殺します」と言い放っていました。罪を犯した悔悟があらばこそ、その償いが意味を成すのでしょうに、今回のケースは救いの足掛かりも何もない、まさしく救いのないものとなりました。

 これほどの悪を見せつけられると言葉もなく、きっとこの人は人類を絶句させるために事件を起こしたのだと思わざるを得ません。もちろん、ここに至るまでの道のりを思うと、他人の想像を絶するひどい環境や出来事を経験した人なのかもしれません。勝手な憶測で語ることはできませんが、大局的にみると、容疑者は悪にまみれた人の世で培養されて出現した得体の知れない生物、もはや人間に罰を加えるために到来した怪物のように思えます。

 そして認めたくないことですが、この世の罪悪というなら、自分もその中に住んでいる以上、全くの無関係と言える人はいません。無論、大多数の人は誰のことも傷つけてはいない、ましてや殺人などしない。その通りです。実行に至るか否かの間には千里の径庭があります。しかし、言葉や行いを通じて相手の心に与えた打撃についてはどうでしょう。最近はハラスメントのことが話題になります。一口にハラスメントと言っても、セクハラ、パワハラ、モラハラ、アカハラ(高等教育でアカデミックな分野における前三者を含んだ形態のハラスメントのことらしい)と様々です。これもよくよく考えると難しい問題で、相手がそう感じたらハラスメントというのであれば、およそ人間同士の接触においてハラスメントでないことがどれだけあるかと思わざるを得ないのです。とくにハラスメントの場合、本人はたいてい「良かれと思って」しているのがほとんどですから、ますます難しい。自分でも気づかぬうちに、相手に回復不能の傷を負わせていることはないでしょうか。あるいは端的に、心を殺すことも?

 新約聖書の福音書では、イエスが捕らわれた後のペテロの姿を捉えています。マルコ及びルカによると、その夜、大祭司の屋敷の庭にいたペテロは火にあたっていたとの記述があり、それゆえ顔が照らされて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」との証言が出ます。ここで火というのは光といってもよいもので、ペテロには光が当たっていたのです。しかし、彼はそれを気に留めていないのです。もしペテロがこの時、自分を照らす「光」について証しすることができていたならどうだったでしょうか。すべてが変わっていたはずです。しかし、それは夜の闇の中にいるペテロが自力で理解できるようなことではなかったのです。福音書に余すところなく描かれている弟子たちの無理解が示すように、イエスが誰であるかをまだ知らないペテロには無理なのです。ペテロだけでなく、すべての人間に不可能なことです。ヨハネによる福音書の冒頭で「暗闇は光を理解しなかった」と書かれているとおりです。さて、その状況で、「あなたもイエスと一緒にいた」と言われてペテロはそれを否定します。ペテロはこれを三度繰り返すのですが、マタイ及びマルコはそれぞれの福音書において、「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた」と記しています。「呪いの言葉さえ口にしながら」とは、「もしそれが本当なら、私は呪われよ」とペテロが自分に向かって言ったということなのでしょう。これはペテロが自分で自分にかけた呪いでした。呪いはかけた人によってしか解除することができません。ペテロはこのままではどうあっても呪われたままだったのです。復活されたイエス・キリストに出会うまでは。

 ペテロが呪いから解き放たれ、再び命の息吹を帯びて目覚ましい働きをするようになったのは、復活のキリストに出会って以降です。なるほど、そういうことだったのかと深く納得しました。アドベントにイエスの降誕物語だけでなく、最晩年の十字架と復活物語を読むのは誠にふさわしいことです。それらは一つの事なのですから。暗い世相の中では毎日が主の降誕を待ち望むアドベントです。