それぞれの交通手段には、歴史の影というべき特有性がまとわりついているように思います。鉄道は近代になって以降最も身近で便利なものですが、『オリエント急行殺人事件』や『点と線』の時刻表の謎解きのように、なにやら殺人事件と組み合わされることが際立っています。飛行機およびその原初的形態である客船はパニック系と親和性がある気がします。以前JALの機内で『タイタニック』を見たと言ったら、「えっ、あんなパニックものを…。ルフトハンザではあり得ない」とヘルベルトに驚かれたのを思い出します。自家用車はもちろんロードムービー系ですが、限られた人数で移動するせいか、結構ワイルドな展開になる(今、念頭に浮かんでいるのは『テルマ&ルイーズ』かな)という印象です。そしてバスというと、これはいつも乗っているので断言できますが、カフカ的不条理の世界を存分に味わえる乗り物です。
バスを利用するにあたって一番難しいのは、意外にもきちんと乗り場の前で待っているということなのです。田舎道でバスを待つ場合は、道を挟んでほぼ真向いにあるので、方向さえ間違わなければ何の問題もありません。しかし、都市ではそうはいきません。乗り場は交差点から確か50m話さなければならないので、たいていは交差点を通り過ぎてしばらくいったところにあり、すると道路の両側でバス停のある位置が相当離れてしまいます。それでも必ず交差点を過ぎてからという決まりならよいのですが、たまに何らかの事情で交差点の手前にあることもあるので、こうなるといくら行っても乗り場が見つからないという困難な事態に遭遇します。それでも諦めずにどんどん進むとなんと次の乗り場が現れ、こうして一駅歩いてしまうこともしばしばです。大きな鉄道駅のそばでは、降車の位置と発車の位置が大幅に離れており、すぐには見つからないということが起きます。これは国の内外を問いません。私はウフィツィ美術館(フィレンツェ)の一日券で入って途中抜け出してシエナに行き、十分間に合う時間にバス停にいたら、そこが降車場所だとわかり、ウフィツィの閉館前に戻れるよう、発車場所までヘルベルトと300mを全力疾走したことがあります。さらに問題を困難にするのは乗り入れているバスが1社でない場合です。同じ名前のバス乗り場でも、別のバス会社が10mほどずらして乗り場の表示を出している場合があり、15分ほども待っていた人が乗り場違いで置いてきぼりを食い、目の前を自分の乗るべきバスが通り過ぎていくのを「あ~」と頭を抱えて呆然と見送っている場面を何度か見ています。こういうのは気の毒でなりません。
前乗り、後ろ乗りを正しく選択し運よく予定のバスに乗れたとして、次に生じるのは運賃支払いの問題です。現金だけからICカードもOKになって、私はどれほど助かっているかわかりませんが、都バスのように西多摩を除く全区間に通用する一日券なら楽ですが、KKバスのように他県にわたっているためにICカードの一日券がない(削り落とし式の紙のカードの扱いにくさは以前書きました)という不便さを感じることもあります。子供の頃主流だった、切符を差し込んで印字するという様式はさすがにもうないのでしょうか。一つの路線なら何駅分乗ってどこで降りても同一料金というのは、運転手さんの負担軽減の切り札なのかもしれません。私がバスで一番気に入っているのは、一度乗ってしまえば降りるときにICカードや切符を取り出す必要がないことです。これに慣れてしまうと、たまに電車に乗ったとき降りてから改札の前で「あ、出るときもカードタッチが必要だった」ともたもたすることになります。
そこもクリアできて最後にやってくるのは降車バス停の壁です。「〇〇橋」があり、「〇〇三丁目」があり、「〇〇三丁目交差点」があり、となると、降車バス停をうろ覚えで乗った場合は「どこでおりればいいんだ~」という事態が発生します。「△△二丁目」、「△△三丁目」、「△△四丁目」の次が「△△六丁目」となるケースでは、降車バス停を「△△五丁目団地」と教えられて初めてその地域に来た人は一瞬不安になること請け合いです。このあたりの困難さは外国でも日本でもあまり差がありません。外国の場合は「□□で降ろしてください」と運転手さんにお願いしておくのが一番です。自分で降りるバス停を探せず、何度か失敗して学びました。
東京のようなバス路線網が発達したエリアでは、上級者向けの楽しみもあります。二点を結ぶ行程を考える時、全く違う路線が意外なところで交わっていたり、または呼び名の全く違う双方のバス停がごく近いので、ほんの少し歩けば大きな時間の節約になったり、うれしい発見のバス旅を楽しめるといった利用法です。都バス一日券と都バスの全路線地図だけもって、路線網を山野に見立ててオリエンテーリングのような遊びも面白そうです。