先日、或る会でたまたま隣り合わせた方が、某フェミニズム学者の東大入学式の祝辞について賞賛していて、なんだか気が重くなりました。私は自分の考えを言うべき場ではないと思い、「そういえば話題になってましたね」と答えただけでした。あの祝辞で私に同意できる部分がなかったからです。「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」のところは同意できそうだったのですが、どうもこの「あなたたち」が女子学生への呼びかけのようなので、やはりこれにも全く共感はもてませんでした。私の誤解であれば申し訳ないのですが、この方はなぜ女子学生に呼び掛けるという形をとったのでしょう。この場に入学者全員がいるなら、どうして全員に語り掛けなかったのでしょうか。また、そもそも「自分の努力を自分のためだけに使わないでください」というようなことを入学式でわざわざ言わなければならないほど、大学はもう駄目なのでしょうか。
これについて気が重いのは、突き詰めると自分がいかに恵まれているかということに行きつくからです。育った家庭には父権性イデオロギーの影がなく、男女平等という語が頭に浮かばないほどそれが当たり前に実現していました。就いた職業も日本では昔から一番男女同権が行き渡っていた場だったため、世間では違うらしいと頭でわかっても共感はできずに過ごしました。幼児虐待の痛ましい事件を知るにつけ、すべての基本は家庭にあると言わざるを得ないことが一層明らかになってきている昨今、これに関しては「私の場合は運がよかった」としか言いようのない事実がまた私の無力感を深めます。とりわけ両親が神の愛を知る人であったため、私には特別の愛情が注がれたのですが、その代償であるかのように私は社会では極めて少数者という刻印を押されていました。「信仰」という面倒な贈り物を受け取って歩む過程はしんどいものではありましたが、この歳になってようやくその恵みがわかるようになりました。この「厄介な贈り物」が私に成長と成熟を強いたからこそ、今があり、自分がいかに恵まれているかわかるようになったのです。
現在、視力低下はあるは、持病はあるは、普通に考えればとても恵まれた状態ではないのですが、人知れず「私は神様にひいきされているのでは?」と変なことを考えています。祈るたび、いろいろなことが適えられますし、欲しいものが何もないほど満たされているからです。小さな例を挙げましょう。今、東京で通っている教会は来年新会堂が完成予定で、引っ越し準備のため本の在庫一掃処分をしています。キリスト教関係のものがほとんどですが、その他の宗教・哲学書もあり、誰でも早い者勝ちで引き取ってよいことになっています。先日、図書室をのぞいてみたら、区の図書館にもなくて読めなかった50年前に刊行された本が、続編まで並んで私を待っているではありませんか。「こんなことってあるんだろうか」と思う一方、「ああ、やっぱり・・・」と畏れながら、ありがたくその本を戴いてきました。こうはっきり恵みを示され続けるのはちょっと後ろめたいものですが、これには訳があるはず。今度はそれについて考えながら過ごさねばならないと思うのです。