2019年10月28日月曜日

「聖書と私:あらためて聖書とは」

(注)会報の最新号に依頼を受けて書いた原稿です。「聖書と私」はシリーズになっており、私は104人目の執筆者です。

 聖書は不思議な書物である。「聖書と私」というお題をいただき、家にある聖書を取り出してみると自宅でも十冊を超えた。福島の家ならその数倍あるだろう。今は亡き母の手製のカバーが付いた子どもの頃使った聖書、「父より贈らる」と母の字で書かれた祖父からの聖書、また様々な機会にいただいた聖書も多く、自分で買ったものではない本がこんなに重なることは普通はない。また、これほど人に読ませたい書物でありながら、通読を先送りされる本も珍しい。きっとそばにあるだけで安心するのだろう。この点で聖書は極めて特異な本である。

 小学校高学年から中学にかけての教会学校で、今思うと聖書を素読する時間があった。副牧師館と呼ばれた畳の部屋で、正座して相当長い聖書の箇所を音読した。あれはよかったと思う。日本語の聖書にはあらゆる漢字に読み仮名が振ってある。明治の文語訳からの伝統なのか、難しい漢字を知らなくても、たとえ小さな子どもでも、ひらがなさえ読めれば聖書が読めるのだ。これほどまでして万人に読ませたい熱意がうかがえる書物は他にない。これが日本語の本の中で聖書を唯一無二のものにしている点である。「読書百遍意自ら通ず」とはゆかずとも、読むことで伝わるものは確実にある。教会学校ではもちろん音読の後にその解き明かしが続いた。聖書ほど勝手な解釈が危険な書物もない。確かな導き手と共に読まねばならないという点でも聖書は極めて特殊な本である。

 視力低下と病を得て早期退職した私は、昨日まであれほど大事だったものを一挙に処分した。翌年も、「昨年はまだこれが必要だと思っていたのか」と苦笑いしながら、また大量に捨てた。だが、聖書は私に残った。家中探していると、大学の教養課程で半期だけ取った西洋古典・荒井献先生の「新約聖書原典講読」のテキスト、即ちギリシャ語の聖書も出てきた。学生時代の本は全て処分したと思っていたのに、これだけは取ってあったのだ。今ではアルファベットもおぼつかないが、「エゴー・エイミ」はまだ分かる。日本語の聖書は、文語訳、口語訳、新共同訳、それに新改訳等があり、どれも捨てがたい趣がある。また、昨年は聖書協会共同訳が刊行された。この他に個人が手掛けた翻訳もあり、とにかく翻訳への思いが熱い。一つの書物に対してこれほど繰り返し翻訳が出されるという点でも、聖書は稀有な書物であり、これに匹敵する本はおそらく無い。

 紙ベースで本を読むのが困難になって、私は活字をパソコンの音声ソフトで読むようになった。読書というより聴書である。ネット上に公開されているのは基本的に著作権の切れた古い著作物であるが、聖書ほどフリーデータを収集し易い本はない。パソコンに読ませた音声を録音しICレコーダーに入れて持ち歩くようになると、聖書を集中的に聴くことができ、脳内で不思議なことが起きたように思う。ばらばらに散らばっていた断片がガチャン、ガチャンと繋がる感じで、一瞬だが霧の晴れた山頂から美しい峰々を見渡せたような気がした。「読む」から「聴く」への転換によってもたらされた恵みであろう。神様は時に応じた聖書の読み方を与えてくださる。御計らいに感謝したい。