2019年2月15日金曜日

「危機対応の教育」

 都心で積雪が予想されながら、さほど降らずに翌朝を迎えた日のことです。その日は日曜だったのでいつものように礼拝に行くためにバスに乗りました。地面が凍っていたので予感はしたのですが、案の定、バスは普段よりゆっくり目に走っています。そのうち、「橋の上で事故があり、通行止めとなりました」とのアナウンスが入りました。通行止めとはいってもバスは橋に向かうしかない状況にあり、当座は事故車両を避けて一車線での往来になりました。橋の上では止まったりごくゆっくり進んだりを繰り返しています。いつも十分な時間を見て家を出ているので、私はさほど焦ることなく、「ここからどうやって礼拝に遅れずに行くか」を考え始めました。とりあえず電車の駅まで着ければ、あとはそう時間はかからない。電車の駅は、A駅なら山手線、B駅なら確か東京メトロを乗り継いでいけるはず・・・・。

 そんな時、バスの中に大きな声が響きました。
「運転手さん、今日、入試の子が泣いてるよ。あと10分しかないんだって。どうするの。」
 声を上げたのは三十代くらいの男性で、「学校に電話したの? 電話がない? これ使いなさい」と、中学生と思われる女の子を相手に話しをしています。今どき携帯電話を持っていない中学生に私はちょっと感動したのですが、社内もざわつきだして、恐らく本社と連絡を取ってのでしょう、運転手さんから「橋を渡り切ったところで左折し、いったんバスを止めます」とのアナウンスがありました。 その後、その女子中学生がどうしたのかはわかりませんが、私がバスを降りた時には後続のバスからも入試と思しき中学生が何人か降りてきたので、他にも同様の被害者はいたようです。

 もう一つの橋を徒歩で渡りましたが、事故の始末はそうすぐには済まないようで、後ろからくるバスはありません。ふと、その先から出るバスがあったような気がして、私はバス通りに沿って1キロほど速足で歩きました。ただ、このような日は普段とは運行状況が違っている可能性が高いと考え、さらにバス停を2つ過ごし、3つ目に近づいた頃、後ろから駆けてくる足音に抜かれたので、私も後を追って駆けました。思った通りバスが来て、なんとか間に合って乗ることができました。A駅に着いてみるといつもより40分ほど遅れていましたが、ちょうどよい乗換のバスがあって、結局何事もなく礼拝に出席できました。

 その後、バスの中でのことを思い出し、よく考えるとこれはまずいのではないかという気がしてきました。まず、おじさん(お兄さん化も)のほうですが、困っている人の助けになっているのはとてもよいのですが、事故は運転手さんの席ん人ではないのに、その発言が何故、「入試に遅れる子がいる責任の一端はあなたにある」ともとれる言葉になってしまうのかということです。誰かに責任を押し付けるというのは現代の風潮かもしれませんが、この場合のように「責任者出てこい」と言って答えられる責任者はいない事例もあるのです。さらに、このような場合に運転手さんを委縮させては、事態は良い方向に行かないことは確かでしょう。

 次に、運転手さんですが、事故のアナウンスをしたところまではよかったのですが、その後、何の方向性も示さずに結構長い時間がたったのがよくなかったと思います。「橋の上ではバスを止められないので、渡り切った左側のところで止めます。もうしばらくご辛抱ください」と言えばよかったのです。本部の指示を待つのではなく、自分の頭で考えて、「今はこうするのが一番良い状況だ」ということを、逆に本部に打診し許可をもらうという姿勢が必要だったと思います。

 一番の問題は受験生で、これは「まだ中学生なんだからしかたない」とは言えないと思います。厳しいようですが、15歳にもなって、人生の一大事に他人から声を掛けられるまでめそめそしくしくでは困ります。私なら、というか、私が中学生の頃なら、じたばたしたと思います。運転手に「今日入試なので、止まれるところで降ろしてください。行けるところまで歩きます」と言うとか、近くの人に「誰か携帯貸してください。今日入試なのですが、間に合わないので学校に連絡したいのです」と言うとか。これができたとしたら、たとえ集合時間に遅れたとしても、まったく問題ありません。そういう意味では生きる力が損なわれているのではないかと危惧するのです。私が入試の責任者なら、遅れた事情を聞いてそれが説得力のある対応と思えるなら、もう学ぶ構えはできているのですから「はい、合格」です。

 件の中学生がここまで困った状態になっても声を掛けられるまで黙っていたのは、これまで困ったことが起こると周囲が先回りして解決に動いてくれていたからだと思うのです。私が務めていた最後の十年くらいは、とにかく面倒見がいいことが求められ、生徒と保護者の要望を忖度し、用意する・・・それができるのがよい先生、それができる学校が良い学校になっていった感があります。進学等の点で生徒の望みがかなうことはうれしいことなのですが、教育が商品になっていく過程で、私は教育に対する関心を急速に失いました。退職したのは体調が仕事に耐ええぬ状態になったせいですが、教育に未練がなくなったことともきっとどこかで関係していただろうと今では思います。

 福澤諭吉は『福翁自伝』の中で自らの修業時代を懐かしげに振り返っています。確かに緒方の書生は貧乏で、粗衣粗食であり、見看みる影もない貧書生でした。しかし、福澤には「その時間こそが自分の学ぶ力を作ったのだ」という揺るぎない自信が見られます。学問と向き合うその頃の学生の様態を福澤はこう書いています。

兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却(かえ)って仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先(ゆくさき)ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左(さ)ればと云()いって只ただ迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最も宜(よろ)しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末(ゆくすえ)のみ考えて、如何(どう)したらば立身が出来るだろうか、如何(どう)したらば金が手に這入(はい)るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何(どう)すれば旨い物を喰)く)い好(い)い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自(みず)から静(しずか)にして居らなければならぬと云う理屈が茲(ここ)に出て来ようと思う。

 150年前の学生の在り様をかなり露骨な言葉で述べているのに衝撃を覚えますが、もっと深刻に受け止めるべきは、それが今現在と何も変わらないということでしょう。現代は社会の移行期的混乱の中にありますが、それは明治期の社会的階級変動を伴う混乱とどっこいどっこいでしょう。学ぶことから何が得られるかはその人次第です。年を重ねた福翁の忠言に耳を傾けなければならない時ではないでしょうか。