2019年2月10日日曜日

「神の不在と信仰」

 東日本大震災の時に、津波で破壊された悲惨な光景の写真とともに、「残酷に人を殺した神は死んだ。そもそも神などいないのだ」というような記事を書いた写真家がいると聞いたことがあります。そこに、母親に抱かれた赤ん坊が涙でうるんだ目でこちらを見つめる写真があり、それに添えられた写真家の文章は、「取り繕う大人の中で赤ん坊だけが私を見つめる」というものだったそうです。大災害で無辜の人々が死んだり人間の営みのすべてが破壊されたりするのを目の当たりにすると、「神も仏もない」という言葉が人の口の端に上ります。「こんな目にあって神を信じられますか」と不躾に聞く人もいます。神を信じる者たち自身、「主よ、なぜですか。何故このようなことが起きるのですか」と、呻きながら絶え間なく口にする問いでもあります。これは答えるべき言葉が見当たらない或る意味、永遠の課題でしょう。詩編の詩人が書くように、「お前の神はどこにいる」と嘲られているのです。

 しかし、ここで黙り込んだり、涙に暮れたりしていてはいけないのではないか、と最近思うようになりました。こういう言葉を投げつける人、言葉にしないまでも心でそう考える人は、多くの場合神を信じていない、というか、心底神を信じるということをしたことのない人ではないかと思います。もちろん、何事かある時は、神様にお願いしたり、感謝したりということはあるでしょうが、それだけなら幼児の振舞いに過ぎません。この場合、「きっと神様はいる」でも「どうせ神なんかいない」でも同じことで、それはまだ信じるとか信じないとかのレベルではないのです。

 『ヨブ記』が読まれるのは、ヨブが友人たちとの心えぐられるような言葉のやり取りの中で、それでも神の不在に耐え続けたからであると私は思います。そんなヨブに神は最後に創造主として姿を現すのです。これは何を意味しているのでしょうか。おそらく、逆説的ですが、「神の不在に耐えることができるのは信仰者だけである」ということを語っているのです。

 「神を信じるとはどういうことかわからない」という人も多いことでしょう。また、「何のために神を信じるのかわからない」という人もいるでしょう。これはもちろん神を信じればいいことがあるというようなことではありません。「神様を信じると、何かいいことあるの」という形でしか問いを立てられない人に対する答えは、「何もないよ」でよいのです。問題は「信じたい」と真剣に思っている人に対して、「神を信じればすべてが益になる」という実感を語る言葉があるかどうかです。「それってただの気の持ちようじゃないの?」という疑念を越えることができるかどうかです。

 それなりに長い年月を生きてきて出会った多くのクリスチャンの中で、錬成された信仰者には共通の姿が見られるように思います。それは、自己の歩みを既に定められている神の御計画に同期するように描き見て、常に記憶された出来事の意味を書き換えているのではないかということです。神の不在と思えた時間を、自らが霊的に、また人間として成熟することによって、事後的にまぎれもない神の臨在として受け止めているのだということです。

 私は基本的に鼓腹撃壌型の人間なので、だいたいいつでも今その時が「今までで一番よいとき」と思えるし、間違いなく死ぬときには「ああ、なんと幸福な人生だったことか」と思うに違いないことを確信しています。それは今思うと、クリスチャンホームに生まれた時に神の愛を無償でいただいて、その後を曲がりなりにも信仰から離れず生きてこられたからなのだということを、ようやくわかるような歳になりました。世間的にはずっと少数者でしたし、なんだかよくわからないギフトをもらって面倒だなと思ってもいました。信仰とは「なんだかよくわからないギフト」なのだと思います。信仰とは、わからないなりにそれが与えられたことの意味と格闘しながら、一生懸命生きて自ら幸福になることによって、「あれが信仰だったのだ」と遡及的に証しするしかないものなのではないでしょうか。