8.ゆずり葉
私の初の連載はまあ好意的に迎えられた。それが終わりに近づいた頃、新聞社の廊下で長谷川二葉亭とすれ違った。私は思い切って声を掛けた。
「夏目です。今日お目にかかれてよかったです」
「前に一度会いましたね。『虞美人草』の打ち合わせでいらした時に」
覚えていてくれたのかと光栄な気持ちで、ちょっと言葉が出なかった。さらにうれしいお誘いを受けた。
「せっかくだからその辺で話しませんか。お忙しいと思うが」
「ええ、ぜひとも」
数分後、私たちは近くのカフェで向かい合っていた。私は率直に言った。
「実は連載があなたの後だったから、ずいぶん緊張しました」
「大阪の新聞社から移籍させてくれた池辺君のおかげで、私は助かったよ。やはり小説を書くのは私の性に合ってるな」
「今日は何の御用で…。もしかして次の連載ですか」
「ああ。そろそろ話があるかと待ってたんだが、やはりその話だった」
「何か月ですか」
「二か月。たぶんその後は君の連載だな。内緒だが『夏目君の連載、どう思う?』と訊かれたから、最高の答えをしておいたよ」
そんな話も出たのか、気になる…。
「よろしければ教えていただけませんか。何とお答えになったのか」
「『気に入った。どんな奴かと思っていたが、いいね。彼には哲学がある』とね」
「哲学?」
「君も、もう気づいているんじゃないか。我々は大人にならない限り、西洋文明と対抗することはできない。それとね、君は日本人に生まれつき内在する性質というか、そうだな、Nationalityをこの上なく大切に思っている。いや、読めばわかる。『虞美人草』の中で、小野が以前世話になった井上孤堂の娘で古式ゆかしいタイプの女小夜子を体よく振り切って、新しい時代の女藤尾を選ぼうとする場面があるだろう。その時、宗近のとる行動を描く君の筆致はいい。彼は小野君をこんこんと説いて、藤尾とののっぴきならない逢い引きを思いとどまらせる。宗近が繰り返す『真面目』というのは、別の言葉にすれば「人としてあるべき姿」ということなんだろうが、ここで野心家の明治の青年を前時代の範疇に押しとどめたのは、君の譲れないNationalityの発現だ。そうでなければ、小野に対して『僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た』と、宗近に言わせないだろう。違うかい?」
「ちょっと待ってください。Nationality…というと、私は初版のウェブスターの辞書で学んだので・…それだと、ええと、三つの項目が載っていましたね。一つ目は確か…『国民であるという本質』、それから…と、次が『或る国を区別する特質の総体』、そして三つめは、『共通の言語や特性によって決定されるような、一つの人種、すなわち国民』だから…あなたがおっしゃるのは、最初の二つを併せたような意味でしょうか」
「ひとつ君に話しておこう」
二葉亭はなんだかうれしそうに言った。
「もう二十年も前になるか、『日本人』の主筆の志賀君から、Nationalityの訳語を探しているという話があった。聞けば『日本人』の創刊祝賀会で、政教社を代表して挨拶するのだが、その時使うNationalityの訳語でインパクトのあるものはないかと言うんだ。こっちは翻訳というとうれしくなる質でね。でも英語なら、同じく政教社の棚橋君がいるだろう。彼がイーストレイキ先生とウェブスターの辞書を訳していることは知っていたから彼の名を出すと、彼がなぜだか僕を推薦してきたと言うのだ。棚橋君たちの訳語は『民情、愛国、民性、国風、本国、国体:人民、人種』といったところで、志賀君のお気に召さなかったらしい。『浮雲』が出たばかりで評判になってたから、僕にお声が掛かったようだ。」
「それで?」
私は興味を引かれて話を促した。
「翻訳者なら誰でも血が騒ぐだろ?」
「私は翻訳はやりません」
「その話も聞いてみたいがまあいい。志賀君とのやり取りはこんなふうだった」
「Nationalityか…。それなら『国民の精粋』というのはどうだろう」
「うーん、きれいな言葉だ。でも、ちょっと長いね」
「では、『国の粋』では」
「そうだね。語句の短縮パターンだと『国の精』だけど、ピンとこないしね」
「いやそれならいっそ『国粋』はどうかな」
「なるほど。『国精』だと『国政』と同音だからまずいし…『国粋』ならいいね。
Nationality …国粋。うん、ありがとう。やはり君に訊いてよかった」
「そんなことがあったんですか」
「今では『国粋』は何やら別の色がついてしまったがね。ついでだから話しておく。僕は二十年書かずにきたから、もう書きたいように書かせてもらうつもりだが、次の連載には挿話の一つとして或る女性が歌う場面で『国民の精粋』という言葉を使おうと思う。さすがに今では『国粋』とは言えないしね。自分の作った言葉なのに、長い間放っておくと自分のものじゃなくなるね」
「あの、長谷川さん、どうしてそんな話を私にしてくださるのですか」
「ふふ、君は同類だから。英国なんかに行かされて神経を病んだのは気の毒だったが、これからの日本の文学は君の双肩にかかっている」
「ご冗談を」
私は二の句が継げなかった。彼は面白がるような笑いを浮かべると、話を終わらせた。
「さ、そろそろ行かないと。そうそう、池辺さんが君の連載の結末を気にしていたから教えておいたよ。『題名を見ろよ。藤尾の自殺で終わりだ』とね。合ってるだろ? 明治の女性にはまだ生きる場所が無い」