2020年12月31日木曜日

「2020の年末」

  2020年はおそらくここ最近で最悪の年として、人々の脳裏に刻まれることでしょう。3日前、私に今年最後の災厄が降りかかりました。使っていた外付け記憶媒体をPCが認識しなくなったのです。「前にもこんなことがあったなあ」とっがっくりきましたが、「熱力学第二法則かしら、物事は次第に乱雑になっていくものなのよね」と、もはや慣れたもの。どこまでバックアップしてたかな~と、同じ失敗を繰り返す自分を叱りながら、「でも、ま、しょうがないか」とデータの回復に努めました。今年は本当に大変な年だったので、このくらいの事は何でもないとおおらかな気持ちになれているのかもしれません。

 しかし、年末にこんな事態になった事実はよく考えるに値します。「もしかして、これは2020年はまだ序章にすぎなかった」ということを示唆しているのか・・・・と不吉な思いが浮かびます。感染症の状況は、感染者数の増大、重症者数や医療現場の緊迫度、ウイルスの異種の登場など、今のところ良い方向に向かう兆しは全くありません。

 失われて復元できないデータをあきらめかけて、何故かふと認識されない記憶媒体は些細な不具合にすぎないような気がしてきました。抜き・差しの際、特に問題のあるやり方をした記憶がなかったからです。ちょっとした埃が読み出しを妨げている可能性もゼロではないと考えて、息を吹きかけてきれいにすることにしました。土くれにすぎない人間も神の息を吹きかけられて命あるものとされたのです。記憶媒体とそれをつなぐコードの穴に、気合を込めてプネウマを注入。それから、念のためPCに接続してみると、なんと認識されるではありませんか。急転直下まさかの解決でした。プネウマ恐るべし。なんだかモヤモヤした片付かない気分ですが、最終的にこの年の瀬は吉兆で終わったと言っていいのでしょうか。



2020年12月25日金曜日

「クリスマスに知るピラトの言葉」

  昨年はクリスマスの時期にたまたま主イエスの十字架の死と復活の聖書箇所が当たっていたので、降誕とは違う視点から気づきを与えられましたが、今年は説教の中でで引用されたピラトの言葉から発見がありました。細かい違いはあるものの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)がこぞって証言するところでは、捕らえられたイエスはまず大祭司のもとに連れてこられて尋問されますが、ほとんど語ることなく、今度は総督ピラトに引き渡されます。つまり、ユダヤ人コミュニティからローマ帝国の権力下へと身の置き場が変わります。これは祭司長、律法学者といったユダヤ人支配階級が自らの手を汚さずにイエスを亡き者にしようと画策した結果ですが、ローマ総督ピラトにとっては迷惑な話だったに違いありません。事実、彼はイエスの罪状であるユダヤ人の王という僭称疑惑について尋問した挙句、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(ルカによる福音書23章4節)と言うのです。

 この場面でピラトは、明らかにユダヤ人によって困った立場に追い込まれて、仕方なくイエスを十字架につける決定をするという書き方がされているのに、「使徒信条」でははっきりと「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」と、未来永劫キリスト架刑の張本人のようにされていることを、私はちょっと気の毒に思っていたのです。ヨハネによる福音書はかなり違った筆致で詳細にイエスとピラトのやり取りを描いています。18章33~38節にはこうあります。

18:33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 

18:34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 

18:35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 

18:36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 

18:37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 

18:38ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。

 このピラトの「真理とは何か」という言葉を非常に深遠な問いだと感じていたこともまた、私の思い違いを増幅してきました。この問いの答えを私も知りたいと思ってきましたし、もしピラトがこの問いを突き詰めて考えていたならと残念でならなかったのです。しかし、今年のクリスマス礼拝の説教の中で、この言葉はむしろ「真理などあるものか」という意味に解した方が適切なのではないかとお聴きして、長年の疑問が氷解しました。この地方の政治と裁判における全権を持つローマ総督として、酸いも甘いも噛分けてきたピラトには人間が真理を語るなど笑うべきものだったのでしょう。35節の「わたしはユダヤ人なのか」からもわかるように、この手の疑問文を装った冷笑に満ちた表現がピラトのしゃべり口なのでしょう。ピラトは二千年来変わらない為政者の姿に過ぎなかったのです。ここには、何重にもなった支配体制の中で大物、小物を問わずそれぞれに罪にまみれた情けない支配者の姿が余すところなく描かれています。そしてたった一つ心に刺さる真実の言葉は、37節の「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」というイエスの言葉だけです。真理に属するためには主イエスの声を聴く以外ないのです。今年のクリスマスが主イエスのご降誕の本当の意味を知る静かな祝いの時になるよう願ってやみません。


2020年12月22日火曜日

「紅春 169」

 

 先日、関越自動車道の大雪が大きなニュースになり始めた頃、帰省の新幹線に乗りましたが、郡山まで雪は全くなし。普段だと雪は白河あたりから始まり、ずっと続くのですが、二本松、安達付近も雪がなく、「なんだ、こっちは降ってないのか」と思ったら、福島市への最後のトンネルを抜けたら、文字通り真っ白でした。福島だけピンポイントでかなりの積雪、参りました。

 帰省してから毎日雪掻きですが、りくの様子は今までと違いました。これまでは雪を喜んで、雪の中でピョンピョン跳ねていたのに、今はあまり外に出たくない様子。連れ出してもどっちに行ったらいいか迷って、八甲田山彷徨状態。やっとトイレだけ済ませて帰ってくると、自分からスタスタと戸口へ。外に居たくないのです。だいぶ弱ったなとがっくりします。あとはひたすら丸くなって寝ています。

 でも、ごはんを結構パクパク食べてくれるのは、安心材料の一つです。寒いとエネルギー消費量が多いのでしょう。最近はヒルズの「腎臓ケア」と「小型犬・シニア13歳以上」というのに変えて食べさせていますが、比較的よく食べます。「小型犬・シニア13歳以上」は粒が小さいので、年老いた歯には食べやすいのかもしれません。なるほど。この二つをベースに鶏肉、豚肉、チーズ、卵などを日替わりで少しずつ混ぜてやっています。今のところ食事問題は一段落したという感じです。

 それにしても、雪が長く続くとりくの脚が弱ってしまう。それに土手は雪が多すぎてとても散歩にならない。大雪の後、除雪車が出て歩きやすくなったこともあり、今は朝の散歩に買い物がてら1キロ先のコンビニまで行っています。ただ車が危ないので、5時前に行っています。りくは一日中寝ているせいか、朝4時には起こしに来るのです。冬は4時起きは勘弁してほしいな~。


2020年12月17日木曜日

「移動の緩急生活」

  東京―福島の往復生活を始めて8年以上になります。移動自体は交通機関が整っているので問題ないのですが、乗っているだけで疲れる気がするのは移動先が互いに異空間のせいだと思います。まるでトンネルを抜けて異界へと行き来するようなものなのです。これに慣れるため、少なくとも移動日は全日つぶれます。

 福島では、夏は雑草や藪蚊と闘い、冬は吾妻おろしと雪に立ち向かう生活です。以前は食料や日用品の買い出しも大変でしたが、もうこれはほぼネットスーパー頼みのズルをしています。りくも散歩をせがんでくるので構ってやらなければなりません。感覚的には1週間福島で過ごすと、3週間は東京で休まないと体がもたない感じです。

 しかし一方で、往復生活に心地よさも感じるのです。頬に刺すような寒風を受けて進まない自転車をこぐ時、いつ果てるとも知れぬ雪掻きに没頭する時、また、りくの散歩に付き合ってひたすら歩いたり、リュックを背負ってりくと買い物に出る時、体の中の野性が目覚めるのです。ここで暮らすのは無理でも、この厳しい自然が自分を育んできたのをまざまざと感じます。特に冬は、「風よ吹け~、雪よ降れ~、吹雪よ荒れ狂え~」と、もうどんなに荒れても気にならなくなります。人間は自然の力にはかなわないのです。人間の卑小さを思い知らされるのは小気味よくもあります。今年はすでに大雪の気配、気合を入れて帰省しなければ。


2020年12月13日日曜日

「歯科治療」

  春先にとれた奥歯の詰め物の治療をやっと始めたのが秋口でした。髪の手入れは美容院から手渡しされたマスクをしたままできても、さすがに歯の手入れはマスク着用ではできません。感染症はもうそろそろいいかなと、行ったことのない初めての歯医者さんに行ってみました。歯科医を変えた理由は特にないのですが、同様にこだわりもないので、新しいところを試してみることにしたのです。帰りに買い物や所用をするのによい位置にあることも、一つの要因です。歯科治療が好きな人はいないでしょうが、医療全般に言えるのは治療後は自分にご褒美をあげたくなることでしょうか。

 今度の歯科医の第一印象は「ずいぶん若い人だな」というものでしたが、とても腕はよいという気がします。レントゲン画像から、悪いところを数か所説明してくれ、一つ一つ治療していきます。最近の歯科医療のテクノロジーの進歩は目覚ましいものがあり、とても便利に改良されているようです。こういう技術革新にキャッチアップするには、若いことはむしろアドバンテージなのかもしれません。歯科医が治療痕を見れば、これまで受けた治療やそれを施した治療者の腕前が一目瞭然に違いありません。それまでの治療が今後に影響を及ぼす時は、説明を受け、今後長持ちする治療へと変更されます。

 通い始めて三カ月以上たちますが、一度も痛かったことがなく、型を取った詰め物も一度で驚くほど問題なくぴったりと収まっています。このあたりも勝手な想像ですが、昔は歯科技工士の職人技だったものが、今ではAIの技術に取って代わられつつあるのかもしれません。これはこれで大きな問題だなと考えてしまいます。まだまだ治療が終わらないのは、型どりした詰め物ができるのに2週間ほどかかるのと、福島への帰省が重なって治療が先に延びるからです。

 思い返せば、これまでは歯医者通いが終わると歯の手入れに手抜きが生じていました。でも、何といっても自分の歯で噛んで食べることは「生きる」ことの基本ですから、今回こそは歯ブラシだけでなく、歯間ブラシやデンタルフロスによる手入れも続けようと決意しています。八十代でも入れ歯なし、全部自分の歯といううらやましい方もいますが、これまでサボってきた私としては今からでもできることを地道にやっていくしかありません。あまり目新しい治療はするつもりがありません。別の方面から聞いた話では、インプラントにした人が認知症になってしまうと、入れ歯のように外せないで、介護の場では自分を傷つけてしまうような大変な事例もあるようです。どんな分野にも言えますが、テクノロジーの発展の功罪を検討するには少なくとも一世代の時間が必要です。



2020年12月7日月曜日

「ちぐはぐな現実の先に」

 大阪や旭川での医療現場の逼迫が懸念されています。旭川は国内最大の医療関係者のクラスター、大阪では満床のため患者が適切な医療を受けられず亡くなったと報道され、どちらも医療崩壊と言わざるを得ないでしょう。その地域に限らず、医療関係者が休みなしの体制で疲弊する状態が続く一方、旅行・観光および外食を奨励する政府の支援策も並行して行われている現状があります。「経済を回さなければ」と、この機を逃さずトクをしようという人々は多く、それなりの効果は出ているようです。しかし、一度価格破壊が行われると定価通りの正当な支払いがバカらしくなるのが人の常ですから、支援期間終了後、あちこちで閑古鳥が鳴いた英国のようにならなければよいがと思います。政府は「マスク会食」というどう考えても無理な方策まで提案していますが、誰も変だと思わないのでしょうか。矛盾する二つの要求を同時にかなえようとすれば人間なら精神を病んでしまうでしょうが、この「マスク会食」案はその事例かもしれません。たとえ「狂う」というリスクを冒しても、政府は誰も責任を取りたくないのでしょう。

 労働によって元手に価値を加え、新たな価値を生みだすのが資本主義とすれば、業種や分野によっては感染症後の社会に適合するものを生産できる可能性は十分あります。しかし、広域での人や物の移動に制限があると、地域における経営の仕方が問題で、場合によってはうまく適応できない事業者もあるでしょう。多くの場合、大きな利潤を上げることが目指しにくくなるのではないでしょうか。利潤をあげられなければ、資本主義は継続できないのですから、感染症は資本主義を終わりに向かって加速させている感があります。

 金融関係では、日本に限らず世界中で実質的にゼロ金利に向かっていますが、これは私には資本主義の終焉を示すものとしか思えません。リーマンショックによって明らかになったように、無理やり創出した株式市場の需要は複雑すぎて一般の人は手が出せず、特にこれが実体のない博打であると知っている現在は、せいぜい年金の運用が大損しませんようにと手を合わせて祈るくらいしかできません。

 唯一、自然に働きかける農業は少し違うのかなと思います。自然というのは何千年も昔から特別なものだからです。

「人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

   (マルコによる福音書4章26~29節)

 商品としての農産物ではなく、人間が生きるのに不可欠な食物としての農産物を作る心持ちは、おそらく今も同じでしょう。農業ほどきつい仕事はないと言われますが、それでも農夫はこの変わらぬ不思議な働きに打たれて働いているに違いありません。売るためではなく、自分で食べるために農業をする時、もはや資本主義とは別の地平が見えてくるのかもしれません。そうしてみれば、上記の引用句が、「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである』に始まる言葉だということと考えあわせて、非常に意味深く思われてきます。



2020年11月30日月曜日

「紅春 168」


 このところ、りくと庭にいる時間が増えています。庭木の伐採をしているのです。垣根が厚みを増して道路にせり出しているのをなんとかしようと、はしごで上からのぞいてみたらすごいことになっていました。二股に分かれて南北二層の壁を形成しており、その間をひねこびた小枝が迷宮を作っています。垣根を一重にするため道路側の太い枝はほぼ全部のこぎりで伐採し、残った側も伸びすぎた上部を30センチくらい切り落としたので、処分すべき枝が山ほど出ました。りくは私が何をしていようと一緒に外にいるだけでおとなしく満足気です。私はのこぎりの切れ味に感動しながら無心で仕事に集中、気温10度くらいの中でも汗ばむほどでとても爽快でした。

 垣根はほとんどがイヌツゲですが、一部なぜか杉もあり、これは日の当たらない内部は枯れていたので、とりあえず上部をカットしました。他に庭の中央にケヤキがあり、夏は涼しい木陰を作ってくれるのですが、今は少しでも陽が入るようにはしごで手が届く範囲は切り落としましたが、中心の大枝は天まで届けとばかりにまっすぐに伸びているので、とりあえず伐採を断念しました。

 庭の手入れは一日にしてならず。四日間くらいかかりきりで「今はここまで」という気になりました。あとは切った枝の処分です。これは、「長さは60センチ・直径は30センチまで・一本の太さは直径10センチまで」にしてひもで束ねないと回収してもらえません。りくが邪魔しに来る中、十分気をつけながら果てしない作業となりました。ここで役立ったのが「なた」というこれまで使ったことのない道具です。小枝を削ぐのに最適な道具だと分かりました。のこぎり・なた・はさみを駆使して十五束ほど作ったところで力尽きました。今回できた分は燃えるゴミの日に出し、残りは次回の帰省時に処分します。木こり作業をして、樹木もそれぞれ持って生まれた習性があることがよく分かりました。おまけとしてよかったことは、とにかく夜よく眠れるということです。


2020年11月24日火曜日

「ホメオスタシスにおける霊的欠落」

  2018年に上智大学で行われた若者と教会に関するシンポジウム(神学部夏期神学講習会講演集)を聞く機会がありました。その中で私が最も興味を引かれたのは精神科医による講演で、「人間学としての精神医学」というものでした。この講演はヤスパース、フランクル、ニーチェほか多くの精神界における著名な人物の言葉を引きながら、人間を心身二元論ではなく「霊・魂・体」の三層構造として把握し、病の発症のメカニズムを解き明かすものでした。心身二元論では「霊」と「魂」は一緒くたにされますが、この説では「霊」は神とかかわる場であるのに対し、「魂」は意識や人格の領域と考えることにより、人の病や精神疾患の発症は神との関わりが崩れた状態として捉えられることが順を追って示されました。

 その中で、第二次世界大戦中の話として、死ぬほどの怪我や病を受けたわけではない患者が数日後に激しいショックで死に至るケースを或るフランスの外科医が分析した結果、「生体が病を作り出している」という驚くべき見解に至った経緯が紹介されていました。外的・内的変化に対して自分の生理状態を一定範囲に保持しようとするホメオスタシスの働きにより、人間は神経、内分泌系の全身反応を起こしますが、患者の命を奪うのはこの過剰反応に違いないというのです。これを聞いて、私はしばし身じろぎもせずに考え込んでしまい、やがてこのことが深く腑に落ちました。自分の身を過剰に守ろうとすることが逆に病を生み出す・・・。これまでに自分自身に起きた様々な体験も含めて多くの実例が頭に浮かび、「そうだったのか」と深いため息が出ました。

 自身を恒常的に保つためのホメオスタシスがなくては生物として生きられないので、これ自体に問題があるわけではありません。思うに、環境に対して自立性を保持できないほどの状況において、それを自分の力で何とかしようとするところに非常な無理がかかり、病が生じるのでしょう。「霊」が関わってくるのはこの部分です。なぜなら、外的・内的外傷を負った時、通常真っ先に脱落するのがこの領域だからです。一個の生命体が自らを最高位に置いて、あくまで自立性にこだわるのでは乗り越えられない事態となります。人間を「心身」という総括的生命体として理解するだけで超越者の視点を持たなければ、生命に必須の恒常性を保てず、自ら病を生み出してしまうのです。

  一つの様態として「実存的不安」という言葉で表される状態に陥った時、この状態のまま神抜きで低いレベルに安定させようとすれば、心身に様々な症状が出てきます。その一つは生体の内部環境を維持するための脳内ドーパミンの過剰生成で、これが精神疾患の主たる症例の一つ統合失調に深く関係していることはよく知られています。過去・現在・未来にわたって不条理を回避し、自分にとって適正と思われる世界を構築してそこに安住することは一見合理的な解決ですが、その代償として人格が徐々に崩壊していかざるを得ないのは、人間を人間として成り立たせている三層構造の一角「霊」の領域を欠落させているからです。意識するしないに拠らず、それほど神との霊的な関わりは人間にとって不可欠なものなのだということがよく分かりました。

 健やかに生きるためには、神様の呼びかけに耳を傾け応答する、またこちらから呼びかけどんなことでも気負わずに話すということが大事なことでしょう。これはつまり「祈り」そのものに他なりません。決して難しいことではなく、「神様あのね...」と話しかける絶対的な存在者を知っているかどうかなのです。



2020年11月19日木曜日

「今年できたこと、できなかったこと」

  しばらくニュースを聞かない生活をしていたら、いつのまにか感染症が過去最大の勢いで流行していることを知りました。東京では一日の感染者が五百人に迫る数で、衰える気配は当分なさそうです。一年を振り返るにはまだ一カ月早いですが、今後の成り行きを考えると今おこなっても大きなズレはなさそうです。

 コロナの年と言ってよいこの一年は、何といっても人と会うことができませんでした。これまでは毎年何回かは季節の折々に友人と出かけたり、外でのお食事や家でのお茶会などを楽しめたのですが、感染原因がはっきりと「飛沫感染」とアナウンスされたていたので、全く無理だったのです。正確に言うと、帰省したとき一度だけコーヒー店でお茶しましたが、これとてマスクの下からストローで飲むという惨めなものでした。お仕事をお持ちの方や在学中の方は、リモートやオンラインを余儀なくされたはずですが、やはりこれは直接会う体験とは違うものにならざるを得ないでしょう。私のような引退組には、そこまでする必然性がありません。「その他は・・・?」と言えば、買い物が制限された、マスクやトイレットペーパーが手に入りにくい時期があった、歯医者や美容院へ行くのがためらわれた程度で、過ぎてみれば許容の範囲です。

 逆に「できたこと」はと考えてみると、

①気は遣ったが、帰省が今までのペースでできた。

②ウォーキングなどの運動は普通にできた。

③なんとか通院ができ、健診・検診の見直しができた。

④充実した読書ができた。

⑤家の片づけや模様替えができた。

と、まず不満のない一年だったことがわかります。むしろ私にとって最大のダメージは夏の酷暑と持病による体の変調で、これは感染症と直接関係がありません。

 今年は読書によって暗い気分にさせられることが多かったのですが、それは自分の利益しか考えない悪辣な人々によって方向付けされた社会が、今行き着くところまで来て、多種多様な苦悩が生み出された実情をつぶさに知ったことによります。一方で、いま現実に存在している生物はすべて訳あって存在しているのであり、そのためにあらゆる生物がその種ごとに、それぞれ精緻で狡猾な、それでいて一人勝ちしないような生存戦略を持っていることにも深い感銘を受けました。人間の場合は異常に発達させた脳を武器に、生態系のバランスを壊しながら生き残ってきたわけですが、それがいつまで続くのか本当にわからない時代が来たと言ってよいのではないでしょうか。例えばヒトだけ感染する致死率の高いウイルスが誕生すれば、全盛を誇っていた恐竜が突然滅んだように、人間も滅び去らないとは言えないでしょう。あとから振り返った時に、2020年がその分水嶺の年にならないことを願っています


2020年11月12日木曜日

「庭のある家」

  往復生活が長くなりました。最近は何をするにも時間がかかるので、りくの世話と家事だけで一日手いっぱいということもよくあります。毎回、一つは懸案事項を抱えて帰省するのですが、先日は松の木の伐採がそれでした。

 父はとても器用な人で、子どもの頃のりくの遊び場の囲いを作ったり、河原の萱を取ってきて簾を編んで日よけにしたり、雪囲いを作ったりと、庭の手入れに余念がありませんでした。こういった何気ない手入れはできそうでなかなかできないものです。

 この松の木は家を建て替えた時に植えられたもので、かれこれ30年以上はたっているはずです。父がいたころはそれなりに手入れがされていましたが、その後は兄がどうしても伸びすぎた部分を切る程度で時が経過し、そのうち先端が電線に届きそうになってきました。強風が吹いて電線を切断でもしたら大変なことになります。兄も気にしていたので、休みの日に伐採する計画を立てました。

 前日は私が下準備をすることにし、はしごを設置し、切る位置の高さを確かめましたが、どうしても父の使っていたのこぎりが見当たらない。家にあった古い小さなのこぎりではそれこそ全く歯が立たない。のこぎりを購入し、ひもも用意し準備OK。当日は兄の作業を少し離れてりくと見学。

①まず道路側に枝が落ちぬように、ひもを松の木の先っぽに掛けて庭の物干し竿に固定する。

②兄がはしごに登り、大枝をのこぎりで引く。

そのうち隣のおじさんも出てきて、「大変だない。落ちねように気いつけて」と声をかけてくださいました。どうもかねがね松の木の枝が伸びているのを心配しておられたのではないかという気がします。申し訳なし。

 ギコギコを5分くらい続けると、意外とあっさり大枝が切り落とされ、それを私が邪魔にならない場所に運び、兄が残りの小枝もどんどん切り落とす。これを何度か繰り返して、あっという間に伐採は終了となりました。こんなに簡単ならもっと早くすればよかった。切り終えた枝は一か所に積み上げ、あとの始末はまた後日にすることにし、その日の作業はそれでお仕舞。コーヒーを淹れて兄と今回のミッション完了を祝し、とても良い気分でした。しかし、年老いてからの庭の手入れは結構な大仕事です。今後を思うと、一難去ってまた一難です。



2020年11月3日火曜日

「紅春 167」

 

 このところ、家の真後ろの土手の芝刈りをしています。夏の間は敷地内の草むしりで手一杯でしたが、よい季節になったので始めてみました。少しずつ草が土手の道を侵蝕していくのを気にしてはいたのです。3日目になってもまだまだきれいにならないのは、一つにはもう何年も手を付けずにいたこと、もう一つにはここが笹薮だからです。鎌や鋸を試して、結局料理用のハサミで切るのが一番とわかりました。芝刈りというより柴刈りかも知れません。

 ここはりくのいるところからは少し離れているので、切り取った笹を捨てに運ぶ時しかりくからは見えません。そのため時々鳴いては私を呼ぶのでなかなかはかどりません。まだ八割くらいしか刈り込んでいませんが、前よりはっずっとよくなりました。通るとき挨拶をしてくれる人がいるので、こちらも挨拶を返します。犬を連れて通る人がりくを見つけてくれることもあり、言葉を交わすこともあります。声を掛けてもらっても、もう老犬なので聞こえないことなど話して、りくを理解してもらうようにしています。


 りくの左頬にイボができました。以前はそのうちポロっととれたのですが、今度のは根が深く、触ると嫌がるのでそのままにしています。獣医さんの話では、年を取るとイボが出るのは普通のことで心配ないとのことです。人間の場合のシミ・シワの類と思ってよいのでしょうか。



2020年10月29日木曜日

「紅春 166」


 

今回の帰省はeチケットを使い、新幹線利用でいつもより2時間近く早く家に着きました。りくは寝ていたので、そおっと添い寝したのですが気づきません。しばらくしてツンツンしたら目を覚まして狂喜乱舞。とても元気で安心しました。私がいると、兄に対するりくの態度はあからさまにぞんざいになり、帰宅した兄に挨拶をしに行かないこともたびたびなのですが、今回はちょっと違います。




 夜は兄に「お帰り」を言って甘えていましたし、珍しく階段を上がって兄の部屋を訪問したのです。朝食の時、「それ、いつ?」と聞くと、「ついさっき」とのこと。思うに、兄と二人だけの生活が習慣化したりくは、監視するかのように兄の動静を常に把握していたのではないか。そのため、普段なら起きて来る時間になかなか降りてこない兄の様子を見に行ったのではないかしら。「りく、兄ちゃんの世話まで大変だな」と冗談を言っていると、兄が急に話を止めて耳を澄ましたかと思ったら、「白鳥来たな」と言いました。遠くでかすかに「クォー、クォッ」と繰り返し鳴いているのが聞こえました。

 というわけで、天気も上々だったのでりくと白鳥さんを見に行きました。疲れるくらいりくを歩かせてやろうと、水筒を持って2つ下の橋まで3~4キロ歩き、よい散歩になりました。白鳥はいまのところ十羽くらいでしょうか。まだ十月なのに、今年はずいぶん早い。やはり冬らしい冬になるのかな。ちょっとだけ冬への心構えができました。


2020年10月27日火曜日

「悩みの類型とゆるしについて」

  読書の秋になり、肩の凝らない本を乱読しています。そして分かるのは、人間の悩みは限りがないものの、考えようによっては似たり寄ったりだということです。一般に言われる「生」「老」「病」「死」に関わる悩みについて、殊にあとの三つについては、様々な喪失感や端的な痛み、愛する者との別れに伴うもどかしい思いなど、誰もが直面する非常に似通った悩みがあります。これらは時期が来ると受け入れる心構えができたり、意外とテクニカルな問題だったりして、自然と解消することが多々あります。

 もう一つの「生きる」ことにまつわる悩みは大きなボリュームを占めますが、衣食住に関わる主に経済的な問題を除けばいくつかのパターンが見られます。

①生命にかかわるほどの恐怖で心的外傷を負い、思考や行為の全てにおいて必ずそこに戻ってしまう場合

②何らかの事情で自分を偽っている、本来の自分を発揮できない、自分が何者かわからない等の場合

③何事においても自分と他人を比べることによって自分の幸せや不幸の度合いを計ることを止められない場合

④苦しみの根源が他人(家族を含む)にあり、わだかまりを解消できない、どうしても相手を許せない等の場合

世の小説などで描かれる人間の悩みはほぼこのどれか、もしくはその組み合わせによって引き起こされているように思います。

①に関しては、私には解決方法は思い当たりません。本人が一番考えたくないのに考えてしまうのですから。これは精神科医にも治せない症状ではないでしょうか。

②に関しては、長い苦闘の末にいずれ自分を知り、外へ向かって明らかにする以外、解決方法はないように思います。うまくいけば、心の平安を取り戻せるかもしれません。

③については、私自身がほとんど理解できない心性なので、これという解決のアイディアはありません。自分が愛されていることに気づけばこの悩みは雲散霧消するのでしょう。

④について、これが一番解決し難いケースかもしれません。ゆるすことの本質は愛であり、それはおそらく人間の意志でもつことができないものだからです。世の中にはどう考えても、また世人の統一見解としても、相手が悪いとしか思えないケースがあり、それによって傷つけられた「自分」を抱えた人は決して癒されることのない地獄を生きざるを得ません。これも①の場合と同じく、常にそこへ回帰して居ついてしまい、堂々巡りを繰り返すのです。

 私とて人間のあからさまな悪意を垣間見て、心の中にどす黒いものが宿ることはよくあります。最近はそれが嫌で毎日のニュースもそこそこにしか聞けません。しかし、それなりの時間を生きてきて、自分が生まれてからずっと愛されてきたことを深く納得するようになりました。表面に現れた形としては家族や周囲の人々に愛されてきたのですが、結局のところそれらはすべて神から出たものだということを心から受け入れています。これまで人様に様々な傷を与えてきたに違いない私ですが、それでも私自身傷を負う身であり、「ゆるせない」と思うこともあるのです。神様に赦されている者として人をゆるさなければならないのですが、それができないのが日々の日常です。でも自分の所業を「ゆるしてください」と祈ると同時に、「ゆるせるようになりますように」と祈ることはできます。人の罪をゆるす権能をお持ちの方に祈ることができることで、私はかろうじて正気を保っているのです。私も日々接する様々な人と何ら変わらない人間なのです。ゆるせないことはつらいことです。「ゆるしたい」と思いながら生きることは赦されているからできるのです。そして、赦されていることは神の恵み以外の何物でもありません。



2020年10月20日火曜日

「回帰する『時』」

  腕時計を新しくしました。といっても、電池と革のベルトを換えただけ。8年もつと言われた電池も7年ほど経ってさすがに弱ってきて、ベルトも相当くたびれてきました。もう以前ほどの出番はない時計ですが、どうしても使い続けたい理由があります。

 この時計は入院した父に「置いていって。明日家から腕時計持ってきて」と言われて一晩貸したものですが、突起部分を押すとバックライトで光ることに気づいた父は、自分のオメガの時計を受け取らず、「これでいい」と言って使い続けました。「これがいい」ではないのが父らしいのですが、その後、私の手元に戻ってきたのを使い続けてきました。できるだけ長持ちする電池を入れてもらいたいとお願いしたところ、時計の電池は単三などとは違うらしく、時計屋のおじさんの話では電池の寿命は同じとのことでした。今度はとのくらいもつのでしょう。

 少し前に、大学時代の同級生から精密検査をしに京都の病院まで行くという話を聞きました。「信用できる医者がいない」ので、やはり大学時代の同級生で、何故かその後医学部に入り直して医者になった親友に診てもらうとのことでした。体調という極秘事項は知り合いに知られたくない人も多いはずですが、それを調べてもらうとはよほど仲がいいのでしょう。検査入院と聞いて、「暇だったら読んで」と以前書いた書き物を渡したところ、持参して読んでくれただけでなく、主治医の同級生にも表紙だけ見せたと聞かされました。タイトルだけ見せて「これ、誰が書いたと思う?」と聞いたところ、「これは~川辺野さんあたりかな」との答えがあったそうで、それを聞いて私はじんわりとうれしくなりました。その同級生とはたぶん一、二度しか話したことがなく、私のことを覚えていてくれているだけでも有難いのに、ほとんど「隠れ切支丹」として過ごしていたつもりだった私は、そうでもなかったのかもと思えてうれしかったのです。あまっさえ、「『俺も読みたい』って言ってたから、読み終わったら送る」というメールが来たので、もちろん私からすぐに送ることにしました。検査入院の結果は何事もなかったようで、本当に良かったなと思いました。

 最近、ラジオを聞いていて思わず耳をそばだてたのは日本学術会議のニュースでした。推薦から外された六人として子どもの頃から知っている人の名が流れたからです。震災後、まだ再建前の福島教会を訪ねてくれ、四十数年前と全く変わらぬご様子でした。こういう人がこの世からはじかれてしまうのだなと受け止めました。残念ではあるけれど、むしろこれまで変わらず歩んでこられたことを寿ぐべきなのだと思います。自らの内に自らの考えと異なる視点を持つ人々を内包する包容力のない国家は滅びます。夏目漱石は『三四郎』の中で、上京する車内での会話として、日露戦争が終わって「これからは日本もだんだん発展するでしょう」という三四郎に対して、にべもなく相手の男に「滅びるね」と言わせています。これが 1908(明治41)年のことです。

 このところ記憶がどんどん回帰していく気がします。最近のことは思い出せないのに、十年前、三十年前、五十年前と記憶が飛んで、遠い遠い昔へと遡っていくのです。昔を想起させる出来事が起こったのは事実ですが、脳の老化と関わりがあるに違いありません。個人的には楽しい記憶ですが、世界の在り方としてはどうでしょうか。

かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。  (コヘレトの言葉1章9節)

 まことに、「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい(コヘレトの言葉1章2節)」のです。



2020年10月15日木曜日

「同病親しみを覚ゆ」

 同じ持病を持つ方が病状を記した書を読む機会がありました。私の方がずっと軽症なのですが、入院を避けて自宅でできるだけのことをしながら、丁寧に生活されているご様子に心打たれました。私から見て著者がお気の毒でならないのは、まだ十代の時に発症されたことです。本来ならできたはずのことを体調のために諦めなければならなかったのは、言いようのない無念だったに違いありません。大方したいことをやりつくしてから病気が判明した私とは比べものにならない深刻さがあります。一見健康に見えるので、公共の乗り物の優先席で、「若いんだから立ちなさい」と言われたことが相当トラウマになっているらしく、杖を持ったり、難病を証明できる証書を携帯したり、可能な限り座れる特急券を購入したりして自衛しておられるようです。

 身につまされたのは、「一見元気に見える」ということから、本人自身も「気の持ちようなのではないか」とか「疲れているだけではないか」とか「暑さのせいではないか」と考えてしまうという記述で、この方もやはり「体がだるい」ということが主訴であり、この病の特徴だと再認識できました。一例として、投票に行けないことを挙げ、投票自体は往復で30分ほどでも、その前後に2時間は休みを取らないと体に障るということを書かれていました。「ああ、やはり」という感じで、私は近場の外出にはそれほど支障はありませんが、かなりの移動を伴う外出や何か行事予定のある日はその前後の日を空きにしておきます。以前は1日とればよかったのですが、近ごろは2日は必要です。夏場は前後に3日ずつ休まないと無理と言う状態で、これは週に一日しか予定が組めないことを表しています。その一日はもちろん日曜の礼拝に当ててあるのですが、それでもこの夏は朝起きて体に相談して休むという情けない事態が頻発しました。オンラインのライブ礼拝に何度助けられたことでしょう。

 本を読んで感銘を受けたのは、体はきついはずなのに、著者が家でできる仕事をしながら自然体で暮らそうとしていることです。何度か入院を経験し、病院での生活を味わった末に選んだ暮らし方なのだと思います。彼女の精神の強さには比ぶべくもありませんが、一つ気を付けなければと心に刻んだのは「絶対、ケガをしてはいけない」ということです。殊に転んで歩けなくなったりせぬよう慎重に動こうと思いを新たにしました。気候のいい秋になりました。夏の時間帯で行動すると、朝のウォーキングから帰ってもまだ真っ暗です。もはや「こうあらねば」ということは何もないので、朝寝して昼間運動するのもありだなと考えています。

 期間限定の朗報として、インターネットで登録したeチケットを用いて1か月前に予約すると、JR東日本の新幹線が半額になるサービスが出ています。券売機で切符を買う時にもたついて後ろの人に舌打ちされた経験のある私には、スイカのタッチで乗り降りできる新幹線は夢のようです。高速バスでの移動が体調的にややキツくなってきたので試してみようと思います。バスも載っているだけなので楽は楽なのですが、単純に乗車時間だけを比較すると、三分の一の時間で済むのは本当に有難い。

 元気でいるに越したことはないですが、それが目的ではありません。元気でいるもよし、病を抱えているもよし、生かされていることに神を賛美し、喜んで生活できればよいのです。年齢とともにできることは確実に減っていきます。これも「できるもよし」、「できなくてもよし」、ではないでしょうか。たとえ何もできなくなっても、神の目から見て「私」の価が変わるわけではないのですから。


2020年10月9日金曜日

「紅春 165」

 


「りく、何だかちっちゃくなったなあ」と思います。トレードマークのしっぽは立派ですが、ずいぶんと小顔になりました。人間でいう、膝カックンも散歩中たまに起きます。しかし散歩を嫌がることはなく、いつでも催促してきます。外はりくにとって世間に触れる唯一の場所です。出れば情報収集に余念がありません。

 散歩から帰っても、一度は「まだ入らない」と言う頑固さも健在です。時々「ワン」と吠えるのは、必ず犬を連れた人が通る時です。挨拶の声掛けをしているのです。よい季節になったのでできるだけ外においてあげたいのですが、15分おきくらいには「そろそろ家に入ろうか」と言って、引き綱を引くマネをしないといけません。脚を突っ張って本気で「まだ」と頑張る時はそのままにし、これを繰り返して、本人が「もう家に入ってもいいかな」という気分になった時に引いて入れるのです。りくはへそ曲がりなところがあるので、なかなか大変。でも、放っておくと疲れすぎてしまうので、この手順は省けないのです。先日は少し長く外に置いたら、お座りをしてお地蔵さん(いや、狛犬か?)のように固まったまま、目を閉じて眠っていました。すぐそばに寄っても気づかないくらいでした。「いっぱい遊んだね~。楽しかったね~」と言って、足を洗って家に入れるのに抱き上げる時、「ああ、りく軽くなったなあ」と実感します。



2020年10月4日日曜日

「健診・検診をやめました」

  突然降って湧いた今年の感染症騒ぎにおいて、最も大きな変化の一つに医療とのかかわり方があります。多くの人が感染を恐れて医療機関を避けたため、病院に患者がいないという未曽有の事態となりました。私はどうしても必要な持病の治療には細心の注意を払って、できるだけ間隔をあけて受診していますが、これは通院が必要などなたも同じでしょう。「本当に医療が必要な人が、コロナを恐れて通院をやめているのは重大な結果を引き起こしかねない」という懸念が何度も報道されていましたが、私は完全に納得して同意することができません。感染症の致死率や症状について或る程度わかっているのですから、「本当に医療が必要な人」は病状に応じ受診しているはずです。そうでない人は現在の病状・体調と、受診した場合の感染のリスクを秤にかけて、受診を控えているのでしょう。おそらく今年、自分の病に真剣に向き合い、必要ない医療を切り捨てた人が少なくないのではないでしょうか。別の言い方をすると、感染症の流行が図らずも日本の過剰医療の実態を改善したとも言えるのです。

 私は毎年区の定期健診とその他の一部検診を受けてきました。職場の慣習として定着していたので、退職後も深く考えることなしに続けていたのです。今年は健診の案内自体が遅れて配布されましたが、その時点では受けるつもりでした。しかし、スケジュール上適当な日が見つからないまま延び延びになってみると、採血やレントゲンなど結構体に負担がかかるなと思うようになりました。職場の定期健診でも「朝食抜いて通勤なんて体にいいわけない」と健診の日は憂鬱でしたし、結果が分かってもあまりどうということはなかったのです。そして今年になり、「歳も歳だし、もう健診はいいんじゃないか」とふっと思いました。若いうちならともかく、ありがたい歳まで十分生きたし、健診はもう体にはデメリットの方が多いかなと冷静に思えました。それに伴い、以前生検までした部位の毎年の検診もやめることにしました。ただ週間で続けていた検診ですし、考えてみればあれからもう十数年たっているのです。何もないと考える方が妥当でしょう。

 私も過剰医療を自ら選択してきた一人でした。もう健診・検診を受けなくていいと思ったら、何だかパッと気持ちが明るくなりました。もちろん医療を拒否するつもりはなく、持病の通院は続けますし、どこか不調を感じたら迷わず医者に行きます。不調と言っても老化の範囲ならしかたがないと割り切って、あとはほどほどに気を付けながら、好きなものを食べ、適度に運動し、好きなことをして過ごしていこう、きっとそれが一番体にいいに違いありません。生物としてできるだけ自然な終焉を望み、あとは神様におまかせすればよいのだと自分なりの結論が出ました。コロナのことがなければ、このようにゆっくり考えることはできなかったかもしれません。その意味ではコロナのおかげ、コロナだって何の意味もなく到来したものではないはずなのですから。



2020年9月29日火曜日

「デジタル犯罪」

 いま感染症以外で日常化する危機といえば、なんといってもデジタル機器を介した犯罪でしょう。最近のドコモ口座への不正送金は、本人がその口座を持っていなくても、それどころか危険性を意識してインターネットバンキングなどを利用しないでいたとしても、被害が避けられなかったという点で社会に大きな不安をもたらしました。その手口の詳細はよくわからないようですが、暗証番号を固定して銀行口座番号を片端から当てはめていったのではないかとも言われています。それによると、何かの折に振り込みの記録がパソコン上に残っていて、ウィルス等により銀行の口座情報を読み取られた可能性があるとのことでした。被害にあったかどうかは、銀行で記帳しない限り気づかれないというのがまた恐ろしいところです。

 私はスマホを手にしてからしばらくの間、最適な入力の仕方を探して、それ用のキーボードを買った方がよいのかと迷いました。そのうち、音声入力が楽だとわかりましたが、私のスマホではなぜか句読点がつかない。そのためそれを補える方策を探すと、「しめじ」というアプリが見つかりました。ダウンロードしかけてふと見ると、「入力したすべての情報が記録されます」という恐ろしい注意書きが! 危なかった。気軽にメモすることで情報が流出するとはこういうことなのだと分かりました。考えてみれば、私のスマホは非常用。ほとんど使わないのですから、そこまで突き詰める必要など無いのだと、ハッと正気に返った感じです。

 パソコンの方でも怪しいことがありました。某通販サイトを彷彿とさせるアドレスから、「あなたのアカウントに異常な活動が検出されましたので、ご注文商品×××はキャンセルされました。 すぐにアカウント情報を更新してください」というメールが来たのです。注文商品なる×××は私が注文しそうもない最新の機器でしたので、「へんなの」と思いましたが、しばらくして「これがフィッシングメールというものか」と納得しました。「キャンセルされました」で安心させて、アカウント情報を新たに入力させて盗み取る手法です。もちろんすぐに、迷惑メールに登録しましたが、敵もさるもの、またちょっとだけ変えた紛らわしいアドレスで送ってきました。これももちろん迷惑メールに登録。油断も隙もありませんが、とにかく登録された知人のメールや自分が送ったメール以外には一切返信しない、手を触れないということだけ気を付ければ大丈夫な気がします。

 スマホを購入した携帯電話会社からは何度もアンケートやら何やら来ていますが、「別に返信しないのは犯罪じゃないもん」と何もしないを決め込んでいます。この場合は限りなく危険でない相手先だと思いますが、万一ということもあるので、もうこちらから働きかけをしたくない。ポイントなんかほしくない。「デジタル機器は危険の塊」という図式が強固に形成されているのです。こうして人は社会が信じられなくなっていくのでしょう。デジタル犯罪を犯す不届き者は具体的な行為による犯罪だけでなく、社会の信頼を根底から揺るがすという大罪を犯しているのです。



2020年9月21日月曜日

「紅春 164」


  二か月ぶりに動物クリニックを訪れました。たまたま連休の始まる土曜だと気づき、早めに出かけて開院十五分前には着いたのですが、十台くらいある駐車場の最後の一区画になんとか滑り込めたという混みようでした。続く連休中は休診なので、皆さん用心して受診されたのではないでしょうか。感染症対策のため順番まで三十分ほど外で待ちました。気持ちの良い曇りの日でしたので好都合でした。

 この二か月、腎臓ケアの食事療法の上、毎日きちんとお薬を飲んで、満を持しての診療でしたが、残念ながら結果は横ばい。項目別に良くなった数値もありましたが、全体として大きく変わったところはなく、やっぱりこれは老化だと納得しました。採血後、いったん連れてこられたりくは脚の止血が十分でなかったのでまた診察室にもどされたということもあり、採血もりくの負担にならないはずがないので、兄と「あとは食事療法とお薬だけで、クリニックに再訪しなくていいね」と話し合いました。今回の診療で一番がっかりしたのは、りくの体重が7.9キロになってしまったことです。「もっと食べさせてください」と言われても、これ以上どうすればいいのというほど一生懸命食べさせているつもりです。そんなに痩せたように見えないのと動きは活発なのが救いです。


2020年9月20日日曜日

「老年期の読書」

 読書が「読む」ものから「聴く」ものになって、時間のある時は、手軽なエッセイや実用本も含めて、日に二、三冊の本が読めるようになりました。あまり難しくない学術書や入門書はよいのですが、最近何だか文学書を読むのがキツくなってきたなと感じます。その理由は、「どうしてそんなふうに考えるの?」、「なんでそんなことするの?」、「なぜそうなるの?」と、登場人物の思考や話の筋に共感できないどころか、理解もできないということが非常に増えたからです。読んでいるうち、出てくる人物の不愉快さや荒唐無稽な筋立て、主人公の置かれたあまりにストレスフルな環境などに付き合う必要があるのかという気持ちが募ってくるのです。もちろん、付き合う必要はなくて、「縁がなかった」と本を閉じればよいだけです。こういう本は若い時ならよんでいたかもしれませんが、それとて「読んでおけば人生に益するものがあるのかも」という気持ちだったはずですから、この歳まで生きてきて、何の役にも立たないような本は読む必要がないなと、はっきり悟りました。自分が知らない世界でもまっとうな方が書いたものなら益するところがあるでしょう。しかし、今感じるのは、こういっては語弊があるかもしれませんが、書いている方の多くが、またその読者層も、大変病んでいると感じます。もちろん人間である以上、自分も病んでいると自覚していますが、その病み方に重なり合うところが全くないのでは、読書していても虚しくなるばかりです。

 その代わりと言っては何ですが、よくミステリーを読むようになりました。中には「その筋立ては無理でしょ」というものも散見されますが、謎解きという方向から光を当てれば「はずれ感」は薄まります。ミステリーは洋の東西を問わず歴史のあるジャンルで、およそ人間の営みのあらゆる方面を侵蝕しながら今日に至った感があります。以前、『少年少女世界推理文学全集』(あかね書房)について書きましたが、あの広大な分野をカバーする趣味の発掘全集の中で、一人だけ二冊本で紹介された作家がいました。ウィリアム・アイリッシュとコーネル・ウールリッチという別々の名で出されているので子どもの頃は気づきませんでしたが、これは同一人物です。少なくとも編集部にとっては相当に影響のあった作家だと言ってよいでしょう。この作家はサスペンスを醸成する手法に優れていますが、それにもまして都会で生きる孤独な人々の乾いた人間模様の描写が滅法うまい。その文学性に思わずはまったという人も多いようです。その後の数十年間のミステリーの発展は目覚ましく、今では謎解きトリックのバリエーション自体は底を打った感があります。そのせいか、現在では社会や人間の周辺部分および人物描写が充実し、文学とミステリーの境が限りなく無くなりつつあるのは確かなようです。別の言い方をすれば、現代では人間そのものがあまりに深い闇を抱えた謎になってしまったのです。


2020年9月17日木曜日

「紅春 163」


 帰省した翌日、早朝の散歩で土手へ上がった後、りくの動きに目を見張りました。タッタッと二歩ほどギャロップしたのです。間違いなく四本の足すべてが地面から離れ、疾走し始めるのではないかと思ったほどです。うれしくて自然と体が跳ねてしまうかのようでした。

 私が「えっ、まさか」と大いに喜んだのにはわけがあって、最近りくは脚が弱ってきているのではないかと思っていたからです。階段を踏み外したり、土手から帰る小道を逸れて隣の敷地に落ちたりしていましたし、兄も「散歩中何度かりくの脚がカクッとなるのを見た」と言って案じていたからです。ところがどうしてどうして、りくの脚はまだまだ大丈夫な様子です。時々こけるのは脚の問題と言うより、目が見えにくくなっているためかもしれません。

 その後もりくのギャロップ姿は何度か見られ、私の散歩の励みとなっています。足腰の老化はいかんともしがたい面もありますが、おそらく骨格や関節以上に筋肉に関係した問題なのだろうという感触を得ました。緩やかでも日頃から鍛えておけば、それなりに何とかなるかなという気がして、りくに倣って私も頑張らなければと思います。


2020年9月9日水曜日

「局所的ミニマリスト」

 台風通過後の暑さで、まだまだつらい9月です。ひと夏を寝たり起きたりしながら無為に過ごしましたが、読書だけはできました。『陰翳礼讃』の中で谷崎潤一郎が、夏は避暑地に行くより、「自分の家で四方の雨戸を開け放って、真っ暗な中に蚊帳を吊ってころがっているのが涼を納(い)れる最上の法だと心得ている」と書いていました。谷崎の場合は暑さのしのぎ方としてではなく、旅館はどこも明かりが多すぎるという理由からそう言っているのですが、私の過ごし方も少し似ています。冷房機器や扇風機、冷風機、アイスノン、濡れタオルなどを適宜利用しつつ、明るさを極力抑えた環境でのびていたというのが適当かもしれません。読書に目を使わなくなったので、光はさほど要りません。暗くなると、昼間窓辺で太陽光を浴びた小さな機器を部屋にいくつかポンポンとおいていきます。家具にぶつからないようにするためで、夜は照明をつけません。目が慣れてくるとまばゆいほどの光を放ちます。

 エネルギーに関しては私は結構ミニマリストです。それにはやはり東日本大震災の経験がトラウマになっていますし、近年の気候変動を考えるとちょっとでも地球にとっての節約をしないといけないと感じるからです。海水温が高くなりすぎたため生じると思われる台風の異常発達や、さんまや鮭がとれなくなったことで明らかな海の生態系の破壊などは一例にすぎないでしょう。

 最近、農家が丹精して育てた収穫間近の農産物や生育中の家畜が盗まれるということが頻発しています。他人の汗の結晶を盗むという行為は最も憎むべき行為ですが、先日の和牛の子牛の盗難については遺伝子情報を入手するための犯罪ではないかとも言われています。つらつらおもうのですが、お金を払えば美味しいものを好きなだけ食べられるという時代はもう終わったと考えるべきではないでしょうか。食物連鎖の頂点に近い家畜がどれだけの無駄を土台にしているかもう我々は十分知っており、これを続けていたら到底全人類を養うに足る食料がないのです。牛の排出する二酸化炭素が見過ごせない量であることも指摘されてきました。換金性が高く、地球に負荷の多い食料を作っていられる時期はもう過ぎたと私は思います。

 コロナ禍の生活において、また猛暑の中にあって、おそらく家庭では洗濯物が増えているのではないかと思います。私もウィルス除去のため洗濯機を回す機会が増えましたが、或る時から小さい物はその都度手洗いするようになりました。水の使用量が増えたためです。水は人間にとって最も根源的に必要なものです。地球にとってはもはや「お金を払えば好きなだけ使える」ものではないはずです。手間はかかりますが、大きなもの以外はこまめに手洗いすることで、使用料を最低レベルにすることができました。それどころか、以前は「基本料金までならいくら使っても同じ」と考えていましたが、今はとにかく「必要最小限の量しか使わない」と決めました。

 小さなことですが、これらの結論は今夏の暑さの中で身をもって感じた危機感に拠っています。もう手遅れかもしれないという思いはあります。そして、感染症の発生も決して無関係ではないと感じています。人間の欲望が越えてはいけない臨界点を越えてしまった結果でしょう。水・食料・エネルギー、これらは人間が生きていくうえで不可欠なものですが、十分な量があるうちはそれらは商品となり得ますが、全員の必要を満たせなくなった時点でそれらは商品であることを止めます。お金を払っても買えないものとなるのです。そしてそれを手に入れられない場合は生命の危機が訪れます。皆が使用を必要最小限にとどめ、少しも無駄にせず分け合っていくしかない時期が刻一刻と近づいています。


2020年9月1日火曜日

「秋来ぬと・・・」

  這う這うの体で八月を過ごしました。暑さにやられてすっかり体がおかしくなった感じです。熱中症で亡くなった方の中にはエアコンをつけていない方もいたという報道がなされる度、「エアコンはつけっぱなしにしてください」というアナウンスが流れましたが、老年者のことが分かっていないと思います。ずっと家にいる人でも最低限の用事や買い物で外出しなければならず、その時の気温差が半端なく身に応えるのです。エアコン入れっぱなしの室内でも、ちょっとずつ体のバランスが崩れていくのがはっきりわかります。唯一の運動機会である朝のウォーキングも、日の出前にすでに28度ということもあり、「今日はいかない方がいいな」との体の発する警戒アラートに従い、泣く泣く取りやめたことも何度かありました。夜は1~2時間おきに目が覚めて眠れず、その分昼間にうとうと・・・。経験上、健康管理にとって最も避けたい事態を招いていました。食欲も減退、手作りにこだわらず、また栄養バランスにさえこだわらず、とりあえず口に入るものを食べるという状態でした。感染症問題が起きてから、恐くて一度も外食ができず、普段の自炊は苦にならなかったのですが、ついに暑くて作る気力がなくなりました。「でも何か食べなきゃ」という危機感から欠かさず食べていたのは具沢山みそ汁です。これは好きな具材で前夜みそ汁を作り、冷蔵庫で冷やしておくと、翌朝本当に美味しく食べることができ、私にとって命綱のような食べ物でした。

 九月の声とともに涼しい朝を迎え、ようやく息ができました。気温が下がっただけでこんなにも体が楽になるとは思いませんでした。急に元気が出て、懸案の掃除ができました。掃除くらいと思われそうですが、この暑さの中で電気用品を使うなど、考えられないことでした。「今日を逃したらまた当分できないかも」と思い、せっせと使用したのは、今年購入した物の中で一押しの商品・「ふとんクリーナー」です。それは、一分間に六千回も叩いてほこりやダニを徹底的に除去する掃除機で、ふとんだけでなく、布製のものを非常に効果的に清潔にできます。うちはフローリングだけでなく絨毯の部屋もあるので、試しにこれで掃除してみたら、温風が吹き付けられるらしく、新品のようなふかふかの床になってビックリしました。ソファや敷物類にも掃除機をかけ、きれいになった空間で過ごせるのは精神衛生上もよいものです。

 猛暑の峠を越しただけで、まだ暑さとの闘いは終わってはいないのでしょうが、夏の暑さは一年ごとにしんどく、体が負けそうになってきていると感じています。感染症よりもずっと暑さに苦しんだ夏でした。


2020年8月24日月曜日

「激暑の夏」

  この夏の暑さも人間が生存できる限界を超えています。万一エアコンが使えなくなれば容易に生命の危険が訪れる暑さです。このような中でも何か活動ができる人は私などには想像できない堅固な意思の持ち主に違いありません。私が子どもの頃はまだエアコンがなく、夏休みというと午前中はなんとか「夏休みの友」に取り組めたものの、午後は家族みな一番涼しい北の部屋に集まって、ぬるい空気を掻き混ぜる扇風機の風だけを頼りに、ひたすらゴロゴロしながら読書や昼寝をしたものです。それでも何とかなっていたのは暑いと言ってもせいぜい36度くらいだったからで、時々出てくるおやつ(スイカや砂糖を振ったトマト)を食べながら、とめどなく非生産的に過ごすのが我が家の夏休みの過ごし方でした。ああ、あの夏が懐かしい。

 そんな習慣のまま今年も生産的なことは何もできずに過ごしていますが、このところ読書をしていても気が滅入ることが多くなってきました。フィクションの場合は純粋に楽しめることもありますが、歴史・経済・社会等を扱った本の場合は気持ちが落ちていきます。ちょっとでも希望が見いだせるような本ならよいのですが、過去や現状の分析を辿りながらその先の未来を考えると、どの本を読んでも全く希望のある未来は見えてこないのです。一言で言うと、金融資本主義が世界を支配し、それは人口の99.9%の人々を途轍もない不幸へと追いやるものです。世界中でa露わになった民主主義が破壊された現実を前にすると、経済支配を盾に黒を白と言いくるめる金融資本家の存在を嫌でも認めざるを得なくなります。それでも、自分のような既に老年に差し掛かった者はまだよいのです。気の毒なのは若者や子どもたちで、職業を選ぶにしてもこの先三十年、どんな職が存在するのか誰にもわからないでしょう。ましてやこの先、国家はどのように存在し得るのか、人間的な生き方をすることはまだ可能なのか、五年先、十年先でさえどんな未来が待っているか、確かなことは何一つわかりません。現実があまりにつまらない夢のないものになると、人は仮想空間へ逃げ込んでしまうかもしれません。私の場合は小説どまりですが、子どもの頃からインターネットに慣れ親しんだ世代には、仮想空間の方が本当の現実ということもあり得るでしょう。

 そうそう、夏休みに読んだ本でよく覚えているのは主人とはぐれた犬が千キロの道のりを辿って我が家に帰り着き、めでたく主人に巡り会えたという実話ですが、これは私の犬好きを決定づけた本でした。ニュアンスは少し違いますが、最近出会った動物の動画があります。ご存じの方も多いでしょうが、羊を追い回す癖を治すため、ハスキー犬のハイス君がしばらく子どもの羊(ホワイティちゃん)と一緒に過ごす機会を与えられました。毛づくろいしてやるなどよく面倒を見るようになったので、二人はそれぞれの場に戻され何年もたちました。久々にハイス君を連れて飼い主が牧場を訪れると、向こうの群れの中から一頭だけこちらに全力で駆けて来る羊がいます。すっかりデカくなったホワイティちゃんです。ハイス君は甘噛み、ホワイティちゃんは頭突きで歓喜の再会です。もはやホワイティちゃんはハイス君以上に大きく、結構押し気味にじゃれあっています。生物にとって子どもの頃の記憶というのはつくづく恐ろしいものだと思います。二人は追いかけっこしたり頭を合わせ合ったりしながら、いつまでも飽きることなく遊んでいるのです。ああ、癒される~。


2020年8月15日土曜日

「紅春 162」

 

 老年になり、りくの眼球が縮んで涙が出るようになった話は以前書きましたが、目の周りを毎日拭いてあげていても元のようには戻りません。以前私もそのような犬を見ると「ちゃんと拭いてあげればいいのに」と思っていましたが、もちろん飼い主さんはできる限りきれいにしてあげていたはずです。私の考えが足りなかったのです。

 りくにもいろいろと試してみました。水洗いから石鹸、ベビーローション、シャンプーなどを綿棒やタオルにつけて洗ってあげても効果ははかばかしくなく、「これならきれいに落ちる」というものにはまだ出会っていません。


 「りくの目、ピエロみたいになって来たね」と私が言うと、兄は「いや、歌舞伎役者『片岡りく之助』だ」などと言っています。本人は無頓着ですが、顔のお掃除はさほど嫌でもないようで、毛づくろいされていると思うのか、時々舌をペロペロして、返礼をしてくれようとします。今のところ、痛みなどの実害がないようなので、「できるだけ清潔に、きれいに」という程度でしかたないかなと思います。


2020年8月8日土曜日

「しかたなくスマホ」

  何年か前からガラケーの使用に制限がかかるようになり、ゆくゆくはスマホにしなけりゃならないだろうと思ってはいたのですが、ちょっと調べただけでもゾッとするような危険性が潜んでいることが分かるのでそのままになっていました。利便性は危険性の別名であり、スマホを使う限りユーザーのやること為すことを通して、その人がいかなる人間かについての情報ははグーグルによって丸裸にされてしまうことは明らかです。たとえGPSを切っていてもだいたいの位置情報は分かるし、クラウドに置いたものなどは筒抜けと言ってよく、使うアプリによっては(例えばLINEのように使い始めた瞬間にアドレス帳が抜き取られるものなど)個人情報ダダ洩れの状態が常態化するのです。ウィルスにより機器が遠隔操作され、犯罪者として誤認逮捕されるという事件もありました。

 しかし、5G時代の到来とともに4年後には今のガラケーで通話もメールもできなくなるというのでは安穏としてはいられません。ほとんど電話はせず、ほぼすべての事をパソコンで済ませ、「携帯電話は非常用」として持っているだけの私でももう背に腹は代えられなくなったのです。すぐに具体的な調査に入り、もはやメールアドレスを変える気力はないことから、現在利用中の携帯電話会社から機種を絞り込みました。といっても初めてのスマホユーザーに適合機種は2つしかなく、そのうち1つはワンセグTVが入っているので即却下。せっかくNHKと縁を切ったのにまたなんだかんだと言ってこられては困ります。残りの一つはなかなかよくできた製品で今の私には必要にして十分以上です。そういう気持ちのある今を逃したら、4年後までそのままになる気がして、すぐに直営店に電話で来店予約を取りました。携帯電話会社としても3Gの顧客をせめて4Gにご案内する義務があるためか、買い換えに関してよかったのは、キャンペーンに乗れて機種代金がゼロ円で済み、最後の一台になっていた希望色の機種が手に入ったことです。つまり同様の立場の皆さんが、ダイレクトメールに泡を食って重い腰を上げて来店されたようなのです。今後も非常用に近い使用方法を貫く予定なので、最初の一年はガラケーの時より利用料金が安く、二年目以降も今より五百円ほど高い費用で済むのが助かります。

 とりあえず電源の入れ方、通話とメールの仕方だけ教えていただき帰宅しましたが、説明を受けて契約、付属品の選択や必要な基本設定を終えるまで2時間ほどかかりその日は疲労困憊で就寝。翌日から少しずつ触っていますが、まだ全然慣れません。今のところ決めているのは、①「普段はGPSを切っておく」 ②「よほどのことがない限りアプリをダウンロードしない」 ③「データの保存は本体またはSDカードに行いクラウドにバックアップはしない」 ④「パソコンとリンクさせずに使う」 ⑤「当面、支払いなどお金に絡むことには用いない」といったことです。持つ意味あるのかと思われそうですが、そういう使い方を目指しています。それにしても既に入力の時点で長音記号が見当たらない・・・トホホ、先は長い。



2020年7月31日金曜日

「身体の第三段階」

 子どもの頃はどんなに遊び疲れても、「疲れを知らない子供のように」とはよく言ったもので、一晩寝ると翌日は元気になったものです。十代のうちは無謀な生活をしていてもそれで済んでいましたが、二十台になると運動した翌日には「あれっ」という感じで疲れが出なくなりました。体が鍛えられたのかと思ったら、言うまでもなく疲れは翌々日に来たのです。「疲れが翌日に出なくなったらもう『トシ』だよね」と、同じ世代の少しだけ先輩の方々は口々に言っておられましたので、「これがそうかあ」と思ったものです。
 しかし、二十代、三十代にとっての「トシ」などかわいいもので、歳をとるにつれて疲れからの回復力が落ちていくのをはっきりと感じていました。今年は7月の帰省の往復が相当体にこたえ、翌々日どころか回復にほぼ一週間を要しました。なんだかだるくてやる気が起きず、寝たり起きたりを繰り返す状態だったので、「これは新たな段階に入ったな」と実感せずにはいられませんでした。

 厚生労働省の平均余命の年次推移によると、終戦後1947年の0歳児の平均余命すなわち一般に言われる平均寿命は男50.06歳、女53.96歳と「アッ」と驚く数値が載っています。2010年の男79.64歳、女86.39歳と比べるとまるで人の寿命が30歳も延びたかのように錯覚してしまいがちですが、これはもちろんその大部分が乳幼児の死亡率の差がもたらす統計のマジックです。65歳時の平均余命は1947年の男10.16歳、女12.22歳に対し、2010年は男18.86歳、女23.89歳ですから10年ほどの延びにすぎません。これが75歳となると、平均余命は1947年の男6.09歳、女7.03歳に対し、2010年は男11.58歳、女15.38歳になり、およそ男は5年、女は8年ほどの延びということになります。もちろんこれは大きな成果ではありますが、大局的に見れば「老年に達した人の平均余命はそれほど無茶苦茶延びているわけではない、戦前も老人になるまで生きられた人はそこそこの天寿を全うできた」ということです。

 戦後、寿命が延び元気な老人が増えたとは言っても、所詮この程度の違いにすぎず、人間の身体は生物的制約を免れないのですから、そう大きく変わるものではないということがよく分かりました。そうしてみると、還暦とはケジメの歳を自覚させる実によくできた慣習です。身体が第三段階に入ったことを嫌でも知らせてくれるのです。

 昨日のことですが、早朝、公園へ行く替わりに自転車でJR駅までスイカのチャージに行きました。最近は公共交通機関をなるべく避けているので駅を通るついでにチャージするということができなくなっていたからです。往復して、心地よい疲れに体はすっきり、今日の運動は終了と思っていましたが、たまたま涼しい日だったこともあり、「今日を逃したら行く日がない」と愛用している強力粉を買いに離れた市街に行くことを思いつきました。こちらは途中まで自転車、そこから歩いていく場所にあり、実益も兼ねてバランスよく運動できるのです。疲労を感じながらも無事用事を終え、帰宅してからよくよく考えるとその日は自転車で25キロ、徒歩で3キロの運動になっていました。この結果はいつ体に来るのだろうと怯えつつ、今を過ごしています。しばらくはどの程度無理しても平気なのかをテストしていくしかないようです。この先の古稀やら喜寿やら米寿、卒寿等々と命名される区切りの歳も何かしら身体の変化に伴う、意味のある階梯を表しているのでしょうが、それがどのようなものなのかは今の段階では想像もつきません。




2020年7月20日月曜日

「紅春 161」

腎機能低下のため処方されたお薬を飲み続けて1か月たち、先日動物クリニックに行ってきました。処方された薬は米粒大の小ささなので飲ませるのが大変でしたが、肉やチーズに埋め込んで何とか与えてきました。血液検査の結果が改善されていることを期待していたのですが、全くダメでがっかり。あまっさえ体重がついに8kgになり、やや脱水気味と言うので三重のショック。

 ドッグフードに鶏肉のトッピングをしていたのですが、獣医さんの話ではたんぱく質過多は腎臓にはよくないとのこと、「あとは食事療法ですね」ということで、サンプルのフードをいただきました。念のためお薬も継続、次回は二か月後です。ただ、「水を十分飲ませてください」と言われても、そりゃ無理でしょ。なるべくこまめに水を取り替えていますが、諺にもあるように、水のそばまで連れていけても飲ませることはできません。りくは必要な時には自分でちゃんと飲んでますから。

 何だか重病患者を抱えたように気分が若干落ちていますが、りく自体は普段はいたって元気。本人のリクエストで毎日3~5キロくらいは歩きます。帰ってきてご飯の時、獣医さんにいただいたサンプルの療法食をあげてみました。二種類のうち一つはさほどでもありませんでしたが、もう一つはまず半分あげると、こちらが「え~」というほど勢い込んで食べ完食。何もトッピングをせずにフードを食べたのは久しぶり。カリカリという音を聞くのもここしばらくありませんでした。歯も弱ってきているので肉汁などでちょっと湿らせてからフードをあげていたからです。このサンプルは「チキン入り」と書いてあり、味付けがおいしいのかもしれません。さっそく通販サイトで1kgの小袋を注文。腎臓ケアのできるドッグフードだけで食事が澄むなら苦労はありません。りくに「早く届くといいね」と言いながら、心の中に「でもきっとこれも飽きるんだろうな」との思いがわきます。時々は前の食事も織り交ぜながら、だましだまし食べさせていくしかありません。散歩の途中、ころころ太った柴犬を見ると「いいなあ」と思ってしまいますが、あれはあれで飼い主さんにはご苦労があるのでしょう。


2020年7月17日金曜日

「メンテナンス力」

 実家の茶の間の外に面した障子が破れていたので部分的に張り替える。以前は取り外して全面張替えをしたが、張り替え後にはまらなくなり父の助けを借りて入れてもらったことがあった。もう父はいない。そこは取り外しての張り替えは無理な場所なのだ。部分的張替えなので『巨人の星』っぽい雰囲気になるがしかたない。
 靴下に穴があく。ほかの97%は無事なので修繕する。なぜかこういうものが捨てられなくなっている。
 マンションのフローリングが浮く感じがする。ドリルで小さな穴をあけ、それ用の接着剤を流し込んで床下と接着する。ふ~ん、素人でも直せるのか。
 外出するときポケットの多い服が便利なので、見えないようにポケットを付け足す。ポケットがあっても必要なボタンやチャックがない服(ポケット口が斜めになっていて入れたものが落ちそうになる箇所)にはホックをつける。
 アコーデオン式の網戸が開閉に支障を来しているのでこれも修繕しないと。そもそもアコーデオン式の網戸の利点がよくわからない。下手したら開閉時に虫入るよね、ぶつぶつ・・・。
 
 人生のほとんどはメンテナンスだなと思います。新しく作るより、日々壊れゆく事物を維持・管理するほうがどれほど大変なことか。私も時間がなかった頃は捨てては新しくし、ダメになってはすぐ交換し・・・を続けていました。メンテナンスがきちんとできる人は社会で信頼される人だと思います。メンテナンスの最たるものは人間関係です。忙しい時は物に関するメンテナンスは業者に任せてもよいのですが、人間関係はそうはいきません。ちょっと手を抜くとどんどんこじれて事態が悪化したという経験は誰でもあるでしょう。そしてそうなると取り返しがつかないことも多いということも身に沁みてわかっているのです。世の中がますますせわしなくなってゆく昨今、若い人は多忙すぎて時間がなく、年老いると時間があっても体力・気力がないというのは残念ながら世の常。現実世界のものは全て、放っておくと必ず少しずつ壊れていきます。この強大な力に立ち向かい抗いながら、日々ちょっとの時間を見つけ自分を励ましつつメンテナンスに取り組んでいくしかないようです。


2020年7月10日金曜日

「夏朝一刻値千金」

 週間予報をチェックしたら、一週間先までずっと雲と雨の図柄で構成されていました。がっかり。最近は夜目覚めると、窓際に行って空模様を見ています。とにかく朝だけ止んでくれないかなあと。とにかく健康を保つこと、歳をとるとこのことの重要性が身に沁みます。ただ元気でいるのが大事というより、「しっかりした身体と堅実な習慣が人の思考を司る」ということに深く同意するからです。

 今日は三日ぶりに朝の見回りに行けました。雨でさえなければ、私は毎朝領地の見回りに出かける領主となります。近隣にある広大な某公園にウォーキングに行くのです。非常によく手入れが行き届いた美しい公園です。都心から遠いので早朝にここに来られるのはほぼ区民だけ。感染症の影響で立ち入りが一時禁止された都立公園もありましたが、ここは遠すぎて人が来ないせいか、その時期も立ち入り禁止にはなりませんでした。しかし、遊具等は使えないようテープが貼ってあり、草刈もきれいに行われており、とにかくよく管理されていることは確かです。負け惜しみでなく、毎朝ここを利用できる場所に住んでてよかったとつくづく思います。帰省して家の周りの草むしりをするだけでも四苦八苦しているので、これほど広大な公園を維持管理するのがどれほど大変かよくわかります。私は領主として見回るだけ・・・庭師さん、ありがとうございます。おかげで区民がどれほど快適に過ごせることか! 走りながら見回り中の方、三頭立ての馬車ならぬ、三頭立ての柴犬様と共に見回り中の方、毎朝杖を突きながらゆっくり見回りをされているお年寄りの方・・・今日も数名の領主と出会いました。みな幸せそうです。

 帰ってきて温泉に入り、といっても勿論ただの朝風呂ですが、お洗濯をして一段落。水汲みに往復数時間の地に暮らす少女のことを思えば、何と幸せなことか! いつもこんなふうに負荷を極限まで下げたスモール・ステップで生活しているので、「今日の仕事はほぼ終わったな~」と、好きなことをすべく一日の残りの計画を立てながら、ゆっくり朝食をとっています。

2020年7月7日火曜日

「老齢の女」

 今から百年ほど前の小説を読んでいて、「六十歳の老婆が・・・」という言葉にぶつかりました。「六十歳の・・・老婆とはあんまりじゃありませんか」と思うのは今だからで、百年前は六十の女は老婆だったのだとしばらく言葉が出ませんでした。そして思い出したのは、「そう言えば子どもの頃は顔に深いしわを刻んだ女の人がいたなあ」ということです。あれは今は全く見ない顔です。子ども心に、老婆とはあのような老年の女性を形容する言葉でした。

 還暦を迎えていても、現在女優のOやHを老婆と呼ぶ人はいません。それどころか、後期高齢者の仲間入りをした国民的大女優Yに対してもそんな風に呼ぶ人はいません。女優さんはそれこそ様々な魔術を使っているのかもしれませんが、一般の人でも実年齢より十や二十ほども若く見える人は少なくありません。別に美容手術などしなくても、見た目に影響する三大要素は肌・髪・歯で、この手入れをそこそこしていればよいのです。一番難しいのは肌のお手入れですが、これは体質に大きく左右されるので、残念ながら手入れすればそれだけ効果があるというものではありません。間違いなく言えるのは、食事と運動が内側から肌を美しくするということでしょう。自分のペースで長続きさせることができるかどうかが鍵です。髪について私の印象では、白髪が目立たないだけで十歳は若く見えるようです。歯は体質による個人差が現れやすいですが、口から食事が摂れることがどれだけ大事かを考えると、こまめな手入れが一番必要な部位です。

 昔、家事は文字通り重労働でした。仕事を持ちながら片手間に行えるようなものではなかったので、家庭内ではほぼ女性が担う役割でした。外での仕事も多く、紫外線を浴びる中で「老婆」がつくられたのです。現在新しい家電が出ると、常ならぬ好奇心が沸くのは遠い記憶が呼び起こされるからでしょう。ともかくこの百年で日本の老婆の基準は二十歳上がりました。これはやはりよいことなのでしょうね。

2020年7月2日木曜日

「医療機関への国の支援を!」

 現在東京都の感染者は一日50人程度であることが発表されていますが、夜の繁華街での感染者が多く、そういった生活習慣のない人にとってはコロナ感染は中休み的な状態になっています。地域によらず、昼のカラオケによる感染もあるようですが、コロナははっきりと「飛沫感染」のリスクが初めからわかっていますので、これは不注意によるものと考えられます。発話したり、歌ったりというのが最も危険な行為なのです。お好きな方には気の毒ですが、一人で行くか少人数で離れて行うかするしかないでしょう。

 一時は時短や営業時間の変更があったスーパーは平常に戻ってきましたので、今一番気になるのは病院です。定期的に通院している或る病院は、先日行ってみたところ患者がかなり減っていました。そこはコロナ患者の受け入れ病院ではなく、院内感染はもちろん職員にも感染者は出ていないのですが、私が見たところ患者は半減しているように思えます。早く終わるし、次の予約も入れやすいのでありがたいのですが、やはり考えてしまいます。もともと診察の必要のない人が感染症騒動で来院を控えているのならよいのです。風邪程度で病院にかかるのは日本くらいですから、不要な通院を控えることにより膨れ上がった医療費の削減につながるとしたら望ましいことです。しかし、心配なのは病院の先行きで、これまでの方式で出来上がっていた経営からすれば、急に収益が半分になるのは大変なことでしょう。

 私が通院しているもう一つの病院はコロナ患者受け入れ病院ですが、院内感染を起こさずに事態を収束させました。緊急の感染症対策に取り組み、「それでこそ病院」と思える見上げた態度だったと思います。しかし一方で、ここは入院患者が大量に退院して、大きな赤字を抱えることになりました。患者が病院を選ぶのはしかたのないことですが、コロナ患者受け入れを要請した国がここで何らかの赤字補填をせずにどうしようというのでしょうか。そうしなければ今後もっと致死率の高い感染症が流行しても、患者の受け入れをする病院はなくなるでしょう。支援の程度を見極めるのは難しいかもしれませんが、これは国にしかできないことなのでしっかり取り組んでほしいと思います。各国の医療体制があからさまになる中、日本は様々な観点から見てよく奮闘し、健闘したと思います。よいことばかりとは言えませんが、「自粛」でそれなりに済んでしまうこれほど民度の高い不思議の国はないでしょう。せめて国には「絶対に国民の命を守る」という気概をもって、医療体制の維持に努めてほしいと思います。


2020年6月27日土曜日

「困難な時代の処方箋」

 或る書類を書いていて、社会はどんな人々で成り立っているのかとふと考える機会がありました。というのは、その書類に書かれた一つの項目の選択肢の中で私が選ぶとすれば「無職」しかないのですが、一言で無職と言ってもいろいろな場合があるだろうと思ったからです。私の場合、いくらでも引きこもっていてよい今は人生の中でも一番いい時期かもしれないと感じています。人間の歴史の中で、大多数の人が好きなことを思う存分できた時代があったのかどうかわかりません。もちろん個人単位ではそれができた人は山ほどいるでしょうが、ひょっとするとそれは案外幸運な人だけだったかもしれません。せめて死ぬ前くらいは好きなことをさせてくれと言って実行した人の話は時々聞くことがあります。

 義務教育が始まるのは6歳、退職の年齢は変化しつつありますが、とりあえず60歳として、この間の54年間のうち就学、就業の期間があります。この期間は人によって長さがまちまちですが、身分というか肩書きは明確です。今それ以外の期間を送っている人、つまり、学校に通っている人と職に就いている人を除いて考えてみます。すると残るのは、専業主婦(もしくは専業主夫)、家事手伝い、浪人生がまずあり、その他に病気や家族の介護等で働けなくなるケース、また何らかの理由で就学・就業ができないケースが考えられます。どれも昔からある形態なのでしょうが、高齢化社会が進むとともに介護離職が増えたり、社会の複雑化に伴い不登校やひきこもりなどその他のケースが注目されるようになってもう随分経ちます。

 戦後の75年だけを考えても、社会は想像を絶するほど変わりました。かつては定年退職後は10年ほどで人の一生は終わりましたが、今では定年後に20年~40年ほども生きるようになりました。終身雇用は崩壊し、短期業績が重視され、非正規雇用が増大、正社員になることさえ簡単ではなくなりました。学歴の選択も、かつて約束されていた職業に必ずつながるものではなくなりました。今ある職業の半分は将来AIに取って代わられると言われていますし、職に就くことが問題ではなくなる時代が来るのでしょう。実際、今自分が十代の若者だったら本当につらいと思います。なぜなら、今問われているのはどんな職業に就けばよいのかというよりずっと根源的な問いだからです。やがて職に就くことが強いられない時代が来るでしょう。その社会でこそ、人は一生の間にやるべきことが問われてきます。「あなたは何者か」という存在に関わる問題なのです。

  現在自分が楽しく引きこもっていられるのは、時代的なものも含めてただ幸運だったとしか言えません。この狂騒的な競争社会で最も忘れられているのはおそらく学ぶことの愉悦でしょう。これは速さを競う世の中では探求しにくい喜びであり、我慢や待つという忍耐を必要とする大事業だからです。しかし人が60歳までに知るべきことがあるとしたら、この学びの愉悦と最低限の社会性だろうと思います。学校という集団内で普通に生活する中で社会性を身に付けることがいつから化け物じみた困難を伴うものとなってしまったのか・・・。学校というシステムの制度疲労、これは全く由々しき問題です。別に学校でなくてもよいのですが、社会の中で生きていける人間関係のスキルはどこへ行っても必要です。生まれつき外向的な人と内向的な人がいるのは厳然とした事実ですから、無理して装わなくてよい場所を見つけてほしい、少しずつ自分の周りを住みやすい場にしていってほしいと切に願うばかりですが、それは難しいのでしょうか。諦めずに通じる言葉を見つける努力はできないものでしょうか。それは致命的に大事なことのように私には思えます。集団が苦手な人でも社会的存在として課題に対応する力がついていること、そして自分なりの楽しさを感じながら技術なり知識なりの探究ができれば、もうそれはよい人生ではないでしょうか。


2020年6月20日土曜日

「紅春 160」


 5月に受けたりくの定期健診の結果が来ました。いつも「特に異常ありません」というコメントとともに送られてきていたので今年もそのつもりでいたのですが、今回は「赤」がつきました。それもギリギリの数値ではなく、はっきりと「赤」です。



 初めての赤点の通知表を前に家族会議。腎機能の機能低下については思い当たることがありました。昨年10月末に初めて家の中でのりくのお漏らしが起きましたが、りくももう歳ですし、叱ることなく「家でしてもいいんだよ」と言ってきました。しかし、りく自身が家の中でトイレをすることがイヤで、我慢していたようなのです。8か月経ってそれが体に来たのではないかと思ったのです。

 相談のためりくを連れてクリニックに行ってきました。三密を防ぐため私は診察室の外にいましたが、兄が獣医さんに聞いた話では
①おしっこを我慢して膀胱炎になることはあるが、腎機能自体に問題が起こることは考えなくてよい。
②塩分は腎機能に問題がある場合控えた方がよいが、塩辛い物を食べて腎機能障害になることは考えなくてよい。
③「水をがぶがぶ飲みますか」と聞かれ、それほどではないと答えると、それほどひどい腎臓病ではないとのこと。
③一番の原因は加齢である。

というわけで、とりあえず「お薬を飲んで様子を見ましょう。また1か月後に来てください」ということで診察が終わりました。ついでに狂犬病の注射をしていただき、お薬をもらって帰ってきました。お薬は小さい錠剤でさらにそれを半分に割ったお薬でした。これを毎日飲む。クリニックに行って診てもらい安心しました。加齢はどうしようもありません。りくは先ごろ亡くなったワサオと同い年ですから、もう90歳なのです。帰ってきて様子を見ていましたが、りくはとても元気にしています。行ってきてよかったです。


2020年6月13日土曜日

「紅春 159」 

朝、りくが起こしに来て、何度かやり取りした後、「そろそろ起きるか」という頃になると、「ああ今日も神様は新しい一日を与えてくださった」と、感謝でいっぱいになります。福島での生活は判で押したように、りくの散歩、草むしり、日常の家事、余裕があればパソコン作業をしてだいたい午前中が終わり、昼食後の休憩をはさんで、りくの散歩、りくの遊び相手、夕飯、余裕があればパソコン作業をし、一日が終わります。この間、パソコンに向かうとき以外はだいたいイヤホンをして読書(聴書)をしています。本さえ読めればご機嫌な私には、聴く読書ができるのは本当に幸せです。

 りくは特に何するでもなくおとなしく傍にいますが、何といっても一番好きなのは散歩で、「隙あらば・・・」とさりげなく私の様子をチェックし、ここぞという時に「隙あり!」とモーションを掛けてきます。気候さえよければりくとの散歩は清々しく気分がよいものです。りくはただ歩いているだけで楽しいのだろうかと思うのですが、これがとても楽しそうなのです。「ただ歩いているだけ」ではないのです。散歩中りくは無我夢中であちこちクンクンしています。真剣そのものです。あの様子は私の読書と同じで、りくにとって散歩は新聞を読んだり、本を読んだりする情報収集の時間なのです。私もイヤホンをしながらの散歩ですから、「りく、お互い楽しいね」と優しい気持ちになれるのは何とありがたいことでしょうか。

 りくは、というか、犬は人間の最高の友です。邪気がなく、思いやりがあり、遊んでいると意外な面白い発見があるので楽しいです。疲れていても、ついついりくの無茶なリクエストにも応えてしまうのです。しかしこれも、時間に余裕があるからできるのであって、勤めていた時のことはもう思い出せません。今は責任ある仕事はないので本当に気が楽です。たとえ不愉快なことがあってもその場限りで終わり、後を引くことがないというのは、精神衛生上理想的です。一日の終わり、茶の間で「あ~、今日もいい日でした」と我知らず口に出したところ、「へえ」と兄に驚かれてしまいましたが、その後すぐに「それはよかったね」との言葉がありました。私もそう思います。



2020年6月12日金曜日

「マックス・ウェーバーと内村鑑三」

 先日いただいた『官僚制の思想史』という本の中で、キリスト教に関するコラムを読む機会がありました。内村鑑三について知るにつれ、久しぶりにマックス・ウェーバーを読み返し、気づいた点を記しておきます。これはおそらく内村鑑三とマックス・ウェーバーが全くの同時代人であることと無関係ではありません。

 マックス・ウェーバーによって1904年~1905年に書かれた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫』と略します)は、かつて私にはどうも眉唾物に感じられる書物でした。しかし40年後の今読むと、読めた気がする、即ち、何だかサクサクと分かる、しっくりと心になじむことに気づき、自分でも驚きました。この間に起こったことは明白で、それは最初に詠んだ時は学生だったのに対し、その後自分が「教職を天職として」(すなわち職務に関する働きのすべてを神に献げるものとして)働いてしまったという現実を経たことに尽きます。退職して初めて、自分が全く教師に向いていなかったことを知りましたが、在職中は教職を「天職だ」と思っていたのです。この幸いな勘違い(思い込み=信仰)がなければ、三十年近く働くことはできなかっただろうと思います。

 M.ウェーバーが『プロ倫』を著したのは、まず出発点として「近代資本主義がなぜ他の地域(中国、インド、バビロン等)では起きず、西ヨーロッパおよびアメリカでのみ起こったのか」を問うことから始め、考察を進める中で「近代資本主義を可能にした精神を、西欧に固有のエートス、とりわけカトリックではなくほかならぬプロテスタントの倫理に求める」という経過をたどったのではないかと思います。プロテスタントといえばカルヴァンの「予定説」に触れざるを得ませんが、「予定説」とは自分が救われるかどうかは予めきまっているという、或る意味無茶苦茶な説です。この説によれば、人は善行と悪行を前にして、「救われることに決まっている」なら悪行を行っても救われるのであり、「救われないことに決まっている」ならいくら善行をしても救われないということになってしまいます。この場合、功利主義者なら悪行を選ぶことにためらいを感じないでしょう。しかし、この問題を考えるにあたって考慮しなければならないのは、「全知全能の神様は『私がどちらを選ぶか』をあらかじめ御存じで或る」という大前提があることです。すると、プロテスタントはおそらくこう考えるでしょう。「神様は『私が善行を選ぶ』ことを御存じのうえで私の救いに関する決定をなさったはずだ」と。かくして「予定説」は、ともすれば低きに流れがちな人間を常に緊張のうちに宙吊りにすることになります。「善行をすれば救われ、悪行をすれば救われない」という単純な説のもとでは人は惰性に流れ、腐敗が生じてしまうのです。人間は欲せずして悪行を行ってしまう存在ですから、社会の腐敗は徐々に進行していきます。事実、悪行の罰の赦しを金で買う贖宥状に対して、プロテストするところから新教が始まったのです。ウェーバーはこの論理の運びを「我々は神が決定をなしたもうとの知識と、真の信仰から生ずるキリストへの堅忍な信頼をもって満足しなければならない」という言葉でごくあっさり説明しています。つまり、「救い」は神がなした決定であり、人はキリストを信じてお任せすればよいのだということです。カルヴァンの「予定説」は、救いに関する神の答えを人の行動から推し量るという臆見を許さないのです。

 日本では何故か「予定説」が強く意識されることはないように思います。少なくとも私はそうでした。その理由を考えてみて、はたと思い当たることがあり、同時に私がかつて『プロ倫』を読んだ時になんだかピンとこなかった訳もわかりました。それは端的にキリスト教国における信徒の人数と日本における信徒の人数の差に由来するのです。キリスト教国では宗教は古くからの慣習であり、国の制度そのものに組み込まれていますが、日本ではキリスト者は極めて少数にすぎません。日本のキリスト者にとっては信仰告白をした時点で、意識するとしないとにかかわらず、「自分が神に選ばれていること、すなわち救われていることは自明」なのです。その点、日本のキリスト者には迷いがありません。その観点からすれば(イエス・キリストの言動からは外れるのですが)日本のキリスト者の多くが自分の就く職業を「どんな職でもよい」と思っているとは考えにくいのです。職業選択の際、多くのキリスト者の念頭にあるのは(内村鑑三ならずとも)おそらく「神と人とに仕えることができる仕事」であり、「できる限り汚いこと(悪)に手を染めずに済む仕事」なのではないでしょうか。明治初期の気合の入ったキリスト者とすればなおさらで、「職業に貴賤はない」という言葉をそのまま我が身に引き付けて考えることは難しかったことでしょう。職業、天職とは、『プロ倫』の中で何度か述べられているように、「(神に)呼ばれる」という意味を明確に含む言葉だからです。独語のberufen (呼ばれる、~に任命する)からのBerufでも、ラテン語vocare (呼ぶ)から派生した英語のvocation、やそのものズバリのcalling など、全て同様です。

 ちなみに、内村鑑三が『日本国の天職』(1892年)で用いたmission という語は「(神に)送られる」という意味を含む、もう一段踏み込んだ言葉です。渡米により内村鑑三がキリスト教国アメリカの実態に触れ、義憤や幻滅を感じたのはその通りですが、そこから「自分の天職」を越えてさらに「日本国の天職」を考えたのが明治という時代でした。この時期の日本の知識階級は自国が欧米に比べて著しく劣っているという強い危機意識があったのは間違いありませんが、事実は、未開・劣等と自分を見下している欧米の国へ学びに行ったところが、異教徒も真っ青の、倫理上あり得べからざる現実を突きつけられ、劣等意識に変化が生じ、強い自国意識に目覚めたという人が多かったのです。例えば、弘前出身でホーリネスの中田重治は、渡米してムーディ聖書学校で学んでいますが、後に日猶同祖論という不思議な説を唱え『聖書より見た日本民族の使命』と題する講演をしています。経緯は知りませんが、これなども自民族意識の覚醒が日本をユダヤ民族という選ばれた民に重ねた結果なのではないでしょうか。

 キリスト教国の歴史と現実は、実のところ、反キリスト的なものに満ち満ちており、とても手本にはならない不健康で不穏なナショナリズムに駆動されています。明治期に新しい国家を模索していた日本人は、このように劣等感と優越感の入り混じった複雑な心性をもっていたため、国家の構築を裏打ちするはずのナショナリズムは掴みどころのないものとなりました。それゆえ日本は歴史の様々な局面で時に迷走しながら、国家の歩みとともにナショナリズムも変容していったのではないでしょうか。

 「キリスト教」ではなく、「キリスト」を信じるという姿勢をとことん追求したのが内村鑑三であったと思います。内村の念頭にあったのはおそらく、和魂洋才といったアマルガムとしての日本ではなく、「西洋的なるもの」と「日本固有のもの」を「キリスト信仰」によって止揚し、新たな日本という国を作ることだったように思えます。マックス・ウェーバーは『プロ倫』の中で、「宗教改革は合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して、世俗の宗教生活のうちに持ち込んだ」と述べていますが、これを内村鑑三の言葉で言えば、「西洋的合理主義と日本的精神を西洋および日本から引き出して、キリスト信仰を土台とする生活のうちに持ち込む」ということであり、明治維新のこの時が千載一遇の機会に思われたのでしょう。

 「国粋」という言葉はもともとNationalityの訳語として「国(あるいは国民)の精粋(本質)」というほどの意味で、現在いわゆる「国粋主義」という言葉で表されるような意味を含んでいませんでした。「国粋」という語を最初に使ったと言われる志賀重昂は、札幌農学校において内村鑑三及び新渡戸稲造の二年下の四期生です。W.S.クラークの感化を受けて一期生は全員キリスト者になっており、上級生の圧に屈する形で内村鑑三が入信した経緯は『余は如何にして基督信徒となりし乎』に記されています。一読すると驚くような経緯ですが、人を本当に成長させるのはいつもこういった「厄介な贈り物」なのです。W.S.クラークというカリスマ的個性が去った後はどうだったのでしょう。志賀重昂がキリスト者であったという話は聞きません。彼のその後の人生は、常に絶対他者と向き合わねばならなかった内村鑑三とは違う歩みになったことでしょう。それは、変化という点では、「国粋」という言葉が時代の中で辿った変遷と少し似ているかもしれません。

 内村鑑三の場合、渡米の経験を抜きにその後の思考や活動、つまるところ人生の軌跡を考えることはできません。しかしそれは「日本人としての覚醒」をもたらしたという意味であって、「天職」思想そのものはまさしくプロテスタンティズムそのものに内在する考え方です。そう確言できるのは、私自身、在職中は毎朝、「今日の働きの全てをあなたに献げるものとして行うことができますように」と神に祈っていたからです。内村鑑三(1861-1930)とマックス・ウェーバー(1864-1920)はほぼ全くの同時代人と言ってよく、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』はまさに『プロ倫』と同時期(1904年)にドイツ語訳もされてヨーロッパで評判になってもいるので、M.ウェーバーが読んだ可能性は高いと私は推測しています。その場合、M.ウェーバーはこの日本人回心者がその思考、心的態度、行動様式という点で、あまりにもプロテスタント的であるのに目を見張り、或る異教徒の回心者(a heathen convert)の記録を喜んで自説の例証に加えただろうと思います。

 或る民族が圧倒的な力の存在を認めた相手国の宗教を、喜んで受け入れる現象は、戦後の日本でも見られたことですが、これは例えば、旧約時代のユダヤの民が一度も世界帝国になったことがない、それどころか長期にわたって強国としての地位を占めたことさえなかったにもかかわらず、ヤハウェ(神)を捨てなかったのと対照的です。ヤハウェへの信仰こそが彼らを彼らたらしめるものだったからです。その点では内村鑑三も「自分は何であって、何でないのか」という問いを常に自らに突きつけて生きたキリスト者であったということは、間違いなく言えるでしょう。

2020年6月6日土曜日

明治徒然話10  ― 漱石の道筋5 ―

10.先生

 その後も新聞の連載は続いたが、『三四郎』を書いたあたりで、家のごたごたやら大病やらに見舞われた。なんとか最初の三部作は書き終えたが、その後はもう体がボロボロだった。いつ死ぬかわからないと本気で思った。だが、まだ死ねない。書いていないことがある。胃潰瘍による中断もあったが、ようやく私にとって書かずには終われない一世一代の作品に辿り着いた。時はもう大正三年になっている。これが書けたらいつ命が尽きてもいい。私は「先生」をめぐる作品に取り掛かった。

 あれは何だったのだろう。あの桐の箱は福翁からのものだと思っていたが、考えてみれば何の確証もない。今となっては誰からのものでも構わない。とにかく面識も接点もない誰かから私に宛てられた書状だ。独白だから「ふ~ん」と読むだけでよかったのだが、読んでしまった後は何故か無視できないものになった。独白であろうと、それが私宛のメッセージであることだけはどうしても否定できなかったからだ。そしてその中身はたった一言、「成熟せよ」で間違いないかと思う。一人の天保の老人がほぼ一世代違う私に対して残したメッセージが「成熟せよ」なのだ。彼は「身の程知らずであろうとも、洋学者としてできることをするのが自分の使命」だと言っていた。私は文学の世界でこれに倣おうと思う。今、私は勝手に彼を「先生」と呼ぶ。いや、すでに私はずっとそうしてきたのだ。だからここまで来ることができた。だが、そろそろ私も私の桐の箱を誰かに送らなければならない頃合いだ。この作品を書くことによって、私は自分の務めを果たそうと思う。

 「私」は、或る日鎌倉の海水浴場で外国人をものともせずに泳ぐ人を見つけ、言葉を交わすうち、その人を「先生」と呼ぶようになる。「先生」は特に人より秀でたところがあるわけでもなく、立派な肩書があるわけでもない。それは「先生」自身が言う通りである。それにもかかわらずと言おうか、むしろそれだからこそと言うべきか、「先生」に対する「私」の弟子としての敬愛はいっそう強くなる。そして、「先生」とはいっても、その人が「私」に教えるべき具体的な知識や技術はほぼないのである。こう書けば「先生」がまるで空疎な人間で、「私」が求めているのは「空疎な存在としての先生」だということがいやでもはっきりするだろう。「先生」は張り子でよい。いや、張り子でなくてはならない。なぜなら、それにより「私」は自分が成長し、大人へと脱皮する道筋を自己決定できるからである。それ以外の方法で人が大人になることはあり得ない。人は自分でなした決定にはどこまでも責任を負うのだ。おそらく自分の決定に従って自分の責任を負って長いこと歩んだ後に、人はこのからくりにふと気づく。あの桐の箱に収められていたのはまるで荒唐無稽な戯言だったのだと知る。そして先生はもういないことに慄然とする。先生に恩を返せるとしたら、大人になったことを示す以外ない。空位となったその席に、黙ってすべてを飲み込んで自分が座れるかどうかだ。王の席を塞いでいる幻影を前にしたマクベスのようにうろたえてはならない。先生はもういない。幻影を押しのけてその席に座るのだ。

 私もようやくそれがわかる歳になった。この作品において私は、先生という存在の本質的な悲しさを暴露したつもりだが、果たして、正しく解読してくれるだろうか。いずれにしても私の務めは終わった。今頃になって二葉亭が『平凡』の中で残した言葉が身に染みる。なんと多くの贈り物をもらっていたことか。二葉亭は「浮世は夢の如しと気づくのに、皆判で捺したように十年遅れる」と書いたが、私はとても彼にはかなわない。この体ではもう何年ももつまいが、今、私を笑う青年たちに私は謎を掛けた。もしこれが解けなければ彼らは十年遅れて気づくどころか、後の青年たちに笑われて、青年のまま墓に入ることだろう。『こゝろ』はヤングメンに与えることのできる、私からの最上の贈り物である。最後に先生らしい言葉を残すとすれば、やはりこれだろう、「成熟した人間になって良き人生を送られるように。健闘と幸運を祈る」。                                (了)


明治徒然話9  ― 漱石の道筋4 ―

9.非自然主義

 それから何年もしないうち、訃報がもたらされた。長谷川二葉亭、いや長谷川辰之助が亡くなったのだ。私はショックを受けてしばらく茫然としていた。そこへいくと鷗外はさすがだ。彼は二葉亭四迷の死に際して、『長谷川辰之助』を著して彼への敬慕を捧げた。『浮雲』があの時代に書かれたことの意義も正当に評価していた。また、彼のことを「逢いたくて逢えないでいた人の一人であった」と言いながら、洋行前に彼が訪ねて来て、翻訳書や文学、また外国のことについて語り合った時の回想が記されていた。『舞姫』をロシア語に訳させてもらったお礼についての言及もあったが、彼らの結節点は他にも見つかった。二葉亭はロシアの作家アンドレーエフの『血笑記』という全く肌色の違う小説も訳しており、一方鷗外はエドガー・アラン・ポーの『うづしほ』や『病院横丁の殺人犯』(いわゆる『モルグ街の怪事件』)を訳していたのだから、やはり二人は趣味が合ったのであろう。鷗外は『長谷川辰之助』の中で、結果的に遺作となった作品『平凡』についても触れている。

 『平凡』は「私は今年三十九になる」で始まる作家が主人公の小説だから、一瞬、二葉亭四迷が内職として翻訳もこなすしがない作家としての日常や回想を基に小説を書いているのかと錯覚するのだが、実際の彼はその年四十四歳であり、私の『虞美人草』を挟んで『其面影』に続く二作目の連載をしているのである。だから、描かれるのは別な人物なのだ。「平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ」と書く彼は、もう『浮雲』で頼りなげだった筆遣いの二葉亭ではない。彼は自分の文体を手に入れたのだ。

 そしてその書き方は、最近の流行りである自然主義でいくと宣言する。ちょうどすぐ直前に田山君の何とも言いようのない作品が文壇を賑わせていたからだ。すなわち、二葉亭の言葉では「作者の経験した愚にも附かぬ事を、いささかも技巧を加えず、ありのままに、だらだらと、牛の涎のように書く」という書き方を真似てみると言うのだ。意地が悪い。私もここまではっきりはとても書けない。皮肉たっぷりに「自然主義」は「牛の涎」だとバッサリ切り捨てながら、「いい事が流行る。私も矢張りそれで行く」と二葉亭が書く時、ここで示唆しているのは「『小説を書く自然主義作家』というものを、私は書く」という形で、「次元を一つ上げる」という仕掛けなのだ。そうして、子供の頃からの回想文となり、祖母の死、異例な長さのポチの死、上京して住み込んだ叔父一家の娘・雪江さんとの出来事、文士となってからのお糸さんをめぐる出来事と田舎の父の死までを描いた後、不意に終わる。

 だが無論ただでは終わらない。二葉亭の残した二つの遊び、というか二重の言い逃れに私は思わずにんまりしてしまった。まず、文壇を去って役所に勤めるようになった「私」が書く言葉で「高尚な純正な文学でも、こればかりに溺れては人の子も戕(そこな)われる。況(いわ)やだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今の文壇のヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ」と、果てしなく続く繰り返しの後に(終)の文字を置いたことである。さらに、文壇批判を途中で「へへへっ」と飲み込む形でやめて、そのあとに、「二葉亭が申します。この稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません」と、最後のダメ押しをする。これで『平凡』全部をふざけた他愛もない話にしてしまい、「おあとがよろしいようで…」と舞台裏に消える格好である。自然主義の批判を「くだらない話ですから、目くじら立てないでくださいね」とかわしているのだ。この『平凡』が当たったということは、牛の涎のような個人的体験のダラダラを「別に知りたくないよ」と思っていた読者も多かったということだろう。

 鷗外が残した追悼は『長谷川辰之助』だけではない。よく考えると、その年に書かれた『ヰタ・セクスアリス』が『平凡』へのオマージュなのは間違いないだろう。彼はその年言文一致体を使い始めたが、たしか『ヰタ・セクスアリス』はその二作目ではなかったろうか。「金井湛君は哲学が職業である」と鷗外らしい簡潔な書き出しで始まり、彼はドイツから届いた報告書をもとに「性欲的教育」を自分が息子にできるかどうか、まず自分史を書くことにする。そして、自分の成長過程で日常生活の中で見聞した性的出来事を一つ一つ切り取ってサクサクとスクラップしたファイルを作成するのだが、最後の終わり方はこんなふうである。すなわち、出来上がったファイルを世間に出せるだろうか、また我が子に読ませられるだろうかと自問自答し、結局VITA SEXUALISと大書して、文庫の中へ投げ込んでしまうのだ。つまり、自分がスクラップしたものを最終的にそのままゴミ箱に捨てたも同然で、これは江戸の戯作を装った『平凡』の最後の終わらせ方と趣は違うものの、構造は全く同じだ。そうするわけを二葉亭は書かなかったが、鷗外は金井君に「人の皆行うことで人の皆言わないことがある」とはっきり言わせている。私もそれでよかろうと思う。

 軍医でもある彼が、官憲が顔をしかめること必定の書を書くからには、やはり自然主義に対して言うべきことを控えることはしないと腹を決めたのであろう。「出歯亀」事件のようなインパクトのある話を出して、「出歯亀主義という自然主義の別名が出来る」とまで書いているのだからやはりさすがだ。亀太郎には気の毒だが、「出っ歯の亀太郎」の短縮形は「出歯亀」で絶妙におかしな口調の言い回しだから、鷗外が書いた以上、この語はもう未来永劫日本語の語彙として残るだろう。鷗外が言いたいことは明らかに「一応自然主義と呼ばれるものを調べてみたけど、くだらんね」であり、「捨ておけ!」なのだ。この点私も同感だ。ただ彼のすごさの本質は、自分が知る性的出来事を一つ一つ標本化したことであり、この性行動の一覧化へ向かう力の存在を「自然主義と呼ばれる文学」へ人を駆り立てる要因として暴いたことなのである。実際、ついこの間まではこの世には性的なものが満ち満ちており、今ではちょっとした性的逸脱といった言葉で括られる類のことも何ら区別されずにそこにあったのだから、性は明治という時代になって初めて前景化してきたのだ。

 まあ、こういうことは個人差があるからあれこれ言ってもしかたない。ただ、このままいくと、何だかどれだけ衝撃的な内面を開示できるかが作家としてのランクを決めるという暗黙の了解ができそうな気もするし、性を中心に自分を語りたい人がその力を押しとどめるのは難しそうだ。私は別に構わないが。


明治徒然話8  ― 漱石の道筋3 ―

8.ゆずり葉

 私の初の連載はまあ好意的に迎えられた。それが終わりに近づいた頃、新聞社の廊下で長谷川二葉亭とすれ違った。私は思い切って声を掛けた。
「夏目です。今日お目にかかれてよかったです」
「前に一度会いましたね。『虞美人草』の打ち合わせでいらした時に」
覚えていてくれたのかと光栄な気持ちで、ちょっと言葉が出なかった。さらにうれしいお誘いを受けた。
「せっかくだからその辺で話しませんか。お忙しいと思うが」
「ええ、ぜひとも」
数分後、私たちは近くのカフェで向かい合っていた。私は率直に言った。
「実は連載があなたの後だったから、ずいぶん緊張しました」
「大阪の新聞社から移籍させてくれた池辺君のおかげで、私は助かったよ。やはり小説を書くのは私の性に合ってるな」
「今日は何の御用で…。もしかして次の連載ですか」
「ああ。そろそろ話があるかと待ってたんだが、やはりその話だった」
「何か月ですか」
「二か月。たぶんその後は君の連載だな。内緒だが『夏目君の連載、どう思う?』と訊かれたから、最高の答えをしておいたよ」
そんな話も出たのか、気になる…。
「よろしければ教えていただけませんか。何とお答えになったのか」
「『気に入った。どんな奴かと思っていたが、いいね。彼には哲学がある』とね」
「哲学?」
「君も、もう気づいているんじゃないか。我々は大人にならない限り、西洋文明と対抗することはできない。それとね、君は日本人に生まれつき内在する性質というか、そうだな、Nationalityをこの上なく大切に思っている。いや、読めばわかる。『虞美人草』の中で、小野が以前世話になった井上孤堂の娘で古式ゆかしいタイプの女小夜子を体よく振り切って、新しい時代の女藤尾を選ぼうとする場面があるだろう。その時、宗近のとる行動を描く君の筆致はいい。彼は小野君をこんこんと説いて、藤尾とののっぴきならない逢い引きを思いとどまらせる。宗近が繰り返す『真面目』というのは、別の言葉にすれば「人としてあるべき姿」ということなんだろうが、ここで野心家の明治の青年を前時代の範疇に押しとどめたのは、君の譲れないNationalityの発現だ。そうでなければ、小野に対して『僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た』と、宗近に言わせないだろう。違うかい?」
「ちょっと待ってください。Nationality…というと、私は初版のウェブスターの辞書で学んだので・…それだと、ええと、三つの項目が載っていましたね。一つ目は確か…『国民であるという本質』、それから…と、次が『或る国を区別する特質の総体』、そして三つめは、『共通の言語や特性によって決定されるような、一つの人種、すなわち国民』だから…あなたがおっしゃるのは、最初の二つを併せたような意味でしょうか」
「ひとつ君に話しておこう」
二葉亭はなんだかうれしそうに言った。
「もう二十年も前になるか、『日本人』の主筆の志賀君から、Nationalityの訳語を探しているという話があった。聞けば『日本人』の創刊祝賀会で、政教社を代表して挨拶するのだが、その時使うNationalityの訳語でインパクトのあるものはないかと言うんだ。こっちは翻訳というとうれしくなる質でね。でも英語なら、同じく政教社の棚橋君がいるだろう。彼がイーストレイキ先生とウェブスターの辞書を訳していることは知っていたから彼の名を出すと、彼がなぜだか僕を推薦してきたと言うのだ。棚橋君たちの訳語は『民情、愛国、民性、国風、本国、国体:人民、人種』といったところで、志賀君のお気に召さなかったらしい。『浮雲』が出たばかりで評判になってたから、僕にお声が掛かったようだ。」
「それで?」
私は興味を引かれて話を促した。
「翻訳者なら誰でも血が騒ぐだろ?」
「私は翻訳はやりません」
「その話も聞いてみたいがまあいい。志賀君とのやり取りはこんなふうだった」

  「Nationalityか…。それなら『国民の精粋』というのはどうだろう」
  「うーん、きれいな言葉だ。でも、ちょっと長いね」
  「では、『国の粋』では」
  「そうだね。語句の短縮パターンだと『国の精』だけど、ピンとこないしね」
  「いやそれならいっそ『国粋』はどうかな」
  「なるほど。『国精』だと『国政』と同音だからまずいし…『国粋』ならいいね。
  Nationality …国粋。うん、ありがとう。やはり君に訊いてよかった」

「そんなことがあったんですか」
「今では『国粋』は何やら別の色がついてしまったがね。ついでだから話しておく。僕は二十年書かずにきたから、もう書きたいように書かせてもらうつもりだが、次の連載には挿話の一つとして或る女性が歌う場面で『国民の精粋』という言葉を使おうと思う。さすがに今では『国粋』とは言えないしね。自分の作った言葉なのに、長い間放っておくと自分のものじゃなくなるね」
「あの、長谷川さん、どうしてそんな話を私にしてくださるのですか」
「ふふ、君は同類だから。英国なんかに行かされて神経を病んだのは気の毒だったが、これからの日本の文学は君の双肩にかかっている」
「ご冗談を」
私は二の句が継げなかった。彼は面白がるような笑いを浮かべると、話を終わらせた。
「さ、そろそろ行かないと。そうそう、池辺さんが君の連載の結末を気にしていたから教えておいたよ。『題名を見ろよ。藤尾の自殺で終わりだ』とね。合ってるだろ?  明治の女性にはまだ生きる場所が無い」


明治徒然話7  ― 漱石の道筋2 ―

7.主筆の人

 新年度はいつもと違うものになった。新聞社は多くの人が四六時中せわしなく出入りしている。連載の打ち合わせをするため部屋に向かうと、ちょうどそこから出てくる人がいた。顔を見て「あっ」と声にならない声が漏れた。その人は怪訝そうにこちらを見て、それから温顔で微笑んで出て行った。

「池辺さん、今のは…」
小部屋に入るとすぐに尋ねた。
「ああ、会ったかい。そう、あれが長谷川二葉亭君だよ。生まれは僕とひと月も変わらないのに、僕は文久生まれ、彼は元治生まれ。僕の方が年長というわけさ」
「つかぬことをお聞きしますが、彼は福翁と面識がありますか」
「さあ、どうかな。直接聞いてみれば。僕は一応あるよ、あの塾の出身だから。中退だけどね。なぜそんなことを?」
「いえ、たいしたことでは」
「彼の連載、なかなかでしょう。読者の評判もいい」
「そうですか。『浮雲』からもう何年になりますか。ずいぶん経ちますね」
「二十年。まさに復活、レサアレクシヨンだね。さて、今度はあなたの番ですが、どんな話になりますか」

 私は初の新聞連載となる小説のあらましを話し出した。
「私が書くのは三人の明治の青年たちの話です。彼らが書生の身から一人前の大人に成長していく、その最初の過程を描きたいと思います。一人は頭がよくて野心もあるが金が無い、典型的な明治の青年A・小野、もう一人は裕福な家の息子であるが神経衰弱的傾向があり現実離れした思弁を好む青年B・甲野、で、三人目が主人公と言うべき青年C・宗近で、快活で豪胆であるが、タブラ・ラサというか、あっけらかんとしたオープンな若者です。甲野の継母は彼が家督相続をしないのをいいことに実の娘の藤尾に婿をとらせて家督相続させようと目論んでいる節があります。この藤尾というのが、明治という時代に生まれた新しい考えを持つ女性で、美人。小野を手玉に取る感じで楽しんでいるような曲者です。小野は藤尾に恋心を抱いており、藤尾も出世しそうな小野に気持ちが傾いている…。しかし、小野には昔、師であった井上孤堂の世話になった恩があり、口約束ではありますが、その娘小夜子を将来妻にすることが双方の暗黙の了解になっています。娘の縁談を取りまとめるために、この恩師が娘と共に小野を頼って上京してきたから小野は板挟みとなり…と。宗近には仲の良い妹、糸子がいて、妹は外交官試験を目指す兄を温かく見守り、片や兄は甲野に思いを寄せる妹のために奔走したりということもあって…。そのうち進退窮まった小野が別の友人を使って、「小夜子との話はなかったことにしてほしい。生活の援助はします」という旨を恩師に伝えると、「人の娘を何だと思っているのか」と井上孤堂は激怒します。この辺りから大団円に入り…」
「わかった、わかった。とりあえずその辺までで。二葉亭君の連載の主人公は、学生時代に金銭面でお世話になった人の家に婿養子に入った青年だった。今回の、小野と恩師およびその娘小夜子の関係もちょっと似てるね。法律的な縛りはないようだけど。一方は家の存続、もう一方は教育にかかる金の工面というお互い切迫した願望を組み合わせることはよくある話だが、これが単なる金銭面での契約ではなく、当人や家族の気持ちを汲んだ制度となると、なかなか難しいね。交換したいものが完全に一致することは奇跡的な確率でしか起こらないから。学問をするためのお金は、本人が用意しなければならないんだろうかね。当たり前だと言われそうだが、国民が学問を修めてあらゆる分野の底上げができれば国力が増すのは間違いない。とすれば、必ずしも本人が自分でお金を工面しなくてもいいんじゃないか」
「あの、もし訊いてよろしければ、塾を中退なさったのはやはり学資の問題ですか」
「ああ、いろいろあったよ。私の父は熊本藩の武人で、西南戦争では熊本隊を率いて西郷軍と共に戦って処刑されたからね」
私は思わず絶句し、しばらくたっておずおずと口を開いた。
「もう十年ほども前になりますが、私は松山赴任の後、熊本の五高におりました。学生たちと俳句の結社を作り、そちらの活動は充実していましたが、家の方はいろいろありました」
「人生何もないなんてことはまずありませんな。よし、では連載をよろしくお願いします。楽しみに読ませていただきますよ」

 池辺さんとの打ち合わせは気分よく終了した。節度をわきまえた話しぶりでオープン・マインドな人だ。仕事がやりやすそうだと私は安堵した。



明治徒然話6  ― 漱石の道筋1 ―

6.お届けもの

 文面を読み終えて唸ってしまった。「雑記」と表書きされた用紙の束は、きれいに綴じられて桐の箱に収められていた。これは数年前に届いたらしいが、私が英国留学から帰国するまで、風呂敷に包まれて机上に置いてあった。今やっと読んだところだ。家人に訊いてみたが、ただ届いたものを受け取っただけで、それ以上、由来も訳もわからない。一応先方に問い合わせてみたが、向こうも福翁の遺品を整理していたら「夏目君へ」と書かれたものがあったのでお届けした次第である、という。「夏目姓でほかに思い当たる人がいないので…」と相手は申し訳なさそうに付け加えた。手元の風呂敷を見ながら「何か面倒だな」と思った。それで、冊子はそのまま机に置いてある。

 帰国後、一高と帝大で講師となったが、教職は私には不向きで、いろいろあって何だか参ってしまった。体調も思わしくなく悶々としていたが、そのうち何か書いてみようと思った。人間は嫌いだし書けそうにないので猫の話にした。すると面白がってくれる人もいて、なんだか少し楽しくなってきた。こんなに自由に書けるのはやはり新文体のおかげだと思うと、あの冊子のことが頭をかすめた。しかし瞬時にそれを振り払って、次に何を書こうかと考えた。猫は死なせてしまったし、もう動物は駄目だなと考えを巡らせていると、高等師範学校の英語教師の職を辞し、東京を離れて一年ほど松山の中学に赴任した時のことが思い出されてきた。嫌なこともあったが、それも含めてハチャメチャに楽しかった気がする。あれを書いてみようと思った。

 書いてみた。何もかもうまくいかないのは明治になったせいだという気がしていた。だから、赤シャツも野だいこも狸もこすい生徒たちも、みんなコテンパンにやっつけてやった。だがそれは本当か。やっつけられたのはこちらではないのか。自分を手放しで可愛がってくれたのは下女のキヨだけだ。もとは由緒ある家の出だった女だ。キヨはもういない。「おれ」はキヨに三円借りていた。返せないのではなく返さないのだと、自分に言い聞かせてきた。でも、もうキヨはいない。返さないのではなくもう返せないのだ。いや、なんとしても返さねばならない。でも、どうやって…?

 私は例の雑記帳を箱から取り出し、机に向かった。何度も読んだ。決断するのに一年かかった。自信がなかったからだ。「サベーレ・アウデ 知る勇気を持て」という声が頭の中で鳴り響いていた。私は一切の教職を辞し、新聞社に入社した。もう書いて生きていくしかなかった。


明治徒然話5  ― 諭吉の独り言5 ―

5.『アメリカン・デモクラシー』

 西洋の歴史は、領主たちが教皇から支配権をもぎ取っていった過程を記すが、やがて国民国家を形成していく転機は、やはりウェストファリア条約であろう。しかし、私の関心はそこにはない。私の問いは、ヨーロッパでは、各地域の村落共同体の集まりにすぎなかった社会集団を、いかにして国という概念にまで高めたのかということだ。戦争は大きなきっかけにはなるが、戦争を通じて自国意識を強化するだけでは足りない。一つ言えるのは、国という概念は不安を根底に形成されたということだ。生まれ育ったムラから出ることなく、そこで一生を終える人間が大半である場合には、近代的な意味での国は意識に上らない。江戸時代までの日本や領邦国家時代のドイツなどはそう言ってよかろう。カントは世界市民を構想していた。これは無論、理想的に過ぎることは本人が百も承知のはずだ。しかしそこまで考えて初めて、いくらかでも歪みの少ないネイションを形成できると考えたのだろうか。日本は文明化という点ではいまだ西洋に大きく遅れている。しばらくは西洋を目標にするしかあるまい。日本は島国だから、海岸線によっておおよその国土は地理的に確定できる。西洋に比べたら国を形成する歴史的な複雑さも少ない。私は「賢い国民になりなさい」と穏やかに語りかけるか、もしくは少し厳しく、「無学で文字も知らず、飲み食いと寝ることしか能がなくて、我が子の教育もできぬ馬鹿者には、不本意ながら力づくで対するしかない」と、泣く泣く説教することで、なんとか生きるための学力をつけさせ、国民の自覚と国力の向上が少しでも進めばと願った。国民という意識が基層民にまで浸透しなければ、国家は容易に瓦解する。急ごしらえでもそこは手が抜けなかった。

 私がはっとさせられたのは、旧賊軍から陸軍中佐に進級し清国公使館附となっているあの男だ。会津魂の権化のような人間、あのような人材はもう二度と生まれぬかもしれぬ。義和団の武力抗争に端を発する八か国連合の北京籠城の最中、この窮状で指揮を執る者として、日本ばかりか関係欧米各国公使の信頼を一身に集めているという。それは陸軍幼年学校以来、どんなに劣悪な環境でも腐らずに勉励し、文字通り血と汗と涙の末にフランス語や英語に熟達していたからこその達成なのだ。もし賊軍から陸軍大将になる人物が出るとしたらあの男以外あるまい。私は以前「華族ヲ武辺ニ導ク之説」を建言したことがあるが、それは名望のある者による軍の統率が望ましいと思ったからだけではない。西洋において、下層民の中で明晰な頭脳と明確な野心をもつ子どもたちが皆、教区の教会組織に吸い寄せられたように、旧賊軍を主とする、いやそれに限らぬが、下級武士もしくは基層民の子弟で出世欲のある者が、己が才覚によって文官ではなく武官すなわち軍の頂点に立つ回路があるなら、そしてそれが何らかの手段で文民の上に立つ方法を見出すとしたなら…その先が私には恐ろしいのだ。どう転んでも禽獣世界では破壊と殺戮はまぬがれないであろう。だが今は、会津の希望を背負った男が小さな体で奮闘している。国のためではない。国家への馬鹿らしき忠義立てなどとうに捨て去っているのだから。彼が闘っているのは根本的にはただ故郷の名誉のためなのだ。故郷もしくは郷里はどんなに拡大しても国家という概念には重ならない。それどころか時には反対概念でさえあるのだ。しかし今、世界の注目は柴君の一挙手一投足に注がれている。ひょっとすると彼が国家の明日を決める突破口になるかもしれぬ。ヨーロッパ諸国のうち日本を対等なパートナーと認める国が出ないとは言えぬのではないか。夢物語だろうか。

 会津人のことを考えているのに、なぜだかもう一人の男の顔が頭に浮かぶ。敵同士だったはずの薩摩の男だ。西南戦争で生涯を終えたのは惜しいことだった。彼にしかできぬ仕事がまだまだあっただろうに。そうか、薩摩のこの男も会津のあの男も、カントの言うところの「理性の公的な利用」ができた数少ない人間だったのだ。幕藩体制下のもとでは「理性の私的な利用」しかできず、立場上はどうあっても敵対するしかなかった二人だ。だが、二人ともいったんは地獄を見て何かを突き抜けたような…。地獄といって悪ければ、そうだ、一人は奄美大島・沖永良部島への二度の流罪、もう一人は悲惨な会津戦争の末路と陸奥国斗南への流刑のごとき暮らしによって…。二人とも大切な同士や家族を亡くしていた。彼らはそれぞれの地でどこにでもいる普通の民に出会い、その姿のうちに民の原像を見出したのだ。そこは死者と生者が交錯する異界であったかもしれない。彼らが立派にこの世を生きられるようになったのは、生きている者への義理立てから自由になってからなのだ。

 最初に述べたように、カントも私も「学者として、すなわちいかなる制約も受けずに自由に考えることが理性を公的に使うということだ」という点では完全に一致する。そしてまた、「世界の永遠平和のためには、『自由・平等・博愛』ではなく、『自由・平等・自立』の理念が不可欠である」という点でも、私はカントと完全に一致するのである。個人が自由に考え、平等に機会が与えられ、自立した存在とならなければ、自由かつ平等な独立国家とは言えない。世界がそのような独立国家で形成されない限り、永遠平和は訪れない。私がカントと違うのは、理性の公的利用を可能にする方法に到達する手段だけである。カント氏は知識階級のために書き、私は民衆のために書いたということだ。してみると、日本において地域共同体をネイションの形に仕上げたのは、なんと私だったかも知れぬのだ。

 現実には、この世に全くの平等社会などあり得るはずがない。ギゾーはフランス革命を書かなかった。だから、私も『ヨーロッパ文明史』を訳すことができたのだ。サン・バルテルミの虐殺は三百年も前のことだから気兼ねなく訳せたが、百年ばかり前に起こったフランス革命とは実は何だったのか、生々しすぎて彼には書けなかったし、私も本当の事はとても書けない。その数十年後の二月革命では、ギゾーは打倒される当事者側にいたのだから書けるわけがない。さらに二十年して達成されたパリ・コミューンは、打ち上げ花火のようにはかなく消えた。あれは史上最初の労働者による政権だったし、正しい革命だった。だが、到底無理な革命であった。元来、コミューンとは最小の行政単位、顔の見えるサイズの共同体ではなかろうか。パリはコミューンで治めるには大きくなり過ぎた。こう言ってよければ、もし彼らが本当に持続する政権を作るつもりだったのなら、清く正しく美しく仕上げることを目指すべきではなかったのだ。彼らは多数派だったのだから、もっと汚く、もっと徹底的に反対勢力を弾圧することに、誰も口実を求めなかっただろうに。たとえ薄汚くとも、それまでの官僚組織を使わずにどうするつもりだったのか。丸き水晶玉になら何か見えたのだろうか。いずれにせよ、今後パリ・コミューンを手本とする革命政権がないことは確かだろう。重ねて言うが、理想的な社会などどこにもない。国の有り様は、どこよりはマシかという相対的なものにすぎない。現在の全てを捨て去って新しい社会を作ることはできない。全く新しい社会を目指すならば、身の毛もよだつ流血を免れないだろう。いつも私の念頭にあるのは、最初の革命、アンシャン・レジームを廃して新しい体制を目指し猛進したフランス革命なのである。暴動の連鎖、流血に次ぐ流血、それが「自由・平等・博愛」という錦の御旗のもとに行われたのだ。どんな大義を振りかざそうと、あれほど文明から遠いことはあるまい。それにも関わらず、「人権」なる概念を生み出したのは事実であるから、おそらくこれに続く改革、革命を目指す国が続々と現れるのであろうな。だが理想の社会を目指すその努力の結末に関して、私はかなり悲観的である。人間の善性は時にすばらしい結果を生むが、不意に人間に悪が宿る瞬間がある限り、そして人間が愚かで弱いものである限り、欲望や嫉妬が人をとんでもない化け物に変えてしまうのだ。人間の歴史を振り返ると、私はいつも絶望的な気持ちになる。例証には、時勢を見抜けなかったがゆえに行われたテロル、たとえば攘夷運動を一つ挙げれば十分だろう。

 今のところ最もマシと思えるのは、アメリカのようなデモクラシーの社会だろう。あの若いフランス青年がヨーロッパ人の目で見た分析の書は小幡君がずいぶん尽力して解き明かしてくれた。アメリカはまさしく新世界。移住民が原住民に対して為した蛮行の暗黒史はどう言い繕っても消し去ることはできないが、彼らは確かに民主主義国家を形成した。これも文明の一段階かもしれぬ。英国で刑務所の弊風を一掃し、囚人の待遇改善に努めたのはジョン・ハワードであり、奴隷制反対を唱えたのはトーマス・クラークソンであった。アメリカではリンカーンが奴隷解放宣言を、ロシアでは皇帝アレキサンドル二世が農奴解放令を出した。これらは皆、人間の長い歴史から見ればつい最近のことなのだ。文明が進歩するものかどうかわからぬが、人権という概念は昔はなかったのだ。

 アメリカは一人の専制君主による統治ではなく、少数の階級上位者による統治でもなく、対等な国民の多数意見による統治を選んだ。このシステムの良い点は、絶対的な権力を半永久的に持つ者が現れないことである。国の最高統治者に選ばれた者が国民の多数意見に反することをすれば、次の選挙でその首をすげ替えることができるので、国民は被害を短期間で終わらせることが可能である。そしてここが肝要だが、国の最高権力者の意思が国民のそれと同程度のレベルに保たれることが意味するのは、アメリカのデモクラシーとは、国家が破局的事態を免れ得るように前もって制度設計された統治形態であるということである。これはジャクソン大統領という好例がある。彼のような凡庸で、またほとんど戦争犯罪に近いようなことをした指導者を最高権力者の地位につけてしまった場合でも、民衆が気に入らない政策を施行する統治者を選んだ間違いに気づけば、すぐに交代させられるシステムなのだ。たいした見識である。だから、この統治形態が実効性を持つための条件はただ一つ、国民が一様に或る程度のレベルまで成熟している必要があるということだ。

 もちろん短所はある。トクヴィル氏の指摘するところでは、民衆は多数の声を自分の声と錯覚している場合が多々あって、それゆえ自由の国であるはずなのに、実際にはヨーロッパにおける以上に個人的な主張を控えるように見えるという。多数の意思と異なる意見表明はごく少なく、こうして実は孤独な群衆が生まれていると、彼は旅人ならではの視点で述べている。

 アメリカは今や国家隆盛の時、そもそも東海岸に渡来したヨーロッパ人が西へ西へと開拓を続け、西海岸まで到達し、さらに西へと赴いて日本にも来たのだから、おそらく一周してヨーロッパに行きつくまでその動きを止めないのではないか。これはハリケーンが聖書と斧と新聞を伴って通過するようなものだから、途上の国々は大きな影響を被ることになる。

 それにしてもアメリカは広い。アメリカは全土に鉄道網を張り巡らすには広すぎる。別な乗り物が発明されるだろう。それはどの国でも通用する乗り物のはずだから、アメリカはそれを地球上に売りまくることになろう。どこでどんな国が衝突するかわかったものではない。外国交際が話し合いで解決すればよいが、外交そのものを戦争の一形態と見る見方もあるのだから、もう地球上戦争だらけになるというわけだ。制服組の戦争なら見通しも立とうが、それが通用しない形態の戦争だって起こり得る。胃の痛いことだ。

 明治という時代が来ていいことなぞ何もない。だが、来てしまった以上は立ち向かわねばならないのだ。遠い未来を見据えて、「来るなら来い。カム、ゲット・ミー」との構えで背筋を伸ばすのである。いや、一つくらい、いいことが無いとは言えない。遠い将来にはひょっとすると女には今よりだいぶマシな社会がくるかもしれぬ。家庭に入らぬ場合でも妾にならずに済み、一人でぼんやり生きても何とかなるくらいの幸せな世の中なら、まああるかもしれん。そして結局のところ、習俗をつくるのは女なのだから、それもやはり文明の進歩というべきか。いや、結論は遠い先の世の人々に任せよう。文明化に縁遠い未開の地に住む人々が何を考え、どんな幸せを感じているか、我々は何も知らないのだから。

 私も歳をとった。いずれこの世から退場する。皆そうだ。ヤングメンに席を譲る時が来る。そして寿命が尽きる時にならねばわからないことが必ずあるのだ。これまでとにもかくにも、私は一日一日を懸命に生きて、考えるべきことは皆考えた。すべきことは皆やった。誠に愉快とはいかぬが、後悔は何もない。


明治徒然話4  ― 諭吉の独り言4 ―

4.『浮雲』

 話し言葉と乖離していた書き言葉の文体を根本から変えたのは、長谷川二葉亭君であった。彼がまずもって翻訳者であったことがそれを可能ならしめたのだ。文語文はもう完成体として存在するのだから、翻訳者が用いる日本語にはあまり自由に訳せる余地がない。ましてや外国語の音調を含めての翻訳には不向きであった。従って、これまで知られていなかった外国文学を日本に紹介するなら、いまだ存在しない新しい文体を必要としたのだ。その後に試された言文一致体の翻訳小説は、最初はまだ未熟ながら、訳者の力量によって表現できる広がりと深みにおいて、かつてない可能性を示した。『あひゞき』は、日本の読者にはやや刺激的すぎたのではなかろうか。なにやらあれを若い時読んだ読者が、文学の隆盛に伴ってもっとえぐい小説なんぞを書きそうな気がするのだ。新文体で自由に書けるとしたら、なんだか自分しかいない話になりそうではないか。自分の探求にはここまでという限界が無いから、これはどんどん過激にならざるを得ない。それは西洋でも同じだろう。常に常に西洋の後追いをしようとする輩は必ずいると思うと、なんだか頭が痛い。いずれにせよ放っておくしかないのだが。

 話が逸れた。言文一致体を用いることで、自分の思い通りに自在に翻訳できるとすれば、ましてや日本語による文芸作品の創作はどれほど従来と違う新しい地平を見せることかと、二葉亭君は考えたのだろう。彼はそのための時代の申し子だった。これは彼自身認めていることだからそう言っても差し支えないと思うが、彼はどちらかというとロシア語の方が母国語より堪能と言えるバイリンガルだ。音調も含めて原文よりざっくりこなれた日本語にすることは得意ではない。それを言えば英国留学の夏目君などはいっそう翻訳には慎重だろう。彼は漢詩の達人だから、英詩の音韻を研究して、日本語訳は無理だと思えば、翻訳に手をつけないかもしれぬ。「必要は発明の母」とはよく言ったものだ。結局、皆、必死に新しい国語と格闘した二葉亭君のあとに続くだろう。

 ともあれ、二葉亭最初の小説『浮雲』第一篇が刊行された。いや待てよ、『浮雲』が出たのは『あひゞき』より先だったか。この辺があやふやなのは『あひゞき』のインパクトに比べて、『浮雲』はぼんやりした印象しかないからだ。これは作者にも若干の責任があるだろう。思うに、小説を書くのに坪内君に助言を仰いだのは如何なものかという気がする。坪内君はシェークスピアの紹介者。シェークスピアは戯曲の作者であるし、彼がアドバイスとして例に挙げた円朝の落語も基本はト書きなしの会話形式による一人芸だ。話し言葉の抜き書きだけならともかく、それだけでは小説にならない、一番問題なのは地の文なのだ。この点が坪内君のもとに赴いた二葉亭君の誤算だったのではないだろうか。まあ、あの時代、ほかに助言を求めるべき人がいなかったのは事実だ。まさか『佳人の奇遇』を書いた柴君の兄を頼るわけにもいくまいし。だが、文学論の中で『南総里見八犬伝』を前時代のものとして批判的に評した当の本人が、『当世書生気質』のような戯作文学風の小説を書いてしまうのだからなあ。それに加えて、あの当時、二葉亭君には書きたい主題が特になかった。文体を試したかったのだ。だから、落語の円朝と言えば「芝浜」というわけであったかどうか、なんとなくそんな舞台の小説ができた。特に第三編では話の筋に動きがなくなって、最終的にあれは未完に終わった。だが、彼はあの一作で終わる人ではない。たぶん、いずれまた何か書くだろう。世間をあっと言わせる作品を。

 それにしても、森君と長谷川君は全くタイプが違うのに、何だか似ている気がするのはどうしてだろう。旺盛な翻訳者だからか、それとも森君もドイツ語のバイリンガルだからだろうか。森君を追ってドイツから来たという女性は小説の中で永遠にその姿を刻んだ。『あひゞき』に似た悲恋ものだからか、二葉亭君は『舞姫』をロシア語訳したとも聞いた。あの二人には何か通い合うものがあるのだろう。森君が新しい文体で書くのを読みたいものだな。今のところ、最も優れた新文体の作品は、『国民之友』に載った独歩君の『武蔵野』であろう。誠に美しい日本の自然を優しく描いている。思わず、この優しさの正体は何だろうと考えた。新文体が武蔵野の自然の中で作者の心と完全に溶け合ったのだとしか思えない。その中で独歩君自身が『あひゞき』の冒頭部分を引いて、自分が落葉林の趣を解するに至った由来を述べているのだから、彼には二葉亭君の直系という自覚があったであろう。他の作家たちがこぞって新文体で書き出すにはまだもう少し時間がかかろう。最初の一作から一世代で新文体が定着するなら、むしろそれは作家たちによる長足の達成と言うべきだ。文学界はこれからどんなふうになるのか、これはなかなか楽しみだ。天保の老人にはちと寂しい気もするが。

明治徒然話3  ― 諭吉の独り言3 ―

3.『国富論』

 西洋の科学、あるいは科学的思考は大いに尊重せねばなるまい。我々がようやく武士の世に移行しつつあった頃、西洋にはもう大学なる学問を究める場所があったのだから、これはかなわない。ベーコン氏のいう観察と実験が科学の基本だ。蘭語の書物を参考に、若い頃塾で実験もしたな。アンモニアが発生して騒ぎになったこともあった。だが、初めて咸臨丸でアメリカに行った時、向こうの人が「珍しかろう」と、工業の製作所を案内していろいろと説明してくれたことは、何のことはない、既に蘭学を通して知っていることばかりだった。当たり前だが、科学はどこでも通用する。逆に私が度肝を抜かれたのは、馬に引かせる乗り物だとか、部屋いっぱいに敷き詰めた絨毯を土足のまま歩くことだとか、家に招待されてみれば接待に奔走するのは夫の役目で、専ら夫人が座ってお客と対応をするとか、あの時は子豚の丸煮にもびっくりだったが…まあ、驚かされたのは生活習慣の類いが主だったな。

 日本でも西洋でもまず最初に学問をしたのは坊さんだ。修道院なり寺なりが学問の最高峰だった。西洋ではキリスト教は支配体制そのものだったから、やがて世俗の王様が教皇から権力を奪い取っていく闘いは激烈であり、科学が神と決別するにはずいぶんと時間がかかった。ヨーロッパの知識階級の間で意思疎通に使われたラテン語は、漢字文化圏における漢語のようなものであろう。だから、母語たるフランス語で書いたデカルト氏の書が西洋近代の幕開けを告げたと言うことになるだろう。その時代でもまだ、学問で神の存在証明ができると考えられていたのだから、神を科学とすり合わせるのに多くのエネルギーが注がれたのだ。それは無理だと始めから割り切っていたパスカルは賢明だったと言えるだろう。それにしても彼らとスピノザ、ライプニッツが一緒に生きていた時代とは、なんと凄まじい時代か。そしてヨーロッパとはなんと恐るべき場所だろう。いや、その前にルターがいた。今しもグシャッと押しつぶされそうだった小さな柔らかい卵が堅固な壁にぶつかり、やがて壁に穴をあけたのだ。民衆から遠ざけられていた聖書をドイツ語に訳したことが、あれほどの破壊力を生み出すことになるとは。おっと、ガリレオ、ニュートンも忘れちゃいけない。他にも数えきれないほどの頭脳が連綿と束になって存在したのだ。そしてその後の最も画期的な成果はワットの蒸気機関であり、スティーブンソンの鉄道であり、アダム・スミスの経済学だった。自然科学と同様に、経済にも定則があったとはもう仰天であった。なんと面白いことを思いつくものか。十八世紀の女性が書いた小説『ミドルマーチ』には、知識階級は田舎でも誰もがアダム・スミスの著作に夢中だと書いてある。

 分業によって製品を作るようになれば、多くの働き手が必要になり、一日に作れる製品の量が何十倍にもなる。機械を用いればさらに大量生産が可能になり、生産された製品を格安の値段で売れば爆発的に売れる。それにより手工業者が従来の方法で製作した手作り品は売れなくなり、生計が立ち行かなくなる。ほぼ同じ製品なら誰もが安い方を買うからだ。昔ながらの手工業者が駆逐されれば、その製品を製造する業者の独擅場となり、さらに人々が製造工場に駆り集められ労働者が増大する。製品の需要が多ければ供給を増大せねばならず、さらに大量生産するために新たな工場が作られる。そのための資金が必要となるが、いつでもすぐに切り詰められるのは労働者に支払う賃金である。論理的には、賃金は労働者がなんとか生活を維持し労働を続けられる最低額まで下げることができる。生かさぬよう、殺さぬようとはどこかで聞いた話だが、労働者が多少死んでも実は困らないから、とにかく利益を増大させることが目指すべき最優先事項となる。資本とは端的に労働の蓄積された形態なのだ。低賃金・長時間労働・労働環境の悪化等は労働者の寿命を縮めるが、むしろこれは仕事を求める他の労働者には好都合である。彼らは自らの労働力を売る以外、生きるすべを持たないからだ。かくして、労働する機械と成り果てた人間が創出される。製品が国内だけでなく諸外国にもどんどん輸出されるようになれば、それによって国富は増大するが、その時こそ労働者が最低の賃金で働き、最も困窮する時なのである。さらに諸外国における別の国とのシェアの争奪が苛烈になれば、必ずや争いに発展し、戦争の可能性も避けられなくなる。

 理論的にはそうなる、と経済学は告げている。この輪の中に入りたくはないと誰もが思うであろう。が、我々はもうこの円環の端に位置しているのだ。正直・勤勉・倹約という点では、近江商人もプロテスタントも同列だが、所詮それだけでは話にならない。もはや国の中でだけ通用するやり方で済ませることはできない。鼓腹撃壌の幸せな時代は終わったのだ。国の経済を発展させるためには経済の法則を理解して、産業を興さなければならない。まずは民間の実業家がどうしても必要だ…。しかし改めて確認するが、我々が目指すものは、あくまで日本が西洋に追いつき並ぶことではない。それだけでは意味がないのだ。イギリスでは、下層階級の子どもたちが穴倉のようなところで長時間労働させられていると聞く。子どもは大人より一層安い賃金で使うことができるのだ。昔ながらの生業の手段を失って下層に転落した者たちも同様で、彼らはいかなる労働環境の悪化も受け入れざるを得ない。そこに縛り付けられるほか生活の手立てがないのだ。誠に戦慄すべき社会である。その先に来るものは…。やはりヨーロッパを徘徊している妖怪の出番となるか。留学生からの情報では、彼らは国をまたいだ結社を形成しつつあるようだ。

 メアリー・シェリーが小説の中で一人の科学者に作らせた怪物は、深い孤独と疎外感から創造者にさえ制御できないものとなったが、こちらの妖怪も、やがて自分を生み出した者の手を離れ、そう遠くない将来、必ずや世界を揺るがすことになろう。この妖怪はいずれ日本にも現れずには済むまいが、その生みの親は実に切れ味の良いナイフのごときペンを持っている。どの国の政府をも震撼させること必定の彼らの書は、読むだけで身に危険が及ぶ時代も来るに違いない。彼らの名は『学問のすゝめ』の最後の編に忍ばせておいた。「円(まる)き水晶の玉…ガラスのようなもの」とは「マルクス…エンゲルス」であり、「甲州」ならぬ「欧州」産である、と。

 私がヨーロッパ諸国と日本の違いを肌で感じるのは、それぞれの人民における階級差である。階級の差が激しい社会とは、不幸な社会ではないだろうか。私は旧士族にも農民にも、鉄鎖のほか失うべき何ものもない人間になってほしくはないのだ。どうすればいいだろう。私は敢えて彼らを労働者とは呼ばない。日本においては労働は必ずしも苦役ではない。日本人は、労働において自分の務めをできる範囲で楽しんでしまうところがあるのではないか。いわゆる遊び心である。「日本人の労働観は我々と違う」と言った西洋人にはたくさん会った。それに江戸時代でさえ、「日本では下層民でも文字が読めない者がいない」と西洋人が驚いたという話は枚挙にいとまがない。うろ覚えだが、英国の小説の中に、夫人が夫の読んでいる新聞をふと見たら上下が逆さまだったというエピソードがあったから、全くの誇張ではないのだ。それらは確かに大きな強みになるだろう。粘り強さ、几帳面さ、こういったことも利点だ。階級格差が西洋程際立つことがないようにするには、国民の大多数が自分をミドル・クラスと錯覚できるほどに、生活の平等化を目指すのはどうか。今はまだ夢のような話だが。

 さらにその先はどうなるか。そもそも外国が日本に開国を迫ってきたのは、日本と交易をするためだ。日本の国に点在する貴重な品が欲しいからではない。それもあるが、何より日本に自国のものを売るためなのだ。だから、将来日本が諸外国の欲しがる産業品を作って売り、万一売れに売れて交易にアンバランスを生じたら、諸外国は必ずや日本がいらないものまで買わせようとするだろう。力づくでも押し付けてくるに違いない。それが外国と交易するということなのだ。その時、「いらないものをなぜ買わねばならないのでしょう。不均衡がお気に召さないのなら、我が国のものをお売りするのは控えます」と言えるだろうか。論理的には言えるはずだが、そこまで腹の据わった決断ができる人材がいるかどうか…。いや諸外国も負けてはおるまい。是が非でも日本人が欲しいと思うものを作るはずではないか。外国とお付き合いする限り、この戦いに終わりは見えない。ひょっとすると、西洋諸国がもう工業製品を作らないという選択をすることはないのか。わからない。もっと安く作れる地域に生産を任せてしまう国が出てくれば、その国は何を売るつもりなのか。いずれまた無理難題を言ってくるのだろう。そこまで考えたらきりがない。今はともかく一にも二にも国の富を増大させなければならない。そうだ、百年先には、他の国民が休んでいる間も働いて、世界で一番裕福になることもひょっとしたら可能かもしれない。アメリカ合衆国憲法の起草者の一人、ベンジャミン・フランクリンは「タイム・イズ・マネー」と言っていたではないか。人間の労働時間以外は刻々と無駄な時間としてカウントされる恐ろしい時代が来るのだ。アメリカは「労働の目的は貨幣を得ること、人生の目的は富を得ること」と言い切る人間が国家を主導する国である。その価値観に倣う国はどういう国になるだろうと想像すると気が滅入る。今でさえ何でも金で買えるのだ。医者の位も学位も爵位も。

 そうそう、最近興味を引かれたのは、統計学という何やら新しい学問、まるで人には自由意志というものがないかのように思えてくる不思議な科学だ。人間の活動をマスとして巨視的に見ると、全く違ったものが見えてくる。自分の考え、自分の決断と思っていることでも、事実は、人が自分で決めて行動することなどほとんどないということなのかもしれない。それこそまるで神の見えざる手による予定調和ででもあるかのようだ。面白いものだ。あれは何といったか、アメリカ文学の偉大な最初の一冊…『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いたトウェイン氏によれば、世の中には三つの嘘があるらしい。「嘘と真っ赤な嘘と統計である」と。おそらく彼の言う通りだろう。

明治徒然話2  ― 諭吉の独り言2 ―

2.『愚管抄』

 私にとって第二の転機は、故郷のために為した一つの貢献だった。中津に洋学校を建てたのだ。その学校のために書いた設立趣意書が評判になって、三田の印刷所から出版してみたところ、国中で売れに売れ、ベストセラーになった。これほど多くの民が新たな時代に自分の生き方を模索していたことに、私は大いに驚きまた畏れた。無論、期待はあった。自分なりの工夫と思惑もあった。手本となったのは、かつて時代の移行期に、知識階級に向かってやんわりと気を吐いた大僧正である。「おほけなく浮世の民におほふかな我が立つ杣に墨染めの袖」と詠まれたお気持ちは私も同じ、痛いほどわかるのだ。身の程知らずであろうとも、洋学者としてできることはやらねばならない。それは私に課せられた使命だった。西洋列強が迫る中、まず国の独立を保たねばならぬ。だが、それは目的ではない。文明世界に貢献できる国であることが大事なのだ。長い道のりだが、私が浮世を生きる民のために何かできるとしたら、まずは「勉強して力をつけ、良い国民になれ」と告げ知らせることしかない。

 あの書の中で私は、もともと人民と政府との間柄は、職分が違うだけの同一体であって、政府が人民に代わって法を作り、人民は必ずこの法を守ると固く約束したのだと書いたが、無論実際は、人民は政府と約束を取り結んだりしてはいない。しかし、こういう社会契約の概念を所与のものとして前提した方が、そうでない場合より住みやすい社会を作るに有益なら、そう考えるに差し障りはない。万人が上下の別なく平等の権利があることを天賦のものと考えるのと同様である。万人が万人に対して敵対的に向き合って争うより、法律を仲立ちにして互いに契約を結ぶ方がずっといいに決まっている。私は無秩序が大嫌いであるが、それは単に人命と時間と活力の無駄という至極現実的な理由からである。国が四分五裂して戦った幕末にいいことがあっただろうか。争いは論争だけでいい。もっとも、奴隷問題からアメリカで国を二分して戦う内戦があったおかげで、日本は破局的事態を免れたのではあるが。

 それにしても、『愚管抄』には度肝を抜かれた。知的世界の頂点に君臨する比叡山延暦寺の天台座主ともあろう方が、カタカナを用いて書くなどあり得ぬことだ。その当時、学問する家柄に生まれた者でさえ、漢文で書かれた書物を読まない、読めないというのがもし本当なら、それは文字通り末期的状況である。平安貴族から鎌倉武士へと権力が移りゆく時代、慈円は間違いなく体で乱世を感じ取っており、それゆえ、何とか歴史に目を向けさせようとしたのであろう。しかし、乱世というなら今こそその時ではないか。平安から鎌倉への移行など国の在り方そのものには何ら変化を及ぼさない。だが今は、日本の治世が他国民の手に渡るかもしれないという瀬戸際なのだ。インドを見よ。英国留学の馬場君からの報告では、自国民による治世の可能性は法律に則って巧妙に排除されている。中国を見よ。アヘン戦争以来この方、国中が野獣に食い荒らされているような様相だ。それも正当な手続きに則ってである。我が国だって、思わぬファクターのちょっとした作用で中国の二の舞になり得るのだ。それだけは何が何でも避けなければならない。民が賢くならない限り、国の指導者が民を導くだけでは駄目なのだ。だが、後々のことを考えて優れた采配のできる指導者もなくてはならない。そのことを理解するには会津という地を見れば十分だ。会津戦争とその戦後処理はあまりに過酷だった。最終的には下北へ移住の沙汰となり、辛酸の限りを味わった会津の者たちは、死者も生者も彼らの仕打ちを忘れないだろう。せめて鳥羽・伏見の戦いの引金となった庄内藩に対して、西郷が示したような寛大な措置があったなら、これほどのしこりは残らなかっただろうと思わずにはおれない。しかし、そんな泥水の中からでも美しい花は咲く。人間というのは計り知れないものだ。

 話が逸れた。惻隠の情はいつも私を熱くしてしまう。私は慈円の手法に倣った。ただしカタカナではなく、学者にあるまじきひらがなを用いて書いたのだ。本当に新しい時代の文体が出来上がるには、さらに十数年かかった。表記法以外にもう一つ私が考慮したのは、フランス語で何といったか、そうそうエクリチュールだ。それまで国中の民に向かって「教師のエクリチュール」で語りかけた者はいなかった。私のあの説き勧めが「教師のエクリチュール」を用いて書かれた日本で最初の書である。私はそれを意識的に行い、確立できたといっても言い過ぎではあるまい。教師が揺るがぬ信念を自分の言葉で述べる時、そしてここが大事なのだが、教師自身がその言葉のままに生きている時、教師の言葉はほとんど無敵である。事実でないことを言おうが、論理に飛躍があろうが、関係ないのだ。『学問のすゝめ』は啓蒙文学と呼ぶべき書なのである。私は相当きつい言葉を用いたが、それにもかかわらず、無為に過ごしていた人々に「勉強したい」という彼ら自身思いもかけなかった欲望を起動させてしまった。あれから全国津々浦々の地域で沸き上がった上京熱はすごかったな。

 さて、『学問のすゝめ』はもともと初編のみで完結するはずだったのだが、そうもいかない事情が出てきた。それは明六社なるソサエチーに誘われた事だった。あのような新政府の官吏の集まりみたいに見える結社に名を連ねるなどまっぴらだ。何より発起人が「国語を英語にしろ」などという大馬鹿者なのだから、これは困った。そして、彼らが政府の中枢に食い込んでいるとなれば、座視するわけにはいかなかった。それで明治六年の十一月から毎月のように続編を刊行することにした。政府のお役人がいくら増えてもミドル・クラスは育たない。民間による産業の勃興こそが今必要なのだ。官に取り込まれないためにも、私は続編の四編で洋学者の職分の何たるかを示した。思った通り反論が出て大議論になり世間の耳目も集めたし、私が徹頭徹尾「民」に依拠することが満天下に知られたから、目的は果たせた。

 まずは然るべき立場の指導者が民を導く方がよいと考える洋学者もいるが、何様のつもりだ。後見人にでもなったつもりだろうか。こういう考えは、この際言っておくが、次善の策などではなく、はっきりと有害なのだ。理由は簡単、民の成熟を妨げるからである。カントも言っていたではないか、「自ら招いた未成年の状態、すなわち、他人の指示なしに自分の理性を使うことができないのは、理性が無いからではなく、自分の理性を使う勇気が持てないからなのだ」と。結局のところ、人は考えない方が楽なので、他人の指示に従う選択を自らするのであり、それが「蒙」の状態にあるということなのだ。「蒙」を「啓く」呪文の言葉は、一言「サベーレ・アウデ 知る勇気を持て」だ。ホラティウスの格言では「知る勇気を持て。始めよ。正しく生活すべき時間を先延ばしする人は、川の流れが止まるのを待つ田舎者と同じだ」である。別の言い方をするなら、そうだな、‟Stay hungry. Stay foolish.”とでも言おうか。聡明であるために愚かにならなくてはならないとは、不思議なものである。だが、真実はその通りなのだ。そうして私の後に続いてくれた者が出たから、この国は今現在生き残れているのではないだろうか。

 明六社に連なった人々に関してもう一つ許し難かったのは、日本語の扱い方についての根本的な倒錯だった。国語に関する私の考えは、すでに私の起こした私塾に関する明治三年の『学校の説』に書いた通りだが、何しろ『明六雑誌』の創刊号は西先生と西村先生による国語のローマ字表記論だというのだから、放っておくわけにはいかなかった。馬鹿げた喧嘩を売られたものだ。私は決意した。手始めに、『明六雑誌』が出る前に先手を打って、続編の五編で「原書をどんどん翻訳して日本国中に流通させるのが洋学者の責任である」と表明した。それは「できるだけ早くこの結社を解散させなければならない」との判断によるものだった。もちろん、穏やかに、全ては状況の変化に見えるようにして…。福地君は文久の遣欧使節で洋行を共にした仲だから、私の意図を察してくれた。そうそう、福地君と言えば、昔私が江戸に来て旗本のようなものになって幕府に出仕していた時、こんなことがあった。江戸では将軍にお目見えが適わぬ御家人を「旦那」、お目見えができる旗本を「殿様」と呼ぶのだが、かようなことは家の者は知らぬから、福地君が「殿様はご在宅か」と言ってうちに来た時、「いーえ、そんな者は居ません」と下女と押し問答になったっけ。私は幕臣になって手柄を立てようという気なぞさらさらなかったが、福地君も出世欲のない男だった。大蔵官僚から新聞界に転身したのは彼の進取の気性のなせる業だが、多少は勇気が要ったことだろう。「知る勇気を持て」という内なる声に従ったのだ。『東京日日新聞』での読者とのやり取りはちとやりすぎの感もあったが、ジャーナリストとしての彼の感覚は的中した。政府が取り締まりに乗り出してきたのだから。「高上なるソサエチー」とは明六社のことだとすぐわかったが、ソサエチーに「社会」という語を当てたのは福地君のクリーン・ヒットだ。ピンときた、私が続編の五編で用いた「社中会同」を縮めたものだということは。それ以来、私は自分の訳語「人間交際」を捨て、「社会」に乗り換えた。「社中会同」略して「社会」、うむ、簡潔でわかりやすい。昔から「椀屋久右衛門」は「椀久」であったし、日本語のフレーズの短縮パターンは決まっている。「紅葉露伴」は「紅露」、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」は「デカンショ」、同様に、「社中会同」は「社会」というわけだ。そして、あの「ペルソナルアタック」やら、「ペルソナルプロテスト」やらのカタカナ語の乱れ打ちは、はっきり一人の人物を彷彿とさせる。彼の漢語力、国語力はどれほどのものか、これは興味ある案件だ。最後の続編十七編でこのことは書いておいた。嫌味だったかもしれないが、あんまり腹に据えかねたんでね。「日本の言語は文章も演説もできぬ不便な言語だから、英語を使い英文を使え」とは、日本語に対して失礼だ。そんなことを口にするのは、日本に生まれていまだ十分に日本語を使えない男だ。国の言語というものは新しい事物を飲み込んで消化し、新たな言葉を作り出し、何不自由なく使えるはずのものではないか。だから私は、ちゃんと日本語を勉強しなさいと忠告したまでである。まあ、二十歳前に渡英し、英語は自在に操れるようになったものの、優れた翻訳者なら身に着けているはずの漢語力、国語力がないからそんな戯言を言うのだ。気の毒と言えば気の毒だが、西洋と対抗して並び立つために日本の課題を乗り越えるには、国語しかないのだ。私は民の力を信じる。

 ここでどんなに高く評価してもしきれないのは、やはり二葉亭君の達成なのである。彼は一般大衆が自由に使える新しい文体を創ってくれた。それまでの漢語は誰でも自在に使いこなせるものではなかったから、これでやっと全国民に対して啓蒙可能な条件が整ったのである。カントの論理で検証しよう。最初に置くのは「『理性の公的な利用』だけが、人間に啓蒙をもたらすことができる」という命題である。

 次に、以下の三つの命題を考える。
  一、「学者だけが、『理性の公的な利用』を行える」
  一、「学者とは、何からも制約を受けずに思考でき、それを文章で表明できる者の
   ことである」
  一、「国民全員が自分の自由な考えを文章で表明できる」
 この三つの命題が各々真であると仮定して、そこから導かれるのは次の命題である。
 「国民全員が『理性の公的な利用』を行える」
 これを最初の命題に代入して得られる結論は
 「国民全員に啓蒙をもたらすことができる」
である。これは、最初の命題が真である限り、真である。最初の命題はカントが提出した命題であるから、否定するのは容易ではない。とすれば、「国民全員が自分の自由な考えを文章で表明できる」、を達成できさえすれば、全国民を啓蒙できることになる。こう考えると、日本語における自由自在な表現を可能にする新しい文体を生み出した二葉亭君の貢献が、どれほどすごいものだったか分かるだろう。事実、言文一致体が書き言葉として日本語に定着しなければ、全国民の啓蒙は難しかったであろう。「こうすれば、こうなる」という理論上の仮定が実現するのは、現実的方策によってそれが支えられたときだけである。そして、この「理論を可能にする方策」なるものは、他人には「何をやっているのかわからない」と思われながらも、自分の心と直感に従って努力し続ける人間から、不意に与えられる無償の贈り物なのである。

明治徒然話1  ― 諭吉の独り言1 ―

1.『ヅーフ・ハルマ』

 今になってみると、結局、新しい日本語の文体を創出したのは、長谷川二葉亭君であった。ロシア語の使い手がこれを成し遂げるとは思っていなかった。森君あたりがやるかと思っていたのだが、いや、同じ翻訳者でも森君は筆が立ちすぎる。あれほどの漢語の使い手では新たな文体を作る必要が無い。そこへいくと二葉亭君は自分は思うように文章が書けないと言っていた人だから。『浮雲』から十幾年になるか。ま、傑作とはいかなかったが、全てはあの作品から始まったのだ。おかげで私も自伝は新文体を使って書いた。

 人生の転機はいつ訪れるかわからない。私の場合、何と言っても、大阪に移って緒方先生のあの塾で学び始めたことだろう。今でもありありと目に浮かぶ、試験前の塾生でごった返していたヅーフ部屋が。人いきれにやられて難儀した。ずいぶんやんちゃもしたが、目的もなく一心不乱に学んでいたあの頃ほど楽しかったことはない。蘭語はたった一つ、世界に開いた窓だった。不思議な、途方もない世界を感知して、見たこともない言語体系の美しさとこの世のものとは思えない文明の有様に、すっかり魅了されたのだ。思えば蒲団に枕して寝ることも忘れるほど激しく学んだ。世間では悪く言われるばかりの貧乏書生だったが、今となってはただただ懐かしい。若い日に、良き師、良き友と学べたことは私の生涯の喜びであった。

 だが、あの頃の我々の苦労など取るに足りない、我々には辞書があったのだから。玄白先生らの解剖学書の解読作業のご苦労は、涙なしには読めない。洋行の折にとにかく辞書を買い漁ったのは、それさえあればどんな言語にも通ずるチャンネルが開けるからなのだ。横浜では読める文字も通じる言葉もなくて、もう英語の時代だと思い知らされたが、失望している時間はなかった。あの時出会ったドイツ人商人と筆談ができたのは、蘭語とドイツ語が兄弟言語のようなものだったからだ。結局、ヨーロッパの言語は皆どこかで繋がっているのだから、無駄な勉強などない。無論、『ヅーフ・ハルマ』はもとは仏蘭辞書であって独蘭辞書ではない。それは誰でも知っている。このヒントに気づくだろうか。ただの書き間違えと思うだろうか…まあ、試してみよう。

 独蘭辞書を使って最初に読んだのはカントである。その書は『アウフ・エアクレールンクとは何か』以外ではあり得ない。アウフ・エアクレールンクとは英語でエンライトゥンメント、「照らす、蒙を啓く」ということだ。『啓蒙とは何か』を読んで、私はいささか驚いた。システムと成り果てた西洋の宗教支配体制と、長年の支配で硬直化した幕藩体制との違いがあるものの、私の考えと同じだったのだ。カント自身、「さまざまな人の思想がどこまで偶然に一致するかを試したい」と述べているのだから、その実例として私の考えを残してもよいだろう。その後、次々と他の著作を読んでみたが、これほど考えが一致する人物がこの世にいようとは思わなかった。私の課題は理論と実践を同期させることだ。理論上は正しいかも知れないが、実践には役に立たないと言わせてはならない。まあ、私は著作の中で繰り返し「官途…、官途…」と書いたのだから、ひとつカントを読もうかという気になる者もいるやも知れぬ。

 それにしても、『ヅーフ・ハルマ』を一年で二冊も筆写した男がいたのだ。江戸っ子にしては骨のある奴だと思った。江戸城明け渡しについて西郷と交渉した男でもあった。それができたのは、決死の覚悟で駿府に赴いた山岡の下準備があったればこそなのだが…。旧幕臣として期待をかけていたのに、維新後は新政府に出仕しおって…がっかりだ。通り一遍の凡人ならばともかく、あのように傑出した人物が痩せ我慢の気風を捨てたのでは、先が思いやられる…万世どころかもう百年もすれば誰も痩せ我慢などしなくなる。だが、それができる人が一定数いなければ社会はもたない。国の存立は保てないのだ。つい、自伝の中であの男の胆力の弱さを随分こき下ろしてしまったが、ちょっと狭量だったかな。

 国という概念も私的なもの、一つのアイディアにすぎないというのは確かなことだ。「立国は私なり、公に非ざるなり」である。この点でも私はカントと同意見だ。人が立場上行う発言は、実は理性の私的な行使に過ぎない。一方、学者としての理性の表明は公的なものである。不思議に思われるかもしれないが、その逆ではない。人が市民としての或る地位において、または官職にある者として、実行する理性の行使は、立場上配慮して行わなければならない相手がいるのだから、自分の言論・行動が制限されてしまう。立場上する発言は、十全には本人の自由意思に基づかないからである。人間に啓蒙をもたらすことができるのは「理性の公的な利用」だけだとカントが言う時、それができるのは学者だけだと彼は考える。彼が学者と呼ぶのは「何からも制約を受けずに思考でき、それを文字を用いて表明できる者」という意味なのだ。しかしこういう理路が理解できて、ここ一番という正念場にそのように振る舞える人間であるためには、その人はどうしても或る程度成熟していなければならない。ここ一番とは、国家存亡の危機にあたってという意味である。平穏な時には痩せ我慢などいらない。だが、国が生き残れるかどうかの瀬戸際で、この国家という想像の共同体が成り立ち得るのは、自分の使命を自覚した者が黙って踏ん張り、己がなすべきことを遂行した時だけなのだ。この世には生半な哲学などでは計り知れないものがある。ヤングメンにはそれが思いもよらないことなのは分かるが、あれほどの男がと思うと、何やら情けなく失望を禁じ得ないのである。こういった人としての務め、世の中における役割を、皆に分かってもらうのは無理なのだろうか。もし分かってもらえるとしたら、どのようにして…? これが私の最初のそして最大の課題であった。

2020年5月30日土曜日

「紅春 158」

最近、「りく、年とったなあ」と思うことがあります。先日、朝の散歩の後、草むしりを終えて私は家に入りましたが、りくは「まだ入らない」と言うので外につないでおいた時のことです。この時期は水のボウルも外に置き、夕方なら蚊取り線香も焚いてやります。りくはおとなしくしておりましたが、日陰もあるのにわざわざ日向にいるので、「暑くないのかな?」と思っていました。30分後くらいに様子を見ると、やはりりくは日向で伏せをしており、「もう入る?」と言って近寄ると、ハアハアして少しのぼせたような顔になっているではありませんか。すぐ家に取り込み、事なきを得ましたが、結構危なかったかもしれないと思いました。

 人間と同じで犬も老齢になると暑さを感じなくなるのではないでしょうか。よく高齢者は気づかない間に熱中症になっており、渇きも感じないため脱水症状を起こすと聞きます。きっとりくもそうなのです。「暑かったら『ワン!』して知らせないとダメでしょ」と言ってみたものの、そして実際、知り合いの犬が通ったり、疲れて家に入りたくなったりすると、りくは「ワン!」と吠えるのですが、今回は吠えなかったのです。暑さに慣れて徐々に気づかなくなったのではないか。とすると、これから先、暑さには相当気を付けてやらなければならないと、認識を新たにしました。今後は自分の老化現象に引き付けてりくの体調も考えていかないといけない、年老いていくのはりくも初めての体験、何かあってからでは遅いのだと自分に言い聞かせました。


2020年5月18日月曜日

「感染症と世界経済」

 21世紀になり、百年に一度のはずのことがこう度重なると、もうそういう世界をデフォルトとして未来設計をしなければならないと感じます。これまで一般庶民の経済活動を取材した報道の中で「コロナの影響はほぼないです」と答えていたのは、東京の郊外で放し飼いの養鶏業を行っている農家の方だけでした。その方は、折り紙付きの素晴らしい卵を地元のケーキ屋さんに卸したり、自動販売機に卵を入れておくとすぐ売れてなくなる、「欲しい方全員に行き届かせられないのが悩み」と答えていました。 すでに価値の転換が起こっているようで、これまで子どもたちのあこがれの職業(医者、航空業界、アスリート、アーティスト、メディア関係のタレント等)は、もはや手放しで目指される職業ではないかもしれません。

 感染症の流行が起きてから、経済について、とりわけ何故こんな世界になってしまったのかについて知らなければならない気がして、資本、貨幣、市場、賃金等について自分なりに調べてみました。全く関心のなかった分野についてわずかでも学べたのはまさしくコロナウイルスのおかげです。素人の感性で辿り着いた感触としてわかったのは、「感染症は、もうとっくに終わっている資本主義に最後の引導を渡すために到来した」ということです。資本は常に拡大する性質を有するものですが、もう拡大する外界がないところまで来ているにもかかわらず、無理やり内部に拡張先を創出したため、世界各地で悲劇が起きました。日本の非正規雇用の出現、米国のサブ・プライムローン破綻、それに端を発し世界中に打撃を与えたリーマン・ショックはその一例です。資本拡大の最後の形態は実物を伴わない金融の分野に行きつきます。現在はこの段階の最終章です。各国の資本が際限なく国境を越えて世界中に移動できるようになったため、国民国家経済は全く統制が効かない状態になりました。株価に関与しているのはどの国でもほんの一握りのグローバリストたちであり、グローバリストには所属する国は必要ないのです。必死に延命措置を施して生き残りを図ろうとしているグローバリストに対して、「資本主義はもう死んでるんだよ」とコロナウイルスは語りかけているのです。彼らはきっと耳を塞いで聞かないようにしていることでしょうが・・・・。

 とはいえ、資本主義の後に何が来るのか、まだ誰にもわかりません。これから繰り返し起こるであろう感染症が、まさに人と人との関係を遮断することに狙いを定めているのなら、社会という概念を根底から考え直さなければならないのです。大前提として人が生きるためまず第一義的に必要なのは、食糧の地産地消および医療や日用品といった必需品の可能な限りの自給自足と、一地域でまかないきれない物を運搬する物流でしょう。そしてもちろん医療、教育・文化、国民のための政治が続きます。旧態依然たる硬直した社会では太刀打ちできない時代になったと感じている人も多いことでしょう。とにかく愚かな政治、国民をごまかして頭越しに権力をほしいままにする政府は、百害あって一利なし。これからは国民のための国家を作り上げた賢明な社会だけが生き残れるのです。この国もそうとう足腰が弱っているので、そのような国家を作っていけるのか私には自信が持てません。不本意ながら老人はせめて邪魔をせぬよう退場致します。若い方々に大きな期待を寄せています。今から十年後、二十年後に日本が存続できている、いや存続すべきものであるなら、若い方々に立ち上がっていただくしかありません。「こんな世界にしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」と、まっとうな大人は皆、若い方々に謝らなければならないのではないでしょうか。


2020年5月17日日曜日

「紅春157」


 毎年の定期健診および混合ワクチン接種に行ってきました。緊急事態宣言解除の直後だったせいか、午前のクリニックの開院に少し遅れたらもう駐車場が満車、やむなく午後に出直し、今度は15分前に着き、一番に診てもらいました。

 三密を避けるためか「付き添いの家族は一人に願います」とのことで、私は診察室のドアの外で待っていました。兄の話をまとめると以下の通り。




「体重は0.2kg減って8.2kgになったが、元気そうであり老齢なので特に大きな問題はない。柴犬には縄文柴と新柴があるが、りくのような狐顔は縄文柴。縄文柴は長生きで、最長で24歳という例があった。目から涙が出ているのは加齢により眼球が縮んで隙間ができたせいで致し方ない。目薬等は必要なく、目やにが出るようなら取ってきれいにしておけばよい。フィラリアは陰性、引き続き月一回のお薬を与える。(骨の形をした薬で、おいしいのかりくは一口でパクっと食べる。) 保健所の手が回らず、延期になっている狂犬病の注射はクリニックでもできるので、延期が長引くようならしたほうがよい。市役所からのハガキがあれば、予約なしでできる。

兄の話ではりくはとてもおとなしく診察を受けたようで、やはり兄に行ってもらってよかったと思いました。私がいると甘えて騒いだりしたかもしれない。ともかくも、年に一度の大事業を終えてこちらはぐったり。やれやれ、帰ってりくと一緒に少し横になりました。それにしてもりくがあと10年も生きるとなると、マジでこっちの体力いや寿命がもつだろうかと一抹の不安も感じます。

2020年5月11日月曜日

「感染症に強い国づくり」

 今のところ感染拡大をなんとか食い止められているのは、事実上の独裁国かIT機器を駆使して情報を効果的に利用できた国だけです。そのどちらでもない日本と米国を例にとって、感染症対策を意識したこれからの国づくりを考えてみます。厚生労働省の公表資料では5月9日現在、米国の死亡者は77,178人、日本の死亡者は601人です。資料上では米国の感染者数は日本の82倍ほどですが、この比較は日本の検査数が低すぎるため意味をなしません。死亡者総数を比較するにあたって人口比を考慮すると、米国の人口は日本の2.6倍なので、人口当たりに換算して米国の死亡者は日本の約50倍ということになります。この時点で私などはいくらジョンズ&ホプキンズ大学がコロナ対策研究の権威であっても、国民を救えないのではどうしようもないじゃないかと思ってしまいます。しかし、もちろん大学が悪いわけではなく、医療制度の問題なのです。

 第一の理由は、これに尽きると言ってもいいのですが、「日本には国民皆保険がある」ということです。感染症は皆が罹る病気なので、医療格差のある国においては、平時では想像できないほどの災厄をもたらしてしまいます。米国市民に一時は希望の光に思えたオバマケアは日本の国民皆保険とは全く別物でした。人々は入っている保険、支払える費用によってピンからキリまでの治療方法があるものの、保険会社や製薬会社の利益を最大化させるシステムが強固に整えられているので、この制度の下では、中間層でもあまりに高額な医療費が雪だるま式に積み上がり、医療破産に追い込まれる人が急増しています。また、貧困層の医療をカバーしていた保険では赤字になるため診てくれる病院が減少し、病気になっても診てくれる医者が見つからないのです。無保険者が5千万人ともいわれる国の医療制度は、その方々がいないものとして制度設計がなされています。平時でも多くの人が医療機関にかかれないことが常態化しているのですから、非常事態においてはひとたまりもありません。皆が罹りうる病という点で、感染症ほど平等・公平な病はありません。貧者だけでなく富者をも巻き込んで社会全体に広がり、医療崩壊を起こし、医療が機能しないのは必定です。

 もう一つ、感染者とその死亡者に関しては、その国がどれだけグローバル化しているかということも大事な指標だと思います。感染症は国の内外を問わず経済活動をも停止させるため、グローバル化が進み、外国人誘致が盛んな国ほど当然被害が大きくなります。この点、日本においても「今の悲劇の一端は誰かの旗振りに従ってこのようなリスクを顧みずその誘いに乗ってしまったことにある」と真摯に反省し、これを高い授業料として今後に役立てなければならないでしょう。この世は邪悪に満ちています。巧妙な罠に引っかかった結末はやはり個人に帰すほかないのです。悲しいことですが、米国も日本もグローバリストが政府と結託して、自己利益の最大化を常に求めています。「感染症に強い国づくり」をするには、自らが常に国の言うことに疑問を持ち、その真意をはかり、時には「国のために」国のやろうとすることに全力で反対するという逆説を生きることが含まれます。特にグローバリストは国民皆保険を突き崩し、米国流の民間委託によって莫大な利益を得ようと狙っていますから、まことに危険です。そして日本各地に作られた「特区」は規制緩和で外資を呼び込む地ならしを整える場ですから、すでに地獄への道はすぐそこに迫っているのです。「政府の言うことと反対のことをしていれば間違いない」と断言する人もいるほどです。

 さらに、SF的仮説として、小麦文化圏は死亡者が多く、米文化圏は比較的死亡者が少ないということがあります。才覚はあるが道徳心のないグローバリストたちがまず目を付けたのは穀物でした。人の命を顧みず、それを金に換えることが彼らの至上命題です。穀物には非常に大きな市場が開けているので、それは笑いが止まらないほど儲かるビジネスモデルとなりました。遺伝子組み換え食物、とりわけ穀物(小麦、とうもろこし、大豆など)を作り出し、強力な除草剤とともに販売したのですから、遺伝子レベルで人体に影響しても不思議はないでしょう。ちなみに、ボーリング場と発毛剤を足して二で割ったような名前のお手軽除草剤(散布すれば根本から植物を枯らす)が、日本のCMにも現れて私は青ざめました。これはどう考えてもベトナムで使われた枯葉剤じゃなかろうか。どれほど自然生態系に悪影響を与え、生物にとって危険な物かと思ったら、恐ろしくなりました。米国の貧困層に配られるフードスタンプで手に入るのは有名なハンバーガーやピザを売るグローバル企業の商品です。危険な除草剤をふんだんにかけて育てられた農産物に、これまた危険な食品添加物を加えて製造されたものを構造的・恒常的に食べさせられているのです。また、想像をたくましくすれば、コロナウイルスによる感染者で、貧困層ではない40代、50代の男性で持病もない方がたくさん亡くなっているのは、肉食の影響とも考えられます。危険な穀物を食べて育った家畜を食べれば、本来口にすべきでないものが濃縮された状態で体内に取り込まれるからです。こういったことの積み重なりがヒトの遺伝子を損傷することは十分あり得ると思います。

 日本にとっての不幸は、日本政府が米国(そのトップはアメリカ・ファーストの億万長者)の意思を忖度することを無上の使命としていることです。ですから、アメリカのグローバリストを全力で支えている日本政府が元来エボラの治療薬として開発され、アフリカでの治験を拒否されて実用化されない薬(即ち開発費を回収できていない薬剤)を、日本において新型コロナの治療薬として3日で承認したのもむべなるかななのです。21世紀の世界はグローバル経済によって行きつくところまで行きついた感があり、本当に気が滅入ります。今回分かったのは、グローバリズムが浸透した国ほど感染症には弱いということでしょう。本当にっ自国を守りたいと思ったら、それこそ鎖国をするしかない。えっ、それは出入国を止めている現在の状況ではありませんか。そうなると、コロナウイルスはまさにグローバリズムを粉砕するために登場したと言わざるを得ない。神様がグローバリストを懲らしめるために用いた方法がこれだと思えるほどに・・・。これは熟慮すべきことです。

・・・・・・・・・
主は来られる、地を裁くために。
主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。
(詩編98章9節)


2020年5月5日火曜日

「緊急事態に慣れました」

 緊急事態宣言が延長され、今一番考えるべきは子どもたちのことです。最も心身を鍛え、社会活動の基盤を育むべき時期にもかかわらず、それが許されない状況です。かといって、私が9月入学制に軽々に賛成できないのは、多くの方がこの状況をこれきり起きないと考えているからです。感染症について知れば知るほど、これからはコロナウイルスに限らず様々な感染症の流行がいつ何時起こってもおかしくないということに慄然とします。今はとにかく、入学月を変えるという、いきなり社会制度全体に波及する拙速な制度変更より、次善の策としてオンライン授業の環境を整えるべきでしょう。というより、なぜ今だにそれが遂行されていないのか不思議でなりません。

 不思議といえば、新型コロナウイルスは何か掴みどころのない得体の知れないウイルスだという気がします。8割くらいの人には軽傷もしくは無症状の症状しか現れないが、2割くらいの人は重篤になり得る、どういう人が重篤化するかはまだわかっていない。高齢者、持病のある人のみならず、持病のない40代、50代の男性もたくさん亡くなっているのです。わかっているのは「免疫力が低いと重症化する」ということですが、これは同語反復にすぎない言い方で、その詳しい中身や「免疫力」以外の要因はないのかが解明されるべきでしょう。発表される各国の感染者数、死亡者数には何かカラクリがあるのかもしれませんが、厚生労働省の公表資料では5月4日の死者は韓国253人、日本510人となっています。SARSやMERSを経験した韓国の対応はさすがでこの結果も納得ですが、ヨーロッパでは唯一対応に成功している医療制度の優等生ドイツでも、イタリアや英国の四分の一とはいえ6866人も亡くなっています。台湾やニュージーランドの対応の見事さはその通りとしても、一般論としてアジアはどの国も明らかに死者が少ない。これはなぜなのでしょう。このウイルスによる死亡率を全部各国政府の対応方法や社会の在り方に帰するのは難しい気がします。感染しても無症状の人がいる一方で、急速に重症化して亡くなる人もいるという発症状態の大きな落差をも考慮すると、この病の結末は「一人の人間が生物としてこのウイルスに対し何らかの抵抗力となる要因をもっているかどうかに左右される」ように思われてなりません。

 最近はPCR検査と共に抗体検査も取り沙汰されています。これは私も受けてみたいと思う検査です。自分の生活からすると、「私が感染しているなら都民は全員感染しているはず」と言えるほど注意して過ごしてはいるのですが、無症状のまま感染していてもう抗体もあるのならそれはそれでひとまず安心です。こう言うと疑惑の目を向けられるのですが、私はこれまでインフルエンザにも罹患したことがなく、一度だけ予防注射を受けてかえって具合が悪くなってから、予防注射も一切していません。ウイルスがうようよいると思われる職場に勤めていた時にそれでもインフルエンザになったことがないのですから、ひょっとしたら何か特殊な免疫力をもっていやしないだろうかとお気楽に思っているのです。スウェーデンが集団免疫を目指して市民生活には一切制限なく過ごしているとのことですが、人口比当たりの死者数は日本の8倍とのこと。平時でも寝たきり老人のいない北欧ならではの対応なのでしょう。寝たきり老人がいないというのは延命措置をしないということなのですから、これは日本では考えられない強烈な死生観を基盤にしているでしょう。もちろんもっと死亡率の高い感染症が起きた時には何らかの措置をとるのでしょうが、今この現状に対し「放置しているだけじゃないか」と私は違和感を禁じ得ません。私としては感染しても亡くなる人がいなければ良いと考えるので、重症化因子が解明され、重症化リスクのある人を事前に知ることができれば、事態を収束する方策も明らかになると思います。

 とりあえず外出できない日がまだまだ続きそうです。今まで感染流行の時期が暑い時期でなかったのは本当にありがたかったなと思います。体力だけは落とさないようにして、少しでも楽しいことを探しながら過ごすことにします。持病があるので休み休みですが、読書や調べものをしているといくら時間があっても足りず、本当に楽しいですし、緊急事態宣言のおかげで車も人も少なく安全なので、公共交通機関に頼らずともかなり遠くまで行けることがわかりました。そこにしかないものを買いに行くとか、ICカードのチャージをするとか、何か実用的な小さな目標を決めておくと達成感もあり、体力もついてきた気がします。とはいえ、自分の命がいつどうなるかは神様の思し召し次第ということがいっそう身に染み、一日一日が愛おしくなるのです。家では朝晩、区の防災無線からアナウンスが聞こえてきます。
「一人一人の責任ある行動が社会全体を守ります。ご協力をお願いいたします。」
 真剣に聞いてみると、自分が妙に感動していることに気づきます。これは誰も抗えない、なんと立派なカント的明察でしょうか。


2020年4月29日水曜日

「感染症の恐怖」

 いやでも感染症について知識が深まっていく昨今ですが、知れば知るほどー不謹慎かもしれませんがー現在流行している新型コロナウイルスよりはるかに恐ろしい感染症が山ほどあるという気がしてきます。致死率が高いことで有名なエボラウイルス感染症(必ずしも出血はしないので、医学界ではこの呼び名が使用されているらしい)や、まだ記憶に新しい呼吸器系の感染症SARS、MERSは日本では流行が抑えられたこともあり、感染対策に関して中国や韓国に遠く及ばないのが現状です。或る意味、感染症は前の世代の犠牲の上に対策が強化され得る怖い病です。

 もう外国に行くことはないから自分は安全と思っていましたが、全くそうではないということがよく分かりました。2千万人、3千万人という人が出入国している現在では、遠い辺境の地の風土病とおもっていた感染症があっという間に国内に流行してしまうのです。本人の自己申告と体温測定による発熱状況だけの「水際対策」はあまりにも脆く、体調不良を感じた人が近くのクリニックを訪れ、そこから二次感染ということが当たり前に起きます。

 ワクチン開発により絶滅できた感染症は天然痘だけのようですが、今ではその製造に必要な種痘ワクチンを保存している国は非常に少なく、バイオテロなどで天然痘ウイルスがばら撒かれた時の終末的パニック状況を決して空想的と笑うことはできません。デング熱、ジカ熱、風疹、麻疹など近年よく聞く感染症も、妊婦や胎児に影響を与えたり、二度目にかかると重症化することがあるなど、それぞれの恐さがあります。昔からある破傷風は人から人へ感染する病ではありませんが、早急に血清を用いないと死に至ります。東日本大震災で明らかになったように、特に災害で傷を負った時など、傷口からの感染に注意いしないといけません。また、若い人の間では性感染症(梅毒やHIV感染症)者が急増しており、専門家は警鐘を鳴らしています。

 その他ペスト、コレラ、スペインインフルエンザ(一般にスペイン風邪と呼ばれている)、マラリア等、これまで人類が経験した感染症の概要とその発症から死に至るまでの病状をつぶさに知る(「目から血を出しながら死ぬ」、「神経を冒されて発狂して死ぬ」など)と、どんなホラーよりも震えがきます。感染症にだけは罹りたくないと痛切に思いました。ショックが強すぎて様々な感染症がごっちゃになってしまいましたが、私の記憶が正しければ、確かエボラワクチンは接種されてはいるものの、効果が確認されるには長い時間がかかるため、まだ決定的なものは完成していないのではないでしょうか。そして愕然とするのは、最終的に決定版(すなわち必ず効く)ワクチンが開発されるかどうかは経済合理性に拠っているという冷厳な事実です。開発費に見合うだけの薬剤使用料が回収できないと判断されれば、そのワクチン開発の道は閉ざされ、実用化には至らないのです。もっとも、これほどグローバル化が進んでいる現在では、先進国が我が身を守るためにあらゆるワクチンを開発せざるを得ないのではないかとも思います。

 一般論として、一番危ない生物は「蚊」です。もちろん野生生物との接触は厳に慎まなければなりませんが、コウモリやヒトコブラクダやクマネズミに頻繁に接触機会のある人はあまりいないでしょう。彼らを宿主とする蚊や蚤、とりわけ蚊は危険です。熱帯シマカはもはや亜熱帯化している日本にも生息できるでしょうが、ヒトスジシマカ(やぶ蚊とも呼ばれるどこにでもいる蚊)も同様の吸血行為で感染症を媒介します。北限は岩手とも秋田とも言われていましたが、こう温暖化したのではもっと北にも生息できているかもしれません。いずれにしても私が真っ先にしたことは、通販サイトで今夏用の電気蚊取りマットを注文することでした。マンションでは高い階までは自力では飛んで来られないのであまり心配ないのですが、田舎に帰省した時これまでは結構刺されていました。今年は絶対刺されない決心をし、最低でも通用口に2か所(さらに必要なら渦巻き型の蚊取り線香も併用する)、居室に1か所とかなりの量を買い込みました。「昨年は11月ごろまで蚊がいたなあ」と思い出しつつ。勝手口の扉を開け閉めする時に、信じられない素早さでシマカが入ってくることがあるので、絶対入ってこれないほど蚊取り線香を焚きこめるのが有効かもしれません。これこそ水際対策ならぬ外際対策でしょう。もう一つ心配なのは延び延びになっているりくの狂犬病注射はいつになるのかということです。狂犬病は罹ったら100%死ぬ感染症ですから、これもきっちりやっていただかないといけません。