新年度はいつもと違うものになった。新聞社は多くの人が四六時中せわしなく出入りしている。連載の打ち合わせをするため部屋に向かうと、ちょうどそこから出てくる人がいた。顔を見て「あっ」と声にならない声が漏れた。その人は怪訝そうにこちらを見て、それから温顔で微笑んで出て行った。
「池辺さん、今のは…」
小部屋に入るとすぐに尋ねた。
「ああ、会ったかい。そう、あれが長谷川二葉亭君だよ。生まれは僕とひと月も変わらないのに、僕は文久生まれ、彼は元治生まれ。僕の方が年長というわけさ」
「つかぬことをお聞きしますが、彼は福翁と面識がありますか」
「さあ、どうかな。直接聞いてみれば。僕は一応あるよ、あの塾の出身だから。中退だけどね。なぜそんなことを?」
「いえ、たいしたことでは」
「彼の連載、なかなかでしょう。読者の評判もいい」
「そうですか。『浮雲』からもう何年になりますか。ずいぶん経ちますね」
「二十年。まさに復活、レサアレクシヨンだね。さて、今度はあなたの番ですが、どんな話になりますか」
私は初の新聞連載となる小説のあらましを話し出した。
「私が書くのは三人の明治の青年たちの話です。彼らが書生の身から一人前の大人に成長していく、その最初の過程を描きたいと思います。一人は頭がよくて野心もあるが金が無い、典型的な明治の青年A・小野、もう一人は裕福な家の息子であるが神経衰弱的傾向があり現実離れした思弁を好む青年B・甲野、で、三人目が主人公と言うべき青年C・宗近で、快活で豪胆であるが、タブラ・ラサというか、あっけらかんとしたオープンな若者です。甲野の継母は彼が家督相続をしないのをいいことに実の娘の藤尾に婿をとらせて家督相続させようと目論んでいる節があります。この藤尾というのが、明治という時代に生まれた新しい考えを持つ女性で、美人。小野を手玉に取る感じで楽しんでいるような曲者です。小野は藤尾に恋心を抱いており、藤尾も出世しそうな小野に気持ちが傾いている…。しかし、小野には昔、師であった井上孤堂の世話になった恩があり、口約束ではありますが、その娘小夜子を将来妻にすることが双方の暗黙の了解になっています。娘の縁談を取りまとめるために、この恩師が娘と共に小野を頼って上京してきたから小野は板挟みとなり…と。宗近には仲の良い妹、糸子がいて、妹は外交官試験を目指す兄を温かく見守り、片や兄は甲野に思いを寄せる妹のために奔走したりということもあって…。そのうち進退窮まった小野が別の友人を使って、「小夜子との話はなかったことにしてほしい。生活の援助はします」という旨を恩師に伝えると、「人の娘を何だと思っているのか」と井上孤堂は激怒します。この辺りから大団円に入り…」
「わかった、わかった。とりあえずその辺までで。二葉亭君の連載の主人公は、学生時代に金銭面でお世話になった人の家に婿養子に入った青年だった。今回の、小野と恩師およびその娘小夜子の関係もちょっと似てるね。法律的な縛りはないようだけど。一方は家の存続、もう一方は教育にかかる金の工面というお互い切迫した願望を組み合わせることはよくある話だが、これが単なる金銭面での契約ではなく、当人や家族の気持ちを汲んだ制度となると、なかなか難しいね。交換したいものが完全に一致することは奇跡的な確率でしか起こらないから。学問をするためのお金は、本人が用意しなければならないんだろうかね。当たり前だと言われそうだが、国民が学問を修めてあらゆる分野の底上げができれば国力が増すのは間違いない。とすれば、必ずしも本人が自分でお金を工面しなくてもいいんじゃないか」
「あの、もし訊いてよろしければ、塾を中退なさったのはやはり学資の問題ですか」
「ああ、いろいろあったよ。私の父は熊本藩の武人で、西南戦争では熊本隊を率いて西郷軍と共に戦って処刑されたからね」
私は思わず絶句し、しばらくたっておずおずと口を開いた。
「もう十年ほども前になりますが、私は松山赴任の後、熊本の五高におりました。学生たちと俳句の結社を作り、そちらの活動は充実していましたが、家の方はいろいろありました」
「人生何もないなんてことはまずありませんな。よし、では連載をよろしくお願いします。楽しみに読ませていただきますよ」
池辺さんとの打ち合わせは気分よく終了した。節度をわきまえた話しぶりでオープン・マインドな人だ。仕事がやりやすそうだと私は安堵した。