9.非自然主義
それから何年もしないうち、訃報がもたらされた。長谷川二葉亭、いや長谷川辰之助が亡くなったのだ。私はショックを受けてしばらく茫然としていた。そこへいくと鷗外はさすがだ。彼は二葉亭四迷の死に際して、『長谷川辰之助』を著して彼への敬慕を捧げた。『浮雲』があの時代に書かれたことの意義も正当に評価していた。また、彼のことを「逢いたくて逢えないでいた人の一人であった」と言いながら、洋行前に彼が訪ねて来て、翻訳書や文学、また外国のことについて語り合った時の回想が記されていた。『舞姫』をロシア語に訳させてもらったお礼についての言及もあったが、彼らの結節点は他にも見つかった。二葉亭はロシアの作家アンドレーエフの『血笑記』という全く肌色の違う小説も訳しており、一方鷗外はエドガー・アラン・ポーの『うづしほ』や『病院横丁の殺人犯』(いわゆる『モルグ街の怪事件』)を訳していたのだから、やはり二人は趣味が合ったのであろう。鷗外は『長谷川辰之助』の中で、結果的に遺作となった作品『平凡』についても触れている。
『平凡』は「私は今年三十九になる」で始まる作家が主人公の小説だから、一瞬、二葉亭四迷が内職として翻訳もこなすしがない作家としての日常や回想を基に小説を書いているのかと錯覚するのだが、実際の彼はその年四十四歳であり、私の『虞美人草』を挟んで『其面影』に続く二作目の連載をしているのである。だから、描かれるのは別な人物なのだ。「平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ」と書く彼は、もう『浮雲』で頼りなげだった筆遣いの二葉亭ではない。彼は自分の文体を手に入れたのだ。
そしてその書き方は、最近の流行りである自然主義でいくと宣言する。ちょうどすぐ直前に田山君の何とも言いようのない作品が文壇を賑わせていたからだ。すなわち、二葉亭の言葉では「作者の経験した愚にも附かぬ事を、いささかも技巧を加えず、ありのままに、だらだらと、牛の涎のように書く」という書き方を真似てみると言うのだ。意地が悪い。私もここまではっきりはとても書けない。皮肉たっぷりに「自然主義」は「牛の涎」だとバッサリ切り捨てながら、「いい事が流行る。私も矢張りそれで行く」と二葉亭が書く時、ここで示唆しているのは「『小説を書く自然主義作家』というものを、私は書く」という形で、「次元を一つ上げる」という仕掛けなのだ。そうして、子供の頃からの回想文となり、祖母の死、異例な長さのポチの死、上京して住み込んだ叔父一家の娘・雪江さんとの出来事、文士となってからのお糸さんをめぐる出来事と田舎の父の死までを描いた後、不意に終わる。
だが無論ただでは終わらない。二葉亭の残した二つの遊び、というか二重の言い逃れに私は思わずにんまりしてしまった。まず、文壇を去って役所に勤めるようになった「私」が書く言葉で「高尚な純正な文学でも、こればかりに溺れては人の子も戕(そこな)われる。況(いわ)やだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今の文壇のヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ」と、果てしなく続く繰り返しの後に(終)の文字を置いたことである。さらに、文壇批判を途中で「へへへっ」と飲み込む形でやめて、そのあとに、「二葉亭が申します。この稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません」と、最後のダメ押しをする。これで『平凡』全部をふざけた他愛もない話にしてしまい、「おあとがよろしいようで…」と舞台裏に消える格好である。自然主義の批判を「くだらない話ですから、目くじら立てないでくださいね」とかわしているのだ。この『平凡』が当たったということは、牛の涎のような個人的体験のダラダラを「別に知りたくないよ」と思っていた読者も多かったということだろう。
鷗外が残した追悼は『長谷川辰之助』だけではない。よく考えると、その年に書かれた『ヰタ・セクスアリス』が『平凡』へのオマージュなのは間違いないだろう。彼はその年言文一致体を使い始めたが、たしか『ヰタ・セクスアリス』はその二作目ではなかったろうか。「金井湛君は哲学が職業である」と鷗外らしい簡潔な書き出しで始まり、彼はドイツから届いた報告書をもとに「性欲的教育」を自分が息子にできるかどうか、まず自分史を書くことにする。そして、自分の成長過程で日常生活の中で見聞した性的出来事を一つ一つ切り取ってサクサクとスクラップしたファイルを作成するのだが、最後の終わり方はこんなふうである。すなわち、出来上がったファイルを世間に出せるだろうか、また我が子に読ませられるだろうかと自問自答し、結局VITA SEXUALISと大書して、文庫の中へ投げ込んでしまうのだ。つまり、自分がスクラップしたものを最終的にそのままゴミ箱に捨てたも同然で、これは江戸の戯作を装った『平凡』の最後の終わらせ方と趣は違うものの、構造は全く同じだ。そうするわけを二葉亭は書かなかったが、鷗外は金井君に「人の皆行うことで人の皆言わないことがある」とはっきり言わせている。私もそれでよかろうと思う。
軍医でもある彼が、官憲が顔をしかめること必定の書を書くからには、やはり自然主義に対して言うべきことを控えることはしないと腹を決めたのであろう。「出歯亀」事件のようなインパクトのある話を出して、「出歯亀主義という自然主義の別名が出来る」とまで書いているのだからやはりさすがだ。亀太郎には気の毒だが、「出っ歯の亀太郎」の短縮形は「出歯亀」で絶妙におかしな口調の言い回しだから、鷗外が書いた以上、この語はもう未来永劫日本語の語彙として残るだろう。鷗外が言いたいことは明らかに「一応自然主義と呼ばれるものを調べてみたけど、くだらんね」であり、「捨ておけ!」なのだ。この点私も同感だ。ただ彼のすごさの本質は、自分が知る性的出来事を一つ一つ標本化したことであり、この性行動の一覧化へ向かう力の存在を「自然主義と呼ばれる文学」へ人を駆り立てる要因として暴いたことなのである。実際、ついこの間まではこの世には性的なものが満ち満ちており、今ではちょっとした性的逸脱といった言葉で括られる類のことも何ら区別されずにそこにあったのだから、性は明治という時代になって初めて前景化してきたのだ。
まあ、こういうことは個人差があるからあれこれ言ってもしかたない。ただ、このままいくと、何だかどれだけ衝撃的な内面を開示できるかが作家としてのランクを決めるという暗黙の了解ができそうな気もするし、性を中心に自分を語りたい人がその力を押しとどめるのは難しそうだ。私は別に構わないが。