義務教育が始まるのは6歳、退職の年齢は変化しつつありますが、とりあえず60歳として、この間の54年間のうち就学、就業の期間があります。この期間は人によって長さがまちまちですが、身分というか肩書きは明確です。今それ以外の期間を送っている人、つまり、学校に通っている人と職に就いている人を除いて考えてみます。すると残るのは、専業主婦(もしくは専業主夫)、家事手伝い、浪人生がまずあり、その他に病気や家族の介護等で働けなくなるケース、また何らかの理由で就学・就業ができないケースが考えられます。どれも昔からある形態なのでしょうが、高齢化社会が進むとともに介護離職が増えたり、社会の複雑化に伴い不登校やひきこもりなどその他のケースが注目されるようになってもう随分経ちます。
戦後の75年だけを考えても、社会は想像を絶するほど変わりました。かつては定年退職後は10年ほどで人の一生は終わりましたが、今では定年後に20年~40年ほども生きるようになりました。終身雇用は崩壊し、短期業績が重視され、非正規雇用が増大、正社員になることさえ簡単ではなくなりました。学歴の選択も、かつて約束されていた職業に必ずつながるものではなくなりました。今ある職業の半分は将来AIに取って代わられると言われていますし、職に就くことが問題ではなくなる時代が来るのでしょう。実際、今自分が十代の若者だったら本当につらいと思います。なぜなら、今問われているのはどんな職業に就けばよいのかというよりずっと根源的な問いだからです。やがて職に就くことが強いられない時代が来るでしょう。その社会でこそ、人は一生の間にやるべきことが問われてきます。「あなたは何者か」という存在に関わる問題なのです。
現在自分が楽しく引きこもっていられるのは、時代的なものも含めてただ幸運だったとしか言えません。この狂騒的な競争社会で最も忘れられているのはおそらく学ぶことの愉悦でしょう。これは速さを競う世の中では探求しにくい喜びであり、我慢や待つという忍耐を必要とする大事業だからです。しかし人が60歳までに知るべきことがあるとしたら、この学びの愉悦と最低限の社会性だろうと思います。学校という集団内で普通に生活する中で社会性を身に付けることがいつから化け物じみた困難を伴うものとなってしまったのか・・・。学校というシステムの制度疲労、これは全く由々しき問題です。別に学校でなくてもよいのですが、社会の中で生きていける人間関係のスキルはどこへ行っても必要です。生まれつき外向的な人と内向的な人がいるのは厳然とした事実ですから、無理して装わなくてよい場所を見つけてほしい、少しずつ自分の周りを住みやすい場にしていってほしいと切に願うばかりですが、それは難しいのでしょうか。諦めずに通じる言葉を見つける努力はできないものでしょうか。それは致命的に大事なことのように私には思えます。集団が苦手な人でも社会的存在として課題に対応する力がついていること、そして自分なりの楽しさを感じながら技術なり知識なりの探究ができれば、もうそれはよい人生ではないでしょうか。