西洋の科学、あるいは科学的思考は大いに尊重せねばなるまい。我々がようやく武士の世に移行しつつあった頃、西洋にはもう大学なる学問を究める場所があったのだから、これはかなわない。ベーコン氏のいう観察と実験が科学の基本だ。蘭語の書物を参考に、若い頃塾で実験もしたな。アンモニアが発生して騒ぎになったこともあった。だが、初めて咸臨丸でアメリカに行った時、向こうの人が「珍しかろう」と、工業の製作所を案内していろいろと説明してくれたことは、何のことはない、既に蘭学を通して知っていることばかりだった。当たり前だが、科学はどこでも通用する。逆に私が度肝を抜かれたのは、馬に引かせる乗り物だとか、部屋いっぱいに敷き詰めた絨毯を土足のまま歩くことだとか、家に招待されてみれば接待に奔走するのは夫の役目で、専ら夫人が座ってお客と対応をするとか、あの時は子豚の丸煮にもびっくりだったが…まあ、驚かされたのは生活習慣の類いが主だったな。
日本でも西洋でもまず最初に学問をしたのは坊さんだ。修道院なり寺なりが学問の最高峰だった。西洋ではキリスト教は支配体制そのものだったから、やがて世俗の王様が教皇から権力を奪い取っていく闘いは激烈であり、科学が神と決別するにはずいぶんと時間がかかった。ヨーロッパの知識階級の間で意思疎通に使われたラテン語は、漢字文化圏における漢語のようなものであろう。だから、母語たるフランス語で書いたデカルト氏の書が西洋近代の幕開けを告げたと言うことになるだろう。その時代でもまだ、学問で神の存在証明ができると考えられていたのだから、神を科学とすり合わせるのに多くのエネルギーが注がれたのだ。それは無理だと始めから割り切っていたパスカルは賢明だったと言えるだろう。それにしても彼らとスピノザ、ライプニッツが一緒に生きていた時代とは、なんと凄まじい時代か。そしてヨーロッパとはなんと恐るべき場所だろう。いや、その前にルターがいた。今しもグシャッと押しつぶされそうだった小さな柔らかい卵が堅固な壁にぶつかり、やがて壁に穴をあけたのだ。民衆から遠ざけられていた聖書をドイツ語に訳したことが、あれほどの破壊力を生み出すことになるとは。おっと、ガリレオ、ニュートンも忘れちゃいけない。他にも数えきれないほどの頭脳が連綿と束になって存在したのだ。そしてその後の最も画期的な成果はワットの蒸気機関であり、スティーブンソンの鉄道であり、アダム・スミスの経済学だった。自然科学と同様に、経済にも定則があったとはもう仰天であった。なんと面白いことを思いつくものか。十八世紀の女性が書いた小説『ミドルマーチ』には、知識階級は田舎でも誰もがアダム・スミスの著作に夢中だと書いてある。
分業によって製品を作るようになれば、多くの働き手が必要になり、一日に作れる製品の量が何十倍にもなる。機械を用いればさらに大量生産が可能になり、生産された製品を格安の値段で売れば爆発的に売れる。それにより手工業者が従来の方法で製作した手作り品は売れなくなり、生計が立ち行かなくなる。ほぼ同じ製品なら誰もが安い方を買うからだ。昔ながらの手工業者が駆逐されれば、その製品を製造する業者の独擅場となり、さらに人々が製造工場に駆り集められ労働者が増大する。製品の需要が多ければ供給を増大せねばならず、さらに大量生産するために新たな工場が作られる。そのための資金が必要となるが、いつでもすぐに切り詰められるのは労働者に支払う賃金である。論理的には、賃金は労働者がなんとか生活を維持し労働を続けられる最低額まで下げることができる。生かさぬよう、殺さぬようとはどこかで聞いた話だが、労働者が多少死んでも実は困らないから、とにかく利益を増大させることが目指すべき最優先事項となる。資本とは端的に労働の蓄積された形態なのだ。低賃金・長時間労働・労働環境の悪化等は労働者の寿命を縮めるが、むしろこれは仕事を求める他の労働者には好都合である。彼らは自らの労働力を売る以外、生きるすべを持たないからだ。かくして、労働する機械と成り果てた人間が創出される。製品が国内だけでなく諸外国にもどんどん輸出されるようになれば、それによって国富は増大するが、その時こそ労働者が最低の賃金で働き、最も困窮する時なのである。さらに諸外国における別の国とのシェアの争奪が苛烈になれば、必ずや争いに発展し、戦争の可能性も避けられなくなる。
理論的にはそうなる、と経済学は告げている。この輪の中に入りたくはないと誰もが思うであろう。が、我々はもうこの円環の端に位置しているのだ。正直・勤勉・倹約という点では、近江商人もプロテスタントも同列だが、所詮それだけでは話にならない。もはや国の中でだけ通用するやり方で済ませることはできない。鼓腹撃壌の幸せな時代は終わったのだ。国の経済を発展させるためには経済の法則を理解して、産業を興さなければならない。まずは民間の実業家がどうしても必要だ…。しかし改めて確認するが、我々が目指すものは、あくまで日本が西洋に追いつき並ぶことではない。それだけでは意味がないのだ。イギリスでは、下層階級の子どもたちが穴倉のようなところで長時間労働させられていると聞く。子どもは大人より一層安い賃金で使うことができるのだ。昔ながらの生業の手段を失って下層に転落した者たちも同様で、彼らはいかなる労働環境の悪化も受け入れざるを得ない。そこに縛り付けられるほか生活の手立てがないのだ。誠に戦慄すべき社会である。その先に来るものは…。やはりヨーロッパを徘徊している妖怪の出番となるか。留学生からの情報では、彼らは国をまたいだ結社を形成しつつあるようだ。
メアリー・シェリーが小説の中で一人の科学者に作らせた怪物は、深い孤独と疎外感から創造者にさえ制御できないものとなったが、こちらの妖怪も、やがて自分を生み出した者の手を離れ、そう遠くない将来、必ずや世界を揺るがすことになろう。この妖怪はいずれ日本にも現れずには済むまいが、その生みの親は実に切れ味の良いナイフのごときペンを持っている。どの国の政府をも震撼させること必定の彼らの書は、読むだけで身に危険が及ぶ時代も来るに違いない。彼らの名は『学問のすゝめ』の最後の編に忍ばせておいた。「円(まる)き水晶の玉…ガラスのようなもの」とは「マルクス…エンゲルス」であり、「甲州」ならぬ「欧州」産である、と。
私がヨーロッパ諸国と日本の違いを肌で感じるのは、それぞれの人民における階級差である。階級の差が激しい社会とは、不幸な社会ではないだろうか。私は旧士族にも農民にも、鉄鎖のほか失うべき何ものもない人間になってほしくはないのだ。どうすればいいだろう。私は敢えて彼らを労働者とは呼ばない。日本においては労働は必ずしも苦役ではない。日本人は、労働において自分の務めをできる範囲で楽しんでしまうところがあるのではないか。いわゆる遊び心である。「日本人の労働観は我々と違う」と言った西洋人にはたくさん会った。それに江戸時代でさえ、「日本では下層民でも文字が読めない者がいない」と西洋人が驚いたという話は枚挙にいとまがない。うろ覚えだが、英国の小説の中に、夫人が夫の読んでいる新聞をふと見たら上下が逆さまだったというエピソードがあったから、全くの誇張ではないのだ。それらは確かに大きな強みになるだろう。粘り強さ、几帳面さ、こういったことも利点だ。階級格差が西洋程際立つことがないようにするには、国民の大多数が自分をミドル・クラスと錯覚できるほどに、生活の平等化を目指すのはどうか。今はまだ夢のような話だが。
さらにその先はどうなるか。そもそも外国が日本に開国を迫ってきたのは、日本と交易をするためだ。日本の国に点在する貴重な品が欲しいからではない。それもあるが、何より日本に自国のものを売るためなのだ。だから、将来日本が諸外国の欲しがる産業品を作って売り、万一売れに売れて交易にアンバランスを生じたら、諸外国は必ずや日本がいらないものまで買わせようとするだろう。力づくでも押し付けてくるに違いない。それが外国と交易するということなのだ。その時、「いらないものをなぜ買わねばならないのでしょう。不均衡がお気に召さないのなら、我が国のものをお売りするのは控えます」と言えるだろうか。論理的には言えるはずだが、そこまで腹の据わった決断ができる人材がいるかどうか…。いや諸外国も負けてはおるまい。是が非でも日本人が欲しいと思うものを作るはずではないか。外国とお付き合いする限り、この戦いに終わりは見えない。ひょっとすると、西洋諸国がもう工業製品を作らないという選択をすることはないのか。わからない。もっと安く作れる地域に生産を任せてしまう国が出てくれば、その国は何を売るつもりなのか。いずれまた無理難題を言ってくるのだろう。そこまで考えたらきりがない。今はともかく一にも二にも国の富を増大させなければならない。そうだ、百年先には、他の国民が休んでいる間も働いて、世界で一番裕福になることもひょっとしたら可能かもしれない。アメリカ合衆国憲法の起草者の一人、ベンジャミン・フランクリンは「タイム・イズ・マネー」と言っていたではないか。人間の労働時間以外は刻々と無駄な時間としてカウントされる恐ろしい時代が来るのだ。アメリカは「労働の目的は貨幣を得ること、人生の目的は富を得ること」と言い切る人間が国家を主導する国である。その価値観に倣う国はどういう国になるだろうと想像すると気が滅入る。今でさえ何でも金で買えるのだ。医者の位も学位も爵位も。
そうそう、最近興味を引かれたのは、統計学という何やら新しい学問、まるで人には自由意志というものがないかのように思えてくる不思議な科学だ。人間の活動をマスとして巨視的に見ると、全く違ったものが見えてくる。自分の考え、自分の決断と思っていることでも、事実は、人が自分で決めて行動することなどほとんどないということなのかもしれない。それこそまるで神の見えざる手による予定調和ででもあるかのようだ。面白いものだ。あれは何といったか、アメリカ文学の偉大な最初の一冊…『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いたトウェイン氏によれば、世の中には三つの嘘があるらしい。「嘘と真っ赤な嘘と統計である」と。おそらく彼の言う通りだろう。