2020年6月12日金曜日

「マックス・ウェーバーと内村鑑三」

 先日いただいた『官僚制の思想史』という本の中で、キリスト教に関するコラムを読む機会がありました。内村鑑三について知るにつれ、久しぶりにマックス・ウェーバーを読み返し、気づいた点を記しておきます。これはおそらく内村鑑三とマックス・ウェーバーが全くの同時代人であることと無関係ではありません。

 マックス・ウェーバーによって1904年~1905年に書かれた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫』と略します)は、かつて私にはどうも眉唾物に感じられる書物でした。しかし40年後の今読むと、読めた気がする、即ち、何だかサクサクと分かる、しっくりと心になじむことに気づき、自分でも驚きました。この間に起こったことは明白で、それは最初に詠んだ時は学生だったのに対し、その後自分が「教職を天職として」(すなわち職務に関する働きのすべてを神に献げるものとして)働いてしまったという現実を経たことに尽きます。退職して初めて、自分が全く教師に向いていなかったことを知りましたが、在職中は教職を「天職だ」と思っていたのです。この幸いな勘違い(思い込み=信仰)がなければ、三十年近く働くことはできなかっただろうと思います。

 M.ウェーバーが『プロ倫』を著したのは、まず出発点として「近代資本主義がなぜ他の地域(中国、インド、バビロン等)では起きず、西ヨーロッパおよびアメリカでのみ起こったのか」を問うことから始め、考察を進める中で「近代資本主義を可能にした精神を、西欧に固有のエートス、とりわけカトリックではなくほかならぬプロテスタントの倫理に求める」という経過をたどったのではないかと思います。プロテスタントといえばカルヴァンの「予定説」に触れざるを得ませんが、「予定説」とは自分が救われるかどうかは予めきまっているという、或る意味無茶苦茶な説です。この説によれば、人は善行と悪行を前にして、「救われることに決まっている」なら悪行を行っても救われるのであり、「救われないことに決まっている」ならいくら善行をしても救われないということになってしまいます。この場合、功利主義者なら悪行を選ぶことにためらいを感じないでしょう。しかし、この問題を考えるにあたって考慮しなければならないのは、「全知全能の神様は『私がどちらを選ぶか』をあらかじめ御存じで或る」という大前提があることです。すると、プロテスタントはおそらくこう考えるでしょう。「神様は『私が善行を選ぶ』ことを御存じのうえで私の救いに関する決定をなさったはずだ」と。かくして「予定説」は、ともすれば低きに流れがちな人間を常に緊張のうちに宙吊りにすることになります。「善行をすれば救われ、悪行をすれば救われない」という単純な説のもとでは人は惰性に流れ、腐敗が生じてしまうのです。人間は欲せずして悪行を行ってしまう存在ですから、社会の腐敗は徐々に進行していきます。事実、悪行の罰の赦しを金で買う贖宥状に対して、プロテストするところから新教が始まったのです。ウェーバーはこの論理の運びを「我々は神が決定をなしたもうとの知識と、真の信仰から生ずるキリストへの堅忍な信頼をもって満足しなければならない」という言葉でごくあっさり説明しています。つまり、「救い」は神がなした決定であり、人はキリストを信じてお任せすればよいのだということです。カルヴァンの「予定説」は、救いに関する神の答えを人の行動から推し量るという臆見を許さないのです。

 日本では何故か「予定説」が強く意識されることはないように思います。少なくとも私はそうでした。その理由を考えてみて、はたと思い当たることがあり、同時に私がかつて『プロ倫』を読んだ時になんだかピンとこなかった訳もわかりました。それは端的にキリスト教国における信徒の人数と日本における信徒の人数の差に由来するのです。キリスト教国では宗教は古くからの慣習であり、国の制度そのものに組み込まれていますが、日本ではキリスト者は極めて少数にすぎません。日本のキリスト者にとっては信仰告白をした時点で、意識するとしないとにかかわらず、「自分が神に選ばれていること、すなわち救われていることは自明」なのです。その点、日本のキリスト者には迷いがありません。その観点からすれば(イエス・キリストの言動からは外れるのですが)日本のキリスト者の多くが自分の就く職業を「どんな職でもよい」と思っているとは考えにくいのです。職業選択の際、多くのキリスト者の念頭にあるのは(内村鑑三ならずとも)おそらく「神と人とに仕えることができる仕事」であり、「できる限り汚いこと(悪)に手を染めずに済む仕事」なのではないでしょうか。明治初期の気合の入ったキリスト者とすればなおさらで、「職業に貴賤はない」という言葉をそのまま我が身に引き付けて考えることは難しかったことでしょう。職業、天職とは、『プロ倫』の中で何度か述べられているように、「(神に)呼ばれる」という意味を明確に含む言葉だからです。独語のberufen (呼ばれる、~に任命する)からのBerufでも、ラテン語vocare (呼ぶ)から派生した英語のvocation、やそのものズバリのcalling など、全て同様です。

 ちなみに、内村鑑三が『日本国の天職』(1892年)で用いたmission という語は「(神に)送られる」という意味を含む、もう一段踏み込んだ言葉です。渡米により内村鑑三がキリスト教国アメリカの実態に触れ、義憤や幻滅を感じたのはその通りですが、そこから「自分の天職」を越えてさらに「日本国の天職」を考えたのが明治という時代でした。この時期の日本の知識階級は自国が欧米に比べて著しく劣っているという強い危機意識があったのは間違いありませんが、事実は、未開・劣等と自分を見下している欧米の国へ学びに行ったところが、異教徒も真っ青の、倫理上あり得べからざる現実を突きつけられ、劣等意識に変化が生じ、強い自国意識に目覚めたという人が多かったのです。例えば、弘前出身でホーリネスの中田重治は、渡米してムーディ聖書学校で学んでいますが、後に日猶同祖論という不思議な説を唱え『聖書より見た日本民族の使命』と題する講演をしています。経緯は知りませんが、これなども自民族意識の覚醒が日本をユダヤ民族という選ばれた民に重ねた結果なのではないでしょうか。

 キリスト教国の歴史と現実は、実のところ、反キリスト的なものに満ち満ちており、とても手本にはならない不健康で不穏なナショナリズムに駆動されています。明治期に新しい国家を模索していた日本人は、このように劣等感と優越感の入り混じった複雑な心性をもっていたため、国家の構築を裏打ちするはずのナショナリズムは掴みどころのないものとなりました。それゆえ日本は歴史の様々な局面で時に迷走しながら、国家の歩みとともにナショナリズムも変容していったのではないでしょうか。

 「キリスト教」ではなく、「キリスト」を信じるという姿勢をとことん追求したのが内村鑑三であったと思います。内村の念頭にあったのはおそらく、和魂洋才といったアマルガムとしての日本ではなく、「西洋的なるもの」と「日本固有のもの」を「キリスト信仰」によって止揚し、新たな日本という国を作ることだったように思えます。マックス・ウェーバーは『プロ倫』の中で、「宗教改革は合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して、世俗の宗教生活のうちに持ち込んだ」と述べていますが、これを内村鑑三の言葉で言えば、「西洋的合理主義と日本的精神を西洋および日本から引き出して、キリスト信仰を土台とする生活のうちに持ち込む」ということであり、明治維新のこの時が千載一遇の機会に思われたのでしょう。

 「国粋」という言葉はもともとNationalityの訳語として「国(あるいは国民)の精粋(本質)」というほどの意味で、現在いわゆる「国粋主義」という言葉で表されるような意味を含んでいませんでした。「国粋」という語を最初に使ったと言われる志賀重昂は、札幌農学校において内村鑑三及び新渡戸稲造の二年下の四期生です。W.S.クラークの感化を受けて一期生は全員キリスト者になっており、上級生の圧に屈する形で内村鑑三が入信した経緯は『余は如何にして基督信徒となりし乎』に記されています。一読すると驚くような経緯ですが、人を本当に成長させるのはいつもこういった「厄介な贈り物」なのです。W.S.クラークというカリスマ的個性が去った後はどうだったのでしょう。志賀重昂がキリスト者であったという話は聞きません。彼のその後の人生は、常に絶対他者と向き合わねばならなかった内村鑑三とは違う歩みになったことでしょう。それは、変化という点では、「国粋」という言葉が時代の中で辿った変遷と少し似ているかもしれません。

 内村鑑三の場合、渡米の経験を抜きにその後の思考や活動、つまるところ人生の軌跡を考えることはできません。しかしそれは「日本人としての覚醒」をもたらしたという意味であって、「天職」思想そのものはまさしくプロテスタンティズムそのものに内在する考え方です。そう確言できるのは、私自身、在職中は毎朝、「今日の働きの全てをあなたに献げるものとして行うことができますように」と神に祈っていたからです。内村鑑三(1861-1930)とマックス・ウェーバー(1864-1920)はほぼ全くの同時代人と言ってよく、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』はまさに『プロ倫』と同時期(1904年)にドイツ語訳もされてヨーロッパで評判になってもいるので、M.ウェーバーが読んだ可能性は高いと私は推測しています。その場合、M.ウェーバーはこの日本人回心者がその思考、心的態度、行動様式という点で、あまりにもプロテスタント的であるのに目を見張り、或る異教徒の回心者(a heathen convert)の記録を喜んで自説の例証に加えただろうと思います。

 或る民族が圧倒的な力の存在を認めた相手国の宗教を、喜んで受け入れる現象は、戦後の日本でも見られたことですが、これは例えば、旧約時代のユダヤの民が一度も世界帝国になったことがない、それどころか長期にわたって強国としての地位を占めたことさえなかったにもかかわらず、ヤハウェ(神)を捨てなかったのと対照的です。ヤハウェへの信仰こそが彼らを彼らたらしめるものだったからです。その点では内村鑑三も「自分は何であって、何でないのか」という問いを常に自らに突きつけて生きたキリスト者であったということは、間違いなく言えるでしょう。