2020年6月6日土曜日

明治徒然話10  ― 漱石の道筋5 ―

10.先生

 その後も新聞の連載は続いたが、『三四郎』を書いたあたりで、家のごたごたやら大病やらに見舞われた。なんとか最初の三部作は書き終えたが、その後はもう体がボロボロだった。いつ死ぬかわからないと本気で思った。だが、まだ死ねない。書いていないことがある。胃潰瘍による中断もあったが、ようやく私にとって書かずには終われない一世一代の作品に辿り着いた。時はもう大正三年になっている。これが書けたらいつ命が尽きてもいい。私は「先生」をめぐる作品に取り掛かった。

 あれは何だったのだろう。あの桐の箱は福翁からのものだと思っていたが、考えてみれば何の確証もない。今となっては誰からのものでも構わない。とにかく面識も接点もない誰かから私に宛てられた書状だ。独白だから「ふ~ん」と読むだけでよかったのだが、読んでしまった後は何故か無視できないものになった。独白であろうと、それが私宛のメッセージであることだけはどうしても否定できなかったからだ。そしてその中身はたった一言、「成熟せよ」で間違いないかと思う。一人の天保の老人がほぼ一世代違う私に対して残したメッセージが「成熟せよ」なのだ。彼は「身の程知らずであろうとも、洋学者としてできることをするのが自分の使命」だと言っていた。私は文学の世界でこれに倣おうと思う。今、私は勝手に彼を「先生」と呼ぶ。いや、すでに私はずっとそうしてきたのだ。だからここまで来ることができた。だが、そろそろ私も私の桐の箱を誰かに送らなければならない頃合いだ。この作品を書くことによって、私は自分の務めを果たそうと思う。

 「私」は、或る日鎌倉の海水浴場で外国人をものともせずに泳ぐ人を見つけ、言葉を交わすうち、その人を「先生」と呼ぶようになる。「先生」は特に人より秀でたところがあるわけでもなく、立派な肩書があるわけでもない。それは「先生」自身が言う通りである。それにもかかわらずと言おうか、むしろそれだからこそと言うべきか、「先生」に対する「私」の弟子としての敬愛はいっそう強くなる。そして、「先生」とはいっても、その人が「私」に教えるべき具体的な知識や技術はほぼないのである。こう書けば「先生」がまるで空疎な人間で、「私」が求めているのは「空疎な存在としての先生」だということがいやでもはっきりするだろう。「先生」は張り子でよい。いや、張り子でなくてはならない。なぜなら、それにより「私」は自分が成長し、大人へと脱皮する道筋を自己決定できるからである。それ以外の方法で人が大人になることはあり得ない。人は自分でなした決定にはどこまでも責任を負うのだ。おそらく自分の決定に従って自分の責任を負って長いこと歩んだ後に、人はこのからくりにふと気づく。あの桐の箱に収められていたのはまるで荒唐無稽な戯言だったのだと知る。そして先生はもういないことに慄然とする。先生に恩を返せるとしたら、大人になったことを示す以外ない。空位となったその席に、黙ってすべてを飲み込んで自分が座れるかどうかだ。王の席を塞いでいる幻影を前にしたマクベスのようにうろたえてはならない。先生はもういない。幻影を押しのけてその席に座るのだ。

 私もようやくそれがわかる歳になった。この作品において私は、先生という存在の本質的な悲しさを暴露したつもりだが、果たして、正しく解読してくれるだろうか。いずれにしても私の務めは終わった。今頃になって二葉亭が『平凡』の中で残した言葉が身に染みる。なんと多くの贈り物をもらっていたことか。二葉亭は「浮世は夢の如しと気づくのに、皆判で捺したように十年遅れる」と書いたが、私はとても彼にはかなわない。この体ではもう何年ももつまいが、今、私を笑う青年たちに私は謎を掛けた。もしこれが解けなければ彼らは十年遅れて気づくどころか、後の青年たちに笑われて、青年のまま墓に入ることだろう。『こゝろ』はヤングメンに与えることのできる、私からの最上の贈り物である。最後に先生らしい言葉を残すとすれば、やはりこれだろう、「成熟した人間になって良き人生を送られるように。健闘と幸運を祈る」。                                (了)